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2006年7月8日 ウーフストヘースト

プログラム

  1. 終点パカンバル/密林の中の死の鉄道
  2. >1941年のクリスマス、南シナ海にいた二艘の潜水艦の運命
  3. 私の数奇な旅: 祖父を尋ねて
  4. 父を求めるたびでの数奇な出会いと平和なる世界への心からの祈り
  5. 戦時中の中国で加害者としての自分の思いを胸に秘めて帰国した日本人戦犯たち(中国帰還者連絡会の戦後史)
  6. 閉会の辞

食べ物はお粥と鼠でした。疲労、マラリア、赤痢、脚気その他の熱帯病が彼らの命を奪いました。だが、日本が休戦を宣言し、赤い日本の太陽がやっと沈んだ時、1945年8月15日のまさにその日、ムアラまでの死の鉄道、パカンバル線は完工したの でした。最後の枕木に最後の釘が日本人自身の手で打ち込まれました。伝説によれば、金の欠乏により、銅の釘だったとか。

スマトラ中部の密林をぬって敷設された全長220キロの線路の工事に狩り出された、骨と皮ばかりに痩せ細った生存者達は日本の降服については露知らず、北と南とから同時に建設された線が連結される式に列席を許されませんでした。わずかに数人だ けが遠くからこの儀式を目撃しました。どら声の日本語による命令、来賓による祝辞、そして最後に熱狂的な万歳の声がこだましました。

時は1945年8月15日でした。日本の占領軍の命により、オランダ人、英国人、豪州人の捕虜ならびに強制的に狩り出されたジャワ人 労務者によってスマトラの熱帯林をぬって建設されたこの鉄道は700人の白人と混血の現地人、ならびに少なくとも8万人のジャワ人の死者を出しました。こ の数字には、これもパカンバル線建設現場へ輸送中、スマトラの東岸並びに西岸で英軍潜水艦によって撃沈されたヴァンワールワイク号と巡洋丸にのっていて犠牲となったおよそ1800人の捕虜は入っていません。

ジャワ島で狩り出された労務者の正確な数はだれにも分からないでしょう。あまり知られていないこの悲劇についての詳しい情報を含んだ書類の多くが、セマランで終戦直後の独立運動のどさくさの中で消失しました。しかし、日本人にとっても、またその配下にあった朝鮮人にとっても、ジャワ人の命は白人よりずっと軽かったのでした。労務者には、土堤を築いて線路を敷設するという一番つらい工区が割り当てられましたが、食料もお粗末、医薬品もゼロに等しいでした。こうやって狩り出された、何万人もの、無名のジャワ人労務者の遺体の断片がいまもなお死の鉄道がもとあったところに転がっていることは確実です。1945年の9月以来、この路線を一台の貨車も走ったことはないのです。線路そのものが最早存在しないのです。あれだけの悲惨な苦しみはなんのためだったのでしょうか。鉄橋ははずされ、何キロにもなるレールは盗まれ、屑鉄として売られました。いまなお残っているのは、昼なお暗いスマトラのじめじ めした、静まり返った原始林の中で錆びるにまかせられています。

総数30万にも達するインドネシア人労務者は、パカンバル鉄道建設のみならず、当時日本の占領下にあった東南アジアから太平洋諸島まで、港湾、飛行場、防空壕建設等に従事しました。悪名高い泰緬鉄道の建設にも狩り出され、無数の犠牲者を出しました。

1945年8月15日の日本の休戦は9月2日に正式に降服として報道されましたが、それをさかいに、パカンバルの悲劇にはベールが被 されました。歴史家はその後、世界史上類を見ないこの残酷な戦争についての研究結果を発表することが出来ました。極東でのこの悲惨な戦争中に起きたことを なにからなにまで調査し、本や、公文書、「戦場に架ける橋」のようないささかロマンチックすぎる映画等として公表されました。これで研究は終了したかに見えました。しかし、事実はそうではなかったのです。その理由は今日に到るもなお神秘に包まれていますが、パカンバルからムアラに到る死の鉄道を巡るとてつもない悲劇の全貌はこれまでのところ知られていないのです。そこらじゅうに蛇、蛭(ひる)、虎、それに何百万とも知れないマラリア蚊のいる青い地獄とも言 うべき密林の中で奴隷さながらにこき使われ、栄養失調、裸同然の労務者達の絶望的な姿は関係者以外には知られないままになりました。名もなくいためつけら れ、朝鮮人や日本人の監視人による虐待、82000人以上もの意味もない死者、こういったことはただ生存者の胸の奥にだけ永遠に刻み込まれたのでした。

ほんの数人の生存者の手になるちょっとした書き付け、あるいは解放の直後に描かれたキャンプのスケッチが残っているに過ぎません。しかし、パカンバルの悲劇は、公式の歴史からは、当初は完全に忘れられていました。パカンバルでは、今でも、子供達が、当時の機関車や貨車の残骸のあたりで 無邪気に遊んでいますが、彼らの村の家と家の間にある錆びた遊び場が実はその当時は間違いなく現実であったところの悪夢の、物言わぬ証人であるなどとは彼らには思いもよらないのです。

基本的統計  1

正確な数字 概数

輸送された捕虜 6593 6600

鉄道建設中に死亡   698   700
海上で攻撃され溺死 1796 1800
捕虜死者総数 2494 2500= 37%

労務者
輸送された者の総数 102300
生存者として登録   19600
行方不明    2700(非登録、スマトラに取り残される)
労務者死者総数 +80000 = 80。84%(うち+4000人 は巡洋丸撃沈で溺死)

犠牲者総数     82500=2500+80000
パカンバルームアラ間の鉄道: 全長 220km
建設期間:  1943年3月 ー 1945年8月15日

パカンバルでの強制労働に向かう途中撃沈された艦船に乗船していた捕虜と労務者
ヴァン・ワールワイク 1944年6月26日: 溺死者、 176名
巡洋丸 1944年9月18日: 溺死者、5620名(うち労務者4000名)
溺死者合計 5796

[訳:村岡崇光] 注記:ここに訳出したものは、講演者の講演内容の訳ではありません

発表者の著書:

Henk Hovinga,”Eindstation Pakan Baroe 1943-1945, Dodenspoorweg door het oerwoud,Buijten & Schipperheijn-Amsterdam, 1996, ISBN:9060649222

2、 1941年のクリスマス、南シナ海にいた二艘の潜水艦の運命 | カチャ・ボーンストラ・ブロム

1941年12月13日、私の母は当時の蘭領東印度スラバヤ港で三ヶ月前に結婚した夫と別れを告げました。これが今生の最後の別れになろうとは彼女には知る由もありませんでした。夫が潜水艦K-XVI号に搭乗して出発する直前に、自分が身ごもっていることを彼に知らせました。この若い二人にとってこれは特別な瞬間であったに違いありません。かなり前から 懸念されていた戦争がしばらく前にアジアで勃発していました。そういう時代に、相思相愛の二人の胸中察するにあまりあります。どういう人生設計があり、ど こに望みをおいたらよかったのでしょうか?
母によりますと、その時の夫の返事は、「僕は絶対死ぬことはないよ」だったそうです。

