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2005年11月26日 ウーフストヘースト

プログラム

  1. 記憶は解放に、忘却は捕囚に到る(ビデオ上映)
  2. 私の父の不思議な軌跡とその意義(ビデオ上映)
  3. 過去を通って未来へ向かう旅(ビデオ上映)
  4. 自由の身となった盆栽っ子
  5. 閉会の辞

1、 記憶は解放に、忘却は捕囚に到る(ビデオ上映) | H. ファン・ラールテ ‐ ヘール

ヨーロッパとアジアにおける第二次世界大戦が終わって今年で60年目になりました。連合国、ドイツや日本も含め多くの国々 がこのことを思い、静まる時を持ちました。私達はこの戦争で亡くなった大切な人々を思い起こし、平和と自由について思いを巡らしました。平和と自由に生き るということは決して当たり前のことではなくテロや戦争は常に存在し、特に現在はそれが顕著です。

私は、創作コースの中で、初めて自分の歴史、また皆さんの歴史に興味を惹きつけられました。私はオランダの旗を主題に選びました。私達の国の象徴であるこの旗は、砂の中に裸足で立って振り回した五歳の私に、大変深い印象を与えたことを思い出しました。そのとき、私達は日本の降伏を祝っていたのです。婦女子抑留所の全員が熱狂的にヴィルヘルムス、オランダ国歌を歌ったのでした。それは1945年8月31日のことで、オランダ女王陛下のお誕生日でした。戦争が終わってもうじき抑留所から解放されるという喜びをおおっぴらに表わした初めての出来事でした。これがノートに書いた私の最初の記憶で、(それを読んだ)母が「あなた、まだみんな覚えているの?」と訊ねたのでした。

私は 戦争中のことも書きました。ある朝、手荒い扱いを受けたた婦人達を見るために、彼女達が入れられていた竹の檻の前を母と一緒に歩かされたことも覚えていま した。彼女達はあまりの空腹に耐えかねてもっと食料をひそかに物々交換しようとして、日本人の警備員にひどく痛めつけられたのでした。彼らの罰は私達への痛烈な見せしめでした。

こう して文章を書いては母と話をすると言うことを続けているうちに「この抑留所にずーっといたい。ね、いいでしょう?」という本ができあがりました。そしてこ の本をたずさえて私は日本という国にたどり着いたのでした。私はEKNJ財団(日本における元捕虜とその遺族の会)のグループの方達とご一緒に、水巻、長崎、そして広島に行きました。後で皆さんにお見せするヴィデオは、私が作ったこの旅行の記録です。そして私の本はタンゲナ由香里さんが日本語に翻訳中であり、もうじき完成します。

皆様にこのヴィデオをお見せする前に、私に何か話すようにと村岡教授が頼んでこられました。私は即座にユダヤの諺「記憶は解放に、忘却は捕囚に到る」を思い出しました。

デン・ハーグにあるダインズィヒト教会の「教育と訓練」委員会が、私にその教会の第二次世界大戦追悼集会を手伝って欲しいと頼んできました。私の家族について話をすること、つまり父母と五歳以下の三人の子供達が鉄条網に囲まれて3年も生活しなければならなかったことを語って欲しいということでした。それは単に私達の家族だけの歴史ではなく、蘭領東インドに住んでいた何千人もの人々の家族の歴史でもありました。

村岡教授がその集会の夕べに夫人と共に出席させてもらってもいいかと尋ねて来られました。その夕べは私達オランダ人と村岡さんの家族にとって、「かつての敵同士が」あの戦争をともに憶うことができたという、素晴らしく豊かな経験をもたらしてくれました。未来を志向しつつ共に過去を振り返ったのでした。

その会でも私はこのヴィデオをお見せしました。日本政府の招待で、24人のグループが日本に行きました。私達の大部分の者は、日本の軍政をゆうに3年、身を もって経験いたしました。たとえば泰緬鉄道建設に狩出された元捕虜の方も二人いました。また大多数の方々は私と同じぐらいの年齢でした。この再びアジアに行く、しかも日本に行くということを決心をするというのは、24人一人一人にとって、決して容易なことではありませんでした。この、「はい、一緒に行きます」という答えを出すことは、すでに内心の葛藤に打勝ったことの表現でありました。たとえば私は日本にいたとき、再び移送されるので、たったの十五分で何一つ忘れないで自分の最後の荷物を纏めなければならないという夢を見ました。何かを忘れるということは、それを二度と手にできないということを意味してい ました。この最少の持ち物が、生き延びられるかどうかを決定するのです。母はこの悪夢を何度も見たのでした。

