天皇制再考

2001年11月17日 ネイケルク

プログラム

  1. 開会の辞
  2. 日本における皇室の位置について
  3. 書籍論評: ハーバート  P.ビックス著「ヒロヒトと近代的日本の誕生」及びジョン・ダワー著「 敗北をかみしめて、第2次世界大戦後の日本」
  4. オランダ公式訪問中の天皇皇后両陛下にお会いして(2000年5月23日)

1、 開会の辞  |  P.スロルス

(原稿なし)

2、 日本における皇室の位置について  |  藤原広人

1. はじめに

本日は、日本における皇室および天皇の位置というテーマでお話し申し上げたいと思います。

去る6月に、村岡教授よりこのテーマについて何か話してもらえないかというお話があったとき、真っ先に私の心に浮かんだのは「これはとても大きな挑戦だな」ということでした。私はこれまでこのテーマについて話をしたことがある訳でもなく、とりたててこのテーマについて深く考えてきたわけでもありません。 加えてこのテーマの微妙な性格と複雑さが、一体上手に話ができるのだろうかという不安を呼びました。にもかかわらず、私はこのまたとないお話しをお引き受けすることにしました。天皇に関して語ることは、すなわち私自身のアイデンティティー、とりわけ日本人としてのアイデンティティーを語ることでもあると強 く感じたからです。私自身は、天皇を個人的に存じ上げている訳でもなければ、特別な思いをいだいている訳でもなく、ましてこれまで天皇を自覚的に私自身の 文化的アイデンティティーの一部として考えたことがあった訳でもなく、どうして私がこのような思いをいだいたのかは、当初わかりませんでした。しかし今回 の準備を通してはっきりしてきたのは、本人が好むと好まざるとにかかわらず、天皇に関する様々な事柄は、確かに私自身の文化的アイデンティティーの一部を成しているということでした。

2. 焦点および分析視角

これから私がいたしますお話は、明治期以降、すなわち1868年より現在に至るまでの期間に限定しています。日本の近代史は1868年をもって始まったと考えるのが、とりあえず妥当であると考えるからです。その理由については後述いたします。

私は、この期間をさらに二つの期間に分け、この二期間の比較を試みたいと思います。これらの二期間とはそれぞれ、1)1868年より1945年8月15日 までの期間、および2)1945年8月15日より現在に至るまでの期間です。多くの方々と同様、私も1945年8月15日が、日本の歴史上で明らかな転換 点であったと考えています。良く知られているように、1945年8月15日の日本の無条件降伏以降に起きた変化は巨大で、かつ社会のあらゆる局面におよぶ ものでした。そのためか、私が通っていた学校では、歴史の時間に「日本は8月15日をもって“生まれ変わった”」と教わりました。そして日本が戦後の荒廃 から、如何にしてたゆまぬ努力を続けて復興したのかということを教わりました。その際に強調されたのは、如何に戦前と戦後が異なるかということでした。こ うした中で、私は自分と戦前に関する事柄は何の関係もないのだと久しく思い込んでいました。

しかしながら、現在私はこうした(戦前と戦後を全く分けて考える)二分法は現実を過度に単純化するばかりでなく、戦前戦後を通して連続している事柄を見落 としてしまう危険性があると考えています。戦後日本に起こった、巨大な変化を過小評価するつもりは毛頭ありません。しかしながら日本人のアイデンティ ティーに関する限り、変化せず現在にいたるまで継続している「なにか」がある筈です。おそらくあらゆる社会において、比較的容易にかつ迅速に変化する部分 があると同時に、容易には変化しないまたは変化に時間を要する部分があるはずです。言い換えれば、社会の動的部分と静的部分の存在です。事柄の性質が社会 全体のアイデンティティーの核心に近ければ近いほど、容易には変化しないともいえると思います。

以上のような背景を踏まえて、今回のテーマに関して私は次の二つの問いを考えました。すななわち戦前と戦後で、1)何が変わり、2)何が変わらなかったのか、という点です。

私は今回、この問いに三つの観点からアプローチしてみたいと思います。まず初めに、戦前および戦後における天皇および皇室の法的な地位について法的分析を 試みたいと思います。この分析を通して、明治憲法および日本国憲法の間の「立憲君主制」に関する意味の、根本的な違いについて明らかにしたいと思います。

次に国内政治および外交における、天皇および皇室の役割について考察します。この分野について私は、さらなる調査および慎重な考察が必要であると感じてお り、現在の私の分析は全く不十分なものであることを認めざるを得ません。これは対象の複雑さもさることながら、私自身の能力のなさにも由来しています。

最後に、君主制に関する私の個人的見解を述べさせていただきたいと思います。

3. 法的地位

分析に入る前に、予備的考察として、日本の近代史に関して若干説明させていただきたいと思います。

先ほど、私は1868年を日本の近代史の始まりとらえていると申し上げました。1868年は、いわゆる「明治時代」が始まった年です。この年の前年、すな わち1867年に、徳川幕府に支配されていた封建制度が終わりを告げました。天皇はこれにともない、数百年間にわたる政治的権力からの不在状態を終え、国 全体の支配を回復しました(明治維新)。それまで天皇は、徳川幕府が置かれ、重要な政治的決定のほとんどがなされていた江戸(現在の東京)から数百キロ離 れた、日本の古都京都に居住していました。天皇は数百年にわたり、文化的象徴にすぎず、政治的に何ら積極的は役割を果たしてきませんでした。

明治時代といえば、日本の鎖国が解かれ、西洋の影響が一挙に日本に押し寄せたのもこの時期でした。

明治新政府は、できるだけ早く西洋に追い付こうと懸命の努力を行いました。こうした努力の一つが、「立憲君主制」の導入だったのです。

1889年、明治憲法(大日本帝国憲法)が発布されました。明治憲法は日本の史上初めて議会制度を取り入れました。1890年には、最初の帝国議会が招集されました。

政治制度の変化と並行して、社会的・経済的分野においても多くの変化が起こりました。1873年には、「学制」という新たな教育制度が導入されました。そ の結果、理論的には、6才以上のすべての国民は学校教育を受ける事が義務付けられました。急速な工業化は明治政府の最優先の国策となり、多くの製造業が政 府の強力な後押しを受けて生まれました。