1941年12月24日
父が乗っていた潜水艦K-XVI号は第三潜水艦隊の一隻で、南支那海のボルネオ海岸一体の監視を指示されていました。12隻の戦艦と5隻の潜水艦から成る日本海軍の艦隊が油田を占拠すべくボルネオのクチン目指して上陸部隊を護衛してミリを既に出発していました。午後4時に、潜水艦K-XVI号 の艦長ヤルマンから「本日日没後攻撃開始」との電報が総指令部に入りました。その夕方、オランダの潜水艦は天霧級駆逐艦狭霧ともう一隻の戦艦群雲を撃沈しました。巨大な艦隊を敵に回してたった一隻で、浅海で、逃走もままならない海域でのこの攻撃は相当な勇気を要することでありました。戦果について報告した艦長からの電報がK-XVI号との最後の連絡となりました。

それから数週間後、母は憲兵隊から呼び出され、「まさか、夫に再会出来る等とは思ってないだろうな。捕虜になって死刑になったよ」と聞かされました。実際に何があったかは後日分かりました。XVI号は1941年のクリスマスの朝、浮上航海中のところを日本の潜水艦I-66に発見され、魚雷をくらったのでした。未知の飛行機が近付いて来たために、I-66は戦果の確認が出来なかったのでした。

母の著書の一つ、Vulkaanのなかに次のように書いてあります—「死を宿命づけられたあの男達の胸中をどういう思いが去来したことだろうか?『主の祈り』を暗い闇間を仰ぎ見ながらもう一度だけ唱える時間があっただろうか? それとも、愛するものたちと最後の心を通わしたいとただ大声を張り上げただけだっただろうか? 母の名を呼んだだろうか?この最後の今際(いまわ)の時に、 自分達のこの犠牲でたくさんだから、子供達は戦争の体験はしてもらいたくない、と思ったであろうか?」

こう書きながら母は愛する夫のこと、まだ生まれていない子供の父のことを考えていたのでしょうか?

その後、母が帰国した時、ユダヤ系の彼女の一家は殆ど一人残らずドイツへ強制的に連れ去られて、殺害されていたことを発見したのでした。ほかの多くの人と同じように、母はこの戦争とも心の整理をしなければならなかったのでした。

にもかかわらず、母が憎しみ、恨みの言葉ひとつ口にした記憶すら私にはありません。母にとっては、だれもが特別な存在でした。特定の国、人種、宗教、社会の代表者としてではなく、一個の人格として特別の関心を注ぐに値する存在でした。けっして敵としてではなく、いつも出身地や身分とは 無関係に、その人独自の人格、責任をになった一個人としてでした。自分の方が正しいということを絶対に確信しているような場合でも、だれにでも一歩譲る用意がありました。

亡くなる前の晩、私の弟のところを訪ねて来た日本人の音楽家と長いこと、かなり突っ込んだ話をしていましたが、寝る前に、お別れにと いって彼が弾いてくれた素敵な曲を心ゆくまで楽しんだに違いありません。それが永遠の別れになったのですが、あの晩の語らいは偶然だったのでしょうか? それでよかったのかもしれません。スラバヤで始まったことにここで終止符が打たれたのです。

どこか天上で、今頃は私の両親と私の特別な友人の両親とが出会っているかも知れません。鶴亀彰さんは父の潜水艦を魚雷で撃沈した潜水艦の乗り組み員でした。

私が鶴亀さんと奥さんのケイさんと初めて知り合ったのは、2003年の11月デンヘルダーでの潜水艦隊記念碑を訪問された時でした。その記念碑には父の名ウィレム・ブロムも刻まれています。御夫婦は、鶴亀さんの父上が乗り組んでおられた日本海軍の潜水艦I-66によって1941年のクリスマスに撃沈され、戦死された方々に哀悼の意を表すべく花束を捧げられました。

戦争中に7歳の娘淑子ちゃんを亡くされた彰さんのご両親、鶴亀鶴一、タミさんにとってこの戦争は何を意味したのでしょうか? 桜並木を最後に歩かれた時、どういうお気持ちだったでしょうか? その時、またその後、彰さん、奥様のケイさん、お妹さんの睦子さんはどういうふうなところを通って来られたでしょうか?

自分の愛する祖国の政府の命令とはいえ、家族や自分の愛するすべてのものをあとにして、事情が違えば友人となったかも知れない未知の人を敵として殺しに出かける海軍軍人にとってこれはとても奇妙な運命であったに違いありません。最後の別れの言葉を交されたときの彰さんのご両親のお気持ちはいかばかりでありましたでしょう?

人生ってほんとうに不思議です。彰さんとケイさんというこの特別なお二人の方がオランダの潜水艦隊記念碑を訪問して下さったことをきっかけとしてじつにいろいろなことが起こりました。お二人の訪問して下さったその時期もよかったのです。実は私はそれより数年前から、父の乗っていた潜 水艦と他にも行方の知れない二隻のオランダの潜水艦の最後の地点を確認するためのかなり大掛かりな調査に関係していたのです。2002年6月12日、Hr. Ms. O-20は ついに発見され、この潜水艦の乗り組み員の遺族にとってはいくつかの疑問がやっと解けたのです。私達はいまなお残りの潜水艦を探していますが、最初はオラ ンダ人だけで調査していましたが、最近はつぎつぎといろんな国からの協力を得ています。とりわけ東京の海事歴史研究所の職員は労を惜しまず協力して下さっ ています。北沢先生は特筆に値します。

なかでも鶴亀彰・ケイご夫妻は私達を全面的に支援して下さり、私達の訪日のとき、父の潜水艦が撃沈された地点を確定するためにできる限り多くの資料を収集するために奔走して下さいました。

2004年に、私は彰・ケイさん、ならびに私の子供達と一緒に、彰さんの父上が乗り組んでおられた潜水艦を1944年7月17日に撃沈したところの英海軍潜水艦テレマコスの艦長で、いまなお96歳で御健在のウィリアム・キング氏を訪ねました。過去の歴史によって深く繋がれている、三つの国の三つの家族が一堂に会することが出来たということは希有の出来事でした。お互いに語らい、お互いに理解しあい、尊敬しあい、三つの家族の間に深い友 情の絆が結ばれたこと、そしてそれは、まさしく私達が共有するところのこの過去、だれもが欲しなかったあの戦争ゆえであることに気付かされたことはなんとも素晴らしい体験でした。友情のしるしとして、豪雨をおして、キング艦長のお屋敷の庭に一本の樹を一緒に植えました。