さて、このヴィデオは、無力感、圧迫感、痛みなどが実にうまく造形されているデン・ハーグの東インド記念碑から始まります。そこから私達の日本への旅行が始まったのです。私たちが水巻、長崎、広島を回った様子をご覧ください。

水巻では、日本人と一緒に、十字架の記念碑のところで、追悼式に参加しました。この記念碑には、戦争中日本で捕虜として亡くなられた871名のオランダ人の名 前が彫られています。この水巻の十字架記念碑がオランダの犠牲者のために建てられ、水巻市が心を込めて世話をしてくれていることをそのとき初めて知った人 たちが私達の一行のなかにはいました。

日本でのこの追悼式に日本人と共に出席させてもらえたことと、またそこに日本の青少年達が深く係わっていることを見たことは、殊更思い出に残っています。この子供達が日本の演じた役割に気がつくようになるだろうか、それとも日本は自分の歴史を隠し続けるのだろうか、と考えました。

長崎では、爆心地、原子爆弾が落ちた場所に建っている黙想の場(被爆者追悼平和祈念館)を訪れました。何の罪もなく命を奪われた長崎の一般市民の方々のために 黙想し追悼しました。私達は花輪を捧げ、日本の平和の象徴である折鶴を記念碑のところに捧げました。そして広島でも同じようにしたのです。

私達のグループは日本で二つの学校を訪れました。ある小学校で私達は一人ずつ日本の子供たちに手をとられ体育館に行き、そこで子供達が歌う元気のいい歌を聴き ました。それは、実に感動的な体験でした。60年前の私達は、ちょうどこの子達と同じぐらいの年齢でした。その時私達は抑留され、餓え死にしましたが、今この子達は自由の中で幸せに暮らしているのです。

午後は中学校を訪問し、そこの学校のバンドがオランダ国歌を演奏してくれました。日本の若者が演奏するヴィルヘルムス(オランダ国歌)は、感動的でした。この子達は水巻の追悼式でも私達と一緒に記念と思索の時を共にしました。このようにして、この子達はほかの国の人々の苦しみに目を向けるよう促され、またこのことを通してお互いに対する尊敬と敬意と寛大さを土台として、未来を築いていきたいという思いを抱けるようになるのです。

皆様はもしかしたら8月6日に行われた広島での追悼行事をテレビでご覧になったかもしれません。私はこれを見て、日本が現在、核兵器が使われたことをヨーロッパで600万人のユダヤ人が強制収容所で殺されたナチスドイツの恐怖と同列に置くことに対して憤慨しました。日本は世界平和の大使になりたいと願っている ようですが、自分達がアジアで第二次世界大戦を始めたと言うことを一貫して忘れています。小泉首相が先月、日本の始めた侵略戦争は忘れて、大戦中戦死した 250万人の日本兵が祀られている靖国神社に五度目の公式参拝をしたことにそういう姿勢が現れています。そこに祀られているうちの14人は戦犯として処刑された人たちです。このようなことは、人間として普遍的な「記憶」の重要性が否認されるゆえに起こるのです。過去から何も学び取らないで、私自身が広島で 聞いたように、相手、つまりアメリカに責任を転嫁するのです。私達、日本軍がつくった抑留所での犠牲者は、日本で十三万人もの市民が原子爆弾によって死なれたことを恐ろしいことだと思います。しかしもしこの戦争がもっと長引いていたら、もっとたくさんの命が残酷な戦争の犠牲になっていたことでしょう。

日本の若者達に「私達、原弾の被害者」という感覚を植えつけることは、全体的な「忘却」となり、この世代を捕囚へと導くのです。自分達の過去について無知であっては、近代国家に必要な成熟度をもって未来を目指すことはできないのです。

私たちがここウーストへーストで、皆さんとこの過去について話し合うことができるのは一歩前進です。

[訳:タンゲナ鈴木由香里]

2、 私の父の不思議な軌跡とその意義(ビデオ上映) | E.W.  リンダイヤ

ジャワ海における海戦(1942年2月)につづいて、一名カリジャチ戦とも呼ばれ、日蘭最後の軍事的対決であったバンドンをめぐる戦闘が行われました。いずれにおいても、日本側は決定的な勝利をおさめ、蘭領東インドは’42年3月に降伏し、日本によって占領され、蘭印軍 (KNIL)は捕虜となって姿を消しました。

赤十字衛生兵としてバンドン戦に参加した父は第15大隊のバンドン捕虜としてチクダパテウ収容所に収容されました。そこは、私達、つまり、妻と4人の子供が’42年 12月に抑留されたチハッピトのすぐ近くでした。父は、これより2ヶ月以上前に、東京の北東約750キロの地点にある岩手県釜石の製鉄所とその近郊の大橋の鉱山への海上輸送の途中にありました。

