お互いの過去と向き合って

2003年11月22日 ウーフストヘースト

 プログラム

  1. 親切なキャンプの監視人との再会(ビデオ上映)
  2. 日本人の父を尋ねて
  3. 50年を経て私は何をなおも求めていたのか?
  4. 旧植民地韓国への旅

1、 親切なキャンプの監視人との再会(ビデオ上映) | D. ウィンクラー氏 + C.ウィンクラー – バルテンス夫人

(ウィンクラー氏は、EKNJ [日本による元抑留者生存者財団](De Stichting Ex-Krijgsgevangenen en Nabestaanden Japan)の名誉会長で、戦後オランダ人の元抑留者の団体を率いて来日した経験が何度もあります. )

あの時私達がなぜ日本へ行く気になったのか、との問いに答えるためにお話をしてく れるようにとの御招待をいただき大変有難うございます。そのもとはと言いますと、前世紀の30年代、オランダ社会が深刻な危機的状態に陥って、それがため に多数のオランダ人青年達が今日のインドネシアに移住した歴史によります。

「良き古き時代」などということがしばしば言われますが、わたくしはそういう表現を聞きますと、鳥肌がたつのを覚えます。良き古き時代などとはもってのほか、貧困と悲惨の時代でした。私達の中の大多数は、不況のために、お先真っ暗でした。当時はどこも大抵大家族でしたが、年嵩の子供は小学校終了と同時に就職を余儀無くされました。女の子であればお針子、男の子ならばどこかの親方のところに小使い銭稼ぎに出されたのです。労働時間は週48時間、どうかするとそれ以上、賃金は一時間8セントというお粗末なものでした。後ほど上映します映画から当時の状況がはっきりお分かりになることと思います。

1930年代のオランダの人口は800万人、うち失業者は45万人にも達していました。社会保障らしきものは無きに等しく、失職すると失業対策事務 所に行くよう言われました。何がしかの「援助」を貰いましたが、最高で週 3、50ギルダーでした。毎日二度事務所に出頭して判子を捺してもらわなければな りませんでした。当時は自転車に乗る者は一人 2、50ギルダーの自転車税を払わされ、それを払った証明の鑑札を自転車につけていなければなりませんでしたが、失業者はこの税金を免除され、真ん中に穴の空いた鑑札をもらいましたが、失職していることが一目瞭然で、あまり気持ちの良いものではありませんでした。食事も質素で、一日の終わりに食べ残しになったパンを貰うのに並ばされました。そのパンが一個 8セントでした。不良品の肉を肉屋で売っていましたが、 失業者には缶詰め入りで渡されました。また、当時は果物も大抵の人には手が届かず、食器棚の上に見せ掛けの果物が皿に入れてあったものです。普通の牛乳も多くの人には手が届かず脱脂乳で間に合わせました。パンにはよく砂糖と肉桂を混ぜてプッディングを作りましたが、子供の頃の私の大好物でした。

コライン首相は当時の状況を勘案して、ただでさへ低額の失業手当てがさらに切り下げられ、賃金切り下げは日常茶飯のこととなりました。失業者はアムステルダムの森、干拓事業、泥炭採掘等、ありとあらゆる失業対策事業に狩り出されました。拒否すれば失業手当ては取り上げられ、前述の通り食べ物を買う現金もほとんどありませんでした。オランダがまだ植民地を海外にもっていて、そこにオランダの軍隊が駐留していることに目をつけたコラインは、若い失業者は KNIL (= Het Koninklijk Nederlands Leger オランダ王国軍)に応募させることにしました。これをカピトウランテン制度(Capitulantenstelsel)と称しました。3年ないしは5年の契約でした。1000人の応募者のなかから8割ははねられ、3ヶ月に及ぶ厳しい訓練を経て、残った者の中から一割が採用さ れました。3年申し込んだ者は50ギルダー、5年申し込んだ者は100ギルダーの報奨金が支給されましたが、これは当時としては馬鹿にできない金額でし た。この制度によりますと、3年ないしは5年海外で勤めると、政府の官僚になる資格が出来ました。新聞紙上での広告に若者達が殺到しました。

私は23歳の青年として蘭領東印度に1940年2月に出発しました。中学校卒業証書を携行する義務がありました。

これから映画を上映します。そのあとでちょっと間をおいて、記録映画をお見せしますが、KNILの兵隊が日本軍の捕虜収容所でいかにして生き延びることを 得たかをお分かりいただけると思います。この記録映画は日本並びにオランダ在住の日本人の方々の協力を得て私が製作したものです。

皆様の中には、最初にインドネシアとビルマを訪ねてから、家内とわたくしがなぜ日本にまで足を延ばしたのだろう、と御考えになっておられる方があるかもしれません。その第一の理由は、日本人の中にも良い人がいたからです。その一人は田村という人物です。私達のグループに配置されていたこの職長はわた くしたちによく休憩時間をくれ、殴らず、自分のわずかな食事の中から私達にも分けてくれ、時には戦況についての情報をこっそりと持ち込んでくれ、それを日本語のできたオランダ人の将校に訳してもらいました。この人物のことは私の記憶にずっと残っていて、私達が1985年に日本まで足を延ばしたのも彼を探し当てるためで、幸いにもその目的を達することが出来ました。

