音楽

2009年11月 7日 コーニング・ケルク フォーブルグ

プログラム

  1. 歓迎の辞
  2. ヴォーカル・オーケストラの音楽とともに星を見つめつつ
  3. 和解に向けての音楽の意義
  4. 音楽の時間
  5. 閉会の辞

1、 歓迎の辞 | 村岡崇光

日蘭対話の会準備委員会を代表してこの第13回会合にご出席くださった皆様に心よりの歓迎の意を表したく思います。

最初の会合は今を去る2000年の7月に行われました。あれ以来、色々なことがありました。私たちは、互いに多くを学び合い、新しい絆が築かれてきました。そういった絆のいくつかは、天からの介入により、悲しくも断たれることになりました。過ぐる一年間にも何人かの親しい友に別れを告げなければなりませんでした。いずれも、対話の会では久しくなじみの顔となった人たち、このようにして私たちの間に築かれた絆を強めるために重要な役割を果たしてくださった方達です。EKNJ(インドネシアで日本軍の捕虜になった人たちの団体)の創立者で、その会長を長年務められたDolf Winklerさんが3月22日に他界されました。氏は、2003年の第7回会合で話してくださいました。奥さんのAnnieさんと毎回出席され、何度も見事な司会をしてくださったHerman Goudswaardさんが、5月22日アニーさんのもとへ旅たたれました。8月7日にはJIN(太平洋戦争中インドネシアで日本人を父として生まれた混血児の会)の会長を何年かされ、1993年についに日本人の父親に会われ、私たちの会合にも何度か顔を出してくださったBauke Toshio Talensさんが他界されました。この方々の生涯と、私たち二つ、いや三つの民族の歩み寄りのために努力してくださったことに対して敬意を表して一分間の黙祷を捧げたいと思います。

芸術には彫刻とか絵画のように視覚的に表現されるもの、舞踏のように身体で表現されるもの、文学のように言葉で表現されるもの、あるいは音楽のように音声で表現されるものなど、いろいろな表現形式がありますが、いずれも、職業的な芸術家であれ、素人であれ、それは胸の内に潜む思想や感情を他者に伝達するための重要な手段です。その結果として、複数の個人が、あるいは個人の集団がお互いに近づき、いろいろなことを一緒に味わい、共有することが出来ます。以前はお互いの間に立ちはだかっていた障壁、文化や趣味の違いからくる障壁、あるいは敵対感情をすら生み出すところの障壁が取り払われます。

芸術家の中には、画家であれ、彫刻家であれ、演奏家であれ、あるいは小説家であれ、幸いにも安定した環境で、楽しみながら芸術活動にいそしむことの出来る人もいます。でも、私達のなかには、長期にわたる緊張、困難、あるいは悲惨な状況の中で活動を続けざるを得なかった秀でた芸術家を何人かすぐにでも挙げることの出来る人も少なくないでしょう。まさしくそのような厳しい状況、背景が彼らの芸術作品、芸術活動の価値をかえって高めるのです。そのような芸術家にとっては、芸術は単に自己表現、自己充足の一つの形にとどまらず、自分のおかれている厳しい状況に屈することなく、それに雄々しく耐えて、生き抜くためのエネルギーの源泉となるのです。

今日のプログラムは、こういった様々な形の芸術表現様式の一つ、すなわち音楽に焦点を当てています。今日お話しくださるお二方に心からの謝意を表します。あまり先走りはしたくないのですが、最初の講演者マドレイン・ヴァン・ライケヴォルセルさんはかつてオランダの植民地であったインドネシアを日本が占領していたとき3年半にわたって三つの抑留所で辛苦を舐められた故ヘレン・コラインさんのお嬢様です。そこで、コラインさんは音楽を楽しむだけではなく、音楽の持つ慰めの力を実感する、という類い稀な経験をされました。ヴァン・ライケヴォルセルさんはお母様から当時のことについていろいろなことを聞かれ、またお母様の残されたたくさんの書き物などに目を通して来られました。

二番目の講演者、シャノン中村容子さんは音楽を専門的に学ばれ、ピアニストとして演奏会などもされてきました。今日はわざわざ遠くドイツから馳せ参じてくださり、有り難うございます。中村さんは、近年、祖国の歴史の暗い部分に直面されるようになりました。日本人キリスト者としての立場から、太平洋戦争中、前世代の同胞によってなされた残虐行為、不正の犠牲者たちとの接触を熱心に求めて来られました。そのために、昨年はインドネシアを訪問されました。中村さんは、音楽には戦時暴力の後遺症を癒す力もある、と信じておられ、午後その実際を私たちに見せてくださることになっています。

このお二人の御婦人たち、日蘭の女性たちの発表に私たちは非常な期待を寄せています。もちろん、小グループでの討論の時間にも期待したいと思います。

音楽に関する私の知識は素人の域を出ませんが、音楽に潜む力は知っているつもりです。もうかなり前のこと観たテレビ番組、テレビで流された映画だったかも知れませんが、それがいまも私の脳裏に焼き付いています。1943年の極寒、無謀なスターリングラード攻略に失敗して捕虜となったドイツ兵たちがソビエット兵たちと一緒にベートーベンの第九の最終楽章の『歓喜の歌』を合唱するシーンが非常に感動的でした。その歌詞にはAlle Menschen werden Brüder Wo dein sanfter Flügel weilt.「すべての人々は兄弟となる  汝の翼の憩うところ」という有名な一節があります。

数年前のこと、私たちの実行委員会のひとり、今日は事情があって欠席ですが、フレーヴェン・レルスさんからCDを贈られました。日本の佐倉市の女性合唱団の歌ったものを録音してありました。それから一年ぐらいしてから、お返しにと思って竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』の英訳を差し上げました。太平洋戦争の末期、あてどもなくビルマの田舎を彷徨う日本軍の一部隊についての物語です。音楽学校卒の若い隊長は、戦意高揚のために隊員たちに昔馴染みの曲を歌ったり、演奏したりすることを教えました。ある夕方、部隊は土地のビルマ人の村長のうちに食事に招ばれたのですが、宴も半ば気がついてみたら、土地の人たちは一人残らず姿を消し、うまうまと謀られてしまい、敵に包囲されていることに気づきました。いつ戦闘が始まるかという緊張の高まりの中で、前庭においてある車に爆薬が満載してあり、これに撃ち込まれたら大変なことになるので、用心深く積みおろす必要があり、敵の注意をそらすために、隊長はわざとテンポののろい曲として「庭の千草」と「埴生の宿」を演奏するように隊員に命じました。ところが、「埴生の宿」を引き終わったところで、どうでしょう、あたりの森の静寂(しじま)を破って同じ曲を高らかに英語で歌っているのが聞こえてくるではありませんか。隊員たちは顔を見合わせ、「僕らの歌を知っとるぞ」と言いました。「庭の千草」はもともとがアイルランド民謡でThe Last Rose of Summerが原題、「埴生の宿」はアメリカ人ペイン作詞、英国人ビショップ作曲のHome Sweet Homeであることを彼らは知らず、日本の歌だとばかり思っていたのです。「埴生の宿」はアメリカの内戦の時も盛んに歌われ、リンカーンの愛唱歌だったとも言われます。そうこうするうちに英国兵たちがなおも「埴生の宿」を歌いながら三々五々と森の中から姿を現しました。日本兵たちは彼らから、日本が三日前に無条件降伏していたことを知ったのでした。ほんのしばらく前までは、相手の兵を出来るだけ殺すことを目標に戦闘を続けていた日英の兵士たちが、「埴生の宿」を合唱しました。どちらの側の兵士も何千キロ彼方で父のこと、息子のこと、兄弟のことを心配している家族のことに想いを馳せることに変わりはありませんでした。つつましやかな竪琴を精一杯掻きならす小説の主人公水島上等兵の頬を涙が止めどもなく流れ落ちました。日本人の隊長の指揮の下に合唱する日英の兵士の誰もが涙していました。