2005年の初めのある夜のこと、彰さんから電話があり、「カチャさん、日本へ御招待したいのですが。桜を是非とも観ていただきたい し、佐世保の潜水艦記念碑のところに一緒に樹を植えたいんです。キング艦長のご家族も招待する積もりです」と言ってこられました。この訪日を通じて、私たちは日本のいろんなところを訪ね、夢想だに出来なかったような日本人と知り合いになれました。その気になれば、このお伽話しのような旅について、満開の桜について、佐世保の潜水艦記念碑のところでの植樹について、流した涙について、喜びについて、相互理解について何時間でもお話することが出来ます。

帰国して、この素晴らしい旅についていろんな人にお話致しました。戦時中の記憶がまだ処理出来きれていないオランダ人とも話しました。そのなかには、いまでも毎晩のように痛みを覚え、日本軍の抑留所での経験ゆえに、あるいは愛する人を奪われたゆえに瞼に永久に焼き付いて離れないかと思われるイメージに気が狂いそうになる人たちがいます。でも、かつての仇敵の子供や孫達との間に生まれたこの友情は、他の多くの人たちにとっては心の癒し となりました。次の世代はお互に対する尊敬と信頼に基づいて未来を築いて行く可能性をもっているのではないかという希望を私達はここに見い出すことが出来 ます。今週、私達三家族は樹をもう一本一緒に植えますが、今度はオランダに植えます。この三本の樹が、私達が将来にかける希望の象徴となることを願うものです。

そして、本日、私たち二つの民族の間の率直な対話を推進しようという趣旨のこの特別な会合に出席出来たことも私にとっては大きな喜びです。私にとっては大変な光栄であり、また感激です。このようにお招き下さり有り難うございました。

[訳:村岡崇光]

3、 私の数奇な旅: 祖父を尋ねて | クレア・ボーンストラ

その時の私は21歳、祖母のベッドの端っこに腰掛けていました。祖母はスイスに住んでいましたが、ほとんど毎年5月4日が近付くと、デンヘルダーでの潜水艦隊戦没者追悼式に列席するためオランダに戻って来ました。私は7歳の時以来毎回お供し、お喋りを楽しみました。祖母は各地への旅行のこと、自分の体験等を話してくれました。

すると、突然、祖母が「変ね、クレア、ウィムが亡くなった時の私も21だった。あの人は25になったばかり、お前のいまのボーイフレンドのマルクより若かったんだよね」、と呟きました。

私もはっとしました。屋根裏部屋のベッドの端っこに楽しそうに腰掛けていた私でしたが、頭をガーンと殴られたような気がしました。 21歳の私のそのときの心配事といえば、もうすぐある試験の準備、学生組合の委員の一人として取り仕切らなければならないお祭り、私達学生をさんざんにしぼる教授の先生方のことぐらいでした。祖母はやっと21歳になった時にウィムのところに嫁ぎ、妊り、夫を失い、戦争のまっただ中で、ジャワ島で赤ん坊、つ まり私の母を産んだのでした。ウィムはと言えば、あの当時の私の恋人より年下だったのに、兵隊にとられ、私たちの自由のために戦ったのです。

この二人のお陰で、2世代後の21歳の私が、勉強と生活をエンジョイすることだけに終始していればよかったのです。その時までに私は 既に15年間、潜水艦隊追悼記念式に同行していたのでしたが、あの瞬間以来まったく別な気持ちで行くようになりました。デンヘルダーの記念碑の裏に書いて ある「そうだ、やらなければならなかったのだ」という言葉が、あそこを訪ねる度に、毎回、より良く分かるような気がします。

もう30になりましたが、あれからひとつ特別の体験をしました。祖母は、自分がとても好きだったスペインで亡くなりました。スペイン のほうでも彼女を好いていてくれたらしいことは、彼女が亡くなった時に住んでいた町の通りが彼女の名をとってカリエ・エルヴィラ・スピアとなっているところからも分かります。祖母が最後まで仕事をしていた机の上には多数の書籍、参考書、またきちんと調べて書き上げられた歴史的なテーマについての原稿等が残っていました。

祖母は、夫の最後の夜にどういうことが起こり得たか、また実際にはどういうことが起こったのかを相当の時間をかけて調べていました。そして、毎年クリスマスの時には、一晩中、一睡もせず私の祖父ウィムのことに思いを馳せるのが常でした。

この問題は母にとっても大事で、これより何年も前に父の潜水艦を発見した知人のハンス・ベサンソンに触発されて、あの夜なにが起こったのかの調査にかかりました。先程母からお聞きになりましたように、そのおかげで別な潜水艦が発見されるに到り、2003年5月に私たちのK-XVI号捜索隊が結成されることになったのでした。それまで既に何年も、母とハンス・ベサンソンはそういったことを八方手を尽くしてやろうとしていたのですが、クラース・ブラウアの率いるIAHD (International Association of Handicapped Divers)の協力が得られるようになってやっと現実的になって来ました。

ある日、家族で一緒に食事をしていた時、私たちも同行する気はないだろうか、というようなことを母がなにげなく口にしました。一番下の弟のパトリックと父は、残念ながら何か都合があって参加出来ない、ということでしたが、妹のジェシカと私は顔を見合わせ、勿論賛成、と即決でした。

こうしてスリル一杯の旅が始まりました。スキポール空港には報道関係者がわんさと押し掛け、盛大な見送りを受けました。その晩のテレビのニュースでは詳しい報道があり、瞬時の有名人になりました。クアラランプール経由ボルネオ島のマレーシア領のクチンに向かい、それからの一週間半私たちの住まいともなる昔の沿岸警備船に落ち着きました。
最初の数日はいろんな器具やわたしたち未経験者の潜水能力、ことにジェシカと母と私のを検査しました。からだのがっしりした母は60歳の誕生日の頃にやっと潜水許可書を取得していました。ジェシカと私も多少の経験はあったとはいうものの、同行のプロの潜水夫達にくらべればその技術には雲泥の差がありました。

最初の数回の潜水は数隻の難破船をめがけて行ないましたが、数限りもない珊瑚、息を呑むような見事な魚の群れの間を潜って行きました。この難破船もかつて魚雷によって沈められ、ここでも犠牲者が出たのだ、と思うとなんとも言えない気持ちになりました。周囲か美しくて楽しくはありましたが、いまひとつすっきりしませんでした。私たちの探している船もどこかこのあたりなのでしょうか?