私と同じような境遇にあった人たちと行った日本旅行のひとつを撮った映画をこれからお見せしますが、その映画では日蘭両語が使われています。この映画から、かつての捕虜達と日本人職長達との対面、かつての収容所跡の見学、そのときの内心の動きが見とれると思います。これまでに300人以上の元捕虜とその親族に同行して日本を訪れました。今の世代の日本人達と会い、接触したことはかれらの内心の傷を癒すのに大きな効果がありました。多くの捕虜達が永年深い内心の傷を負ったまま生きて来ましたが、この訪日によって、以前は思いもよらなかったような友情が育まれました。

拙著『私の収容所生活1942ー45』に戦時中の私が何を体験し、奪われたかを描写されています。もちろん当時の私は、現在とは全く違う見方をしていました。

映画「蘭領印度」について:
総計153人にのぼる元捕虜やその家族を訪ねた際に日記、調理法の説明書、収容所・抑留所で制作した物などいろんな資料を貰い、これは後日ハーグの教育博物館MUSEONに寄贈しました。これからお見せする映画もそのひとつです。これはデリの煙草栽培園の人が作製したもので、そこには雇用者と非雇用者(俗称クーリ)との関係がよく描かれています。元来は無声映画でしたが、Museonと共同で背景に音声をいれました。
私はこの映画を最初に上映し、つづいて前世紀の危機的な30年代のオランダ、最後にドイツ・日本との戦争、解放の映画という順序は大事であると考えます。 もう一本、私の度重なる訪日の一つの時、日本のテレビ局との共同で出来、日本だけでなくオランダでも(Het Museon)で撮影されたものを上映します。この映画は日本各地で上映され、非常な感動を呼び起こしました。

では、これから映画を観ていただきますが、そのあとで御質問がありましたら、どうぞ何なりとお尋ね下さい。

お見せするヴィデオ・映画
蘭領東印度 1912ー20
経済危機のなかのオランダ
ドイツ並びに日本との戦争
日本のテレビ関係者と合作で日蘭において撮影した記録映画

2、 日本人の父を尋ねて | ヤンヌ・ハム (JIN[人]の会)

皆さん

暫く前に今日の日蘭対話の会合で、私が日本人の父親を探しに出かけたことを話してくれるよう依頼され、これからその話をさせていただきます。今日の会合のテーマをリンダイヤさんから伺いましたが、それに照らして、「日本人の父親と の出合い、私の人生に対するその意義」と私なりに解釈しました。どうして父親探しをする気になったのか、その経過、出会いそのもの、そして私の現在の心境 といったことをお話致します。
私の話の全体を流れている主題は「戦争と愛」です。
最初に私の系図と家族の写真をお見せして、私の背景を少しお話します。

系図
私の遠い先祖にSentot, 正式にはKanjeng Pangeran Alibasah Abdulmustapha Prawirdirdjoという人がいます。彼は18歳にしてジャヴァ戦争(1825-30)において指導的な役割を演じたDiponegoroの指揮官でした。セントットはディポネゴロの従兄弟で、二人ともジョクジャカルタのサルタンの親戚でした。彼の4人の妻の一人との間に出来た息子の一人はRaden Arija Prawirokoesoemoという名前でした。次が私の曾祖父Raden Mas Pandji Soemodiprodjoです。祖母はRaden Ajoe Soertilah, 母はRaden Adjeng Hartiniです。

母について
母の人生は、もし家柄良いジャヴァ人と結婚していたらもっと幸福で楽だったことでしょう。しかし、母は自分の勤め先で働いていた日本人の男性に惚れてしまいました。結婚も同棲もしない関係が2年間続きました。家族には伏せての関係でした。私の祖母は彼と一度だけ会っています。
やがて終戦となり、劇的な出来事が矢継ぎ早におこりました。母は私を妊っていましたが、父は突然、何の前触れもなく、なんらのデータも残さずに姿を消しました。職場の主任に問い合わせましたが、なにも分からず、「元気でいろよ」と書きつけた貯金通帳だけを母は手渡されました。母は八方手を尽くして父を探しましたが、父がその後実際にどういう道を辿ったかを私から聞くまでは、てっきり父に捨てられたものと思っていました。
母は父を深く愛していましたから、このようにして父に捨てられ、やがて私生児が生まれるのだと思って、その後ずっと失望感と恨みを抱いて過ごしました。私はこうして父無子(ててなしご)になったのです。

父について
父は1923年ないしは24年に神戸の近くの姫路で生まれ、スラバヤにあった丸紅商事で簿記を担当していました。その会社で私の母と知合いました。しかし、1944年に父は召集令状を受け取り、なんらのデータも残さず、母に別れを告げることすらできずに母の目の前から姿を消しました。二人の人生がなぜこのような劇的な変化を経たのかをお互いに語り合えなかったことは残念でもあり、悲しくもあります。
一緒に日本を旅行した人から、京都で父と会ったと私に教えてくれました。父はバリでオーストラリア軍の捕虜になり、やっと47年に日本に帰国した、 ということでした。帰国者は日本では自分達の体験を語ることを禁じられ、5年間は外国と連絡をとることも許されなかったそうです。