この小説を読んでしばらくしてから、私はSong of Survivalを買い求めました。そのあとがきに到達したとき、魂消ました。『ビルマの竪琴』を英訳で読まれたヘレン・コラインさんがこう書いておられたのです:

「収容所にいたときの私たちと同じように、音楽によって力づけられた日本人たちの話を私は読んでいたのです。彼らを指揮した隊長はマーガレット・ドライバラのように、『歌うんだ。そうしたら幸せな気持ちになれるぞ』と励ましたのではないでしょうか」。わたしは、すぐ、このページをコッピーしたものを同封してフレーヴェン・レルスさんに手紙を出しました。翌日届いた彼女からの返事には「ヘレン・コラインさんの本を読み始めた、とあなたが書いて来られたとき、そのあとがきに竹山道雄の本のことが出てくることを思い出し、あなたはきっとびっくりされるに違いない、と思いました。いただいた今回の手紙は、コピーしてくださったページと一緒に私の本に挿んでおくことにしました」とありました。

インドネシアの抑留所でも、ビルマの密林でも、人々の胸には何千キロも遥か故郷にある懐かしい我が家、愛しい人々に対する熱い想いがありました。現在の状況はいささか異なりますけれど、今日ここにいらっしゃる日本人の方々には彼らの想いは解っていただけるのではないでしょうか。皆さん、前に出ていただいて、「埴生の宿」を一緒に歌いませんか?

2、 ヴォーカル・オーケストラの音楽とともに星を見つめつつ | マドレイン・ヴァン・ライケヴォールセル

本日の日蘭対話第13回会合で皆様方の前でお話をさせていただけることを大変光栄に存じます。これまでにすでにこんなに多くの会合が開かれたことは驚きです。この場を借りて、これまでの会合を準備してこられた方々、またその会合で発表をされた方々に対して敬意と感謝の意を表したく思います。

本日私は、母ヘレン・コライン(Helen Colijn)、また、ある意味では今年6月に他界しました叔母のアントワネッテ・コライン(Antoinette Colijn)に代ってお話しさせていただきます。

母は、以前、ヴォーカル・オーケストラの発表会に先立ってとか、いろいろな機会に挨拶をしたり、講演をしたりいたしました。母は80歳までは非常に元気でした。合衆国を西から東へ飛んだこともしばしばでしたし、オランダにも参りました。しかし、その母も享年85歳で、3年前に他界し、私もひとかたならぬ寂しさを覚えております。

今日のお話の原稿を準備するにあたって、母だったらこう話したのではないだろうか、と思いながら書き進めましたが、でも「抑留所犠牲者」第二世代として私自身の思いも添えたいと思います。もっとも、母も、私も自分たちのことを犠牲者として意識したことはありませんでした。少なくとも母の晩年においてはそうでした。私たちが自分を犠牲者としては意識しなかったということ、それが本日の私のお話の核心であります。忘れはしませんが,それでも赦すという問題、和解の問題です。

私は、母ヘレン・コラインの体験したこと、その著書『歌の力』(De Kracht van een Lied, 英語版ではSong of Survival)についてお話しいたします。この本は、西村由美さんの手になる和訳(2001)もあります。また、この本の中心テーマであるヴォーカル・オーケストラ、またその音楽がその後辿った道についてお話しさせていただきます。

私は、第二次世界大戦中、スマトラ島の抑留所に閉じ込められていたオランダ、英国、オーストリアの女性たちがヴォーカル・オーケストラの音楽から汲み取ったところの力について、そして、このすばらしい音楽のおかげで今なお力と励ましを見いだしている人たちがいることについてお話したいと思います。

私のお話には、愛しい祖母、直接の面識はありませんでしたが、祖父のアントン・コライン、母と二人の叔母、私自身、それから私の倅、つまりヘレン・コラインの孫とその友達、4代にわたって一家総出で登場し、彼らの体験したこと、語ったことをご紹介します。息子とその女友達はオランダのラジオ放送局に頼まれてヴォーカル・オーケストラの音楽についての番組を作り、そのために今年日本にも行って参りました。のちほど、ラジオ番組の一部をお聴かせいたします。また、記録映画Song of Survivalのなかのいくつかの場面をお目にかけます。

今日の私のお話の題も家族的な背景を持っています。私が英語でお送りした“Seeing the stars, with the vocal orchestra music”という題を主催者の方で“De sterren aankijkende …”という素敵なオランダ語に訳してくださいました。実は、叔母のアントワネッテが書き残しておいたものを見ていたとき、この題に思い至ったのです。

80年代に、母がSong of Survivalの執筆にかかっていたとき、どういう書名にしたらいいかいろいろ考えあぐね、妹のアントワネッテに相談しました。うちには叔母の手書きの懐かしい紙片があり、そこにたくさんの題が案として書き付けてあります:”Coping” (「なんとかやってます」), “A woman’s story of endurance and hope” (「希望を失わず、頑張り通した女性の物語」), “The sun will rise tomorrow” (「明日になれば太陽が昇る」), “Women captured, but spirit unbroken” (「囚われの身でありながら、精神は砕かれなかった女性たち」)。 ガンジーの格言で “In the darkness, light persists” (「暗黒のまっただ中に輝く光」)というのもあります。私は、結局、そのなかから “Seeing the stars …”を選んだのですが、それは叔母がそのあとに「ダディ」(父のアントン・コライン)がしばしば引用したらしいものとして書き付けていたものです:

“2 men looked through the bars,

one saw the mud, the other the stars.”

「二人の男が格子窓から外を眺めた、

一人の目には泥が、もう一人の目には星が見えた」

ここには私の家族が受け継いできた人生観が垣間みられます。これは私の祖父母から、私の母へ、そして私へと伝えられてきた人生観です。ものごとの明るい面を見るようにし、恨みを抱かない、という態度です。私の家族はあの恐ろしい戦時中、またその後の年月を乗り切る力をそこに見いだしたのです。

次にお見せします映画の一場面に祖母が出て参ります。彼女が人質となり、タラカンの油田を爆破したために逃げなければならなくなった夫のアントン・コラインが別れ際に彼女になんと言ったかを話しています。

少し歴史的背景をお話しします。

ヘレン・コラインはZus van de PollとAnton Colijnの長女として1920年に生まれました。彼女に続いてアントワネッテとアレッテという妹が二人生まれました。母は高校を卒業すると、1939年に、当時ジャワに住んでいた両親のもとへ出かけました。父は石油会社に勤めていました。ヨーロッパで戦争が始まったために、もうオランダへは戻れなくなりました。1942年の2月、母は父と二人の妹と「プラウブラス号」という船で逃げ出しましたが、船は日本軍の爆撃により沈没し、一週間救命ボートで漂流した後、スマトラ島に漂着し、やがて日本軍に捕らえられて、パレンバン(Palembang)の女性抑留所に入れられました。母はその時21歳でした。

母と妹たちは、600人あまりのオーストラリア人、オランダ人、イギリス人の婦女子と一緒にスマトラ島の三カ所の抑留所で3年半を過ごすことになりました。パレンバンからバンカ(Bangka)島のムントク(Muntok)へ、そこからルブクリンガウ(Lubuklinggau)のベララウ(Belalau)のゴム園の収容所に移されました。状況は日ごとに悪化し、赤痢やマラリア患者が次々と出ました。食料品も僅少で、多くの婦女子が餓死しました。