その後、可能な地点を探し求めてずいぶんとあちこち回りました。食事にはなまの烏賊、なまの海老、御飯、野菜、赤い汁で、とてもおいしいでした。でも、毎日、朝、昼、晩、三食ともなまの烏賊、なまの海老、御飯、赤い汁と出されると、七日経った時には、これ以上はもう、という感じでし た。

捜索はまだ続きました。どこまでも広がる海は物凄く美しいでしたが、いっこうに成果が上がらないのです。インドネシア人の乗り組み員の一人が、海はそうあっさりとその秘密を明かしはしない、なにかあげてその気を引く必要がある、と言い出しましたので、私達もこれを真に受けて、私たちの持ち物を椰子の実に詰めて、うやうやしく、ちゃんとした儀式のようにして海に捧げました。

でも、海は私たちの捧げものがあまり気に召さなかったのか、その晩は荒れがどんどんひどくなり、だれもが顔色がすぐれず、前部客室に寝ようとしました。錨はしょっちゅうはずれるし、救命ボートは船底にぶつかってひびが入り、船は浪をかぶるたびに唸りました。でも、だれ一人怖がることは なく、翌日そこを調べてみたいと思っていましたから、そこから動きたくはありませんでした。しかし、真夜中に港を目指して全速力で動き出した時は心配になりました。乾季だというのに、台風が近付いたのです。また、その夜、タンカーが沈没し、その遭難者の捜索が行なわれているということでした。そのうち私たちの飲料水も底をつき、私たちの冒険も本物になってきました。

しかし、無事クチン港に到着、一隊の西洋の野蛮人よろしく一目散にマクドナルドを目指し、魚抜きのビッグマックをたらふく頬張りました。

一日経つと、海はまたもなぎ、最後の試みとして二つ可能な地点を探索してみることにしようと出航しました。海は鏡のように穏やかで、 とてもきれいでした。前日の体験をゆったりと寝転がって話合っていますと、なにかざわめきが起こりました。海底になにか見つかったらしいのです。なにか猟 師の網にくるまれたものだというのです。マストらしきものが突き出しています。
それからプロの潜水夫のチームが注意深く編成され、水深50メートルの下へ潜って行きました。

永久に待ったように思ったのですが、潜水夫があがってくると以前にまさる興奮でした。なにかある、鉄板が見つかったというのです。
その日、その瞬間、これだ、という気がしました。祖父はここにいるのだ。この素敵な場所に、海の只中、どちらを向いても大地の見えない、焼け付くような太陽の下に。ここだ、ああよかった。

しかし、しばらくしてから、これが間違い警報であることが判明しました。発見された部品は潜水艦のものではありませんでした。しか し、いったん気持ちがおさまってみると、私たちの歴史のこの章が閉じられるにはまだいろんな出合いが、出来事がなければならなかったし、またこれからなければならない、ということがみえてくると、わたくしたちはそこに安心を見い出すことが出来ました。

母が先程話しましたように、あれから三つの潜水艦家族同士ほんとうに希有な出合いを体験しました。以前は敵だったのに、私たちにとっ ては素晴らしい友人、興味深い出合い。でも、私たちの親や祖父母の世代にとっては受け取り方も少なからず違うであろう、ということは知っています。最初の 樹をアイルランドに植えた後、私はしばし空を見上げました。そのとき、祖母とウィムが、「これでいいんだよ。自由を楽しむんだ。いま自由に体験出来る冒険 を楽しむんだ」と私に語りかけていてくれるような気がしました。

そして、それが確かに私の現在の心境です。

[訳:村岡崇光]

4、 父を求めるたびでの数奇な出会いと平和なる世界への心からの祈り | 鶴亀彰(カリフォルニア)

皆様、おはようございます。

本日はこの集いに参加し、皆様とお会い出来た事をとても名誉に思い、そして嬉しく思います。私がリヒテルズ直子さんと村岡崇光先生を通じ、この日蘭対話の会の事を知ったのは今年1月の事でした。蘭領東印度の事を知りたく、グーグルで検索していましたところ、リヒテルズさんのニュースレターに出会いました。 オランダ人と日本人の間の相互理解を進めていらっしゃる彼女の素晴らしいお仕事やそのニュースレターの中に書いてあったルーディ・カウスブルックさんの本の紹介などに深い感銘を受けました。私はすぐに私の住んでいるロサンゼルスからオランダの彼女にメールを送りました。そしてその事が今日の集いに繋がりま した。この素晴らしい対話集会にお招き頂きまして、リヒテルズさんと村岡先生に心からお礼を申し上げます。

皆さんはただいま私のオランダにおけるもっとも親しい友人であるカチャとクレアから私共の不思議な出会いのお話をお聞きになりました。私共の出会いもインターネットがきっかけでした。私は広い海を越えて人々を結び付けるこのインターネットにとても感謝しています。私は父と父の乗って いた潜水艦の調査をする過程で、インターネットのお陰で多くの奇跡に近い出会いをする事が出来ました。本日の皆様とのこの出会いも私にとりましては、その奇跡の一つの実例です。

私は3歳の時に父を亡くしました。私は日本本土の最南端にある鹿児島県で生まれました。因みに村岡先生も同じ鹿児島県のご出身です。カチャは昨年4月に私達の故郷を訪れました。鹿児島県人は皆さんとても良い人々ですよね、カチャ?

私の生まれたのは1941年の3月です。生まれて九ヶ月後に日本軍による真珠湾攻撃と同時にマレー半島やボルネオ島への攻撃が始まり ました。私の父、鶴亀鶴一は日本海軍の潜水艦、伊号第166の機関長でした。当時は伊号166と呼ばれていた同潜水艦は南支那海に出撃し、1941年のク リスマスの日にカチャのお父さんが乗っていたオランダ潜水艦K−16を沈めました。カチャのお父さんも機関長でした。そしてその後、1944年7月に伊号第166潜水艦はペナンとシンガポールの間のマラッカ海峡で英国潜水艦テレマカスにより沈められました。私の父はその時、38歳でしたが、今も87名の戦友と共にマラッカ海峡の海底で眠っています。

このような事実を私は三年前までは知りませんでした。敗戦の後、日本人は徹底した戦争反対、軍事力反対の心境になり、第二次世界大戦に関する全ての事を忘れ去ろうと努めました。それほど、敗戦の苦しみは過酷で厳しいものでした。生き残った兵士達は彼らの戦争体験を話そうとしませんでした。遺族達は戦後の日々を生き抜くのに必死でした。私の母も父の思い出を語る事は殆どありませんでした。私と2歳下の妹、二人の幼子を抱えて母もまた毎日を生き延びるのに無我夢中でした。

多くの年月が流れました。私は1966年から米国での生活が始まりました。母はその翌年鹿児島で病死しました。それからまた長い年月が流れました。そしてある時、突然、私は父と父の乗っていた潜水艦の調査を始めました。何故そうなったかお話したいのですが、残念ながら時間がありませ ん。もし後ほど時間があったらお話させて頂きます。

2003年7月17日に私は父と父の潜水艦を求めて調査を始めました。それに専念しました。そして同年10月13日に、ここにいる妻 と一緒にマラッカ海峡に出向き、伊号第166潜水艦の沈没地域を訪れました。本当はそれで私の目的は達成され、調査の旅は終る筈でした。ところが終りませんでした。ここにいるカチャから届いた一通のメールと彼女との出会いが全てを変えました。私は戦死した父を求めるという共通の旅のパートナーを見付けました。

