日蘭における歴史教育

2003年 5月10日 ライデン

プログラム

  1. 開会の辞
  2. 加害者は気がつきにくく、被害者は忘れにくい
  3. 歴史をめぐる格闘:家永三郎の遺したもの
  4. オランダの中等学校の歴史教育
  5. 日本の中学校の歴史教育

1、 開会の辞 | 村岡崇光

(原稿なし)

2、 加害者は気がつきにくく、被害者は忘れにくい | 信太正道 (日本)

(信太さんは、前回の会合にきていただく予定で実現しなかったのですが、今回ははるばる日本からこの会合のためにオランダまでお出でいただきました。信太さんは、数少ない特攻隊員の生き残りで、「最後の特攻隊員、二度目の『遺書』」をいう本を書かれ、「日本厭戦庶民の会」という平和運動の団体の設立者でもあります。)

おはようございます。

本日は日蘭対話集会にお招き下さいまして光栄に存じます。

私はオランダが大好きです。日本人とオランダ人はソリが合うのでしょう。1543年にポルトガルの軍艦が沖縄の近くの島に漂着し、鉄砲を伝えました。 1549年にはイエズス会のサン・フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えました。日本の近代史の始まりです。しかし、日本はポルトガルとはソリが合わ なかったようです。そして日本は1639年に彼らを国外に追放し、以後1867年の天皇の政府が始まるまでの230年間の長きに渡って日本は鎖国しました。ただ例外があります。ポルトガルが国外追放された2年後の1641年、武家政府はオランダ商館を長崎の出島に移し、日本が開国するまでの230年間、 日本駐在を認めました。日本はオランダを通じて辛うじて世界から孤立することを免れました。ありがとうございます。あらためてお礼を申し上げます。19世紀の中頃、米英ロシアが日本を狙った時、日本に開国を勧告したのはオランダの国王でした。お陰で日本はフセイン政権のような崩壊を免れました。

今日の会に参加の皆様は日常の生活を通じ、日蘭の友好関係について造詣が深いことと信じます。私の冒頭の発言はまさに釈迦に説法ですが、敢えて私のスタンスをお知らせしたくて申し上げました。

本日の会の趣旨は、国籍・民族の違う人たちがどのように努力して理解し合うかという点にあると思います。大切なことはお互いに虚心担懐になることです。外交辞令は有害です。

そこで私はキーワードから始めたいと思います。

加害は気がつきにくく、被害は忘れにくい

特に国籍・民族が違う場合、相互理解は至難の業です。しかしその前に、戦争が生み出す憎しみについて少し触れたいと思います。

1931年、中国北部の満州で、満州鉄道の線路が爆破され、太平洋戦争に続く15年戦争が開始されました。日本側の公式発表では、中国軍のいやがらせということですが、実際は日本軍の自作自演の鉄道破壊でした。1964年、トンキン湾で北ベトナム魚雷艇にアメリカ駆逐艦が攻撃されたと事実をデッチあげ、ベ トナム戦争をはじめたアメリカのやりかたに似ていますね。

1933年に日本の傀儡国家満州が建国されました。日本政府は国民に「無限の原野満州へ行こう」と移民を奨励しました。折りから失業していた叔父信太順次 夫婦は子供たち4人を連れて満州の開拓のために出発しました。しかし、満州は無限の原野ではなかったのです。すべて中国人の土地でした。叔父は中国人たちの敵意に苦しみました。

1937年7月7日、北京市外廬溝橋で日中両軍が衝突し、本格的な日中戦争が始まりました。その直後の7月29日、通州で日本人避難民300名ほとんどが中国軍によって虐殺されました。犠牲者の死体は手足首をばらばらに切られ、路上に放置されました。日本国内では怒りの世論が沸騰し、断固軍部支持に傾いて いきました。9・11事件の後のアメリカ国民と同じです。