私自身のこと
私は自分の父が日本人であることはずっと前から知っていました。幼かったころ、「御人形さん」という意味のチャンという名前をつけられました。母方の祖父からは、ハルマニという名前をもらいましたが、サンスクリット語で宝石を意味します。
その後、母はクリスチャンになって私はジーンという洗礼名を授かりました。
子供時代の記憶をたどりますと、自分はいつも一人だけほったらかされて、なにからなにまで自分でやらなければならなかったことを思い出します。母は事務員としてフルタイムの職をもっていて、余暇には大きいコーラスでメゾソプラノを歌っていました。素晴らしい女性だった祖母が、私の気持ちを汲んでなにかと面倒見てくれました。
高校卒業後、私は英語・英文学を大学で学び学士号(BA)を 取得しました。妹の学業成績が思わしくなかったので、母はオランダに移住することにしました。68年に家族三人でオランダに移り、私は結婚して3人の子供をもうけました。子供たちが小学校に入学してから、私はユトレヒト大学で東洋言語・文化を学ぶことにしました。はじめの段階ではもっぱらサンスクリット語 と古代ジャヴァ語、マレイ語、インドネシア語の勉強にかかりきりでしたが、上級の段階では言語哲学、一般言語学、宗教学なども加わりました。卒業後は、いろいろな語学学校でインドネシア語を教え、また同時にインドネシアへ派遣されるオランダ人の相談役も勤めました。

なぜ父親探しを?
もう20年も前のことでしょうか、母が私に父の写真を手渡しました。そのときは「実現不可能」という箱にしまいました。ときには、探しに出ようかと思わないではありませんでしたが、現実にどうとなると、はたといきづまりました。
2000年、全然面識のなかった男性から話し掛けられ、彼の日本人の父親のことやJIN (= Japans Indische Nakomelingen 日本人を父とするインドネシア出身者の団体)の話をしてくれました。この団体を介して父親探しが開始されました。3ヶ月というきわめて短時間に(この団体の中には10年あるいはそれ以上探してもまだ見つからないという人たちもいます)現在80歳の新聞記者内山氏から、私の父が見つかったというファックスが届きました。
この朗報は私の家庭を興奮の坩堝に陥れ、しかも父は、その後、私の消息が分かって嬉しいと書いてよこしました。私は誇らしく、幸福の絶頂にありまし た。突然に父親を得た私には信じ難いことでした。古びた写真のあの人が突如として血と肉の通った人間に変貌し、私はその人の遺伝子をかかえているなんて! 母も驚くと同時に嬉しくてたまらず、彼と一緒に過ごした時を懐かしむのでした。

日本の家族との出会い
日本人の異母妹の京子は心のこもった「妹らしい」手紙をくれ、彼女の母との結婚の前に父が私の母と関係をもっていて、子供まで出来ていたと知って、母と二人で最初は少なからぬショックを受けた、と書いて来ました。妹は、父がそれまで何も語らず、私の母と私を探し出す努力もしなかった、として 父を非難したそうです。当初は彼女の母はパニックに陥りましたが、そのうち家族の誰もがこのことを静かに受け止められるようになったとのことです。異母妹は姉が出来たことが嬉しい、と書いてよこしました。兄に二年ほど前に死なれていたので、私は天からの授かり物、と思えたそうです。また、母の気持ちも分かってくれ、父親無しで若い時を過ごした私にも同情してくれました。
2001年の5月に、京子から手紙が届き、娘を連れて訪蘭し、私と私の子供達に会いたいと書いてありました。この知らせには私達大変驚き、かつまた 興奮しました。「遠い国からの新しい家族との対面」なのですから。その日はとても楽しい一日となり、お互いすっかりうちとけて過ごせました。Haarzuilen城とユトレヒトを訪ね、それから娘の家に行き、すてきなラムの脚を御馳走になりました。京子は母と私にといって、父からのプレゼントを持って来てくれました。

日本への旅、そして父との出会い
EKNJの団体と日本へ行けるとの通知を受け取った時、私は自分がとても幸せな、選ばれた人だと思いました。私の父親捜しも成功し、日本訪問は、自分の他の半分を再 発見できる機会でした。私は、それまで、私の中にある日本人は一体何なのだろう、と絶えず問い続けて来ました。日本人としての自分は宝箱と見ていました が、それには鍵がかかっていました。この旅行を通して、この箱が開き、その中身を眺め、さわり、それが自分のものであることを確認することができるので す。
このように自分の実父を捜しはじめた瞬間から、同時に過去を処理する過程が始まります。ですから、このような旅は心の旅でもあります。新しい事実に直面し、それをすべて自分の体験の世界にどこかおさめなければなりません。
日本には私はいつも興味があり、かなりの本も読みました。欧米の著作家のものとしては、Ian Buruma, Karel van Wolferen, Rudy Kousbroek, Adriaan van Disのものなど。また欧米の経済学者が日本について書 いたもの。三島由紀夫、大江健三郎などの日本人作家のものも読みました。それに旅行案内書。ですから、私の旺盛な読書欲の対象そのものを、その本物を見て体験し、しかも何よりも実父に会えるということに私がどんなに胸ときめかしていたか、容易に御想像いただけることと思います。
父との対面は写真でお見せ致します。言葉では言い尽くせないのです。