カチャの他にも父を探す旅をした仲間と出会いました。それはデュエイン・ハイジンガーと言う米国人です。サンフランシスコに住んでいた彼も10歳の時に父親をフィリピンで亡くしました。彼の父親はフィリピンで日本軍の捕虜となり、いわゆる地獄船と呼ばれた強制労働のため日本へ輸送する船の中で死にました。デュエインは二十年間に亘って彼の父の事を調べ、一冊の本を出版しました。それがこの「父を見付けた」と言う本です。米国には「バ ターンとコレヒドール米国人生存者の会」という米国最大の反日団体があります。デュエインはその団体の事務局長を長く努めていました。彼と私は出会ってすぐに親しい友人となりました。彼は2004年の1月には東海岸から西海岸の私の家を訪れ、二泊一緒に過ごしたりしました。悲しい事に彼は今年4月バージニ アで亡くなりました。74歳でした。彼と私がどのようにして出会ったのか、これもお話したいところですが、時間がありません。もし後ほど時間がありましたら、お話しましょう。

三年間に及ぶ調査や取材を通じ、私は多くの人々に出会いました。多くの悲しい話を聞きました。酷い苦しみや痛み、怒り、悲しみや憎しみがありました。また同時に深い愛情や勇気、そして和解や友情の話も聞きました。私はロンドンにあるアガペ・ネットワークスのホームズ恵子さんにもお会いしました。彼女はこの日蘭対話集会にも過去に参加なさった事があると聞いております。また私は米国内で元捕虜と日本人との和解を進めている日本人女性にも会いました。徳留絹子さんとおっしゃいます。私はホームズさんや徳留さんから捕虜の皆さんの多くの苦しみについて学びました。ホームズさんと彼女が主宰するアガペの組織を通じ、多くの英国人捕虜やその子供さん達とも出会いました。実はそれらの出会いを通じ知り合った、シンガポールで日本軍の捕虜となった経験を持つ英国のサー・ピーター・アンセンが私の父を殺した英国潜水艦テレマカスのウィリアム・キング艦長を探し出して呉れました。実は96歳になるキング 艦長は現在お住まいのアイルランドから明日アムステルダムにお着きになります。これは私共にとり、三度目の出会いです。私と妻は2004年の5月と8月の二回彼を訪問しました。

私は2004年5月、カチャの家でウィレム・リンデイヤさんにお会いし、この本を頂きました。この本を読み、私は泣きました。それは実に悲しく、そして美しい物語でした。また私はエディ・ブルックスさんと言うアメリカ人にも会いました。彼は真珠湾攻撃のアメリカ人英雄でした。カチャと キング艦長と私の物語が私共の住んでいる地方の新聞に掲載され、その記事を読んだブルックスさんが私に電話して来ました。以前敵同士だった日英蘭三つの潜 水艦家族が育んだ友情の物語に深く心を動かされたとの事でした。彼は真珠湾攻撃の際、自分に向けて放たれた日本軍の零戦の機関銃弾を六十年以上、日本への憎しみの記念として保存していました。彼はそれを出来れば私に貰って欲しいと言いました。これがその機関銃弾です。その彼も今年5月に84歳で亡くなりま した。

私は父の戦友87名の遺族探しを行い、その大半を探し出しました。2004年7月17日、六十年ぶりにして最初の伊号第166潜水艦 戦没者のための慰霊祭を佐世保の東山海軍墓地で行いました。また一年後の2005年7月17日、23人の遺族が私と一緒にマラッカ海峡の沈没地域を訪れま した。日本政府は今日にいたってもまだ自国のために命を捧げた兵士達の戦死に関する詳しい情報を遺族に報せていません。殆どの遺族は今も愛する父や兄弟が いつ、どこで、どのようにして戦死したかを知らないのです。私はそれらの情報を掘り起こし、判明した結果を遺族の皆さんと分かち合いました。

まだ伊号第166潜水艦本体を確認するまでには至っていませんが、私の父と父の潜水艦を求めての旅はほぼ終りました。しかし、「何故心正しき人々同士が戦い、またある時にはそのような人々が悪行をなしたのか」という私の疑問は終りません。また同時に、「何故今もまだ世界各地で戦いが続いているのか」という疑問も持ちます。本日、皆さんやカチャやクレアのお顔を見ながら、「何故私の愛する母国日本はこのような良い人々を敵とし、多くの苦しみを与えたのか」と言う疑問も生じます。このような疑問を考える時、私の心は重くなります。日蘭対話の手記の中にあるエリザベス・バン・カンペンさんの お話を読むと涙が止まりません。

しかし私はこの日蘭対話の集いなどを見ると、希望が沸き、心もいくらか明るくなります。2004年の8月、日英蘭三つの潜水艦家族の三代目が現在キング艦長が住んでいらっしゃるアイルランドのオランモア城に集いました。クレアと彼女の妹ジェシカと弟のパトリック、私共の息子アンドレ、 そしてキング艦長のお孫さんヘザー、五人の素晴らしい若者達は一緒に三日間の楽しい時を過ごしました。彼等若者の話を聞いていた私は嬉しくて涙が出そうで した。戦いから六十年の時を経て、孫達がこのように仲良く過ごしている姿をカチャの父や私の父はどのように感じているだろうかと思いました。五人の日英蘭の若者は永久の友情を誓い、オランモア城の中庭にリンゴの木を植えました。キング艦長と、キング艦長の娘さんレオニー、カチャ、そして私と妻のケイがそれを見守りました。私はきっとその模様をカチャの両親や私の両親も満足げに天上から見守っているのではと感じました。

昨年4月、カチャとご主人のベンさん、そしてキング艦長の娘さんとお孫さん、私に妻のケイの六人は一緒に日本を訪れました。素晴らしい旅でした。私の郷里にある私の両親の墓も訪れました。カチャとレオニーは伊号第166号の生き残りである現在83歳の老人や遺族達にも会いました。私共は平和なる世界を祈って桜の木を植えました。明後日私達はデンヘルダーのオランダ海軍基地内で三本目の木の植樹を行います。

第二次世界大戦では実に多くの人々が苦しみました。カチャやデュエインや私もそうですが、世界中で多くの子供達が父親なしで生きざる を得ませんでした。私は現在でもまだ父のいない喪失感や寂しさを感じています。しかし三年間の調査を終えて、最近、それには何らかの意味があるのでは、と思い始めています。その意味が何なのか、まだ明確には判りません。しかしそれは今日のこのような集い、戦争の苦しみを知り、和解し、友情を育て、そして共に戦争なき世界への努力をする事を方向付けているのではないか、そしてそのために私達の苦しみがあったのではなかろうかと思いつつあります。私は相手を思いやる心、相手を尊敬する心が、全ての衝突を解く鍵だと思います。決して戦争は本当の解決にはなりません。是非皆さんと一緒になって、平和なる世界の実現のために、手を結んで行こうではありませんか!