明治時代は数々の好ましい変化をもたらしたにもかかわらず、同時に近代日本の方向を歪めることとなった時代でもありました。

まず第一に、天皇の神格性に関する神話が、天皇の権威を自らの政策の正当化に利用し、もって国内での支配権を確立したい明治政府により作り上げられました。明治憲法第3条は以下のように規定しています:「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」

第二に、この時代に、狂信的な国粋主義をともなった極端な軍国主義の萌芽が、しばしば過度に誇張された諸外国の脅威を背景に生まれました。

明治憲法下の天皇の地位

明治憲法の全72条中、あわせて17条が天皇および皇室の地位に関する規定です。このうち、第1条、第3条、第4条、第11条および第13条が天皇の地位 を規定しています。例えば第1条は以下のとおりです:「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。これは、天皇は日本の究極的な統治者であり、この限りに おいて政府といえども天皇に従属することを意味します。実際のところ、明治憲法は明治天皇が国民に“賜物”として贈ったものとされています。更に、明治憲 法第4条は、天皇は国の「元首」であり、「統治権(主権)ヲ総攪シ」と規定しています。

軍との関係では、第11条は天皇に陸海両軍の最高指揮権を与えており、もって天皇は軍の最高司令官(大元帥)とされています。

さらに第12条は、「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」と規定します。

これまでに述べた事をまとめると、明治憲法下天皇は、以下の最も重要な三つの国家の権能を所持していたことになります:1)元首、2)主権の源泉、および3)軍の最高司令官。

それでは、皇族の地位はどうだったのでしょうか。皇族を構成については、皇室典範に規定されていました。皇室典範は1868年明治憲法と同時に発令されま した。皇室典範によると、皇位の継承者は男子に限るとされています。皇室の構成員は合わせて九の位に分かれていました。これらの位のうち、上位の者は以下 の四名(およびその子)でした。すなわち1)皇后、2)天皇の第一男(皇太子)、3)皇太后、および4)親王および内親王。また天皇の兄弟は皇室の中で、 別の宮家を構成しました。宮家の数は時に応じて変化しました。内廷皇族の独立に伴い新しい宮家が創設される一方で、継嗣に恵まれず断絶する宮家もあるため です。1945年8月の時点で、合わせて14の宮家が存在していました。

経済および社会生活において、皇室の一員は数々の特権を享受していました。例えば、所有する土地、証券、債券、家屋などから得られる莫大な収入は無税でした。事実、皇室は戦前における最大の土地所有者でした。

新憲法における地位

新憲法(日本国憲法)は1946年11月3日に発布されました。103条にわたる全条文中、天皇および皇室の地位に関する条文はあわせて8条あります。このうち、特に第1条、第3条、第4条が天皇の地位に関する規定です。

まず第1条は次のように宣言します:「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。この規定に関し明治憲法と対照的なのは、次の二点です。

まず第一に、新憲法下で天皇は、「統治者」あるいは「元首」の代わりに、国家と国民の統合の「象徴」であるとされている点です。第二には「主権」は、天皇 ではなく国民に存するとしている点です。「象徴」という言葉の意味が不明確ではあるものの、はっきりしているのは、国の進路を決定するのは国民自身である という点です。

第3条は天皇の国事行為に関する権能を規定しています。この規定によると天皇によって行われるすべての国事行為は内閣の助言および承認を必要とするとされ ています。換言すると、天皇は内閣の承認なくしてはいかなる国事行為も行う事ができないことになります。この点はさらに、第4条で次のように確認されてい ます:「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」。

上に述べた諸規程から明らかなのは、新憲法の下で天皇は、実際の権力から遮断され、その役割は「象徴」に厳格に制限されているという点です。

皇室の地位に関しては、新皇室典範が1947年に制定されました。1945年8月の時点で14存在していた宮家は、3宮家に減じました。さらに皇室が所有していた広大な土地は国有地化されました。

4. 政治的地位

戦前・戦後の天皇の政治的地位に関する問題は、法的地位よりも更に議論が多い点です。これは、数々の重要な政治的事件の舞台裏で、天皇がどのように行動 し、何を語ったのかという点についていまだに明らかになっていない点が多いということが一因です。加えて、天皇自身が自らの政治的役割を語るということが ほとんど無いため、現時点で入手できる情報は側近達の日記など伝聞あるいは二次的資料に基づかざるを得ないためです。

こうした限界を踏まえながら、なおも私は天皇の戦前期における政治的役割は一般に信じられているよりも、はるかに積極的なものであったと考えています。先 ほど見ました通り、こうした積極的な天皇の役割は、明治憲法が実際に保障するところのものでした。もし仮に、天皇が単なる政府の道具にすぎず、すでに決定 された事柄を機械的に認証するだけの存在であったとするならば、それこそ明治憲法の精神に真っ向から矛盾するものであるといわざるを得ません。ハーバート P.ビックス氏の著書は、こうした見解を裏付ける多くの手掛かりを提供してくれます。

しかしながら他方において私は、日本の政治的史上きわめて重大な決定がなされた瞬間において(例えば侵略戦争遂行の決定)、もし天皇が政府の意見に異義を 唱えていたならば、(裕仁天皇の曾祖父がそうであったように)暗殺されたか、またはなんらかの形で取り除かれていたという可能性を否定しきれません。

これとは対照的に、戦後における天皇の政治的役割は確かに、実質的なものであるというよりは儀礼的なものであったと思います。この新たな地位に天皇御自身は満足でなかったかもしれませんが、これは新憲法が規定した天皇の新たな役割だったのです。