実父との出会いは私の人生にどういう意味をもつか?
すでに申し上げましたように、父親探しは過去の処理と平行して行われます。なぜ探すのですか? 多くの問に対する解答を見い出したいのです。自分の中の欠けている部分を補いたいのです。クロスワードパズルの一つ一つがぴったり合うようにしたいのです。
私は自分が全部揃った人間になったような気が今はしています。私の遺伝子がどこからのものなのか、自分の外観がなぜこうなのかが分かりました。父に似たところがあるとすら言えます。私の身体的な特徴のあるものは自分の子供や孫にも認められます。
私の友人、知人は、私が以前は引っ込もりがちだったのが、いまは随分と開放的になった、と言います。また、以前は落ち着きがなかったけど、いまはそれがなくなったそうです。私にはもう疑問も答えも必要ではありません。探していたものが見つかったのですから。
母は、父から手紙を受け取った時とても喜びました。自分の存在がやっと認められ、母の人生と父のとは世界史の動きの中ですれ違いになったのでした。 父も内心の安らぎを得た、と思います。いつも私達母子のことを思い、なにかと気にかけていたようです。母と私の間の関係もいまは相当に好転しました。
私の子供達にしてみれば、家族の歴史は最早不可思議な歴史ではなく、新しく家族が増えたのです。
結論として、子供は自分達の由来を知る権利がある、と申し上げたく思います。

結び
最後になりましたが、JINの会、EKNJ、日本政府、そのほか私を助け、支持して下さった多くの方々にお礼申し上げます。お陰様で実父探しは成功裡に終了しました。父と会えたことで私は幸せになりました。また私の周囲の多くの人たちもこのことを高く評価していてくれます。
私が蓮の人と名付ける人たちが沢山いらっしゃることはすばらしいことです。印度に多い蓮の花はきれいな、白い花、知恵と美の象徴です。蓮の茎はどす 黒い沼に深く根をはって成長します。武力、暴力、戦争これすべからくこの深い、どす黒い沼の中で起こります。皆さん御存知かもしれませんが、悟りを開かれ た仏様は、いつも、蓮の花の上に座った姿で描かれています。

最後に私の好きなレンドラの詩を朗読させていただきます。

『愛するヴィクトルのための風景』
W.S. Rendra

平和な丘の上に腹這いになって
花盛りの葦と潅木の生い茂った谷間を下に見下ろす。
雲一つない空にかかった太陽は
一年中輝いている。
谷間には、何にも遮られずに風が吹いている。
なにやら不思議な声が私に呼び掛ける。
眼に見えない手が私を招いている。

遠く谷の真ん中をテープのような川が流れている。
古の歌を口ずさみながら。
そのかたわらにうねうねと続く鉄道。
汽車が生き生きと煙りをあげながらゆっくり走る。
ねずみ色の線が空中に描かれ、
楽しそうに、生き生きと乾いた季節の風に消されていく。

私の民族の遊戯と苦難。
すこしさきのほうで、この緑色と白につづいて
大地は黄色に変わる。米が黄色く熟れた。
太陽に照らされて秣(まぐさ)が銅色になった。

茶色の人たちが茶色の大地を歩いていく。
土地を耕し、土地を愛しつつ。
左側には安らかな家並み。
その前にはたわわな実。
私の民族の魂を抱きかかえる一角。

無数の色の斑点のように鳥と蝶が飛び交う。
大地の上の生の営みの天使のごとく。
右側にはねずみ色の一本道が地平線の彼方へ
町へと続く。
かわいい青い車がこの道を走る。

なにやら不思議な声が私に呼び掛ける。
眼に見えない手が私を招いている。

この民族がこぶしをしかと握りしめてほしい。
この丘や谷に意味があってほしい。
意味はなくてはならない。

川では女達が裸で洗濯している。
彼女らは厳しい未来のことを
夫の仕事のことをよく歌う。
川岸には竹が揺れている。

愛するヴィクトル
私の血の最初の一滴はこの大地に落ちた。

[Jeanne Ham氏のオランダ語訳よりの重訳:村岡崇光]

御静聴有り難うございました。

3、 50年を経て私は何をなおも求めていたのか? | ヤン・A・ペレグリノ (JIN[人]の会)

はじめに

皆さん、私はヤン・ペレグリノと申します。
皆さんの前にたった私を見て、皆さんはすでに二つの疑問をおもちかもしれません。すなわち、どうしてこの人がオランダ式の名前をもっているのだろう、どうして彼はイタリヤ人みたいな苗字をもっているのだろう?
実は私自身そういう疑問をいだいたことがあったのです。しかし、子供の頃そういう質問をまだ発しないうちに、私は解答を与えられたのです。お前の祖母は中国人だったが、お父さんはイタリア系のオランダ人だった、というのでした。
私は子供時代をそう思って過ごしましたし、私を取り巻く世界は、私のオランダ人の子供仲間のそれとこれといって相違しているようには思えませんでした。

発見
いまから10年ほど前だったでしょうか、インドネシアの戦後を扱ったテレビ番組を見たのち、それまで言われて来たのとは違って、私には別の、本当の父親があったに違いないという結論に達しました。私は日本軍によって泰緬鉄道敷設に狩り出された捕虜を父として育ちました。しかし、この人は私が誕生した時点でインドネシアにいたことはあり得なかったことが判明したのです。しかし、私の実父がだれであったのかは母のみの知ることで、その母はこの点に関して口を割ろうとはしませんでした。戦時中ティーンエージャーだった母は日本軍が作ったジャワ島の婦人抑留所に入れられて、精神的に少なからぬ打撃を蒙ったのでした。