しかし、1932年以降に生まれた日本人で通州事件を知っている人はほとんどおりません。戦後も日本の教科書では全く触れていません。日中関係が悪化する ことを恐れているからです。また不思議に右翼も取り上げていません。通州事件の5ヶ月の後、南京大虐殺がありましたが、右翼はこの大虐殺の存在を認めていません。通州事件を認めれば、南京大虐殺はありうると連想されることを恐れたからでしょう。また、平和運動に関係する人たちも通州事件を認めていません。 日本人は中国人に与えた加害だけを考えればいい、被害を考える必要がない、と思っていうのかも知れません。

ところが漫画家小林よしのりは5年前の1998年、戦争論を書き、通州事件に触れました。この本は1年間で95万部を売りつくされ、ベストセラーになりました。彼は極右です。彼の描いた通州事件を最後のページに紹介します。

通州事件の頃、小学校の5年生一同と講堂で見た「日本人ここにあり」という映画を忘れることができません。満州開拓民の話です。

————ある夜、子供を含 む十数名の満州開拓団の日本人が、手を荒縄で縛られ、口にはさるぐつわをはめられて、公民館の講堂のような所に連行されてきました。後ろには中国人の民兵 が、小銃で彼らをこづいています。そのうち開拓民のいなくなったことに気が付いた日本兵が「日本人はおらんか!」と声を張り上げ、次第に公民館に近づいて きました。しかし、まだ気がついていません。捕虜になっている一人の日本人の手の縄がゆるみ、彼は必死になってふりほどこうとしました。私たちは手に汗を 握りました。ついに民兵にみつかり、銃床で背中を突かれてしまいました。日本兵の声は次第に遠ざかっていきます。そのうち一人の男のさるぐつわがゆるみ、 彼は大声で、「日本人、ここにあり!」と絶叫しました。とたんに「だだーん」と銃声が鳴り、彼の額からは血が噴き出します。周囲の日本人が彼に覆い被さ り、彼を守りました。 銃声を聞いた日本兵が公民館に殺到、ついに開拓民全員を救出し、民兵全員を逮捕しました。————

私たち観客の小学校5年生は、声を張り上げお互いに抱き合って泣きました。

これは実話です。絶叫した日本人は村上久米太郎さんです。彼は幸いに一命をとりとめ、満州国及び日本政府から名誉賞が授与されました。当時の日本人は民間人を拉致する中国人の陰湿さを呪いました。しかし、開拓民たちは加害者であり、真の被害者は土地を取り上げられた中国人であること、そして最悪の加害者は 満州を植民地にしようとした日本政府であることに気がついたのは、最近の日本人ではないかと思います。

私の母は1902年、北朝鮮の首都、平壌で生まれました。平壌の女学校在学中、祖母は離婚し、母は日本に帰って師範学校を卒業し、1922年に姉を、26 年に私を産みました。祖母は平壌で小さな雑貨店を経営していた日本人と再婚しました。1945年8月15日、日本は敗れました。祖母と継祖父は1ヶ月後、 朝鮮を追放され、母を頼りに私たちの家の近くに引き上げて来ました。私たちの家族にとって継祖父は見知らぬ人でした。この人は、日本に帰って、朝から晩まで私たちに次のような朝鮮人の悪口だけを話し続けました。

敗戦の日、いきなり使用人の朝鮮人一家が祖母たちの家に入り込みました。継祖父は、「無礼者、人の家に勝手に入るな」と激怒しました。使用人は、「この家 は俺の物だ」といって女房や子供達を中に引き入れました。祖母たちはやむをえず小さな使用人の家に移動せざるを得ませんでした。当時町中で暴動が発生し、 日の丸が焼かれ、彼らはかねて用意した朝鮮の国旗を振り回しました。数多くの日本人が朝鮮人から暴行を受け、家財道具なども強奪されたそうです。また日本 の侵略の象徴である朝鮮神社はその日のうちに、焼かれてしまいました。それまで日本人は朝鮮に恩恵だけを施したと信じていたのです。継祖父も使用人とその家族に苦しみを与えたことを死ぬまで認めようとしませんでした。