厳重に禁じられていたに拘わらず、父はまだチクダパテウにいた時から妻子に宛てた手紙という形の日記を42年5月からつけはじめました。英語で epistolary diary (書簡体日記)と呼ばれるものです。これによって父は精神的にもちこたえることができました。この手紙は、実際に投函することはできませんでした。後日、 家族と一緒に過去の体験について一緒に考え、思索するための資料として集め、ためていたのでした。より良い未来をつくり出すために戦時中のことを記憶に刻み、決して忘れないためでした。

妻を同伴し、日記の原文全部をたずさえて、高鳴る胸をおさえながら日本を訪れたのはやっと’95年になってからでした。日本でお会いした人たちはこの日記に驚愕し、私達に対してありとあらゆる質問が発せられました。和訳したいからということで、釜石市長自らの要望により日記の全文のコピーもできました。しかし、予算の都合がつかず、結局はオランダで自費でやることとなり、村岡先生を監訳者として、何人かの人で手分けして翻訳し、早くも2000年には東京のみすず書房から出版の運びとなりました。日記とそれに附随する戦時中の写真をも含めて、私達の釜石訪問のことはいくつかの新聞でも書き立てられ、すぐさまいろいろな方面からの反響がありました。私達と現地の人たちとの間には予想もしなかった友情が生まれ、その後、私達は釜石市、そこの市役所、博物館、民族博物館、教育委員会、また市内の多くの学校をたびたび訪問することになりました。ことに、釜石第二中学校は、市の民族博物館と教育委員会の協賛を得て日記の構成劇を作成、発表しました。

これから上映致しますDVDから、日本のテレビがこの日記のことをどのように取り上げたか、また2000年、2001年の私どもの釜石訪問の様子を御覧になっていただきましょう。

[訳:村岡崇光]

3、 過去を通って未来へ向かう旅(ビデオ上映) | アドリ・リンダイヤ − ヴァン・デル・バーン

私達がいくつかの学校を訪問した後、そこの生徒さんたちから心のほんのりとするような反応を受け取りました。釜石第二中の森本先生が転送して下さった生徒達の反応の中に、たとえば次のようなものがありました:「あなたのお話を伺った時、これは他の人たちにも話さなければ、と思いました。成人して子供が出来たら、子供達にもあなたの考えを話してやります。日本国内にも捕虜が抑留されていたとは知りませんでした。日本人は戦時中やったことについて許しを乞わなければならない、と考えます。」

去年の10月24日に釜石第二中の生徒達が製作、演出した構成劇の一部をこれからお目にかけます。この文化祭の作品はどのようにして生まれ、何が狙いだったのでしょうか?

釜石では毎年、1945年7、8月の同市への艦砲射撃の追悼式が行われます。

昨年、学校では「ふるさとをみつめて:戦争の記憶と平和へのシナリオ。ふるさとの歴史に学ぶ」というテーマで文化祭をやりました。

そのために生徒達はいろんな人と面接をしました。4、5人単位で12のグループで艦砲射撃を生き延びた人たちや、中国、大平洋等に出征した人たちに会いに出かけました。また、2000年に日本で出版になったE.W. Lindeijerの日記から捕虜達の毎日の生活について読みました。捕虜達は釜石の近郊、大橋にあった鉄鉱山と釜石市内の製鉄所で働かされました。この製鉄所が艦砲射撃の標的だったのです。俘虜収容所には蘭領東インド出身のオランダ人のほか、中国人、アメリカ人、オーストラリア人もいました。

この学習を通して、生徒達は非人道的な海上輸送、家族を引き裂く戦争の残虐性を学びました。

生徒の大多数はじぶんの家族の中に犠牲者のあったことは知っていましたが、日本がこの戦争でどういう役を果たしたかは知りませんでした。文化祭は専ら生徒達が 自主的に企画実施し、教師は傍役を務めました。文化祭には、戦争を生き延びた人たち、またその他の釜石市民も参加しました。戦時中は欧米の歌を唄うことは御法度でしたが、「ローレライ」は密かに、しかし力強く唄われました。

文化祭は生徒達、その家族に深い感銘を及ぼし、そのことは後日わたくしたちのところに送られてきた手紙からも読み取られます。一つだけ引用しますと:

「戦争中日本が蒙った被害や苦労については私も以前本で読んだことがありましたが、日本が他の国々でしでかしたことについては無知でした。それを知った時、わたくしはとても恥ずかしく思いました。戦争が人間にどういう影響を与えるかがリンダイヤさんの日記を読んで分かりました。奥さんの遺書には、ふつうならば当然あってよいと思えるような日本人への憎悪の影はなく、あるのはあとに残す夫と子供達への心遣いだけです。御長男は私達の学校に何度か来られ、長いこと日本人を憎んでいたことに対する許しを乞われました。そういう姿勢は民族や国家の壁を超えるもので、これによって相互理解が深まり、平和と安全の土台をなすものです」。

[訳:村岡崇光]

4、 自由の身となった盆栽っ子 | K. ベーレンス

はじめに

今日の話の題に出て来る「盆栽」は日本人の方は皆さん御存知です。小さい鉢に閉じ込められていますから、下へ根がどんどん伸びて、また枝が四方に思う存分広がって、木が成長するために、上の方へ、光を求めて大きくなることが出来ません。若い時の一時期を壁や、鉄条網に囲まれた身動きもままならないような檻のようなところに閉じ込められて、いつも腹を空かし、強迫観念に捕われて過ごした子供は自分の根が成長するのにふさわしい土壌を欠いていたのです。彼等の根はちぢこまって、小さい鉢に閉じ込められたままだったのです。この矮小な木は、森のなかのほかの大樹の間にまざって、大地、太陽、風、雨の恩恵に浴することが出来なかったのです。幽閉されたままの孤独な存在で す。まるで、変わり者のように皆が眺めるのです。元のおおきな親木に接がれると光の方へ向かって、普通の木のように精一杯に成長できるのです。

戦争後遺症の処理

私のお話は個人的な体験に基づいていますので、一人称形でお話することにします。

私は1942年から45年まで、日本軍政下の元蘭領東インドの抑留所に閉じ込められて5歳から8歳までを送りました。その当時、恐怖感、無力感、孤独、捨てられてしまった、という感じ、絶望、言語に絶する悲しみ、やり場のない怒り、脅迫観念、死に対する不安、権力や暴力に対する不安、愛に対する渇望、無責任な大人たち、抑圧された若さの発露、神に対する不信感、抑圧された反抗心などが子供の私の内心に潜んでいました。

こういった、言葉にならない感情を私は処理することが出来ず、意識下に「安全に、そっと」しまっておかれたのでした。波瀾に富んだ50年が過ぎたところで、はち切れるばかりに詰まったこの箱にひびが入って、この感情がどっと噴き出したのです。半世紀経ってから、8歳の時にあの抑留所の門のところに置いてきたと 思った少女の暗い恐怖、悪夢、脅迫感に直面することになりました。幸福そのものの、お茶目な、明るい、自由闊達な少女でもなかった私は、あの時の少女とは もうすっかり縁が切れていた、と思っていました。それどころか、私は心配性の、ずるがしこい、計算高い、また見てくれもあまりぱっとしない子供だったよう に記憶していました。そういう子供時代を悲しむべき理由はなにもなかったのです。

自分が完全に駄目になってしまって、結局アムスフォールトのシナイセンターに御厄介になることになりました。ここは、ウーフストヘーストのセンターとおな じく、戦争後遺症に悩む人の治療をしています。私は、蘭領東インドの日本軍抑留所で子供として生き延びた人たち8人と一緒のグループに入れられ、通院療養となりました。

私が受けた精神療法は3部からなっていました。
与えられた課題あるいは自分で自由に選んだ課題に応じて絵を描いたり、模型を造ったり、コラージュをしたり、作文をしたり
劇や芝居
精神療法、つまり、自宅あるいはセンターで強く感じられたことをグループで話し合う。
はじめの二つの部分では、意識下の感情を絵画や体の運動を通して表現し、討論しました。体で感じたり、処理したりということはうまく行かないことが多かったでした。シナイ・センターを午後おそく出る時、激しい恐怖感に襲われることがしばしばありました。私の感情は爆発しそうで、どうしていいか分からず、だれか自分のことを分かってくれ、愛をもって受け止めてくれる人に寄り掛かりたいというのが唯一の願いでした。この時期に、私は、なにも聞かずにいつも優しく私を迎えてくれた一番下の息子のところに慰めを求めました。

治療を受けるようになって一年半、これではもう良くなりそうにない、悪くすると、回復の可能性もあまりない治療法にはまり込んでしまうかも知れない、と思えてきました。これでは正常の生活には戻れそうにありませんでした。依然として、そうとうにひどい鬱状態に落ち込むことがしばしばあったのです。