彼女らは外部の世界とは完全に遮断され、母とも別れ別れになっていました。母は赤十字社の女性職員たちと一緒にボルネオ島に抑留されていました。父親はスマトラ島の男性抑留所にいました。父は1945年にそこで死亡しました。

彼らには読む本もなければ、音楽を奏でる楽器も持ち合わせませんでしたが、しかし彼らには声が残っていました。かてて加えて、彼女らの間には二人の特異な英国人女性がいました。一人は、マーガレット・ドライバラ(Margaret Dryburgh)という宣教師、ピアノ教師、コーラス指揮者、教会のオルガン奏者でした。彼女はたぐいまれな記憶力の持ち主で、紙切れにクラシック音楽の作品をメロディだけでなく4部全部を書き付けることが出来ました。バッハ、ベートーベン、ショパン、モーツアルト、チャイコフスキイ、ドボルジャックなどの作品から30あまりの楽譜が出来上がったのです。

もう一人は、技師を夫とするスコットランド生まれのノーラ・チェインバース(Norah Chambers)で、彼女はロンドンの王立音楽院の卒業生でした。彼女はマーガレットを助けて、30人の女性からなるコーラス用の4部合唱用の作品を仕上げしました。そして彼女がコーラスの指揮者を務めました。一緒に集まることは禁止されていましたから、彼女らは密かに練習を始めました。抑留所生活が始まって22ヶ月目の1943年12月27日、最初の演奏会が開催されました。

合唱が始まるや否や、日本人看守兵たちが走ってきて、止めさせようとしましたが、その美しい音楽に魅されて、続行を許しました。歌詞はありませんでしたが、ハミングがなんとも素敵でした。

女性たちは1945年のはじめまで歌い続け、その間に何回かの発表会を催しました。最後の抑留所では、マーガレット・ドライバラも含めて女性たちの三分の一が病気あるいは過労から死亡しました。コーラスのメンバーの半分以上が他界しました。演奏は已むなく中止となりました。やっと半年後の1945年8月に解放の時が訪れました。

叔母のアレッテとアントワネッテはコーラスのメンバーでしたが、母は入っていませんでした。しかし、抑留所の他の女性たちと同様に、彼女はこの美しい音楽を楽しむことが出来ました。この音楽によって彼女は慰められ、気がまぎれました。生き残った女性たちによれば、この音楽を聴いた時、あるいは歌ったとき、彼女らは自由を感じた、ということです。彼女らの魂が、精神が自由を獲得したというのです。

彼女らは自分たちの文化的遺産を大事にしました。彼女らの精神の一部になっていたこの遺産を取り上げることは出来ませんでした。彼女たちにとって音楽は人間としての尊厳と文明の象徴でした。

母は、公式の場で受けた質問に対して、このような印象ははじめからあったわけではなかった、少なくとも彼女自身の場合はそうではなかった、と語りました。自分がコーラスに入っていなかったからかもしれません。以下に母の言ったことを引用します:

「あの音楽を初めて聴いたとき、私がどう感じたかを後日尋ねられました。抑留所であのような天来の音楽を聴くということは特別な感興をもよおしたに違いない、とだれもが思うようです。この音楽があればこの逆境を乗り切ることが出来る、そのように感じたのではないか、というのです。しかし、現実は小説や映画とは遥かにかけ離れていて、なにが正常で、なにが異常かと決めるための基準がありませんでした。私たちにとってはヴォーカル・オーケストラは、抑留所ではすべてがそうであったように、常軌を逸していました。何百人という女性たちがおそろしく狭い空間に押し込められて生活していました。楽器なしで音楽を演奏するということだって、無から有を作り出すという、私たちが日常的にやらざるを得なかったことの一つにすぎませんでした。草を集めてきてござを編むとかするのと同じでした。卵の殻ですら捨てませんでした。この音楽もなんとかして時間をやり過ごすための方途でした」。

母は、この音楽を確かにすばらしい、と思いました。音楽は彼女に力を与えた、と思いますが、彼女がその力を本当に実感し、体験したのは、戦争が終わってしばらくしてからでした。

演奏会があると、女性や子供たちは、ほんのしばらくとはいえ、泥や、鼠や、昆虫、惨めな抑留所生活が忘れられたのです。有刺鉄線の代わりに、頭上の雲が、星が見えたのです。惨めな状況を超越することが出来たのです。

母の著書は西村由美さんの努力によって日本語にも訳されましたが、2002年にそれがオランダ駐在の日本大使に贈呈された時、大使は言われました:「たとえ逆境にあっても、人間の尊厳と精神とは、この場合、文字通り沈黙させることができなかったのです。人間の精神がかくも気高く、強靭なものであることに深い感銘を覚えました』。大使は、多くを剥奪されながらも生き続けた人間の尊厳、魂、抵抗力、生命力について語られたのです。

これから記録映画の中のいくつかの場面をお目にかけます。戦後、1984年、カリフォルニア州パロアルトでの演奏会の場面が出てきます。教会の一番前の席に座っている女性たちは抑留所のコーラスで歌っていた人たちです。アントワネッテ・コライン、ノーラ・チェインバース、それにオーストラリア人ベティ・ジェフリの姿も見えます。母の姿もあります。

ここからが、私の講演の第二部になります。

抑留所での音楽の真価は、戦後、母が胸の内にまだ眠っていたところの感情をおそるおそる取り出し始めたときに初めて明らかになりました。あのときの音楽と演奏会を思い出すことは、心の傷を処理するための一つの手だてとなったのです。母にとってはこれがあの音楽のもつ最大の力であり、その力は戦後になってはじめて発揮されたのです。

抑留所を出た母は、自分の母と二人の妹とオランダに戻り、その後、アメリカに渡りました。そこで彼女はオランダ人男性と結婚しましたが、彼は戦争中の蘭領東インドを体験していませんでした。母は、戦争中のことを何年も口にする勇気がありませんでした。50年代に、母は抑留所時代のことを少し書き留めました。題は「お皿を舐めるな」となっていました。人間的にはどんなに惨めな状況におかれていても、礼儀、品位を捨ててはいけない、という意味でした。しかし、この原稿を出してくれるという出版社は見つかりませんでした。仕方なく、原稿は机の引き出しにしまい込まれ、その後、長年忘れられていました。

やっと30年後にちゃんとした本に仕上がりました。音楽を中心に据えた新しい作品として書き直されたのです。母の言葉を借りれば、「あの音楽のおかげで、わたしは抑留所時代のことを、悪夢にうなされずに語り、書くことが出来るようになった」というのです。「抑留所時代のことを思い返す時、私たちは最早あの時の惨めさだけを思う必要はなく、あそこで生み出された美しいもの、現実に感受できるものを見、それに耳を傾けることができます」。

胸の内に眠っていた感情が噴き出してきました。そのとき初めて、当時のこと、父のことを思い返すことが出来たそうです。そのとき初めて、母は父のことを想って思い切り泣くことが出来たのでした。父が亡くなって40年後でした。徐々に、敵を赦す気になれました。母はついに日本人に対する憎しみから解放されました。

1987年に行われたインタビューからもう一度引用しますと:「あの惨めな状況の中に、美しい何ものかがそっと隠されていたことを私は発見しました。あの音楽です。戦時中、自分がそのまっただ中にいた時は到底想像もできなかったことですが、戦争の中からですら美しいものが生まれることが出来たのです。このことを私はみなさんにお伝えしたく思います。あのオーケストラを始めた人たちには脱帽します。そうすることで私は彼女たちに私の謝意を表明したいと思います」。

私の二人の叔母にとっては、演奏会のことを思い返すのは、母にとってよりはつらかったようです。アントワネッテはあの時のことに烈しい怒りを覚えていました。その怒りも徐々にではありますが、弱まっていきましたが、それでも日本料理屋に足を踏み入れることはしなかったでしょう。それでも、あの音楽が戦時中の記憶としては一番大事であることを認めています。

ヴォーカル・オーケストラは抑留所の犠牲者たちにとって、他の抑留所にいた多くの人たちにとって、またいろいろな形の困難を覚えている多くの人たちにとって戦後も大事な役割を果たしました。母は書いています:「私たちの音楽は今や自由となり、スマトラでの、有刺鉄線に閉じ込められて行われた最初の演奏会からほとんど半世紀経った今でも、世界各国で、何千人、否、何百万という聴衆、コーラスのメンバーに喜びと慰めをもたらしています」。

あの音楽はどのようにして「自由」になったのでしょうか?