敗戦の翌年の1946年、姉は母の平壌女学校時代の恩師の子と結婚し、一郎を産んだ後、直ちに離婚しました。それから数年して朝鮮人李殷直(リン・インスク)と再婚し、現在に至っています。一郎は実の父親を知りません。

一郎が小学校2年生のとき、姉と、一郎と李殷直の3人で横浜公園で一日遊びました。その時の一郎の作文を姉が読んで失望しました。姉と二人で一日中遊び、楽しかったと記し、李・直が一緒にいたことを完全に無視しているのです。

1948年ころ、李殷直の招待で、日朝友好平和集会に参加しました。200名以上の参加者がホールを埋めました。社会党の国会議員が「日本と朝鮮の間に は、過去に不幸なことがありました。しかし、日朝の未来のために、私たちは過去を水に流し、友好に努力しましょう」と挨拶しました。途端に満場に割れんば かりの怒声が飛び交いました。

「過去を水に流すとはなんだ!」

「過去を忘れることは俺たちの堕落だ!」

李殷直は優しい人です。今でも私の姉をこよなく愛しています。姉と結婚以来、母が1985年に亡くなるまで、母をその家に引き取り、大切にしました。

1975年ころ、李殷直の長男の結婚式に私たち夫婦も招待されました。私たちにとって、朝鮮人の結婚式に参加するのは初めての経験です。日本の結婚式と 違って極めて賑やかでした。やがて、新郎が新郎の継母にあたる私の姉と手を組みながら結婚式場に入場してきました。姉は朝鮮の伝統的婦人服を着ています。 それを見て私の母は思わず、ハンカチで涙を拭きました。母は頭では、朝鮮人との過去のわだかまりは清算できたと思っています。でも心では自分の娘が朝鮮服 を着ることに非常な悲しみを覚えるのです。

10年ほど前、姉の子、一郎は名著「朝鮮の歴史と日本」を書きました。勿論、韓国と北朝鮮で翻訳され出版されています。その40年前、李・直と姉と3人で 横浜公園を散歩した時、父を姉から奪った憎き李殷直を完全に無視した一郎は大変な成長を遂げました。李殷直は実子よりも一郎を愛しています。李殷直は「在 日朝鮮人学校の生みの親」として昨年、NHKの特集番組で全国に放映されました。彼は金正日(キン・ジョンイル)北朝鮮総書記の父親金日成(キン・イルソ ン)首相から勲章を受けました。でも李殷直は息子の金正日総書記を嫌っているようです。本音は解りません。

1993年、私たち不戦兵士の会(Anti−War Veterans)は広島の被爆者と共に、ソウルの独立記念館などを見学し、日本の侵略戦争史を勉強する旅に出発しました。その前に私は、広島で焼肉屋を経営する韓国人被害者の姜文煕(カン・ムンヒ)さんを訪問しました。

姜さん:「朝鮮民族500年のハンを忘れないで下さい。」

私 :「ハンって何ですか?」

姜さん:「恨みです。」

私 :「えーっ、500年ですか?私は100年だと思っていました。」

姜さん:「500年です。」

今、日本と北朝鮮は拉致問題で荒れています。30年ほど前、13人が拉致され、そのうち8名が死亡したことを金正日総書記が認め、小泉首相に謝罪し、生存 者5人の帰国を認めました。金総書記は拉致責任者を極刑にしました。しかし。日本政府は何十万の朝鮮人を強制連行し、従軍慰安婦を徴発しているのです。そ のうちの多数は死にました。日本政府は自発的に全く調査していません。謝罪どころか、なんら個人的な弁償もしておりません。過去の過ちを認めようとしない のです。