悲しみ
私の世界は突如として瓦解しました。この時から、私にとって悲しい時期が始まりました。私の身内はおおかた、私の実父は別人であったことを 知っていたようですが、母と養父のことを慮って沈黙を守りました。この問題については何一つ私に語ろうとはしませんでした。私は非常な孤独感をおぼえまし た。自分の世界は砂上の楼閣となりました。だれにでも当たり前のことで、したがって人間の存在にとっては不可欠の物が私には欠けていたのです。他の人に とっては当たり前のことを私は知りませんでした:両親の結婚式、親の婚姻届、自分の結婚、自分の出生に関する基本的詳細、自分の眼の色は誰のを貰い受けたのか、などです。私は、両親の秘密を私が探り出すことのないようにと配慮して育てられました。日本人に対する憎しみ、日本軍によって抑留所の看守にされた 韓国人に対する憎しみはまたそれ自体で別の問題でした。これに直面した時のショックは大きいでした。
これで私の外観についての説明ができました。どうして私が平均的なオランダ人よりかなり小柄で、華奢なのかということ、どうして性格も違うのか、知的にも違った特色があり、私の出生証明書がどこにあったのか、私がどうして今のような名前をもつに至ったのか、また、私と両親、オランダ人の兄弟姉妹との間にいつも眼に見えない壁があったのはなぜか、こういった一連の疑問がいまやっと解けました。
悲しみにうちひしがれ、かつ母の反対を押し切って、私は自分の家族を探しに出かけることにしました。予期しない障害にもでくわしました。親しい友人達は、それは止めた方がよい、今のままにしておくように忠告しました。なんといったて、もう半世紀も前のことなのです。実父はとっくに死んでいることも可能でした。ひょっとしたら、私とは絶対に会いたくないと言うかもしれない、とも言われました。
情報を得ようとして連絡したいろいろな機関も母と実父のプライヴァシーを楯にとって私のためには何もでない、と言いました。何のプライヴァシーぞ、というのが私の疑問でした。私が、戦犯容疑者の中に自分の父親を探し求めていることを他人の前で公にしなければならないことだけでもつらいではないか、と思いました。

予期しなかった支援
幸いにして、精神的な支援を、それもしばしば思ってもみなかった人たちから与えられました。自分に直接関係があるわけではないのに、私に同情して援助を申し出てくれる人たちがでてきました。桜財団の会員達、インドネシア出身の戦後世代の人たちでした。何人かの親戚、オランダ国内ならびに外国 の古文書館や団体などからも実際的な援助を受けました。そういった中の多くの人は、私にとってとても大事な人たちであり、私の探索の旅の一端を担ってくれたので、私の親友です。

探索の旅
北ブラバント州のオーヴァーローンの戦争博物館の館員との電話がはじまりでした。親戚、オランダ、英国、インドネシア、韓国の古文書館を通じて、またFIOM, International Social Servicesな どの団体を通じて韓国に通じる重要な道がひらけたのです。結局3年後に私の探索の旅は私の韓国の家族との出合いをもって終わりました。実父はかなり以前に 故人となっていましたが、私の家族は、わたくしが彼等を発見したことをことのほか誇りにしているように見受けられました。それから7年の間に韓国を3度訪問し、数カ月前から韓国から甥がやってきて私のところに住んでおり、娘も韓国を訪ねたりして、私が家族の中で特別な位置を占めることを私はいま確信してい ます。

終焉
私のこれまでの人生での重要な道標は、16歳の娘が先月韓国の家族と出会ったことです。私は誇らし気に彼女の先祖の祖国を見せてやりました。いまでも日毎に自分の生涯のいろいろな側面を書き直しているわけですが、一番最近の韓国旅行で家族の歴史がひとまず完結した、と考えています。これをもって、私自身の中にあった戦い、子供時代にたえず身に感じ続けていたその戦いにも終止符を打つことが出来ました。

写真
これから、会話も入った写真をお目にかけます。はじめに祖父母、それから娘です。私の先妻、つまり娘の母親は短いインタビューの中で、娘のどこまでがインドネシア的で、どこまでが韓国的かは決めにくい、と述べています。最後の方の写真では、私が自分の魂を韓国に発見したこと、オランダで何を 物足りなく思っているかをお目にかけます。導入部分、最後、バックグラウンドは、私が自分のこれまでの道程を、砂に足跡をつけることになぞらえていること が分かっていただけるように材料を選択、配列しました。
この作品は娘と、私のこれまでの苦しい人生体験を共に味わってくれた人たちのために作ったものですが、わたくしがしょっちゅう彼等に語っていたこと がなんだったのかを見てもらいたかったからです。皆さんにもここになにか訴えるものを見い出されたことを願ってやみません。

むすび
家族を探し出そうとしている人から援助を求められたら、どうぞむげに断らないで下さい。そういう人に援助の手を差し伸べることによって、そ の人を非常に幸福にしてあげることが出来、永年の恨みを克服するように仕向けることができるのです。それによって、また一生続く友情を築くことも出来ます。

この後なお御質問がありましたら、時間の許す限りお答え致します。

4、 旧植民地韓国への旅 | 村岡崇光

(ライデン大学名誉教授)