ここでまた歴史を少しお話しいたします。

80年代の初めに、叔母アントワネッテは屋根裏部屋にしまってあったヴォーカル・オーケストラの楽譜がだんだん色あせかかっているのを発見しました。叔母は、私の母と諮って、これをカリフォルニアのパロアルトにあるスタンフォード大学に寄付することにし、大学はこれを喜んで受け取ってくれました。でも、その音楽を実際に演奏してもらいたい、と言われました。母は、この音楽を演奏しようというコーラスを見つけました。こうして半島女性合唱団による演奏会が実現しました。前にお見せした記録映画でご覧になった通りです。母の著書はオランダ語で出版され(1989)、英語版も出ました(1995)。母は楽譜を出版してくれるところも見つけました。また、一時間の記録映画も出来ました。劇も出来て公演されました。有名な女性俳優の登場するハリウッド映画(Paradise Road)も製作されました。この映画についての評価はまちまちですが、私たち一家は記録映画の方が好きです。

先ほど名前を挙げました半島女性合唱団は、長年にわたって、ヴォーカル・オーケストラの作品を歌ってきました。アメリカのほかの合唱団、高校生の合唱団もこの作品を歌いました。80年代に作られたラジオ番組にはいまでも需要があるようです。

過去20年、オランダでも何十回となく演奏会が行われましたが、最初はディルク・ヤン・ワルナールの指揮するボーデグラーヴェンの合唱団のものですが、のちにハーレムのマレ・バベ合唱団による演奏によりこの音楽は広く知られるに至りました。この合唱団は1998年5月4日にハーグのNieuwe Kerkで、2006年の8月15日の終戦記念日にも公演しました。この合唱団この音楽をしばしばとりあげています。

ヴォーカル・オーケストラのなかの一曲、「囚われ人の讃歌」(Captives’ Hymn)は至る所で歌われ、またCDで聴かれています。

リンブルグのウェルの女性合唱団(指揮者:マリアン・タイセン・ステーヴェンス)のことを特に挙げたいと思います。この合唱団は2002年以来、年に少なくとも二、三回ブラバント、リンブルグ、オーヴァアイセルでこの音楽を歌っています。2005年にハイノのカトリック教会での公演のときには母も来賓として出席しました。また、フローニンゲン、ゼーランド、アーメルスフォールトの女性合唱団などもこの歌を歌ったことがあります。

日本の佐倉市の女性合唱団あすなろを特に挙げたい、と思います。2002年にこの合唱団は大掛かりな文化祭の席上でこの歌を歌いました。また、この合唱団は2004年、横浜の山手ゲーテ座での催し物にも出場しました。この音楽はあすなろ合唱団のレパートリの一部になっています。

この音楽のどこにその魅力が秘められているのでしょうか?

第一に、これは音楽としてもすばらしい作品です。そこに音楽の精髄を聴くことが出来ます。

それから、「囚われ人の讃歌」を別とすれば、歌詞がありませんから、この音楽には普遍性があり、世界中どこでも歌うことが出来、聴くことが出来ます。歌う人、聴く人が自分の想いを自由にそこに込めることが出来ます。

しかし、この音楽は抑留所での体験と切り離しては考えることが出来ませんし、両者併せて初めてその音楽の力が現れるのですし、人の心をゆすぶるのです。

「この物語と音楽は時と場所の境界を超えて人の心に訴えます」。

マレ・バベ合唱団の指揮者レニ・ヴァン・スハイクに言わせますと、「この歌の背後に何があるかを考えずしては、その音符一つすら歌うことは出来ません。ですから、これが演奏される時は毎回、聴衆のみならず、歌う人にとってもそれは心を揺さぶる出来事なのです。この美しい音楽を歌うだけでなく、それが生まれたおぞましい状況を新たに心に刻むのです。戦争というものの悲劇性、残虐性に想いをいたし、それがいまなお現実として迫ってくるのです。私は、この音楽を歌うことによって当時の女性たちに対して敬意を表しているだけでなく、無意味な戦争とその結末に対して抗議の気持ちをこめているのです」。

私の想いも同じです。母の想いもそこにありました。

この音楽は世界史の中の汚れたページを後世に残すものですが、と同時に、それは歌唱と音楽に対する讃歌でもあります。困難な状況の中にある時、人はそこから多くの慰めを汲み取ることが出来るのです。

みなさん、これをもって私のお話は閉じたいと思いますが、倅のマールテン・トロンプと彼の友達のソフィ・ヴァン・ダムが作ったラジオ番組の中の大事なところをお聴かせしたいと思います。二人は、VROM放送局から補助金をもらって、ヴォーカル・オーケストラと、それが日本でいまなおどのように受け継がれているかについて30分の番組を作りました。その番組の中で、日本人が話しているのが実際に聞こえるわけですから、今日の会合には最適ではないか、と考えた次第です。また、私の親友でもある高橋さんも登場されます。この友情は母のおかげであり、過去二度に亘って日本に旅行できたおかげです。倅の声も聞こえます。

母がいま生きていたら、孫がヴォーカル・オーケストラに関する番組を作成したことをとても誇りに思ったことでしょう。母は戦時中の体験を、オランダ、米国、日本などの若い世代に伝えていくことをとても大事なことと考えていました。こうして、彼女の孫とその友達がその仕事を受け継いでくれました。これもすべてあの音楽のおかげです。

[訳:村岡崇光]

オランダVPROラジオ局で2009年4月17に放送された「日本の声」から (約13:40から最後まで、約15分)

ム 東京の地下鉄・雑踏の音 —

(マールテン・トロンプさん、ヴァン・ライケヴォルセルさんのご子息)

現在の日本の保守多数派は、戦争中の日本の問題のある行為のことはできれば早く忘れたいと考えています。同じ戦争でも祖先の英雄的な行為を強調することで、愛国心を喚起しようとしているのです。幸いなことに、全ての人がこれに同意しているわけではありません。高橋淳(あつし)さん(77歳)はそんな一人です。番組供給会社「トーキョーヴィジョン」の代表取締役で、1994年にヴォーカル・オーケストラ音楽についてのテレビドキュメント「歌の力」の日本放映権を買い取りました。

(高橋さん)

私は名古屋の生まれで、第2次世界大戦中、名古屋では飛行機・兵器・大砲・戦車が作られていました。だから私が若い頃アメリカ軍の空襲で街中が破壊されました。多くの人が亡くなるところを自分の目で見たので、戦争や平和の問題については敏感です。戦争中私が教わったことは敵を殺すことです。アメリカ人、イギリス人、オランダ人は全て悪魔で、害悪であり、日本人だけが神聖なんだとも教わりました。私は、当時の政府や軍部が教えたことを心から信じました。私の夢は戦闘機乗りになって、アメリカ軍と空中で戦うことでした。