憂鬱になるととても心配になります。現実世界がすっかり遠のいていってしまいます。なにかガラスの覆いをかぶせられ、外界から完全に遮断され、外で何かが起こっていることは分かるけど、なんにも感じられないのです。たとえば、夏の太陽が照っています。それが見えはするのですが、暗黒だけが感じられ、ひんやりとするのです。また、人とのつながりも感じられません。人間は脅威とすら感じられ、人の集まるところ、商店街、通り、バス、汽車などが恐くなります。心身共に恒常的な恐怖と不安につつまれます。身体は、まるで落雷にあったようになります。理性は麻痺し、身体の運動も鈍ります。入浴、着替え、料理、コーヒー をたてるなど簡単な動きすら出来なくなります。

治療に通っていた時、しばしば摩擦、衝突が起こり、そういうときは指導員と個別にあるいはグループで話し合いました。「解決策」なるものが提示されるのです が、気持ちのしこりは残りました。これでは、この種の深刻な問題の処理には欠かせない安心感と分かってもらえるという気持ちが生まれないのでした。二人の人を例外として、誰に対しても一体感、暖かい情愛を感じることが出来ず、砂のようにパラパラと散ってしまう関係でした。大多数は普通の職場に復帰することは出来ませんでした。

今になってあの時期のことを振り返ってみますと、あの療法の最大の弱点は、自分で責任をもつ必要を自覚する、過去を処理するための自分自身の努力の必要に気づかされなかったことでした。シナイ・センターのような外からの助けは最初の一歩でしたが、つぎは呼吸法でした。その講習を通して、回復への鍵は、かつて体験した身体的、精神的なショックを一切、呼吸を通して感じ、それからそれを受け止め、取り込むことだということが分かってきました。怒りや敵対感情を吐き出すことによってこれに自分がまた悩まされることがなくなることが分かりました。

私の生い立ち

私は1938年アムステルダム生まれです。戸籍上の父は私の実父ではありません。母は、夫と正式に離婚していなかったのですが、戦雲たちこめるなか、その時もう蘭領東インドに行っていた父のあとを追うことにしました。両親共にドイツ人でしたから、その子である私も同じです。航海の途中で開戦になったため、旅行は大分混乱し、途中で敵性国人として英軍に下船を命ぜられ、すったもんだののち、やっと航海の継続を許可されました。これが、私が戦争というものを体験した最初でした。当時の蘭領東インドでは同棲などは前代未聞でしたから、母は、一年ぐらいかかってやっと正式に離婚し、結婚して父と一緒になることが出来ました。「ドイツ人」という烙印は私達についてまわり、あまり沢山の友人は出来ませんでした。それからまもなくして、1942年に蘭領東インドは日本軍によっ て占領され、父は捕虜となりました。私の4歳の誕生日の数日前のことでした。そのあと、父の姿は二度程短時間見たことがあります。私の誕生日の翌日、母は、父のはいっている捕虜の一団が別な収容所へ移されるために町を歩かされるらしい、ということをどこからか聞きつけてきました。私達はその通路に立っていました。銃剣を帯びた日本兵の鼻の先で、持ってきた誕生日のケーキを一切れと、パンを一枚黙って渡すことが出来ました。父はなにやらみすぼらしい格好を していました。最後に父と会ったのは収容所でした。そこの医者がまだ「外来」の手術をしていましたので、父が中庭でちょっと休憩しているのを垣間見るために、扁桃腺を切ってもらったのです。あんなに爽快な、ハンサムな父だったのに、その面影は何処にもありませんでした。

私達の生活はすっかり狂ってしまいました。密かに届けられた手紙で、父は、母がドイツ人であることを意識して、できるだけ長く抑留所に入らないよう工作するこ とを指示しました。婦女子はたいがい、現金がしばしば尽きて、外は安全でなくなってきたので、区切られた住居区へ自発的に移りましたが、そこはそのうち収容所になりました。外に残っていると、近所が危なくなってきた場合、夜間に何度も密かに引っ越ししなくてはなりませんでした。母は私達にインドネシア人式の洋服を着せて、中国人の友人が準備してくれた馬車に乗って家財道具を移しました。

抑留所に入る前の最後に住んだの家には、子供の二人いる別な御婦人とスイス人の用心番が一緒でした。私達のまわりには、日本人の将校達が多数いて、酔っていたり、しらふのこともありましたが、しょっちゅう出入りしていました。こういう状態はもう我慢が出来なくなり、そのうち収容所へ移されました。幸運にも近所にハイデルベルグとオックスフォードに遊学したこともあるという貴公子然とした高級海軍将校が引っ越して来て、かれはバタビアの博物館の担当で、いろんな書類を翻訳してもらう必要があり、その仕事を母が引き受け、その収入で日用品が買えるようになりました。