皆様の中には私達の韓国訪問と日蘭対話集会と何の関係があるのだろうと、訝っておられる方がおありかもしれ ません。この旅行は過去におけるこのグループと私達のかかわりと深いところでつながっていて、言ってみれば、過去6回の会合の副産物であり、オランダの 「罪償と和解」という財団(Stichting Boete en Verzoening)の行っている活動にも示唆を受けました。この財団の会長のWout Bouwman氏は第3回の会合の講演者の一人でした。

みなさんは韓国のことをどの程度御存知でしょうか? ごく最近の世界サッカー大会でオランダ人が韓国チームのコーチを勤めたことは御存知かもしれません。彼は韓国人なら知らない人のない有名人です。もちろん、最近は朝鮮半島における政治的・軍事的緊張についてはいろいろ伝えられております。オランダ国内在住の韓国人は1000人を越えないと思います。皆さんのなかにはHendrik Hamelなる16世紀末のオランダ人のことをお聞きになった方があるでしょうか? それはともかく、平均的なオランダ人からすれば、韓国は遥かなる国、極東の一国です。しかし、日本人にとっては事情が異なります。日韓は隣同士です。日本には相当数の韓国人が居住しています。なかには、自ら進んで住んでいる人もありますが、大多数は前世紀に強制労働者として日本に連れてこられた人たちの子孫です。しかし、地理的に近接しているからとて、私達が互いによく知合っているとは限りません。数年前に『センセイ、ハタアル?』という小冊子を読んだことがあります。会社の仕事で日本に何年か駐在していた韓国人の父親に連れられて長崎にやってきて、日本の小学校に在籍していた一年生のチョン君の話です。日本の小中学校ではどこでも秋に運動会があります。ある日、受け持ちの先生が、生徒に明日の運動会は国際色豊かにやるから、運動場には各国の旗が翻っているぞ、と言いました。すると、チョン君が手を挙げて、『先生、旗ある?』と、尋ねたというのです。自分の国の旗のことが気になったのです。先生は、勿論さ、と受けあいましたが、 でも授業が終わってから、倉庫に行ってみると、韓国の国旗がなかったのです。これがきっかけで、生徒や父兄ぐるみの勉強会が始まり、韓国旅行までありまし た。この出来事は、平均的な日本人のものの見方、態度を象徴しています。つまり、隣国やその国民は蔑視し、地理的にはるか遠い欧米世界に憧れる、という姿勢です。日本はアジアの孤児である、とよく言われます。

いずれにしても、戦後世代である私達夫婦の韓国に関する知識もお粗末な物でした。朝鮮半島が1910年から1945年まで日本の植民地であったこと は知っていましたし、私の叔父の一人はかつての京城帝大の医学生でした。1991年にオランダに移ってきてから、私達は日蘭関係の歴史の中の暗い時期、こ とに第二次世界大戦中当時の蘭領東印度にたまたま居住していたオランダ人達の身に降り掛かったことと正面から対決させられました。その過程において私達の 関心は少し広まって、近代アジアに於ける祖国の歴史に及ぶに至りました。

数年前に私達夫婦は退職後の時間をどのようにしたら神の奉仕に当てることができるかを祈り求めはじめました。学者の中には、人生のこの大事な道標に到達するとそれまでの学究生活におさらばする人もいます。しかし、私には、自分の研究分野でまだやれることが存分にあるし、これからなお永年研究生活に惹かれるもののあることははっきりしていました。定年退職し、講義や事務から一切解放されて自由になった時間を全部自分の学問的研究に費やしていいものかど うかいまひとつはっきりしませんでした。このようにして与えられた時間も神からの贈り物ではないか、収入の十分の一を献金するのなら、時間も十分の一を神にお返しすべきではないか、という結論にやがて達しました。具体的には、私の場合、自分の専門分野の知識と関心とを、かつて日本軍国主義、太平洋戦争と云 う名の侵略戦争の犠牲になったアジア諸国の同僚の学者や若い学生たちと分かち合うために、心身健康である限り、毎年5週間ほどボランティアとして向こうの大学や神学校で教えさせてもらうのがもっとも相応しい形ではないか、と思われて、私と同じくエルサレムのヘブライ大学で学位を取っていま韓国聖書協会総主事の要職にあられる閔(ミン)先生に私の主旨をお伝えし、先生御自身が賛同して下さるのだったらソウル市内の学校に連絡を取ってお膳立てしていただけないだろうか、とお願いしました。この問い合わせに先生がかなり悩まれたことは、韓国に到着してからはじめて伺いました。数カ月後に承諾の御返事を頂き、ソウル市内の幾つかの神学校と協議の上私の講義の予定を立てて下さいました。

出発の前日の2月9日、私の誕生日に近所のオランダ人の友人からカードを貰いましたが、表には黄色く熟れた麦畑の絵が描いてあり、内側に友人が「こ れまで君はせっせと種を播いて来たけど、65歳というと、そろそろ刈り入れの時じゃないのだろうか」と書き添えてありました。その日曜のアムステルフェー ンでのオランダ日本語キリスト教会での合同礼拝の席上、私達の牧師であった韓国人のパーク先生もいらっしゃるところで、このカードのことを披露し、「私達は、前世紀の前半に私達の先輩達が韓国で播いた種の収穫に行って参ります」と、挨拶しました。帰宅の車の中で、それだけではない、私達は新しい種類の種を播きに行くのではないか、とも思えて来ました。