国内政治における天皇の役割が、新憲法下においては極めて限定されたものであった一方、国際関係における天皇の外交上の役割は、引き続き極めて重要なもの として残りました。例えば、現在でも日本に新たに着任した大使・公使を接受するのは天皇の役割です。各国の元首の日本訪問の際の公式な晩餐会は、天皇・皇 后によって催されます。さらに、海外訪問の際、天皇や皇室の一員が語る「おことば」は、計り知れない重要性を持っています。

5. 私の個人的見解

以下では、君主制に関する私の個人的な見解についてお話いたしたいと思います。この部分は次の二部から構成されています:1)君主制一般について、2)天皇とキリスト教。

君主制一般について

君主制の危険性について認識しつつも(戦前にみられたように)、私は現代の日本社会において君主制を維持することは、なお利点が多いと考えています。その 理由について述べる前に、まず私は個人としての天皇と君主制一般とを区別することの重要性を指摘したいと思います。これは換言すると、ある特定の天皇個人 の行為について問いを発することと、君主制一般の是非を評価することは別のことであるということです。私が君主制の利点という時は、後者の意味で用いてい ます。

君主制を維持することの利点として、かつて私はある本で以下のようなエピソードを読んだことがあります:

毎年春や秋になると、日本は多くの台風におそわれ、多くの被害を被ります。台風の第一報が報じられると、国会で会期中の政治家たちは、台風の進路が自分の 選挙区の上を通った場合の被害を想定して落ち着かなくなります。彼らはテレビのニュースを注意深くフォローし、選挙区の支援者に何度も電話をかけ、被害が ないかどうかをチェックします。しかし、台風の進路が自らの選挙区をはずれたことが明らかになると彼らは安堵し、おそらくは台風のこと自体を忘れてしまう でしょう。

しかしそうした中で、一人だけ、台風が日本に上陸した最初の瞬間から、それが完全に日本を離れ去る瞬間まで注意深く報道をフォローし続ける人がいます。それが天皇です。

私はこの話が実話であるか否か知りません。しかしいささか感傷的な、このエピソードは、君主の最も大切な機能の一つを言い表しているように思います。政治 家は本来自らを選出した選挙民の、または自らが所属する政党の意向に基本的に縛られます。同じ事が、首相にもあてはまると思います。首相自身がも元々同じ ように選挙によって選出されるからです。こうしたことを考える時、私は国内政治とは異なった次元にあるものとして、君主制を設けることは、国内の安定化を はかる上で意味のある事だと思います。

キリスト教と天皇

私自身はキリスト教徒です。その意味で、自らのキリスト教信仰と天皇システムおよびそれにまつわる様々な価値観とを如何にして調和させるかという点は非常 に大切な問題です。この点に関して、現在のところ私は決定的な答えを持っておりません。しかしながら、わたしがこの問題を考えるにあたって重要な手掛かり になると思われるいくつかの点を以下に述べたいと思います。

まず第一に、英語に言うところの“god”と日本語の「神」の意味の違いについて指摘したいと思います。戦前期において、天皇は「神」とされました。この 「神」という語は、英語において“god”と翻訳されました。しかしながら私見では、日本語の「神」という概念と、英語の“god”という概念には明らか なずれがあると思います。私のこれまで理解するところでは、「神」の本来の意味は、単に「上の(部分)」とか「源」といった意味であり、英語における “god”が示唆するような「全地の創造者にして、不死の存在」というような意味とは異なっています。例えば現在でも日本語において、川の上流を指す言葉 として、「川上(かわ−かみ)」という言葉を用います。この点に関して私はこれ以上の知識を持ち合わせないのですが、もし実際に「神」概念と“god”の 概念にずれがあるのであれば、この点を将来もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

第二に、近代日本史上、皇室は西洋キリスト教の影響を大きく受けてきたという点を指摘したいと思います。例えば、明治天皇の側近には外国人宣教師がいましたし、現在の天皇および皇太子も共に、熱心なクリスチャンの家庭教師によって教育を受けられています。

6. 結語

最後に、初めの問いに戻りたいと思います。すなわち戦前と戦後で何が変わり、何が変わらなかったのかという点についてです。

まず初めに何が変わったのかについてですが、以下の点を挙げたいと思います。まず第一に、天皇の法的地位は劇的に変化しました。戦後は、天皇の政治的影響力を制限し、弱めるために二重三重のチェック機能が設けられました。

人々の天皇に対する捉え方も大きく変化しました。1945年以降に生まれた者にとって、天皇が「神聖な」存在あるいは「現人神」であったことは一度のあり ませんでした。尊敬するべき存在ではありえても、狂信的な崇拝の対象ではありませんでした。例えば私の世代(1960年代半ばに生まれた)の天皇ないし君 主制に対する態度は、(もし無関心でないならば)極めてリラックスしたものでした。すなわち、特段の反発あるいはその逆に狂信的な崇拝に陥ることなく、君 主制を自然に受け入れていたと思います。心理的には皇室と一般の日本人との距離はいまだ大きなものがありますが、それも全く超えられないもの、とは捉えら れていないと思います。こうした背景には、現在の天皇および皇太子が一般の日本人から后を迎えられたという事も寄与していると思われます。

加えてマスメディアおよびコマーシャリズムが、皇室の非神話化に果たした役割も軽視できないと思います。例えば、皇室の高級なイメージは、しばしば商品の売り上げ促進のために、コマーシャリズムによって巧みに利用されています。

最後に、戦前と戦後で何が変わらなかったのかという点について述べたいと思います。この点に関して一つだけ指摘したいのは、戦前戦後を通じて、君主制が、 国内の安定化のための起動力として残ったということです。戦前期(1868年から1945年)において、君主の持つ権能が人為的に誇張され、間違った仕方 で濫用されたことはあったにせよ、戦前戦後を通じて、君主が国を安定化させるための“象徴”として機能し続けたことは否めない事実であると思います。そし て、これこそがまさに君主制の存在理由といえるのではないかと思うのです。