時間が来たようです。ご清聴有難うございました。皆様に神の恵みがありますように!

5、 戦時中の中国で加害者としての自分の思いを胸に秘めて帰国した日本人戦犯たち(中国帰還者連絡会の戦後史) | 村岡崇光

これからお話致しますのは、敗戦後、まずソ連軍によってシベリアに送られ、5年間の強制労働をさせられ、その後中華人民共和国の撫順と太原の戦犯管理所で 6年を過ごした1100人あまりの日本人戦犯の物語です。その大多数は旧大日本帝国軍人で階級も様々でしたが、満州国の官吏、警官、満鉄関係者なども含ま れていました。ここでは、主として撫順に収容されていた946名に焦点を合わせてお話致します。

収容所での扱いはとてもよく、強制労働を課せられるでなく、風呂には定期的に入れてもらえ、散髪 はある、食事も立派で、シベリアではついぞ目にしたことのない白御飯がでました。ある職員は、「当時は、中国でも食料は甚だしく欠乏し、同僚の職員の中に は、中国人一般がコーリャンで糊口をしのいでいる時、なぜこの戦犯に白米を食べさせなければならないかが理解出来ない者もいました」、と回想しています。 しかし、中国共産党の政策は、「たとえ戦犯たりとも人間であり、人間としての尊厳を尊重しなければならない」というのでした。

自分が担当していた日本人戦犯を憎らしく思う職員がいたとしても当然のことであったかも知れません。ある看守長は家族七人を日本兵に 虐殺されていました。それなのに、上司からは、日本人は殴るな、話す時は丁寧に話してやれ、と言われ、いたたまれなくなって、ベッドに顔を埋めて泣きじゃ くりました。

管理所におけるこのような暖かい、人道的な扱いに日ごとに触れていくうちに、戦犯達は過去に直面し、自分達の残虐行為、罪を自発的 に、公然と自認するようになりました。こと拷問にかけては豊かな経験を積んだ専門家の彼らでしたが、彼らに対してはなんらの拷問も加えられませんでした。 その一人、二宮は作業中に大腿骨骨折という大怪我をし、肩から下は固定されて、動かせるのは両手と顔だけ、食事の時も、トイレも全部看護婦や職員まかせで した。退屈そうにしていれば、マンガをもって来てくれ、食事の時は楽に食べられるように机の調節もしてくれました。その世話振りにはただ感心するばかりで した。これが自分がさんざんに苦しめ、その同胞を殺害した人たちなのか、と思うと、二宮には返す言葉がありませんでした。

管理所に入って六年目の1956年の夏、不起訴、即日釈放という知らせが全員に伝えられました。戦犯の多数は死刑か極刑を予想してい ましたから、これは晴天の霹靂にも等しいものでした。禁固刑の有罪判決を受けた、特に罪の重かった45名を別として、他は全員帰国を許されたのです。「諸 君の罪業は、極刑も然るべき重みである。しかし程度の差こそあれ、君たちは反省している。中日友好の上からも、中国人民は諸君を寛大な処置に付するもので ある」、というのでした。

晴れて舞鶴港に上陸し、少なくとも11年見なかった祖国の土地を踏んだ彼らを待っていたものはまことに冷ややかな応対でした。政府関 係者で出迎えに出ていたのは厚生省の役人ただ一人、そしてその役人から上陸者は何がしかの現金、毛布一枚、戦時中の軍服を繕ったものが手渡されました。撫 順の管理所の職員全員が撫順駅に見送りに来てくれ、天津港にも多数の中国人が出て来てくれ、「再見(ツアイチェン)」を口々に叫びながら送り出してくれた ことが嘘のように思い出されました。これは、帰国者達のその後の険しい後半生の序の口に過ぎませんでした。郷里に戻ってみたら、妻は再婚していたとか、自 分の墓が立っていたとか、それがために役場の戸籍簿には死亡と記録されていて、遺産相続にもありつけなかった、というような例もありました。また、絶えず 警察の監視の目を気にしながらの生活、社会全体の偏見、朝日新聞ですら、その「天声人語」に彼らのことを「洗脳された帰国者」ときめつける始末でした。

それにもかかわらず、彼らの希有な体験は少しずつ一般に知られるようになりました。彼らの帰国後一年目に、神吉晴夫編「三光:日本人の中国における戦争犯罪の告白」(光文社)が出版され、それは帰還者達自らが語る戦時中の戦慄すべき証言でした。戦後のこの種の出版物としては本書をもっ て嚆矢とします。出版後わずか20日にして五万部を売りつくしましたが、右翼の執拗な圧力によって再版は妨げられました。そこに語られているような残虐行 為の事実は終戦直後の東京極東軍事裁判のときに明るみに出てはいましたが、それは被告が無理矢理吐かされたものでした。それに対して、ここでは、加害者自 身が自分のやったことを自発的に、謙虚に語っているのです。

同じ年の1957年、帰還者達は中国帰還者連絡会(以下「中帰連」と略)を結成しました。敗戦時陸軍中将であった初代会長、藤田茂は 軍事裁判によって18年の禁固刑を言い渡されながら、改悛の情きわめて顕著なりとして、わずか一年の服役の後釈放されていました。軍事裁判の時、藤田は当 時62歳という中国人の女性に向き合いました。彼女は藤田の配下の兵によって家族を皆殺しにされていました。暴れる彼女を取り押さえるのに裁判所の職員は 苦労しました。藤田は、おさえることのできない怒り、恨み、憎しみの表情をまざまざと見せつけられて深い良心の呵責を覚え、この女性に蹴られようが、殴ら れようが、噛み付かれようが、張り倒されようが、もうどうでもいい、という気になりました。憤怒と憎悪とをあらわにしたその皺だらけの顔のイメージがその 後の藤田の脳裏に焼き付いて離れないのでした。1965年、彼は中帰連の会員を引率して戦後初めて中国を訪問しましたが、そのとき全く予定外に周恩来総理 との会見を許されました。中国側が、このかつての日本軍人がまったく別人となり、中国人民のことを想い、中日平和のために骨身をけずって尽力してくれてい ることを認めてくれたのでした。中帰連会長を20年の長きにわたって務めた藤田が1980年に逝去した時、棺の中の藤田は周恩来から贈られた、公式の場で はいつも総理が着ていたお馴染みの中山服を身にまとっていました。

創立後3年、1960年の総会において中帰連はその設立目的を改定し、従来の「11年間の収容所生活に対する政府からの補償要求、相 互援助、会員間の親睦」に替えて、「過去の反省に基づく反戦平和と日中友好」を掲げることになりました。自分達が中国侵略戦争に加担し、人道に対するこの 暴虐を許したことに対する反省の念を深め、このような考えを国民のあいだに広め、平和と日中友好に貢献しようというものでした。このような動きは、当時進 行していた日米安保闘争、中国との国交回復交渉などと時を同じくするものでした。と同時に、戦場における日本軍による戦犯行為証言活動も中帰連によって活 発化していきました。