コラインさんの話を聞いてとても興味を持ちました。彼女はインドネシアで日本軍によって収容所に入れられて、惨めで、屈辱的な生活を強いられました。私は、彼女の話は日本で紹介されるべきであると考えました。

(マールテンさん)

東京の事務所で、高橋さんは第2次世界大戦中の幼少時代のことを語った。名古屋で育ち、アメリカ軍のひどい空襲を体験した。海外の番組を日本に紹介する仕事の関係もあり 彼にとって戦争と平和は重要なテーマである。テレビドキュメント「歌の力」は日本に紹介すべき重要な話だと考えて、その放映権を買い取った。この番組は小さな範囲で放映されたが、全国に流すことができなかった。全国ネットの放送局が見つけられなかったからだ。

(高橋さん)

いい話なんですが、なんて言いますか、日本の人々が好む話題ではないのです。日本人にとっていい話ではないので、多くの人は見たくはないのです。私も含めて多くの日本人は、戦争中に教えられたことは100パーセント間違っていることに戦後気がつきました。でも、現在の日本人の中には戦争中と全く同じ考えに戻っている人々がいて私はとても残念に思っています。当時韓国に対して我々は何も間違ったことをしてはいないし、中国や韓国でむしろいいことをいくつもしたのだ、とその人たちは言うのです。憲法第9条を改正して、また軍隊を持ち自ら防衛するようにするべきだと主張しています。日本では現在、平和憲法を守るべきか憲法を改正してもう一度軍隊を持つのかという議論が物議を醸し出しています。

— コーラス —

(マールテンさん)

佐倉の国立あすなろ女性合唱団では、もう何年もヴォーカル・オーケストラ音楽を歌っています。私の祖母や収容所にいたその他の女性たちにとって、この音楽は厳しい現実から逃れ希望と力を与えてくれる助けになりました。私たちは今佐倉を訪れ、あすなろ女性合唱団の練習をしているところに来ています。彼女たちにとっては、この音楽は何を意味するのでしょうか? 何が彼女たちにこの音楽を歌い始めさせたのでしょうか?

「あすなろ女性合唱団指揮者の饗場美智子です。よろしくお願いします。」

「あすなろ女性合唱団の団長をしております守屋と申します。よろしくお願い致します。」

(守屋さん)

あすなろ女性合唱団は1974年4月1日創設でもう35年になります。始めから饗場先生が指揮してくださっています。

(饗場さん)

西村さんの(ヘレン・コラインさんの本の)翻訳が完成して、本の出版の後で彼女からヴォーカル・オーケストラ音楽を歌ってもらえないかと問い合わせがあったのです。そして佐倉日蘭協会は、創立15周年を記念してコンサートを開きたいと思っていました。西村さんが翻訳なさるまで、私はヴォーカル・オーケストラ音楽について聞いたことはありませんでしたし、この音楽を歌う合唱団は日本にはありませんでした。

(守屋さん)

だからそれが私たちにとって初めてのヴォーカル・オーケストラ音楽でした。2002年11月9日のことです。本の一部の朗読もありました。音楽も話も聞いたのです。私は、いろんな古典の名曲がたくさん出てきて、アカペラで歌えるのでとても嬉しく思いました。でも、合唱団のメンバーにとっては始めは簡単ではありませんでした。退屈だと思った人も何人かいたようです。でも練習が始まってから本も読んで、この話を知ったのです。この音楽の背景にある話はとても重要だと私たちは考えます。

戦時中私はまだ子供でした。東京近郊に住んでいたのですが、九州に疎開させられました。汽車は止まってばかりで、九州に着くまではなかなか大変でした。私は一番後ろの宮崎行きの車両に乗っていて、他の車両は長崎行きでした。電車の中で若い男性と知り合い、彼は私と遊んでくれたのです。でも彼は長崎に向かっていたので、戦争を生き延びなかったのではないかと思います。

— コーラス練習 —

(饗場さん)

(戦争中)私は父の実家におりましたので、東京の近郊ですけれどもあまり被害はありませんでした。父は出征し、母と私は残ったのです。父が実際に戦ったのかは知らないのですが、軍隊に行ったことは確かです。あの頃男性はみな軍隊にとられていましたから、私の周りは、女性と子供そして年をとった方ばかりでした。そんな環境の中では、男性たちが何をしているかは考えませんでした。戦争中はまだ小さかったので、戦争についての知識は大きくなってから映画や本から得たものです。でもヘレンさんの本を読むまでは、オランダ人女性もあの戦争に巻き込まれていたとは知りませんでした。

(本を読む前のことですが、)1994年に合唱団はオランダに行き、アムテルダムとブライスワイクの老人ホームで演奏しました。日本の歌を歌いましたが、まだヴォーカル・オーケストラ音楽は歌っていませんでした。ブライスワイクの老人ホームでは、はじめ雰囲気がとても冷ややかだったのですが、どうしてかわかりませんでした。ヘレンの本を読んで初めてその理由がわかりました。ヘレンの本を読むまでは、インドネシアに日本軍の収容所があったことも、そこに女性が収容されていたことも知らなかったのです。

どうして私たちがこの歌を歌うかというと、それは美しいからです。私たちはまだアカペラがうまくないのですが、この音楽はアカペラの勉強をするためには適しています。メロディーとハーモニーは特別です。

(守屋さん)

「平和が一番いいです。私たち今平和だからこそ歌っていられるのです。健康でもいられるし、平和に勝るものはないと思います。」

ヴォーカル・オーケストラを知ることができてとてもよかったと思います。最近まで私は親の看護で追われていました。母が95歳で亡くなるまで看護をしました。合唱のおかげで、看護に打ち込むことができたと思います。この歌は、生きる力を与えてくれると私は思います。

— コーラス —

(高橋さん)

先ほどもお話ししましたが、日本人は第2次世界大戦中にいいことをした、と私たちは考えています。でも一方で、韓国人、中国人をはじめヨーロッパ人アメリカ人に対してひどい、最低のこともしたと私は信じています。私たちは日本人が現実に何をしたかという事実を知っています。良い、悪いは別にして、戦争中現実に起こった真実を知ることは重要だと思います。その上で、一人一人がどう考えるのかを決めることができるのです。

— コーラス —

(マドレイン・ヴァン・ライケヴォルセルさん)

1998年に母は日本に行って日本のきれいなものを見ようかと考えていました。そうすることで、日本を憎む気持ちから自由になれるのではと考えたからです。その頃インタービューで誰かが母に尋ねました。『あなたは日本人のことをヤップ(オランダ語で日本人の蔑称)と呼びますか?』母の答えはこうでした。『いつヤップについて話すことをやめましたか、という方がいい質問です。それなら、もう何年か前にやめました。』

(マールテンさん)

(日本人を)許して(あの経験を)忘れるのか、それとも許すけれども忘れはしないのか? 祖母の場合は後者だと私は思います。それは、ヴォーカル・オーケストラが戦後、世界中のいろいろな合唱団によって歌われたことによるものです。日本のあすなろ女性合唱団も含めてのことです。音楽は、祖母にとってあの話をするために重要な方法でした。あの記憶が消えてしまわないように話をするために。

[訳:星野文則]

3、 和解に向けての音楽の意義 | シャノン中村容子 (ドイツ)