3、 書籍論評: ハーバート  P.ビックス著「ヒロヒトと近代的日本の誕生」及びジョン・ダワー著「 敗北をかみしめて、第2次世界大戦後の日本」 |  J. クワンテス

始めに

書籍論評を頼まれたとき、わたしはどういうことに取り掛かろうとし始めたのか、十分には理解していなかった。その書籍には破壊的な太平洋戦争の後の、灰と瓦礫の中から這い上がろうとする日本の近代化への歩みに関する、1200ページ以上にも及ぶ凝縮された情報が網羅されていた。

ダワーは戦後6年半にわたるアメリカ占領統治下における、国家の、天皇周囲の、国民一般、そしてさまざまな利害集団の感情、利害、憂慮、出来事、そして権力争を描いている。彼は 敗北者の目を通して執筆するよう試み、その序文にこう記している。「社会的文化的な発展状況と同時に、もっともつかみどころのない現象である大衆意識とい うものに焦点を置くことによって、わたしは日本人の敗戦者としての体験がどのように感じられたかを『内側から』捉えようと試みた。」 彼は日本人社会の声を聞くことによって、崩壊した世界でゼロからのやり直しということがどういう意味を持つのか、その感覚を掴もうと試みたのだ。

ビックスは昭和天皇の一生に焦点を置いている。彼は君主、そして人間としての天皇に影響を与えた形成期と思想を研究し、天皇の体験した悪夢のような22年間の戦争と占領下の時代を追い、そして彼の思考と行動様式を形成することになった影響力を取り扱っている。ビックスは彼の著書を4つの、容易に識別可能な時期に区分する。
皇太子時代のの教育(1901-1921): 昭和天皇の家族的背景、明治時代からの伝統と皇位即位への準備、そして現実社会との最初の直面。
善意の政治(1922-1930): 執政中の行政と大正デモクラシーの危機、愛国主義の増長、新しい君主制と‘政治に関わる君主’としての天皇の出現。
戦争(1931-1945): 満州事変、復活と鎮圧、中国との‘聖戦’、政策の行き詰まりとエスカレーション、真珠湾攻撃への序幕、最高司令としての試練、降伏の遅延。
詮議されなないままの人生(1945-1989): 天皇制の見直し、東京裁判、皇室の神秘の援護、平穏な時代と昭和の遺産。
ダワーは資料をビックスとは別な見方で研究した。彼は彼の著書を6章に分け、以下のようなテーマを扱っている:
勝者と敗者: 粉砕された人生、上からの変革、民主化と軍国主義の解体;
絶望を乗り越えて: 虚脱−疲労困ぱいと絶望、敗北の文化、社会的腐敗、独創的な文学活動の爆発的広がり;
変革:新植民地主義的改革(勝利者、代行者と専門家)、改革の受け入れ(占領軍総司令官、改革),改革の受け入れ(共産主義者、左翼勢力など、下からの改革);
民主主義: 君主制民主主義(主権者の純化、部分的天下り、人間宣言;責任の回避、退位拒否)、立憲民主主義(GHQの新憲法草案、国民側からの代案、占領 軍総令部が引き継ぐ、アメリカ草案の日本化、保守勢力の抵抗、戦争放棄)、検閲付き民主主義(新しい禁止事項の徹底的厳守の監視、幻しのお役所、検閲);
罪悪感: 勝利者の正義、敗北者の正義(東京裁判)、敗けたら犠牲者に何と言うのか?(責任、後悔、残虐行為に対する責任、犯罪者);
復興: 成長の計画、遂行(経済計画);
終章: 遺産、幻想、夢
独自性と安全性のために

日本は最高級のアジア大陸思考の絶え間ない影響にさらされてきた。さまざまな思想やと文化的遺産がインドや中国、そして韓国から持ち込まれた。仏教や儒 教、諸外国の言語、文化的な技術を受容し、取り込むのになんらの躊躇もなかった。火山の島々から成り立つこの国は地震や台風、その他の自然の猛烈な変化に 動ぜず、他に例を見ない生活様式や生き方、社会構造を発展させてきた。その中で自然現象、人間の心理、肉体、行動様式を操作する鍛練に焦点が置かれ、また それは強靭さを助長した。日本人は均衡性と調和に対する真の欲求を持ちそれを探求することに次いで、自然への感覚、観察力、そしてそこから何かを発見する という感覚を洗練し、それを発展させていった。西洋が接近するずっと以前に日本は独自の文明と主体性を創造していた。

西洋の勢力は、西欧思想、科学、日本的なものとは本質を異にする価値観や基準を紹介した。ポルトガル人とスペイン人の宣教師たちによって持ち込まれた西洋 の価値体系は、緻密に組織化された日本という国の指導者たちを苛立たせる結果になってしまった。最終的にはヨーロッパ内部の武力抗争が彼等の内心に不安感 を呼び覚まし、同時に潜在的な革命の風潮が芽ばえようとしていたまさにその頃、時の将軍徳川家康は鎖国政策を打ち立て、それはその後200年以上も続い た。彼の確信するところは、日本の文化と独自性は外からの圧力から永遠に守られなければならないということであった。ただ中国とオランダに対しての‘小さ な世界の窓’を長崎湾の一角に設置することが許された。

ようやく1853年、米海軍提督ペリーを乗せた4隻の黒塗りの軍艦がこの国を開国させた。悪夢のような体験は経済と封建制度の衰退と時期を同じくし、それ はその後の何年にもわたる革命的行動、政治的抗争、そして内戦の導火線となった。反幕府勢力の武装軍による陰謀が画策され、浪人たちや武装した小作民たち が国中を放浪し、結果的には長州および薩摩藩が西洋の軍事技術を用いてそれを勝利に導いた。若い武士たちで、徳川幕府の保守的な動きに反発する若い武士た ちは、事実天皇の名のもとにクーデターを実現させたのである。彼らは将軍政治と古い封建制度をおおかた崩壊させ、それは伝統的な基盤の上にまったく近代的 な社会を築き上げるための意図的行動であった。オーストリア−ドイツの帝国を模範とした君主制国家が導入され、1868年の明治維新が現実のものとなっ た。