不幸にして日本人と朝鮮人との間には過去のわだかまりが大きすぎます。加害者は一方的に日本人だと私は信じています。だから、強烈な憎しみの報復を受けたのです。

最近日本では朝鮮人いじめのネオ・コン(新保守主義)の勢力が力をつけて来ました。日本の良識的な朝日新聞に対する一市民からの投書を紹介します。「政府 は拉致問題をどう認識しているのだろう。自国民が他国により国外に連れ去られたのだ。日本は、憲法に制約があるので、武力行使こそできぬが、国家の主権や 経済制裁の権利までは放棄していない。政府は北朝鮮の核問題を巡る多国間協議にいくらか展望が見え始めたことに配慮しているようだが、相手はとても良識が 通用する国とは見えない。私は政府に要望する。日本国民の自由と生命を侵害する国に対し、日本国民の無念と怒りを思い知らせてほしい。」

——>皆さん、この投書者に日本国憲法9条に対する憎しみが読み取れますか?日本国憲法9条を紹介します。

THE CONSTITUTION OF JAPAN

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based in justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.

The right of belligerency of the state will not be recognized.

今、日本の憲法9条は危機に瀕しています。アメリカの先制攻撃を支援する戦争法がただ今、国会で審議されています。4日前の5月6日も国会を傍聴してきま した。状況は極めて悪いです。日本は憲法9条と正反対の道を歩み、ついに世界第三の軍事大国になってしまいました。私は阻止運動の一員として速やかに帰国 しなければなりません。去年は折角お招きを受けながら、日本の政治状況が悪化し、お断りし、皆様に大変なご迷惑をかけたことを深くお詫び申し上げます。

去年はオランダ再訪問の前に、インドネシア人の本音を聞きたく、太平洋戦争の時、スマトラに3年間駐在した元日本兵と共に、インドネシア大使館を訪ね、一時間半にわたり、シャハリ・サキディン公使参事官のお話を伺いました。その概要をご報告します。

信太:昨年オランダから帰って私は次のような話を日本航空ジャカルタ支店元職員から聞いた。「日本政府はアジアの従軍慰安婦に謝罪していないにもかかわら ず、オランダの従軍慰安婦に賠償した。インドネシア紙はその社説で『泥棒が泥棒に賠償した』と書いた。また100年前の話だが、オランダの高官がインドネ シアの女性をmistressにした。インドネシアの青年が彼女に恋をした。怒った高官は、裁判にもかけずにその青年を殺した。インドネシアでは今でもこ の悲恋物語が語り継がれている」と。この話の真偽についてサキディン氏はどう思われるか?

サキディン氏:私は外交官である。デリケートな問題には慎重に取り組まなければならない。だが、事実を変えてはいけない。インドネシアの国民は、大きなト ラウマを抱えている。オランダがインドネシアを占領したのは100年ではない。350年だ。オランダは350年にわたりインドネシアを占領し、私たちの誇 りを傷つけた。日本は第二次世界大戦のとき、インドネシアを3年半占領した。オランダの占領は日本の占領に正に100倍の長さである。

信太:しかし、オランダは商業国家である。日本の軍事占領を違って350年間、平和にインドネシアを占領したのではないか?

サキディン氏:オランダは自国を裕福にするために350年間もインドネシアを占領した。インドネシア国民にとっては、軍事目的であろうと、民族の誇りを奪 われたことには変わりない。1700年代より各地でオランダ人を追放しようとの戦いが始まった。だが、オランダはインドネシアに国家としての力を持たせな かった。だから全国的規模での戦争をすることができなかった。オランダとの戦いは、日本がインドネシアを占領してからも続いた。

信太:イギリスではインドを統治するために階級分裂を利用した。インドネシアも内部分裂があったのではないか?

サキディン氏:イギリスのことは知らない。だがオランダ人はインドネシア人を常に細分化させた。決して国家としてまとまることを許さなかった。

信太:1942年に日本がインドネシアに進出したときも同じではなかったか?