中帰連広島支部会長をつとめる鉄村豪は、加害者としての証言を広島で行なうことが極めて意味が大きいと考えています。支部の会員達が広島の平和記念資料館で200人あまりの市民を前に自分達の罪業の証言をしました。

もう一人の会員、鈴木良雄は中学校を回って、戦時中中国で日本が何をしたか、自分達が戦後撫順でどういう扱いを受けたかを生徒達に話 して聞かせました。若い世代の生徒達が目を輝かせながら自分の話に聞き入ってくれるのを体験して、こういう証言活動を続けることの必要性を確信しました。 彼は、2000年の12月、12人あまりの元従軍慰安婦を前に東京で開催された女性国際戦犯法廷に証人として出廷した二人の元日本兵の一人でした。撫順に いた頃、彼は強度の座骨神経痛に苦しんでいました。当初は病因が分からなかったのですが、やがて梅毒であることが判明しました。管理所の薬局では、まだ当 時は目の玉の飛び出る程に高価なペニシリンを毎日投与し、やがて全快しました。2000年、鈴木は訪中団に加わり、あの頃自分の世話をしてくれた看護婦に 会い、その手を取って「あの時はお世話様になりました。あなたのお陰で、あれからずっと元気でおります」を繰り返しました。また、担当の主治医の温さんに も会って、その手を握りながら、「先生、あの時の私の病名を覚えておられますか?」と尋ねたところ、「勿論」、と言いながら医者は鈴木の手を固く握り返し ました。鈴木は頬を伝わる涙をどうしようもありませんでした。彼にとってこの旅行の最大の土産は、最後の日、中国側が招待してくれた北京での送別会の席 上、訪中団の一員で、24歳の若い日本人男性が、若い同志たちと共に「撫順の奇跡を受け継ぐ会」なる団体を立ち上げる積もりであることを披露してくれたこ とでした。団員百人のうち、かつての撫順管理所に収容されていた者はおおかた80の坂を越えた20名に過ぎなかったのでした。

また別な会員は、もし自分が証言しなかったら、自分達より先に帰国した旧軍人達がまた同じ過ちを犯し、またもや戦争になるのではないか、とおそれたといいます。

こういう人たちの口から出る「ノーモアヒロシマ」の叫びは、書斎の椅子にふんぞりかえりながら不戦平和を語る者のそれよりもはるかに力がこもっているように思います。

1986年、撫順戦犯管理所の元所長、金源氏が他の職員8人と共に中帰連の招待で日本を訪れました。当然のこととして、双方にとって 感情の昂揚した再会となりました。飛行場での挨拶の中で、金さんは言いました:「皆様と私たちの友情を、獄中で結ばれた友人と言う方がありますが、たし か、かつて私たちは管理者、被管理者の立場にありました。このような人間関係の中で、私たちと皆様との間にこういう深い友情を保つことができたのは、古今 東西を通じて稀であり、確かに奇跡と言えましょう」。

中帰連の会員にとって、かつての自分達の行為の犠牲者で、いまなお生存している人或いはその近親者に直接会って許しを乞いたいと思っても、その実現は容易ではありませんでした。しかし、少数ながら例外もあります。

かつての憲兵土屋がその一例です。彼は撫順にいた時、12年間の憲兵時代に逮捕した二千人あまりのうち328人を拷問ないしは銃殺に よって直接、あるいは部下に命令をくだして殺害したことを告白しました。山形県の田舎の貧乏百姓の長男に生まれた土屋は、入隊する前は、畑で虫を踏み殺す ことすら出来ない男でした。ある事件が彼の記憶をなかなか去りませんでした。1936年のことですが、チチハルに配属されていた土屋はロシアと連絡を取っ ている反日中国人の一味を検挙しました。そのなかのリーダー格の張恵民がどんなにしめあげてもいっかな口を割ろうとしませんでした。思いあまった土屋は実 に汚い、残忍な手を使うことにしました。張の妻とがんぜない5人の子供に毎週のように憲兵隊本部で面会させ、妻には手作りの料理を持って来させ、夫が協力 してさえくれれば、すぐにでも釈放すると約束しました。妻は、土屋が本気で言っているとは思いませんでしたが、彼の意にそわなければ、日本軍なら家族全員 殺しかねない、と思いました。この唾棄すべき懐柔策は効を奏し、張は土屋にとって極めて重要な情報を提供しました。土屋の憲兵分隊はこの功績に対して、時 の関東憲兵隊司令官・東条英機から感謝状と金一封を贈られました。張とその同僚7人は数日後に無惨にも銃殺に処せられました。戦後、郷里に戻った土屋は戦 時中の自分の体験を公に語り始めました。1990年、土屋は訪中し、張の家族に会うことにしました。彼は張の墓前にぬかずき、自分の名を告げ、自分の罪業 を告白し、許しを乞いました。あのときのことが胸中にわだかまりつづけていた、とも言いました。張の娘が土屋に会ってくれることになりました。父亡き後、 一家の生活は至難を極めました。母はあれから数年して栄養失調と過労で他界しました。娘の張秋月は8つになるや工場に働きに出ました。恨みつらみを涙なが らに語る彼女に向かって、彼女と近親者に謝るまでは安心して死ねない、と思って訪ねて来た、と土屋は語りました。彼女の前に土下座して土屋は許しを乞いま した。頭を垂れて部屋を出る土屋のところに秋月は近寄って来て、彼の手を固く握りしめました。

土屋のような機会に恵まれなかった中帰連の会員の中には、戦場での自分の犯した残虐行為を証言し続けるものが多くいました。そうすることで、生き残った親戚に詫び、認罪と悔悟の行為を実践している、と自分に言い聞かせました。

そういう会員の一人、山本成美は瀬戸内海に浮かぶ過疎の島に住んでいます。大都会に住む会員と違って、かつての同僚の顔も滅多にお目 にかかれません。それでも、自分のかつての戦犯行為を絶えず思い起こすよう努めています。テレビのカメラの前に立たなくてもよいのだ、と思っています。独 りひっそりと改悛の余生を送ることができるように心掛けています。孫には、自分の手はかつては中国人の血で真っ赤に染まっていたけど、いまは撫順の管理所 の職員の暖かい思いやりのお陰で雪よりも白くなった、と話してやることがあります。

1988年、中帰連は中国当局の承認を得て、撫順戦犯管理所跡の一角に謝罪碑を建立することになりました。その碑文には次のように読めます:

「私達は15年に及ぶ日本軍国主義による対中国侵略戦争に参加、焼く・殺す・奪う滔天の罪行を犯し、敗戦後撫順と太原の戦犯管理所に 拘禁されました。そこで中国共産党と政府、人民の『罪を憎んで、人を憎まず』という革命的人道主義の処遇を受け、初めて人間の良心を取り戻し、計らずも寛 大政策により、一名の処刑者もなく帰国を許されました。