他に例を見ない独自性を鎖国政策によって温存することはできないことを、同国は学んだ。自国の防衛と領域の安全性のため、急速な近代化が必要となった。そ の目標は強力な国家の建設であり、同時に世界大国のひとつにのし上がることだった。1880年代の日本で流行した歌があるが、その内容は次のようなもので ある。“世界の諸国家の間にはルールがある。だが、いざというときには、強者が弱者を食う。”

天皇、国家建設、そして改革の実施

日本国の天皇は個人名に加えて、彼らの君臨する時代の年号を定める。:

明治天皇は1852年に誕生、孝明天皇とその側室嘉子との間に生まれ、祐宮と命名される。成人の儀式のひとつで最初に執り行われる‘紐直(ひもなおし)’ は彼の9歳の年(1860年)に行われ、その時に彼は正式な皇室相続人かつ皇位継承者であることを宣言された。そして名を睦仁と改名される。1867年2 月、彼は神武天皇にまで溯る皇室122代目の天皇として即位し、年号を明治と定めた(1867-1912)。
嘉仁天皇は1879年に明治天皇とその側室愛子の間に生まれる。明治天皇の崩御後、大正天皇として即位(1912-1921)。
裕仁(以下昭和天皇)天皇は大正天皇と節子皇后の子息として誕生。1921年から1926年の間彼は父の代理として摂政政治を行う。大正天皇の崩御後、彼は天皇として即位し、年号を昭和と改める(1926-1989)。
明仁天皇は1933年に昭和天皇と良子皇后の間に誕生。彼は昭和天皇崩御後即位し、年号を平成とした(1989-現在)。

近代日本は明治時代から始まった。

昭和天皇は彼の祖父を非常に尊敬していた。彼も軍事にたいへん興味を持ち、また国事にも関与し、公的文書や報告書を受け取り、校閲をした。彼は君主制の存 続とその象徴的で神々しい任務を信じていた。両天皇は国政状況をよく把握していた。明治天皇は国家を近代化と自由化に導き、また新憲法の発布を行った。そ の憲法を天皇ヒロヒトはのちに必死に擁護しようとした。彼の祖父は厳格な最高司令官で、政務に実質的役割を果たした最初の現代的天皇でもあった。乃木大将 と共に彼は昭和天皇の最も偉大なる先達者であった。

明治天皇と昭和天皇は明(昭)るく照らされた(Enlightened)道を歩むことによって、国家と国民を善政、平和(Peace)と調和へと先導した かった。明治天皇はある意味でそれに成功したといえる。彼はまごうかたなき帝国主義戦争に二度挑み、戦勝に導いた(日清戦争1894-1895、日露戦争 1904-1905)。それは朝鮮半島を賭けた戦いであった。提督ペリーが日本に踏み込んできたことによって明らかになったことは、大陸と太平洋に緩衝地 帯を設けることが平和と保全を勝ち取りたい日本の欲求への論理的解決策だ、ということであった。明治天皇は偉大なる国際的権力者としての地位を獲得し、彼 の父から相続した国土よりもさらに広大なる帝国を残した。昭和天皇は彼の祖先に対して強い責任感をおぼえ、祖父の伝統を継承したいと願い、そしてそれが実 行にかかった。

朝鮮を統御し植民地化する目標は確実に遂行されていった。のちの満州と北支への進出は冒険的なものであったが、それは朝鮮の領域確保と日本の植民地政策を 確実なものにし、北部と東部の勢力を排除する意味があり、また新しい市場と供給資源の確保のためでもあった。領土拡大政策への強力な反対勢力によって、大 日本帝国は最終的にはその自らが起こした戦争に失敗するのである。

過度の拡大政策と敗北

満州事変(1931年)は結果的にロコウキョウ事件(1937年)を引き起こし、それに次いで日中戦争、さらには東南アジアと太平洋での戦争へと展開し た。“大東亜戦争”もしくは“太平洋戦争”は1945年8月15日に結末を見ることになる。大日本帝国が先頭に立つ他アジア諸国との連合体“大東亜共栄 圏”の建設の夢は悪夢に終わった。帝国陸軍と海軍は組織的にも技術的にもそして兵站学的にも手を伸ばしすぎてしまった。幾人かの指導者たちや陸軍のいくつ かの分派たちは最後の一兵に至るまで戦い抜く覚悟でいた。しかし民衆は疲労困憊しきっていた。焼夷弾、ポツダム宣言の要求、ソ連参戦、原爆投下、そして最 終的には天皇の降伏を報ずる玉音放送が国民を目覚めさせ、衝撃を与えた。

連合軍は無条件降伏を要求した。天皇とその政府は当初最後の勝利を得ることに執着していたが、その後戦略を変更し、降伏の決断の時期を延ばすことによっ て、その間にソ連に仲介を求めて条件のよい協定を結べるようにすることを狙った。天皇の第一に考えていたことは国体の擁護と温存であり、それは君主が国政 の中心に居続けることであった。最高戦争指導会議の6人の主要メンバーは意見の一致に達することができずにいた。鈴木(首相)、東郷(外相)、そして米内 (海軍)は連合軍の条件をすべて受諾し即刻の降伏をすることを提案した。一方阿南(陸軍大臣)と梅津、豊田(参謀総長)の3人は好条件を勝ち取るための交 渉をすべきだとし、さらには戦争継続まで提案した。結局結論を得られなかったため、鈴木は閣内の意見の不一致を陛下に詫び、再度聖断を仰いだ。“鶴の声” は御前会議に響き、そしてついに8月14日午前に降伏が決断された。死と破壊の44ヶ月ののちに太平洋戦争は終結した。これはこんなにも長く苦難を忍ばさ れた国民の総意であった。そして、その総意がこれからは別な方向に向けられることを、すべての人が望んだ。