サキディン氏:その時、スカルノ大統領は、独立のために一旦日本に協力するという戦略を取ったのは事実。かなりの若者が日本の軍隊の訓練を受けさせられ た。この組織がインドネシア軍の核になった。日本は資源の獲得のためにインドネシアの若者を使ったのは初めから知っていた。

以上は外交官の話です。太平洋戦争が始まるとき、日本はアジアの解放を謳いました。しかし、現実は資源戦争だったのです。すべて近代戦は強国の国益の追求 が原因です。私が戦争から学んだ教訓は「愛国心こそ人類の敵」です。そして強国の愛国心の犠牲になるのは常に弱小国の庶民です。武器を持たない彼らは永遠 のテロ戦争を続けるでしょう。私たい一人一人は国家のくびきを払いのけ、過去をつまみ食いすることなく、自己の政府が犯した弱小国に対する過去の過ちを直 視し、未来のために政府を糾弾することこそ、私たち地球人に与えられた最高の任務だと確信します。

ご静聴ありがとうございました。

3、 歴史をめぐる格闘:家永三郎の遺したもの | リッキ・ケルステン教授

(ライデン大学日本学科)

遺産の消滅?

学者が英雄になるなどということは普通ありえないし考えもしないだろう。しかし日本人歴史家、家永三郎についてはこれを自明のこととして前提しても許されるだろう。痛々しいほどの痩躯に禿頭に眼鏡、家永はチャンピオンというよりは、細長く引き伸ばされた雀というイメージを思い浮かばせた。家永は青年時代、その虚弱体質があまりにも顕著だったため、第二次世界大戦の軍役には不適格と烙印を押され、彼が得た最も軍務らしい任務といえば、戦争終盤の絶望的状況になってようやく予備兵役という不名誉な身分を与えられたことであった。

家永は2002年11月29日、享年89歳で急逝した。何年か前の丸山真男と同様、彼の葬儀は家族だけの密葬であった。これは、まちがいなく世間から絶大な関心を呼び起こしたに違いなかったにもかかわらずである。来世にどのような審判が我々を待っているかは分からないが、死はいつも例外なしにその人の現世での業績の集大成の評価を残された者に求める。尊敬と批判的評価の精神を心がけて、私は家永三郎の遺したものについて考察したい。

周知のとおり、家永の人生の後半40年間は、その時代に生きた人々に彼の強烈なイメージを焼き付けた。予想外に長寿を全うした家永は人生の後半 で、現代日本の進歩的な一般民衆から、英雄の称号だけではなく、さらに改革戦士の称号を獲得した。この学究肌の大学教授は、彼の書いた歴史教科書の検定についての裁判でなんと32年間も戦い続け、たった一人で日本国家に対して挑戦し続けたのである。これらの訴訟と家永の名声の核心は、日本が戦争中に犯した、不快感を抱かせるような犯罪や、また嫌悪感を起こさせるような行動の詳細な記述を、学校の歴史教科書に載せるべきだ、という信念であった。戦時中の非 戦闘員が、奇しくも戦後日本の良心を守るための戦士となったのである。

一見した所、家永の物語は「崇高な失敗」の一つの例に過ぎない。つまり、この日本の英雄の得たものはと言えば、敗北が始めから見え透いていたにもかかわらず果敢に挑んだ英雄の誉れである。彼の三件の控訴のうち全面勝訴に終わったものは一つも無い。1970年の 部分的勝利は上訴によってすぐにうやむやになり、1997年の最終裁定は、瑣末な点について部分的に認められたに過ぎなかった。  さらに重要な事は、現在の日本では、学校での第2次世界大戦の教え方について、修正主義者(歴史改竄主義 者)や保守派の人々が論争の中心舞台に立っているということである。1997年以来、「自由主義史観研究会」と一般に呼ばれている会派とその実践活動を担 う「新しい歴史教科書を作る会」が、自分達独自の戦争解釈を書いてしばしばベストセラーの上位にのし上がった。 [注1] 護教主義者たちは自己の立場を臆面もなく打ち出し、執拗なまでに国粋主義的な内容の安い本を大衆市場に売り込み、その勢いに乗じて中学校用の新しい教科書の著作への道を切り開いていった。 [注2] たとえ家永が何らかの遺産を後世に残したとしても、こういう運動が存在するという事実からして、その遺産は、よくて過去の歴史上の風変わりな一事件、悪くすると、誰からも忘れられた遺産ということになりそうである。