今日は、日蘭対話の会でお話させてくださる機会をいただけたことに心から感謝いたします。今日、私は胸に大きな希望を持ってこの場に立っています。私の国は過去に憎しみという種を蒔き、多くのものを壊しました。インドネシアでは、大勢のオランダ人の方々に悲しみと痛みをもたらし、多くの方々が愛する家族の方々を失われました。私は日本が皆様に対して行った全てに対して、大変遺憾に思います。また、私たちがこの60年間、その過去に対して、どのように対処してきたかについても大変申し訳なく思います。私たち、若い世代は「無関心」という仮面を被り、まるで何もなかったようにしてきました。そのような私たちの態度が、どんなに過去の苦難の日々が現実であるオランダの人々の心に突き刺さったことでしょう。私たちの過去の罪、そして現在まで犯してきた心無い行いをどうぞお赦しください。

私もやはり「無関心」を装った一人でした。私は日本で生まれ、20代の前半まで日本で過ごしました。その後、アメリカ人と結婚し、アメリカと日本で暮らしました。また、アメリカ人の宣教師に導かれ、クリスチャンにもなりました。しかし、一度も日本の暗い過去を知ろうとはしませんでした。日本の学校では、大戦中の日本についての歴史を学ぶことはありませんでした。5年前、主人の仕事でドイツに来る前まで、私はその過去について考えたことがなかったのです。

ドイツに引っ越した後、神は日本のために苦しんだ体験をされた方々を私の前に連れて来られたのです。ある時、私は教会で、あるゲストの方が証しをされておられるのを聞きました。証しを聞いているうちに、少しずつ、その方は日本の捕虜でその時のお話をされておられることに気づきました。そこで聞いたことは、私が今まで聞いたことのない話でした。その後、私はその方のところに行き、私の国日本のために苦しまれたことに対して頭を下げました。しかし、それ以上学ぶことはなく、勿論日本とオランダの関係については全く無知でした。ある日、教会でオランダの婦人に出会いました。他の方から、その方は日本の収容所におられたと聞きましたが、詳細を聞くことはできませんでした。心の中で、オランダと日本との間に何があったのだろうかと思いながら、昼食に行きました。座って食べていましたら、私の前にひとりの人が座られました。あのオランダの婦人でした。私に、「日本人ですか」と聞かれました。「はい」と答えましたが、その時生まれて初めて、私は日本人であることが恥ずかしいと思いました。また、日本のために苦しまれたであろう方に対して、「申し訳ない」と言いたくても、何があったのかわからないという無知のために言うことができないことを心から恥ずかしいと思いました。そして、その時、私の国のために傷ついた人々に対して無知のために 二度と素通りをしないと心に決めました。それから、多くの本を読みましたが、自分の国に対する絶望に近い思いに満たされたとても苦しい日々でした。

私はクリスチャンになる前、過去の良くない出来事に対して「後悔」してきました。これが、過去の失敗に対して対処する唯一の方法でした。失敗に対して、後悔し、できるだけ埋め合わせをし、同じ間違いを繰り返さないようにしました。しかし、結果としては何度も繰り返してしまうことが多くありました。

クリスチャンになった時、私は失敗に対して、対処する方法がもう一つあることを知りました。それは、悔い改めでした。「悔い改め」という言葉は、変わる選択をする、今まで歩んできた道を離れるという意味があります。クリスチャンとなる第一歩は、過去の罪を告白し、歩んできた道から立ち返り、神に赦しを求めることから始まりました。今までの「後悔」からは何も変わることはありませんでしたが、「悔い改め」からは新しいクリスチャンとして違う道を歩むことができました。私たちが、国の罪を「後悔」で対処しようとするとき、私たちにはいくつかの選択が残されます。過去を変えようとするか、事実を歪曲しようとするか、それとも、過去を無視し、無関心となるかです。

後悔と違い、悔い改めには、立ち返る地点が必要です。まず最初に私たちの罪を認め、今まで歩んできた道が間違っていたことを認めることです。私の悔い改めの第一歩は私の国の罪を知り認めることでした。そして、第二歩目はどうして私がまだ前の世代の人々が歩んだ延長線上を歩んでいるのか、その罪を知ることでした。その罪は「無関心」です。無関心は私たちが過去を知ることを拒否します。なかったこととして忘れた方が良いのだ、過去を変えることはできないのだからという考えを心にもたらします。自分が最も離れたいと思っている過去と自分を繋ぐものは「無関心」であるということは、皮肉です。道は「悔い改め」のように意識して変えない限り、私たちを同じ方向へと導きます。

どのようにしたら、道を変えることができるのでしょうか。その鍵は聖書にあると思います。聖書はどのように立ち返るかを明確に示しています。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ 1:9)

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ 5:16)

「悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ」 (エゼキエル 18:30)

これらの聖書の言葉から、私たちがすべきことは、罪を認め、告白することです。次へと進むために私たちは、神にそして隣人に罪を告白しなければなりません。第一ヨハネには、そうすれば、神は赦されると書かれています。赦しということは、一度壊れたものが立て直されるために大切なことです。赦しがなければ、未来に向かい共に歩むことはできません。ヤコブの手紙では、お互いのために祈りなさいとあります。私が出会った人々の中には、過去の傷が本当に深く赦すことが困難だといわれた方々もおられます。その時は、その方々の心が癒されますようにと祈り続けています。それは、赦せないということによって、過去がもたらす悲しみや苦しみに縛られてしまうからです。

私は今でも、人の考えでは赦すということは不可能だと思っています。しかし、赦しが私たちに新しい未来をもたらします。私は、自分の国の過去を知ったとき、祖父たちの世代に対して赦せない気持ちでいっぱいになりました。後に、赦せないという心は更に赦せないというものを生み出し、私たちが離れたい、忘れたいという過去に縛りつけ、私たちを過去の囚われ人にすることを学びました。

それを教えてくださったのは、私が出会ったアニーさん、リンダイヤさんをはじめとしたオランダの方々でした。私は今でもその方々お一人お一人が愛に溢れる目で、最も美しい言葉「赦します」と言ってくださったことを覚えています。人がそのような罪を赦すことはできません。神の恵みによってのみ、人の心の中で愛が憎しみに打ち勝つことができるのだと学びました。このように過酷な過去を赦すといわれる方々に出会い、私は自分が赦せないと思っていたことが間違っていたことを知りました。

その時から私は愛を信じる者となりました。愛は何よりも強くどんなものにも打ち勝つことができます。最初にお話したように、私の国は憎しみという種をもって多くのものを壊しました。しかし、私の希望は愛の種によってそれが立て直され、修復されることです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っていま」 (ローマ 8:28)

マザーバジレアが「私たちは愛するためにこの地に生きているのです」とおっしゃったように、私もそれが私たちの生きていく目的だと思います。

和解というのは、この悔い改めのあとにあり、一度壊れた関係の修復の過程です。新しい関係によって、一度関係が壊れた双方が共に新しい目的に向かって歩むことだと思います。そして、魂、体、関係が癒されるときでもあります。音楽がこの中で役割を持っているのではないかと思います。

音楽は昔から人々を癒すために使われてきました。現在では、音楽療法、音波セラピーなどがあります。基本的な考えは体の全ての臓器は音波を出し、それが病に侵されると異常波を出します。それを正常な音波を聞かせることにより、体の本来持っている正常な音波に合わせようとする機能に働きかけ治療するという考えです。私たちの声も声帯だけから出るものではなく、全ての臓器の奏でる音の集まった音なのです。人が怒ったとき、声が普段の声と変わります。それは、感情が声を変えるというよりは、感情によって特定の臓器が異常波を起こし、その結果として声も変わるのです。私たちが傍にいる人々の影響を受けるのも同じです。その人の出す音波を私たちの体は感じ、反応します。心理音楽協会のモスコウ博士は「私は音楽は癒しに対して最も高度な仕組みをもっていると思います。音楽は癒しに新しい体験と変化をもたらすでしょう。」と、言っていますが、私は、音楽は未来と希望のために神がくださった道具だと思います。