いま撫順戦犯管理所の復元に当たり、此の地に碑を建て、抗日殉難烈士に限りなき謝罪の誠を捧げ、再び侵略戦争を許さぬ、平和と日中友好の誓いを刻みました。
1988年10月20日 中帰連」

このよな政策を中国共産党中央委員会が採ったということは実に刮目すべきことである、と私は考えます。米国が世界の三つの国家を悪の 枢軸と規定する以前、これも米国によれば、共産中国は旧ソ連邦と並んで悪魔の同盟国であると看做されていました。皮肉な人士は、なにさ、中国は日本の経済 援助が欲しかっただけだ、と片付けるかも知れません。事実、昨年中国全土を猛烈なデモが吹き荒れていた時、「この恩知らずの奴等にいつまで低金利の融資を 続けなきゃならないんだ。早晩、経済面では中国はわれわれの敵の筆頭にのしあがることは請け合いなのだから」、というようなことを公言して憚らない日本の 政治家もいました。そういう見方は、ごく最近、悪名高いグアンタナモ湾の米軍の施設で三人が自殺した時、ブッシュ政権の高官が、あれはアルカイーダとタリ バンが組んで仕掛けた見事なお芝居だった、と発言したのと同程度のいただけない発想です。これは、死者に対する最低限の敬意すら欠くところの、まことに唾 棄すべき侮辱としか形容の仕様がありません。

2002年に、中帰連の第二代会長富永正三が不帰の客となりました。本人の固い遺志をついで葬儀は行なわれませんでした。自分の殺害 した犠牲者の遺骨が海の彼方の大陸の山野にいまなお朽ちつつあることを知っていた富永には葬儀は耐えられなかったのです。ほぼ前後して、撫順の元所長金源 が急病との報が入り、中帰連の若い日本人の支持者が急遽北京へ見舞いに飛びました。彼は、中帰連の会員達から預かった見舞金一封を懐に入れていました。満 面に微笑をたたえた金は、「中国人のなかには、日本人は皆すごい金持ちだ、と思っている人が多いのですが、私は、中帰連の人たちがなにかとやり繰りしなが ら平和のために努力して下さっていることをよく知っています」、と言って見舞金を固辞しました。それから数日後に他界した金の遺灰は黄海に流されました。 彼の故国である韓国と、中国各地の沿岸、そして日本に届いてくれ、との彼の願いがこめられていました。

会員の急速な老化のため、中帰連は2002年に解散の已む無きに到りました。しかし、前述の通り、その精神は、戦後の若い世代によっ て、受け継がれています。その指導者の一人、熊谷伸一郎氏からの最近の私信によりますと、この団体は日本全国に相当活発な運動を展開しているということです。

6、 閉会の辞 | アドリ・リンダイヤ − ヴァン・デル・バーン

インドネシア出身のオランダ人も日本人も犠牲者として自分を見るようになって既に久しいものがあります。それは、しばしば当然だったのです。でないと、だれにも耳を貸してもらえませんでした。

大きなテーブルに二組の人々が向き合って座っている部屋にまつわる譬え話があります。どの人の前にも豪華な御馳走が並べてあります。どの客も、とても長い柄のついたスプーンしか持っていません。ですから、この素晴らしい御馳走を戴くことは出来ないわけです。だれもがいたたまらない空腹を覚えています。さな がらに生き地獄です。でも、よく見てみると向こう側に空き腹を抱えた人たちが座っています。突然、自分の空腹のことは忘れ、自分の問題はひとときさしおいて、自分の長いスプーンを相手方の方に延ばします。向こうの方でも問題の解決が発見出来たので、地獄は天国に変わります。

私たちが今日聞いたお話の要点もそこにあるのではないでしょうか? ただ錆びていくだけの、無用の長物の鉄路を背景に見た時の労務者達の悲惨な運命とお先真っ暗の未来は私たちの関心の対象でなければなりませんし、決して忘却の彼方に押しやられてはなりません。

潜水艦に繋がった家族が見い出した開放感。この方々は、暗い過去の悲劇的な出来事の背後に、向こう側に、「人間」を発見し、手を差し伸べることがお出来になりました。

そして、最後に共産中国の謎に包まれた政治の世界。「たとえ戦犯たりとも人間であり、人間としての尊厳を尊重しなければならない」という原則。この原則は非常に遠大な結果をもたらすと同時に、また人々の人生を限りなく豊かにもしました。

皆さんは、多分、ICODO-INFOという雑誌を御存じでしょう。最近は、名称が変わって、COGISCOPEと いいますが、戦争と暴力のもたらす結果を扱っています。戦争体験、後遺症の治療などに関する記事が出ています。心理学者や療養士が専門的な意見を述べてい ます。往々にして治療は長期にわたり、厄介なものです。私は、最近の号に、二人の米国人の研究者による「難しい出来事のプラスの影響とマイナスの影響」と いう記事に注意を惹かれました2。長年にわたる後遺症を残すような体験をした人の半分以上がプラス の影響を受けた、というのです。人間関係や人生観の面でそういう人たちは大事な変化を体験した、ということです。以前より賢く、頑健になり、他の問題をも 処理出来るようになったそうです。これはかなり詳細な研究ですが、その結論は、失策や打撃をプラスのものに変換できる能力という概念が、この研究から導き 出されたもっとも印象的な結果であり、それは人間の抵抗力、持久力の現れではないでしょうか。

今日私達が伺った講演からも、社会的なつながりの中で、また人間的に成長していく過程において、また難しい過去を処理していく中で人 間が発揮するこの抵抗力、持久力を垣間見ることができました。破壊の廃虚の跡にまたもや橋が架けられました。その橋をはさんで互いに相手に手を差し伸べ、 出会いが可能となるのです。これが、日蘭対話の会合の目指すところでもあります。

私たちの子供達、孫達の未来は敵愾心、憎しみ、恨みではなく、相互理解と敬意とに根ざしたものでなければなりません。

私たちの会合の予算を賄うためにHet Gebaarと いう団体に補助金を申請しましたが、けられました。私たちの対話の目標、その効果という基準に照らして、私たちの願書は平均的な評価しかもらえませんでした。過去を効果的に処理し、それを乗り越えていくのに実際に必要なものは他方と出会うことである、という点が補助金を配分する機関の担当者にはまだよく理 解出来ていないのではないか、と思われます。そうしてこそはじめて、相手を敵として眺める、という姿勢を脱することができるのです。

私達自身、さらにまた過去においてこの対話集会に出席された多くの方々が開放感と新しい視野を得た、と言われることは嬉しいことです。

今年、私が女王様から戴いた叙勲も、日本と東南アジア諸国また他の民族の間の和解のために労している多くの人たちの努力が認められたのではないか、と考えます。

問題児になるのでなく、むしろ問題の解決に参与したいものです。