火曜日の正午に向こうに到着、翌日から早速メソジスト神学校での講義が始まりました。学生・先生達会わせて15名で、先生方は交代で通訳をして下さ いました。出発前に受けた連絡では、全部で7コマ教えることになっていたのですが、着いてホスト役の先生から、一コマは3時間の講義から成っていると伺い ました。ために、最初の日の授業が終わった時には、オランダで準備してきた材料がもう全部なくなっていて、次からは、寮の部屋に戻ると早速翌日の講義の準 備にかからなければ成りませんでした。このようにかなりの重労働でしたが、皆さんからは大変暖かく迎えられ、学生さん達もやる気満々でした。土曜日の最後の講義を終えるにあたって、選択科目でしかないものにこれほどの熱意を持って参加してくれ、しかも日本人教師に心からの敬意を表してくれた彼等のために奉 仕出来た特権をとても有り難く思っている、と申しました。ひょっとして彼等の両親の中には、祖父母ならきっといやな辛い仕事を日本人から強制されてやらされたにちがいないのです。 次の週は韓国聖書協会主催の聖書翻訳に関するワークショップで、土曜まで、朝9時から午後5時までびっしりつまっていました。そのなかでそれぞれ一 時間に及ぶ発表も二つしました。

最後の3週間は長老派神学校に移って教えました。講義の負担は最初の週と同じくらいにきついでしたが、ここでも学生達は私に負けずに一生懸命勉強し ました。最初の2週間はまだ学期休みでした。最後の週には、通常の授業が始まりましたので、私は朝食前に2時間、夕方3時間教え、昼間は一対一の口頭試験 をやりました。

長老神学校の最後の金曜日には2500人の職員、学生の列席した神学校のチャペルで話をする機会を与えられました。英語で話すこともできたのです が、日本語で話すよう頼まれ、日本人の留学生が通訳してくれました。壇上には一方に通訳と私と二人掛け、他方に、私のホスト役の旧約学の姜(カン)教授と 日本留学の経験もあり、聖書朗読をされた姜女史が並んで掛けられ、日本人と韓国人とが、義と愛の神、告白する者の罪を許して下さるイエス・キリストを真中 にしての礼拝として意識的に設定されていることが一目瞭然でした。最後の祈祷もするように依頼された私は、両国民がこのようにして歩み寄ることを可能にし て下さった神に感謝を捧げました。植民地時代、韓国人キリスト者のこのような会合に居合わせる唯一の日本人は憲兵か特高だったでしょう。韓国訪問に至った 経過や動機を語り、前述の誕生日カードのことに触れ、オランダを出る前にそのカードをどういう風に見ていたかを語り、「妻と私はこれまで、私達の先輩達が 播いた種を刈り取る仕事と同時に、新しい種類の種を韓国の兄弟姉妹達と共に播いて来たのではないか、と思えてなりません。もし将来、韓国再訪が許されたならば、涙して共に播いたこの種を喜びをもって共に刈り取りたいものです」と云い足しました。

同じ神学校で別な機会に200人余りの学生を前に私達の訪韓の動機について話したことがありましたが、質疑応答の時に韓国人学生の一人が、「近年日本からよく牧師先生が来られて植民地時代のことを謝罪されます。もうそろそろ未来を共に築く方向に集中すべきなのではないでしょうか?」と発言されまし た。私はそれに対して、「そう言っていただくのはほんとうに有り難い。またそういう牧師先生達の誠意を疑うのでは決してないけれど、戦後60年近くになる のに、日本は国家として、また個人として20世紀の前半に行った悪、不正、罪を本当に悔い、反省してはいないのではないかと思われる現象、出来事が今なお多過ぎるのではないでしょうか。例えば、ずさんな歴史教科書、その検定、韓国、中国などからの度重なる抗議、批判を傲然と無視して戦犯も合祀されている靖国神社公式参拝を続ける日本の総理大臣、未だにあとを絶たないアジア諸国への団体買春観光、この種の例は枚挙に暇がありません。口で言うだけでなく、それ を行動に転換しなければなりません。」 この集会の最後に、ホスト役の姜先生が母国語で祈られました。途中で声が途絶え、数分後にまた始まった時には声が震えていました。あとから聞いたところでは、先生は、天なる神に、「父よ、お願いです、私達両国民がこれからは、争うのでもなく、互いに傷つけあうのでもな い、平和な関係を維持できるように助けて下さい」と何度も繰り返し懇願しておられた、ということでした。

韓国人の学生や同僚達からはいろいろな反応がありました。

聖書協会の閔先生のお手紙には次のように書かれていました:
「あなたがメソジスト神学校、私達の聖書協会、長老神学校でされた講義、長老神学校と市内の二つの教会でされた説教、村岡婦人による日本語のレッス ン、その他多くのことに私達はいずれも深い感動を覚えました。ここに日韓両国が新しい関係を樹立していき、新しい時代に真のパートナーと成るための基礎が 据えられたと信じます。」

紀元後5世紀の有名なシリア教会の学者エフレムはその創世記注解書の中で、アブラハムが独り息子を神に生け贄として捧げるというくだりで、このドラ マが展開していた時、母親のサラは一体どこにいたのだろう、という問を投げかけています。皆さんも5週間のあいだ桂子はどこにいたのだろう、と訝っておら れたかもしれません。その答えはいましがた引用しました閔先生からのお手紙の中にありました。先生は、日本語聖書を土台にして日本語を学ぶべく定期的に集 まっている韓国人婦人達を御存知で、先生の御紹介で桂子は週二度この御婦人達とあって日本語の練習台を勤めさせてもらいました。妻は、5週間後に彼女達と お別れするのが大変辛かったと申しております。