私はこの和解の過程において音楽が大切な役割を担うのを見、体験しました。壊れた関係は体にも心にも傷をつけます。私が日本によって苦しめられた方々にお会いした際、その方々の心の傷の深さに気づきました。そして、謝罪から和解の道へと歩むことなしにお別れした方々もおられます。その時も音楽をしていましたが、とても悲しく思いました。音楽はどのジャンルもエンターテインメントを中心に使われてきました。果たして、それが本当に音楽に課せられた使命なのか、音楽はこのように傷ついている人たちを癒すことはできないのだろうかと祈りました。

「Song of Survival」の中のボーカルオーケストラは多くの方々の心を癒し、過酷な状況の中、慰めと平安をもたらしたことを読み、これが本来の音楽の役割ではないのだろうかと思いました。罪、そして緊迫した関係は、私たちの心の中に不協和音を鳴らします。それが続けば、人の体、魂、心はその影響を受け壊れていき、また周りの人々も私たちの不協和音から影響を受けていきます。その中で鳴った協和音ボーカルオーケストラは、すべての方々の体や心に影響を与えていた異常波からの救いとなっていたのではないでしょうか。

私もピアノをコンサートで弾いてきましたが、この分野はまったく新しい分野でした。しかも、どのように学んだらよいかもわかりませんでした。しかし、音楽の本来の役割を求め続け、現在いろいろなミニストリーの中で使っています。

その中で気づきましたこと、体験しましたことが多くあります.

午後にはピアノで音をだしながらお話をさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。

4、 音楽の時間 | シャノン中村容子(ドイツ)

音楽の和解の過程で果たす役割についてお話しし、デモンストレーションを行わせていただきたいと思います。

まず、音楽の役割をお話しする前に、音楽とは何か考えてみましょう。

音楽は、基本的にメロディー、ハーモニー、リズムという3つの要素からできています。私たちの体はまるで音楽を奏でる楽器のようですね。それぞれの器官が音波を出し、それが合わさりハーモニーができ、心臓はリズムを打ち出しています。

リズム Rhythm:
私たちが人間の体を知る時、神がどのように私たちを造られたかという答えが少しずつわかってきます。例えば、私たちの体は規則正しいリズムを基本としています。心臓の音を聴いてみてください。ゆったりとして平安に満たされている時、心臓はゆっくりと鼓動しています。しかし、心配なことがあったり、不安であったりすると鼓動は早くなってきます。ただ、心臓に問題がない限り、不規則なリズムで鼓動することはありません。

*beats: regular/ irregular

Melody/ Harmony
メロディーとハーモニーの働きについてお話ししたいと思います。私たちの体のメロディーを聴くことはできませんので、あるメロディーやハーモニーに私たちの体がどのように反応するかをみて、私たちの体がどのようにできているか調べたいと思います。

メロディー
メロディーは、甘い調和のとれた音列、音型です。これは、意識的に並べられた音列で、無意識に集められた音ではできません。

ハーモニー

1.協和音
平安と安らぎ

2. 不協和音
緊張

3. 不協和音:協和音への解決
一時的な緊張と緩和
緊張が長く続けば緩和への期待が更に高まる

私たちが日常聴いている音楽のほとんどは緊張と緩和のパターンからできています。モーツァルトやベートーベンなど古典派の音楽は、緊張と緩和の安定したパターンからできています。聴き手は安心して聴くことができるため、セラピーに使われます。

1. Mozart –

ロマン派の音楽は協和音への戻りに時間がかかることが多く、安定したパターンの中での冒険という感じがあります。

2. Dvořák  Largo Introduction

しかし、現代では、不協和音が協和音に戻らず、そのまま進行していく曲が多くなりました。浮いている感じ、不安定な感じが強くなります。

4. 不協和音の連続
イライラ、精神的不安定、怒り

ハーモニーは音の関係から成り立っています。人と人の関係に類似したことが多くあります。私たちが他の人々と和合するとき、平安に満たされます。また多少の緊迫した関係があっても、すぐに、またはあまり時間をおかずに和解できたとき、私たちは平安を取り戻します。しかし、緊迫した関係が長く続くと私たちは不安定になり、元に戻るのが困難に思えるようになります。これは心と体の健全な形ではありません。

今まで学んだことより、私たちが 平安を持ち続けるには、規則正しいリズム、均整のとれたメロディー、協和音を基本としたハーモニーが大切であることがわかりました。私たちは規則正しいものの上に安定を感じるようにできているのです。

音楽は体だけではなく心にも語りかける言語のようなものです。私たちの音楽への反応は、コントロールすることが不可能で、しかも、皆共通しています。私たちはそのように造られているのです。私たちは音楽に対してまず体と心で反応します。その後はじめて、歌詞を受け止めることができるのです。

しかし、言葉と音楽は共に働く必要があると思います。音楽は言語であり、私たちの体と心は音楽からメッセージを受けますが、それは、他の言語のようには詳細を示しません。一例を挙げますとピアノのような言葉のない曲を弾くと聴き手によってイメージするものに差があります。

A Wild Rose

どのように感じましたか。この曲はドイツにも住んでいたアメリカ人の作曲家マクダルの森のスケッチから野ばらという曲です。

もう一曲弾いてみます

どのように感じましたか。
言葉

言葉によって作曲家が意図しているものがはっきりしました。音楽と言葉が完全に調和しています。音楽は私たちの心をある方向に向けさせ、言葉は何であるか特定します。

私は、クリスチャンになった後、声にして出す言葉は人に大きなインパクトを与えることを学びました。私たちの記憶も言葉で蓄積されているそうです。私たちが過去のつらいことを思いだすとき、その時に言われた言葉が心に蓄積しています。

癒しのためには二つの要素が共に働く必要があります。

新しいものを受け入れるための心の回路を開けるー方向転換
癒し、励まし、慰めの言葉ー特定する

聖書はどのように言葉を使うか示しています。

ヨシュア 1:8は 私たちが告白し静かに心を集中させれば、それは私たちの行動を変え、結果として現れるとあります。

Joshua 1:8 “This book of the law shall not depart from your mouth, but you shall meditate on it day and night, so that you may be careful to do according to all that is written in it; for then you will make your way prosperous, and then you will have success.

私たちの日常に告白と心に言葉を刻むことを取り入れることが大切です。

私は音楽と言葉をこのように使っています。

音楽に合った言葉を選ぶか、言葉に合った音楽を選ぶ(作曲する)
言葉を声に出し何度も読み心に刻む
心を言葉に瞑想しながら音楽を奏でる
(詩篇23篇、詩篇91篇 を使います)

Example: Psalm 23 – Chopin Étude Op25 No. 1
               Psalm 91 – Beethoven Pathétique sonata 2nd movement

「アメージンググレース」のアレンジを弾きます。各節の内容によってアレンジが変わっていきます。言葉を心に刻みやすくなると思います。

音楽と和解

音楽のもう一つの特徴は私たちに一体感をもたらすことです。私たちが同じ音楽を歌ったり聴いたりする時、私たちは音楽を中心として近づきます。

音楽は和解の中で、次の二つの目的のために使うことができるのではないかと思います。

心の癒し
一体感をもたらす

一度壊れた関係を経験した人々が、新しい目標に向かって一体となって歩むことほどすばらしいことはありません。そのようにすることによって人々の心も癒されていくと思います。