この「作る会」の教科書「新しい日本の歴史」は、家永を裁判所に駆り立てたのと同じ公的機関の検定により137におよぶ強制修正を課せられた後、学校での使用の認定を受け2002年4月から入手できるようになった。しかし、この事が何の問題もなくスムーズに 運ばれたわけではなく、文部省が2001年3月にこの教科書を検定認定したと発表した時点で韓国駐日大使に本国から帰国命令が出たり、韓国、中国双方から 膨大な修正要請や公式抗議を含む大騒動があった上のことであった。また、著名な歴史家8人が、この教科書の修正後にも51箇所において客観的事実に誤りがあるとしてその項目別リストを公表した。

現代日本の政治の保守化をみると、家永がなんらかの影響を与えたことにたいして否定的に見える。2003年の日本には、超保守派の総理大臣がいる。この首相は、初期の人気に励まされたのか、歴代の首相がやむを得ず纏っていた「私的立場で」という隠れ蓑を脱ぎ捨て、8月15日の敗戦記念日に(日本の戦犯を含む戦死者が祀られている)靖国神社の追悼参拝を公式に行った。1990年代に次々と日本の裁判所に提出され た(主に外国の)戦争被害者からの謝罪と補償を求める訴訟は、その争点に関しては、終戦後の国家間の条約で国際法に准じて既に解決されている、という口実で例外なく却下されている。

今日の日本の歴史家では、漫画家(例えば小林よしのりの如き)でも歴史家になれる。彼らは戦争の複雑性や人々の記憶を、マンガのページの中に白黒で描いた登場人物の口から出る吹き出しに殴り書きする。国連平和維持活動への軍隊派遣などというきわめて問題の多い争点は、1990年前半には凄まじい全国的論争や怒りを呼び起こしたが、現在ではかろうじて不平があがるぐらいで国会を通過する。日本の平和憲法第9条の改正はすでに時間の問題にすら見える。

それでは、家永の遺したものはどこかに消えてしまったのだろうか。たとえ現在優勢に立つ修正主義者たちの運動の稲妻のような激しさによってそう見えても、家永は、実は、実質的に戦争に関する日本の歴史の様相を根本的に描き変えてしまったのである。事実、穢れた 過去を否定することに必死になっている現代日本の修正主義者たちの熱狂は、家永が戦後日本の知識人の生き方に与えた衝撃に正比例している。家永抜きでは、小林よしのりの存在はなかったであろう。マンガの中の修正主義は戦後世代の若者の間に非常に受けがよく、また影響力がある。しかし、それが存在するのもま た、戦場を一度も見たことがないこの病弱な学者が輪郭を形作った領域のなかでのことすぎないのである。

家永について

家永は、最初に訴訟を起こした1965年以来、教科書裁判のおもだった節目ごとに、また膨大な関係出版物の中で、意識的に、また力を込めて彼の運動の動機を提示してきた。家永は自伝的な発言の中で、自分の戦後の活動は、「戦後責任」つまり戦時中の日本国家が軍 国主義に走るのを防げなかった償いのための、一個人としてのキャンペーンだと記述している。彼が1940年代に若者達に皇国神話や天皇制の「歴史」を教えたということ自体、彼自身が受身ながらその軍国主義の片棒を担いだ協力者以外の何者でもない、と告白するのだった。