この男性は、対米戦では日本は勝ち目はないと思う、と母に語りました。彼は、できる範囲で私達を保護してくれ、私達が別なところへ移された時は、私達の家具に気をつけていてくれることになっていました。終戦になって、なんとも形容しようのない混乱のさなかで、彼から私達の家具の目録の入った手紙が届き、これからは英国人に預ける、と書いてありました。でも、その後、なにひとつ戻って来ませんでした。それからしばらくして、抑留所入りとなったのですが、クラマット、グロゴル、ジデンという三つの抑留所をたらいまわしでした。いずれもバタビア市内、市外にありましたが。ともかく、そういう抑留所生活が子供にど ういう影響を与えるかは説明しにくいのです。5歳の子供が一夜にしてしたたかな小母さんに変貌し、この世にただひとり残った人間である母親の世話をする責任があると感じるようになったのです。

子供の世界は消滅しました。母は、「自分の手足、自分の頭だけが頼り。ほかの何ものにも、誰をも頼りにしないこと」とわたくしに言い聞かせました。神様の入る余地はありませんでした。1914ー18年の子供としての体験で、神様はおられない世界に母は住んでいたのです。父は1944年9月、スマトラの密林を ぬって敷設されつつあった鉄道工事に向かう途中の輸送船「巡洋丸」が連合軍の艦隊の魚雷を受けて沈没し、その時死んだ6000人の一人となりました。

三つの収容所の所長はいずれも曽根という名の、残忍な、意地悪い男で、私達に非人道的な刑罰を科しました。夜間でも点呼をかけ、最小限の食事すらもらえません でしたが、そのときすばらしいことが起こりました。二番目の抑留所では、子供達はゴミ箱を外へ運び出す仕事をさせられました。ゴミ箱は私達子供が二人で棒 でかつぎました。私達は警備兵のいる門を二つ通過し、それからゴミ箱をおろして、お辞儀をしなければなりませんでした。二つの門の間に曽根の住居があっ て、私達が近付きますと、外へ出て来て、中へ入るよう私に指で合図しました。母は私が見えるぐらいのところにいて、ほかの婦人達と稲を植えていました。一部始終を見た母は金切り声をあげました。私は下を俯いて曽根に近付きました。中へ引っ込んだと思うと、バナナを二本持って出て来ました。彼は近寄って、私の髪を撫でて、私にバナナを渡しました。あのときの光景は私の網膜にいまも焼き付いています。

今年の夏、8月17日ブロンベークでの戦没者追悼式に出席した時、あれから60年目のその日、最初に死刑を宣告された一人であった曽根がその純粋な信仰ゆえに皆に知られ、また愛されていた修道女に死刑執行の時に立ち会ってくれるよう頼んだ、ということを聞きました。最後には悟ったのでしょう。

1945年8月、第二の原爆が長崎に投下された後、日本は降伏しました。しかし、私達にとっては、ベルシアップという名の新しい戦争が始まりました。インドネシア人がオランダ人に対してゲリラ戦をしかけてきたのです。そのため、抑留所から出ることは出来ず、外へ出ようものなら死は確実でした。反乱軍(ペロッポル ス)から首をはねられるか、槍で刺され、八つ裂きにされること必定でした。オランダ軍はまだ到着しておらず、英国は主としてシック兵から成る部隊を派遣し ました。しかし、ゲリラの攻撃から私達を守るにはものの数ではありませんでした。それがために、かつての日本人の警備員が私達の新しい警備員となりました。抑留所内の状況は、まえより食料事情が改善された以外は同じでした。以前と同じように、狭い部屋に8人一緒に床に寝ました。出口は窓からでした。母は こういう状況にすぐ嫌気がさして、英国人将校の助けを得て、町外れにあった、なにもかも略奪された一軒家を占拠しました。戦時下での新しい生活が始まりま した。こんどはインドネシアの対オランダ独立戦争に巻き込まれたわけです。

これは私、戦争っ子に何を意味したでしょうか? 私は、他人に対する憎しみを植え付けられることがなかったのは、幸いでした。抑留所の入り口に座って、からだの でっかい大人たちが殴り合うのをみて呆れたことを思い出します。彼等に対しては尊敬の気持ちがおこりませんでした。たしかに、自分の判断を大事にするこ と、自分の手足を頼み、どういう場合にも自分で身を守る必要があることをそのころ覚えたように思います。

また、他人が困っていたら世話をすること、ときには自分のことすら忘れてでもそうするべきことを学びました。いまでもよく落ち込むことがあります。ひとから見放されるのではないかという不安感に襲われるのです。母は戦争が終わる頃にはもう諦めていました。大病にかかっていて、もうファイトをなくしていまし た。母はやっと死の直前にそのことを認めましたが、私はだいぶ前から直覚的に知っていました。この世界にたった一人になるということが私の最大の不安でし た。父が航海中に死んだ夜、私達はどちらもその夢を見ましたから、もう全部分かっていました。