ここからダワーは敗北し降伏した日本人の足取りを辿りはじめる。海外からの引き揚げ者、復員兵、食料や所持品、家族を捜し求める彼ら、完全に破壊しつくさ れた瓦礫の中から這い上がる民衆、彼はこのような日本人のぼろぼろになった生活を記録する。天皇は玉音放送で‘降伏や敗北’ということばを一切用いなかっ た。彼は“耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ”よう、臣民を激励した。さらに“戦争は日本(大日本帝国)の残存を確実なものにし、アジアの安定性をはか るために開始されたものである”とも述べた。連合軍の要求を受諾することによって戦争終結に及んだ彼はこのように宣言した。“自分の目的は何千もの未来の 世代のための偉大なる平和の道を開くためである”と。

降伏を禁止されていた兵士たちは屈辱をかみしめながら復員してきた。職はなく、多くは闇取引に関わり、また犯罪組織に荷担した。降伏文書はミズーリ号の甲 板上で、1945年9月2日に調印された。マッカーサー司令官は“信頼と理解の基盤の上に立ち、 人間の尊厳とその最も切なる願いである自由、寛容、そして正義のために貢献する、よりよい世界が出現することを全世界が切望している”と、語った。降伏の 条件は勝利者に、日本人を”奴隷的立場”から解放し自由にする任務を科した。その実現がはマッカーサーのこれからの課題であった。

日本再建:上からの民主化と民主主義の日本化

15年もの長期に渡る戦争の後、アメリカ軍は解放軍、死からの解放者として歓迎された。人々は深い安堵の念にひたった。ダワーは苦悩する人々のことばを借 りて、国民全体をおおった極度の疲労と絶望の虚脱状態を描写している。飢餓、疾病、不潔、混乱、貧困、そしてすべてのものの欠乏が蔓延していた。ある人々 は物々交換で日々の生活を支え、貴重品、家宝、着物や宝石類を食料と交換した。またある人々は薪用木材やさつまいもをごみの中から探し出しては命の糧にし ていた。食べ物のことがあらゆる会話の唯一の話題だった。不法闇取り引きの取り締まりが厳重に行われたにも関わらず、配給制がうまく機能しなかったため に、闇での売買が盛んに行われた。合衆国から輸入された小麦は多くの人々の生命を救った。

日本占領はアメリカにまかされた。マッカーサーは最高司令官として任務を遂行したが、そのアメリカ将軍にはいくつかの意図があった。彼の責務は日本を平和 国家として再建することであって、その点においては昭和天皇の意図するところと合致するものがあった。彼の選択した戦術は以下のようであった:天皇の地位 を君主として維持し、彼が戦犯として告訴されることを回避すること、日本を非軍事化し、上からの民主主義革命をはかり、同時に下からの左翼的民主改革の動 きを抑える、軍事裁判を執り行うことにより今後の戒めとする。

多くの人々はこれらの変革を‘自由への鍵’であり、それがアメリカの日本への贈り物だと感じた。市民の自由化を認めることによって、マッカーサーは民衆を 縛り付けていた鎖から解き離す手助けをした。天皇が国民の象徴として存続することは絶対に必要であった。天皇は連綿とつづく日本の文化と伝統の代表者であ り、彼こそが近代化と民主的で平和な日本再建の鍵を握る者であった。さらに天皇は日本の安定性を保証できる人物であり、主軸的存在でもあった。ただし、彼 は自らを浄化し、非神格化と人間化をはたさねばならない、とアメリカ人は考えた。

権威主義的ドイツ憲法を 模範とした古い明治憲法は英米国の伝統に則って書き改められねばならなかった。内閣は1945年10月、松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設立 した。同時にマッカーサーは近衛公爵にも憲法改正問題を検討するよう促した。この明治憲法をポツダム宣言に則って改正することは心理的に非常に困難である ことがのちにはっきりした。このためマッカーサーは政府には内密で、特別な占領軍総司令部チームを組織させ、1946年2月10日までの1週間以内に新し い民主的憲法の草案を作成させた。彼はその中に以下の3ヶ条の原則を織り込むことを指示した:

天皇は国の代表者である;彼の皇位継承権は世襲性に則ったものである;彼の義務と権力は憲法に則って行使されるものであり、彼はその条件下で国民の基本的意向の実現化に責任を負う。
主権国家としての武力の使用を放棄する。
日本の封建制度を廃止する。

占領軍総司令部の憲法草案が提示され、それが入念な検討され、満足のいく日本式の法案に書き改められたのち、日本国憲法は「民主主義の贈り物として国民に 差し出された’のであった。1947年5月3日のことであった。天皇はもはや神ではなく、日本国民統合の象徴と定められた。天皇は名誉の損失を免れ起訴さ れることはなかった。東京裁判の判決では7人が絞首刑に処せられた。ある者たちはこの裁判を‘見せしめのための裁判’とか‘基本的に白人の裁判’と表現し た。オランダのレリング(Ro¨ling)、インドのパール(Pal)両判事は反対意見を主張した者として最も記憶に残っている。レリング氏はこう自問し ているーー”世界の歴史上前例のない出来事に対する責任で、これら被告人達を有罪にすることが、なぜ法的に可能だったのか?”アメりカのソープ大佐はこの 裁判を‘無意味なお呪ない’だと呼び、同じくアメリカのウィロビィ大佐は‘人類史上最低の偽善行為’といった。

冷戦の開始、中国の共産化、朝鮮戦争の勃発を契機に、アメリカは日本占領政策を終結することにした。日本は1952年4月28日に独立を回復した。天皇51才の誕生日の一日前の出来事であった。日本はその本質を変えないまま、苦渋の敗北を生き延び、復興した。昭和天皇は次のような和歌を詠んだ:

「風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし 八重桜咲く 春となりけり」

[綿貫フイス葉子訳]