1913年、家永は名古屋に生まれ、なんとはなく学問の道にはいった。すくなくとも、本人はそう思いたいら しい。病弱気質であったため、他に活躍できる選択肢の道は閉ざされていたと自身記している。ただ、彼の知性が目を見張らせるほど群を抜いていたことについ ては、彼自身少しも強調していないが、普通には考え難いことだが、ここでも実用主義と臆病とが抱き合わせになっている。彼は本来は哲学の勉強をしたかった ようだがそこには将来の生活手段が見えなかった。そこで歴史を彼の進む道と決めたのだった。  家永は1931年に高校に入学したが、その年は日本が帝国主義の大冒険を満州で始めた年であり、彼も他の生 徒と一緒にご真影に向かって最敬礼をした。彼が1937年に大学を卒業した頃には満州事変は中国との全面戦争に発展していた。彼にとっての日本帝国の現実 との遭遇は、彼が卒業論文の一部を出版しようとした時に、同僚の学者や雑誌の編集者達によって挫折させられたことによって印象深いもとなった。要するに彼 の論題が皇国神話に抵触しているので危険すぎると見なされたのだった。家永は自身こう書いている。「私の最初の学術的論文として活字になるはずだったこの 原稿は、死亡宣告を受けゲラ刷りの状態で葬られた。そしてそれは、敗戦まで堅く鍵をかけてしまっておく以外には、なす術がなかった。」 [注3]

彼の自伝的物語は、その後1940年代に彼が高校の教師となったあたりで、奇妙な方向転換を見せている。彼は職員室の掲示板にかかった中国からオーストラリアそして太平洋へと進軍していく日本の軍隊の輝かしい快進撃を追う小さなピンクの旗の押された地図について生き生きと描写している。彼は、権威主義的統制と思想警察の時代の歴史教師としての自分の苦しい立場を、外国のイデオロギーを蔑む証としてイエスの像を踏ませられた16世紀の日本のキリスト教徒になぞらえ、「踏絵の世界」のようだと述べている。  これは実に興味をそそる連想だ。この段階で家永は厳密な学問という体系以外に何の思想も信条ももっていな かった。という事は、彼は歴史という学問分野そのものを裏切るよう強制されたと感じた、と言わんとしているのである。家永は、次第に歴史の歪みと去勢を、戦争の原因そのものとかみ合わせていった。「殆ど全ての人々は、若い頃から一つの考えの枠に押し込まれるような教育を受けてきた。言いかえるなら、教育者らは若者達を、国家を独自に批判するなどとはけしからぬ事で、その国家がたとえどんなに間違っていようともその政策に従わなければならない、というような 考えの枠に押し込んできたのである。したがって、1868年来の教育は、この悲劇をもたらした重い責任がある。」 [注4]

同じ専門分野の多くの学者達とは違って、戦後からゼロ年が始まるなどという観念を許容する事は、家永にとって個人的責任において出来ることではなかった。 それどころか彼の戦後の活動は、戦争中に体制に抵抗しなかったという悔恨と切り離せない当然の成り行きであった。彼は自身が戦争中に体制派であったことを酷評し、次のように言っている。「私は国家の口馬にのせられて授業をした事に恥じ入っています。」 [注5] 家永は、彼の戦後の運動を通して、戦争中の無能さはそれがたとえどんなに消極的だったにせよ戦争に同調した人全員にある種の責任が課せられていることを示唆したのである。「私は教室で試みられ辛いところを通らされました。そしてその事実が私の魂の根底までも傷つけたのであります。」 [注6]

戦後初めての教科書の記述に関わった家永は、1950年代に文部省のために自分の教科書の起草を始めた。同時に戦後10年の間、冷戦を背景に日本に対する占領軍政策が進むに従い、彼自身さらに過激化し、ことに、教育に関してはそれが著しかった。日本が1952年に独立した後、保守政治家たちがさらに教育の内容に口出ししようとすると、家永は被告の証人として次々と教科書訴訟に自分から巻き込まれていった。

ついに1965年、家永は日本当局を抑制しなければならないと感じ、彼自身の訴訟を文部省そのものに対して提出した。文部官僚達による彼の高校教科書の草案への度重なる批判的な検定に怒り心頭に達し、また彼に課せられた修正に対する不合格理由に激怒し、家永は、のちに数多くの一般市民を初め何世代にもわたる弁護士や学者達の心を熱く燃やすことになった旅に出帆したのだった。