経験

今日は ボーカルオーケストラが歌われた曲の中からドボルザークの「新世界」のテーマを選びました。ドボルザークはボヘミアの作曲家で、音楽院で教えるためにアメリカ(新世界)に来ました。アメリカの黒人音楽に興味をもったドボルザークは研究しましたが、その結果、全くかけ離れていると思っていた故郷ボヘミヤの音楽とアメリカの音楽が共通していることに気づきました。このテーマはボヘミヤの人々にとってはボヘミヤの旋律であり、アメリカの人々にとってはアメリカの旋律に聞こえるのです。そのために和解の旋律と呼ばれています。オランダと日本はとても遠い国ですが、私たちが未来のために共有できるものがあると思います。

1. 旋律のみ
2. 言葉
参加者の方々に3文(もしくは6文)の歌詞を考えていただくのはいかがでしょうか。
3. 歌詞に心を集中させながら旋律を歌う

最後にCaptives’ Hymnを歌いましょう。

5、 閉会の辞 | トン・ステーファン

きわめてユニークな本日の会合も終わりに近づきました。なにがユニークであるか、と申しますと、お互いにかかわり合い、自分たちの歴史とかかわる仕方としては、今回はこれまでに私たちが試みたことのない方向を選んだのではないか、と思うのです。

これまでの私たちの会合の目指すところは、おおまかにまとめますと、
お互いのこれまでの人生の歩みを語り合い、それを聴くことによってお互いに他方の歴史を知り、
自分が受けた傷を相手に示し、それに対する嫌悪と遺憾の意を他者に対して示す
双方とも被害者意識を脱し、
互いを理解し合い、和解に達する道を歩む、
ということになるかと思います。

昨年の会合で、ウィム・リンダイヤ氏がこの点を見事に表現しておられます:

「過去を否定、無視することなく、復讐心から解放されて、未来に向かう道を見出す必要があります。それは、相手をもはや敵としてではなく、一人の人間として敬意をもって接することから始まります」

本日の二人の発表者、ヴァン・ライケヴォルセルさんとシャノン中村さんが私たちをそのような道に導いてくださったことを私たちは多としなければなりません。

ヴォーカル・オーケストラが生み出したものは、私見によれば、生き延びるための力、慰めを与えてくれた、ということだけではなく、それは同時に、力強い抵抗、わたしたちの抑留所の看守兵たちが押し付けた気まま勝手な禁令、どうでもいいような規則に対する抵抗の現れでした。

「歌はまかりならぬ」
「そう? だったらぼくらはこうやろう」

すべての抑留所でうまくいったわけではありません。私たちがまだ知らないことも少なくありません。

男子抑留所の一つに、有名なヴァイオリン奏者シモン・ゴールドベルグがいました。戦争が勃発したとき、彼はインドネシア演奏旅行の途中でした。愛用のストラディヴァリウスは、中立国スイスの市民であったがために抑留を免れたクライス夫妻のところに預かってもらいました。それ以後、彼の音楽を聴いた人はありませんでした。

ピアニストのリリ・クラウスもまさしく1942年にインドネシアでの演奏旅行を始めました。彼女も抑留所入りとなりましたが、ピアノの持ち込みは許されず、彼女の音楽を聴いた人もありませんでした。しかし、抑留所に入る前とそこを出た後に彼女の演奏会に出た人によれば、抑留所生活を体験した結果として彼女の演奏には深みが加わったそうです。抑留所の体験も悪いばかりではなかったことがここからお分かりになるかと思います。でも、彼女にマーガレット・ドライバラやノーラ・チェインバースの勇気があったら、と願わずにはいられません。

大多数の抑留所では音楽はあまり楽しいものとしては扱われませんでした。私は、母親たちが「お日様が消えた、畑が赤く染まった。。。」という歌を歌ったり、口笛吹いていたのを覚えている程度です。とくに、日の昇る国の代表者がそばに来たりすると、よくその歌を口ずさんだように思います。そして、もちろん、「砂山の白いてっぺん」というのはヒット曲でした。音楽といえばせいぜいその程度でした。

少年抑留所でも元気のいい”Zing ik Yaya Yippee Yippee Yee …”を果てしもなく繰り返すぐらいが精一杯でした。それから、「門脇さん、先へ、先へ」というのもあり、そのあとに、卑猥な体験をあれも、これもしてらっしゃい、と付け足すのでした。そういうことは男の子たちにはお手の物でした。相手は門脇さんだったり、看守の木村さんだったりしましたが、あまり上品でないお世辞をたんまり用意していました。

しかし、私がこれまでに聞いた一番美しい深夜のミサの賛美歌は少年収容所で聞きました。抑留所に入れられた当初から、教会の礼拝は御法度で、日曜は仕事があり、水曜日だけが休みでした。しかし、突如として、1944年のクリスマスから、神父が真夜中に、点呼の行われる広場でミサを行うことが許可されました。抑留所で看護婦をしていた数名の尼さんたちが歌いました。もちろん、押し殺したような声で歌ったのですが、あれは一生忘れられません。

二度目に、そしてそれが最後になりましたが、私が神父の賛美歌の声を聞いたのは1945年8月23日のことでした。その前に、オランダ空軍の飛行機が私たちの抑留所の上空に飛来して、戦争が終わったことを知らせるビラを撒いていきました。これがいったい何を意味するのかを一生懸命考えていたとき、点呼の行われる広場の真ん中で、汚れてすっかり色褪せた式服に身をまとった神父が声高にTe deum laudamusと歌い始めました。その場に居合わせた少年たちの中には一緒について歌えるものは一人もいませんでしたし、歌詞の意味も解らない者もいましたが、「おお、神よ、あなたをほめ讃えます」という意味の賛美歌でした。

みなさま、Song of Survivalが北米、オランダ、日本で力を発揮し始めたのはこの時なのです。私たちは、本日、これについていろんなことを聞きました。この歌の「声」を通じて、その背後にある物語が世界中に知れ渡りました。ヴァン・ライケヴォルセルさん、お母様はその著書を通じて、講演を通じてこれをはじめられました。あなた御自身もお母様の遺志を継いでこの仕事を続けておられます。そして、こんどは御子息も。今日のお話を伺って私たちの驚異の念は深まるばかりです。

このようにして、私たちは今日、私たち自身がこれをどのように継続していくことができるかを学びました: 抵抗に始まって、生き延び、相手を受け入れることによって和解へと。

しかし、和解の達成はけっして生易しいことではありません。中村さん、あなたは、どのようにして音楽が癒しをもたらすことができるかを私たちに示そうとしてくださいました。「遺憾」にはじまって、「改悛」を通り、「和解」に至るために「赦し」に進むというその道程を御自分がどのようにたどられたかを語ってくださり、私たちは深く心をうたれました。そのあと、音楽が「癒し」の過程においてどのようにしてそれ独自の役割を果たしうるかを実演してみせてくださいました。これを今日私たちが実感、体験することができるようになってもらいたい、というのがあなたのご希望でした。まことに有り難うございました。

今日の会合もそろそろ終わりかけています。私たちの胸に、頭に音楽が溢れています。

別な「囚われ人の讃歌」をもって本日のプログラムを閉じてはいかがなものかと思います。これは、日本の憲兵によって、規則違反かなにかの理由で逮捕されたインドネシア人の少女の歌です。毎日のように長時間にわたって尋問され、拷問を受けた後、自分の獄舎で彼女が歌った歌です。憲兵隊による拘留期間が終わって戻ってきた他の者たちを通じて別の抑留所へと伝わっていった歌です。それゆえに、この歌は8月15日の解放記念日に歌われる「インドネシア語の主の祈り」です。

[訳:村岡崇光]