取り込み呼吸療法と内的対話療法で私が経験したことを振り返ってみますと、3年に及ぶこの期間に私が体験したことを具体的な例をもとに説明するのが良いのではないかと思います。

そういう療法の最中に首と背中に激痛を覚えたことが何度かありました。痛いところへ向けて呼吸をしていきますと、ものすごい怒りの感情が噴き出し、私がその時どこにいるかが分かりました。点呼で立たされていたのです。日本軍の抑留所では一日に二度点呼があり、時には余分にあることもありました。しばしば焼け付 くような太陽の下に、場合によっては深夜まで、天皇に対する服従と敬意のしるしだとして深々と頭を下げたまま立たされました。ひっきりなしに命令を怒鳴ら れ、ちょっとでも私達が間違おうものなら、母親たちが叩かれたり、蹴られたりの罰を受けることが分かっていましたので、言われる通りにしました。

その治療の時とき私が感じた怒りは、他の母親と同じように、怒鳴り散らすあの小柄の日本人たちに対して私を守ってくれなかった母に向けられていました。その最初の怒りの感情に続いて、反抗心が表面に現れました。だれにだって、なんにだってもう二度と頭なんかさげてやるものか、という反抗心でした。そのあと、囁き聲ひとつたてられない、どうしようにもない、押し殺すような悲しみの感情が来ました。

こういった感情を取り込む度に、安堵と開放感を味わいました。これは長期にわたる治療です。

呼吸療法をやっている人たちはこれを玉葱になぞらえます。一皮、一皮とむいていってつらい感情が取り込まれ、最後には、もはや脅迫感を伴わない、完全な、自分自身の一部となるのです。

解放された、受け入れられた、というこの感覚を精神療法ではこれほど強烈に体験したことはありません。

内的声による療法を通じて、私は、ひどくいためつけられ、恐怖心にみち、母親の姿を一人で寂しく感じようとしている自分の内側の悲しい子供を認めてやらなかっ たのだ、ということに気付きました。いわゆる「戦争を生き延びた子供」の場合は、抑圧され、認めてもらえず、だれからも見捨てられたこの内的子供が大きな 役割を果たします。

「子供であって良い」という気持ちが頭をもちあげると、すぐその芽を摘まれたのでした。戦争っ子は大人のように行動し、考えるようになります。思いっきり遊ぶ などはもってのほかでした。自分の近くにいる母親、兄弟などに対する強烈な責任感をもつようになります。毎日が、ただ生き延びることだけに収斂します。かつて抑留所で子供時代を過ごした者の心理療法ではこういった面がはっきり表面に出て来ました。たった一つの例外もなく、こういった子供は自分を雁字搦めに縛り付ける親の安全に対する責任感を覚えるのでした。

現在の私

今年の春、私は初めて日本で一週間を過ごしました。人間の全人的幸福を目指す日本の企業に勤めているのです。会社創立30周年記念で、費用一切会社もちで、日本で日本人を識る絶好の機会でした。

私が体験したことはよかった、と評価しています。戦争中の体験とは全く対照的に、親切で立派な方々に沢山お会いしました。オーストラリアにいる娘はアジアからの学生のホームステイに自宅を解放していますが、なかでも日本人学生は私達母娘が一番歓迎する相手です。娘のところを訪ねますと、わたしはたちどころに彼等の「おばあちゃん」として迎えられ、沢山のお土産の山に埋もれるのです。でも、かれらに私の昔のことは話したことはありません。娘も私もこの兄弟愛の姿勢をもとに関係を構築していくつもりです。世界のどこかで厳しい戦闘があったりすると、テレビを観ることがあります。そういう時一番犠牲になるのは子供です。自分のことを振り返りながら、そのような傷はなかなか癒えないものだ、と思うのです。そのような傷跡を、苦しみの跡を思い出しながら、どんなにささや かであっても、世界から戦争をなくすための努力をすべきではないでしょうか。

暴力によって問題が解決されたことはありません。逆に、愛は奇跡を実現します。

最後になりましたが、日本を訪ねた時、あるお寺で、大きく成長した盆栽を見ました。しっかりと母なる大地に根をおろし、普通の木のように大きくこそありませんでしたが、何世紀もの風雪に耐えて来たのです。

この盆栽っ子も、初めは大変でしたが、母なる大地に足場を見い出し、起き上がりこぶしよろしく、未来に挑戦しようと心に決めて成長を続けています。

エリ・ウィーゼルが言った通りです:

『我 々が過去のことを記憶に刻みとどめる限り、望みがある。我々にとって、記憶は、我々ひとりひとりのうちに生き続けて、過去を解き放ち、過去とは違った、新 しい、愛と平和に満ちた未来へと発展していくことを可能ならしめる原動力である。しかし、我々が過去を忘れたならば、我々自身を忘れたことになるのであ る』。

[訳:村岡崇光]

5、 閉会の辞 | C.E. ミヒルセン – バルヨン

(彼女の著書「Alles in orde — 不寝番、異常ありません」は、オンラインで注文できます。)

戦争が終わってから45年間は、過去を振り返るということはただの一度もありませんでした。新しい環境のなかで自分の場をつくり出すのに精一杯でした。1992年、親族のなかから二人が他界した時、始めてあたらしい方向が見えてきました。寂しさのなかから突如として過去が私の前に立ちはだかり、最後の婦女子抑留所時代の忠実な同労者たちに対する懐かしさが込み上げてきて、広告を出したところ12人の方たちと再会することが出来ました。非常に感動的な出来事でした。そのうち私達の抑留所のことが次第に一般の注目を浴びるようになり、当時のいろいろな思い出の品や文書等の展示がライデンで開催されました。三週間の間に200人あまりの人がその展示会を訪ねられ、抑留所時代の他の人たちとも再会が出来ました。とたんに元気づいて、毎夏二度にわたって12人ずつのご婦人達を拙宅に招待しました。抑留所時代には、台所の責任者でありながら出来なかったのですが、今度はみなさんにフルコースの食事を振る舞うことが出来ました。抑留所時代に、なにも分からないまま、しょっちゅうのようにあちこちこづきまわされ、日照りのなかを歩かされ、場合によっては4、5ケ所の抑留所へ汽車で移動させられた4歳から7歳までの子供達がいちばん気が滅入っていたということが次第にはっきりしてきて、当時のことがもっとはっきり分かるように、あの頃のことを本にしてみてはどうか、と頼まれるよう になりました。いろんな人の援助を得ながら、一年半ばかりで「不寝番異常ありません」という副題の本を書き上げました。1997年に豪勢な出版記念会が行われました。それ以来、毎年、最初は拙宅で、過去7年間はアルネムのブロンベークで毎年「同窓会」をしてきました。先月、高齢のために最後の集まりをして皆さんとつらいお別れをしました。「わが子」を手放すのはほんとうに辛いことでしたが、その時みなさんから頂戴し、毎日つけている金の腕輪に彼女達の想いがこめられています。そのことは彼女達も知っています。

少し前の話になりますが、私は1998年、私の本が出版された一年後に日本政府の招待で元オランダ人日本軍捕虜の団体EKNJの会員と日本を訪ねました。私がいた抑留所の安達所長はすでに物故しておられることが判明しましたが、その遺族は全員出迎えに来て下さいました。行った先々で、市長さん、町長さんから大 変な歓迎を受けました。いろいろな学校をもふくめて、いろんなところへ連れて行って下さいました。生徒達と昼食をしたことも楽しい思い出です。皆さん積極的に迎えて下さり、盛り沢山の旅程でした。長崎、広島では原爆犠牲者のために花輪を捧げました。駆け足旅行の感がありました。2000年に、日蘭修交 400年記念祭の一環として「江戸旅行」の計画が発表された時、今度は一介の旅行者として参加しましたが、以前にくらべると多少つつましやかな旅でした。 でも、前の時より冒険心も満足させられましたが、とても疲れました。臼杵に私達の皇太子ウィレム・アレクサンダー氏が船で到着された時のことは忘れられま せん。彼を一目見ようと押し掛けた女学生達には大もてだったようです。

もちろん、この二回にわたる訪日でお世話になった日本の方々の友情は忘れられません。向こうに行ってみて始めて、日本の方々も大変だったのだな、ということが分かりました。

私達が体験するいろんなことの間には因果関係があることがあります。村岡先生とその日蘭の知人達の貴いお働きを知るようになったことを言っているのです。皆さん英語が御達者で、しばしば完璧なオランダ語をお話になられます。自由に意見の交換のできるこの場にもわたくしは自分の居所を見つけたように思います。何かを共同でやっていこうという姿勢がどんなに大事であるかは、小グループの討論に参加していますとはっきり見えてきます。もう4年か5年ぐらいになるで しょうか、対話集会の準備会が拙宅で行われ、魅力的な村岡御夫妻とさらにお近づきになれましたが、90歳の年ではいかんせん、これ以上は皆さんを拙宅にお 招びすることはできませんが、ウーストヘーストには今後も出席したいと思います。この会合はとても大事なことですから。

[訳:村岡崇光]