また、ある韓国人学生はすでにいくつかのアジア諸国に観光旅行をしたけれど、今度は日本に行きたい、と言ってくれました。

ソウル滞在中、すでに20年この方、ソウル日本人教会の牧師として日韓和解のために労しておられる吉田先生の面識を得ました。この先生を介して、今年84歳になるという韓国婦人にお会いしました。黄(ホワン)さんと名乗るこの方は戦時中日本軍の性の奴隷としてこき使われながら生き延びた何千人あるい は何万人とも言われるーー正確な数字は未知ーー韓国人女性の一人です。お会いした日、黄さんは、伝統的なチョゴリに身をまとって面会室に入って来られまし た。16歳の時日本軍によって強制的にまったく未知の日本軍の基地に連行されました。もう最初の晩、みすぼらしい小屋にしゃがんでいると、つかつかと入っ て来た日本兵に脱衣するようどなられても、良家の子女として育てられた彼女が解せずにまごまごしていると、いらだった兵隊はサーベルを抜いて彼女の着物を 前後から切り裂きそのときの切っ先の痕を見せながら、「私は金は要らない。天皇に直接謝ってもらいたい。日本人にこのことを伝えて下さい」と声の限り叫ば れました。私達はただ唖然として、彼女の手を握って許しを請い、出来る限り多くの日本人に彼女の事を語り伝えることを約するほかありませんでした。

東北の教会で、礼拝後老齢の御夫人が私のところに来て仰るには、警官であった父に連れられて戦前朝鮮に行っていたが、朝鮮人が日本の警官から受ける ひどい扱いをしょっちゅう目撃した。私達が韓国に行って来てくれて、ほんとうに感謝だ、と言われました。軍隊だけではなく、いわゆる軍属、商人、教師、警 官、農民、開拓民など、平凡な市井の日本人、ひどい場合は日本人キリスト者もこれに加担したのです(高崎宗司:『植民地朝鮮の日本人』(岩波新書、 2002)。植民地支配はそうならざるを得ないのです。原住民に優しい植民地支配などとは身勝手な幻想に過ぎません。

最後に、私達が今回韓国で体験したある特別なことをお話させていただきます。ソウルの南西ほぼ400キロのところにある韓国の古都、慶州に高齢の日本婦人達のためのホームがあります。この施設については何年か前に母を尋ねた折に見たテレビの記録番組で知りました。その後、桂子と私はこのホームについ て一冊の本を読みました(上坂冬子『慶州ナザレ園:忘れられた日本人妻達』、中公文庫)。1967年に韓国人クリスチャンによって創立されました。私達の離韓直後逝去された創立者の金(キム)さんは戦後、植民地時代の韓国あるいは日本で日本人男性と結婚して韓国へ渡ってきたものの、その後、夫に死別された り、離婚されたりし、様々な理由で帰国したくない、あるいは帰国できなくなった高齢の日本女性に関するひどい、あるいは悲しい話を聞かれました。ある女性 は、親の反対を押し切って日本で韓国人男性と結ばれて、渡韓してみたら、正妻がすでにいて、母屋とは離れたところにつましい小屋をあてがわれたそうです。 また、別な女性は男児が産めないために、夫は韓国人女性を娶ったところ、男の子ができたのですが、日本女性はこれに耐えられず、近くの小屋に移り住み、夫 が時々食事などを届けてくれました。そのうち、仇の韓国人妻は家出し、夫も死去しました。日本から兄がやって来て、帰国をすすめましたが、「主人の墓はだれがみるのですか? あの韓国人妻の行方がまだつかめていないんです」と言って、うんと言わなかったそうです。金さんは、こういう悲話を何百と聞いていて、 韓国人クリスチャンとして、この婦人達のためになにかしてあげなければ、と思われたのです。金さんにしてみれば、彼女達は、親の反対をも押し切ってかつて 差別された側の人たちの国へ渡って来て、言語を絶する難儀を忍んで、反日感情の強烈な国で夫に貞節を尽くした「愛の勝利者」に他ならなかったのです。金さ んの決心は、父上は植民地時代、祖国独立運動に加担したことで日本警察に殺害されていることを知る時、いっそう驚くべき決定と言わなくてはなりません。こ れは、民族や国境を越えたキリスト教的愛のなせる業と言うべきでしょう。私達が訪問した時はいずれも70歳を越えた20人余りの御婦人達がおられました。 彼女達は、入園時にクリスチャンの人はほとんどないそうですが、そのうち大多数がキリストを受け入れ、満面に喜びと幸福感が表れていました。賛美歌を何曲 か一緒に歌いましたが、賛美歌を歌うのが一番好きなのだそうです。金さんが、園で亡くなられた日本人女性達のために作られた丘の中腹にある墓地からは、天 気が良ければはるか先に北九州が望めます。かつての慰安婦達に対して金銭的補償はおろか、まともな謝罪をすら拒み続ける私達の祖国の政府にくらべて、なん と言うへだたりでしょう!この問題に対する日本政府の対応は生物学的解決、すなわち犠牲者の死に絶えるのをただひたすらに待つ、というのでしょうか?