4、 オランダ公式訪問中の天皇皇后両陛下にお会いして(2000年5月23日) |  P. J. H.  ヨンクマン

この日蘭対話の会にて、上記のテーマでお話できます事をとても嬉しく思っております。 と申しますのは、世界の中で全く別の地域にありまた遠く離れた国で ありながら、400年もの関係を持っている日本とオランダの国の人々がお互いに対話を持つということが、非常に価値のある事と考えるからであります。

この講演の構成

まず天皇陛下との会見が どのように実現しどのような結果になったかをお話します。 その後に、この会見の中で私が特に気づいたいくつかのポイントを挙げます。 さらに、天皇陛下 が晩餐会でなさったスピーチの中から、特にインドネシアから引揚げてきたオランダ人に向けて語られたと思われる部分を引用します。 そして最後に、天皇陛 下と皇后陛下がオランダで果たされたお役割が、将来のご両人の公式外国訪問や日本社会に影響を与えるのだろうか、と皆様にご質問させていただきたいと思っ ております。

しかし、その前にまず、私が人生の中で経験しかつ本日お話する内容に関係すると思われる事柄を初めに述べさせていただきたいと思います。

個人的な背景

私がちょうど17才になっ たばかりの1942年の6月のことです。 私は、早朝突然日本軍の兵隊にジャカルタの強制収容所まで連行され、そこに閉じ込められました。 それは、その 後三年半に渡って続いた抑留生活の始まりでした。 この収容所生活から生きて帰ることが出来たのは、私にとって奇跡としか思えません。

戦後、レイデンで法律の 勉強をし、オランダの外務に携わるようになりました。 そこで二十九年間勤務し、在英大使としての職が最後の仕事でした。 又、女王陛下の枢密院の顧問と して五年間働き、その期間、十一の国の公式訪問を企画準備する責任の一端を担いました。 また、外務省から定年退職した後は、デンハーグの国際司法裁判所 の常設調停裁判所(PHA)の事務次官を9年間勤めました。 PHAは国家間の意見の相違を平和的に調停する事を目指す組織です。 最後に、私ども夫婦 は、1999年9月に私にとって「新しい日本」を10日間にわたって訪れました。

天皇陛下との会見

2000年5月23日に アムステルダムの王宮で開かれた天皇皇后両陛下への表敬晩餐会に、私は、多くの招待客と共に女王陛下よりお招きをいただきました。 そして、宮廷からは、 戦時中日本軍の占領下にあったインドネシアでの経験をもつもう八名の者と共に、陛下との会見の可能性に備えるようにとの知らせがありました。 しかしなが ら、日本当局がこのような会見は公式訪問にそぐわないので回避するよう説得してきた事をしばらく後に知らされました。 東京では、我々が戦時中の日本の残 忍行為についての話で陛下に詰め寄ったりした場合、陛下を困惑させてしまうのではないかと推定し心配したようでした。 そこで、この件に関しては、ベアト リクス女王が直接陛下とお話をされるということになったという情報が入りました。 そのお話し合いの結果、天皇陛下が旧蘭領インドネシアで起こった戦時中 の出来事を正しく、また適切にご存知の上、そのような難しい内容についても、他の人たちとご意見を交換されることに、ご躊躇なさらないという事を女王様は 確信なさいました。 更に、女王様は我々殆どの者を個人的にもご存知で、我々が女王様の賓客を失礼なく遇するだろうと心から信頼してくださったのでした。

さて、その晩餐会の夜、 招待客全員がまず式部官によって一人一人女王様とその主賓に紹介されました。 この‘デ パサーデ’と呼ばれる儀式が終了すると、女王様は、両陛下を招待 客が集まっている場所にお連れになられ、真っ先に我々インドネシアからの帰国者グループのところにご案内くださいました。 天皇皇后両陛下は、我々のグ ループの一人ひとりと個別にお話しになり、大変一生懸命に我々の話を聞いて下さいました。 その会見は、ご夫妻が次の招待客の所に赴くまでの十五分ぐらい のことでした。

オランダでは、王室の方 々と話した内容を公表しないというのが慣習です。 同じように天皇皇后両陛下と私が何を話したかをここで報告する事は出来ません。 それは、彼らがご自分 の話した内容が公表されないという事を信じることが出来なければならないからです。 さもないと、彼らは誰とも心を開いてお話することができなくなってし まうからです。 ただ、私と陛下の会話が戦争について、また特に将来についてであったことを申しそえておきましょう。

特筆すべき点

両陛下にお会いして、とても印象に残ったいくつかの点を次に挙げてみました。

天皇皇后両陛下は、私 たちが得てして想像しがちな、近づき難い君主というようには全然お見受けいたしませんでした。 それどころか、彼らは、戦時中にインドネシアで何がオラン ダ人に起こったかという事をよくご存知であられるばかりでなく、そのことについて自由にお話されました。 このような、戦争中インドネシアで日本の占領の もとに苦しんだオランダ人のグループと陛下との話し合いは、私の知る限りでは、過去には一度もなく、又関係者の年齢からみると、多分もう二度と実現する事 はないでしょう。 したがって、この会見は非常にユニークなものでありました。
天皇様は、私とは通訳を通して日本語で話されましたが、私が知る限りではその晩ほとんどの人たちとは英語でお話なさっておられました。 皇后様は通訳なしで英語で話されました。
皇后様が陛下の隣にと どまられず、我々のグループの中を全く自主的に動き回られたのには、驚かされました。 それは、まるで彼女がその役割を心から喜んで自分に課し、全く自分 のやり方で、そのお役目を果たされていらっしゃるようにみえました。 天皇様が私と話されていた間、皇后様は、我々のグループの別の方のところへ行かれま したが、他の者全員と話された後、私ともお話くださる為に、またお戻りになるというお心遣いを見せて下さいました。 また、我々のグループのある女性から 後で聞いたところによると、彼女が皇后様に彼女の戦争中の経験を話したところ、皇后様は何分間か彼女の手を握り、慰めのお言葉を下さったそうです。

天皇陛下のスピーチ

陛下のスピーチは、その 夜遅く晩餐の最中に行われました。 その中から、特にインドネシアからの引揚者に向けて話されているように思われる段落を下に引用しますが、日本の戦争責 任に関して全ての日本国民が同じようには考えていないので、天皇は、注意深く何を言うかにお気をお遣いにならなければならなかったことに気付かされました。

「このような歴史を経た 後、両国が、先の大戦において戦火を交える事となったのは、誠に悲しむべき事でありました。 この戦争によって、様々な形で多くの犠牲者が生じ、今なお戦 争の傷を負い続けている人々のあることに、深い心の痛みを覚えます。 二度とこのようなことが繰り返されないよう、みなで平和への努力を絶えず続けていか なければならないと思います。 又、この機会に戦後より今に至る長い歳月の間に、両国の関係のため力を尽くした様々な人々の努力に改めて思いを致します。  とりわけ戦争による心の痛みを持ちつつ、両国の将来に心を寄せておられる貴国の人々のあることを私どもはこれからも決して忘れることはありません。」

天皇陛下のお役割の意義

公式訪問というのは、外 交政策にとって特殊な手段であります。 通例では、慎重に考慮を重ねた上でようやく実現の日の目を見る決定がなされます。 というのは、その企画準備が非 常に大変な仕事だということと、その同じ国をまた再び訪れる機会が得られるには、相当な年月を要するからであります。 したがって、丁度よい時期を選ぶ事 が重要であります。 大抵の場合、公式訪問とは二つの国の関係が良好だという事を確認しあうこと、または、両国の関係の新しい展開への導入として位置付け られます。  今回のこの公式訪問では、オランダと日本は、今挙げた両方の要素を念頭に進められたと思われます。 つまり、四百年にわたる両国の関係を再 確認するとともに、新しい世代の指導者のもとに、この両国の関係に更に新たな推進力を与えようとしたのだと思います。

ベアトリクス女王が王位 にお就きになられたとき、女王様は、外国公式訪問の意義を近代化なさいました。 例えば、式典行事を最少限に抑え、多くの人々が関係しているより内容のあ るプログラムの項目をできるだけ多く増やしました。 このことによって、女王様ご自身が別の国をご訪問なさる場合でも、又他の国からの国賓をおもてなしす る場合でも、公式訪問というものが、政治、経済、文化さらにそれ以外の分野でも、両国の結びつきが一層強化されるのに大いに貢献する事が出来るようになり ました。 このようにして公式訪問は、両国の前線に立っている多くの人々がお互いに出会う機会を提供し、多くの場合メディアで深い関心を持って取り上げら れるのです。

公式訪問というのは、両方の国がお互いに暖かい真心と深い関心を示しあって初めて成功したとみなす事ができるのです。 又その逆に、何か支障が起きてそれがメディアによって大きく取り上げられたりすると、公式訪問のせっかくの価値が半減してしまいます。

双方の国家元首が公式訪 問で果たす役割は、当然ながら、非常に重要なものであります。 彼らは、その国のイメージを他の誰よりもこの訪問で強く印象づけるのです。 プログラムの どの部分をとっても、おおよそその成功の鍵は、彼らがどのようにそのお役割をお果たしになられるかによるのです。

天皇陛下のオランダ公式 訪問の企画準備に際しては、じっくりと考慮されなければならない実に深刻な問題がありました。 それは、日蘭両国の歴史の中の暗い一ページに記されている 事実によって、つまりあの第二次世界大戦中の蘭領インドネシアでオランダ人に対して与えられた悲しみによって、現在も苦痛を覚えている重要な少数派オラン ダ国民、つまりインドネシアからの引揚者の存在でありました。 この公式訪問の間にもこの感情を表明するためにデモ運動が予想されました。 そこで、この 国民グループの中に存続しつづけている苦悩に、天皇陛下がご理解をお示しくださるかもしれないという希望がもたれたのでした。 そして、果たせるかな、陛 下は、アムステルダムの宮殿で我々のグループとお会いになることによって、又慎重にお選びになったお言葉で歴史の中のこの期間に言及された晩餐会のスピー チによって、その希望を叶えてくださったのです。 このようにして陛下はこの公式訪問によりインドネシアからの帰国者グループ内にある多くの批判をお和ら げくださいました。

天皇皇后両陛下は、オラ ンダ各地で、つまりアムステルダム、デンハーグ、レイデン、ロッテルダム、アペルドールンで、オランダに深い関心をよせ、かつ親しみやすい日本という国の イメージをお示しになられたのでした。 したがって両陛下の果たされたお役割は、この公式訪問を成功裏に終わらせた大変重要な鍵でありました。

聴衆への質問

さて、本日の対話の会のプログラムの一環として皆様全員に特に皆様の中にいらっしゃる日本の皆様に、次の質問をさせていただきたいと存じます。

天皇皇后両陛下がオランダ公式訪問に果たされたお役割が、非常に重要であったとする私の考えにご賛成いただけますでしょうか。
オランダでの両陛下の果たされたお役割、特にインドネシアから引揚げてきた者との会見から、日本の政治家や宮内庁の高官達が、ご夫妻が他の国々でも必要に応じてこのようなお役割りを担ってくださる事がおできになるという結論を引き出すとお考えになりますでしょうか。
オランダでは、日本の外交儀礼が、日本の社会から皇室の方々を覆い隠しているという印象をしばしば受けます。 天皇皇后両陛下がオランダで人々と語り合われたときの気さくさが、日本での覆いを少しでも取り除く方向に動くと思われますでしょうか。

結論

以上、戦争中、日本がイ ンドネシアを占領した際に被害者となった者たちと天皇皇后両陛下との会見について申し述べさせていただきました。 この会見は、私にとりまして、日本の強 制収容所に入っていた期間は勿論、またその後の五十六年の間にもその可能性すら思いつきもしなかった、驚くべき出来事でした。