教科書訴訟

家永の伝説的裁判訴訟は、戦後世代のあらゆる職業や階級の人々の心を奮い立たせ、過激化させた。それは、冷戦時の協力者とか奇跡的な経済復興などということで民主主義の正統的メンバーになったと自己満足していた戦後日本において、思想の自由こそは、実に今日的 重要問題だととらえることを通して起こったのであった。またさらに彼の個人的自戒の意義と訴訟そのものの意義がさらに深く共鳴しあった結果でもあった。

家永の歴史闘争をめぐる格闘はさらに大きな問題を露呈した。つまり、日本がいかに戦後民主主義の実体と第2次世界大戦の歴史とのずれを矯正し調和させるのを怠ってきたか、ということが表面に出てきたのである。そして教科書裁判を通して、戦争の歴史を語る事と戦 争の有罪責任を甘受するという事が、戦後日本の民主主義をテストするリトマス試験紙のようなものになった。

教科書裁判の法的要旨は非常に簡潔であった。学校の教科書検定制度は検閲制度という点で教育の自由を否定するので違憲であるというものであった。さらに、検定制度は、アメリカ占領軍が教育を民主主義化の道具として使うために1947年に作った教育基本法の精神 に違反しているというものであった。この間、家永裁判は判例をたてにとって敗訴に終わるということが繰り返されるようになったので、彼は教科書の内容に関しての裁定に大臣による越権行為が頻繁にあったと判断し、彼の訴訟の拠り所を検定制度自体の非合法性に的を絞るよう転換した。

基本的な民主主義の権利がこれらの控訴の支柱であるように見受けられるが、実際まさにそうであった。しか し、この裁判は戦後世代に日本の戦争犯罪について教えるべきかどうかということに関する争いでもあった。そしてこの不快な事実が傍観者達にも当事者達と同様、民主的な正当性に関する抽象的な哲学以上のものに直面させたのであった。  家永の教科書の検定において教科書検定審議会は歴史教育の目的は愛国的な国民を育てることだという信念を露わにした。1957年、審議会は家永を次のように批判した。「過去についての正確な歴史よりも自己反省を勧める過分な熱情」と、また「日本史教育の目 標・・・(つまり)祖先の努力を認識し日本人である事の意識を高め、その民族に対する豊かな愛情を教え込む」事から逸れていると批判したのである。[注7] 1964年、彼は同じような理由で300以上の修正を言い渡された。

検定の全体的姿勢と口調は、過去の出来事を利用し、現在を前向きに構築していく基礎を与えるための道具として使おうとする願望に他ならない。南京攻略における婦女暴行に対するコメントとして、一人の検定委員は「軍隊の士卒が婦女を暴行する現象は世界共通のことだから、日本軍についてのみ特筆するな」と発表した。そして家永が彼の教科書の草稿に、不具にされた日本兵の写真を入れたことについては、「これは戦争について過度に否定的な印象を伝える」 [注8] と決めつけた。戦争に向かっていく国家はその市民の利害になど関心をもたないということを将来の世代に警告することこそ家永の目的であった。そしてこのとこそ、文部省にとってまさに問題の核心であった。

歴史一般、特に第2次世界大戦に対する戦後の日本国家の姿勢は、その公的な自己像と共存できる関係ではありえなかった。国家の過去の行動やまたその国家と社会との関係から不快なものを取り除くことによって、日本の教育官僚たちは、将来この関係がいかにあるべきかという彼らの理想像を確定しようと試みていたのである。

この裁判はまた歴史学に対しても重大な意味を持つ。家永の教科書草稿の検定で、文部省は歴史とは総体的合意の下につくられるものであるという強い信念を明らかにした。例えば「731部隊の事については、現時点で信頼できる学問的研究が存在しない」という理由で 731部隊については教科書で言及することは出来ないと反対した。彼らの言う「通常認められている」必要性とか事柄の「正しい」視点などといったものは、 正統的見解、公式の歴史観を云々するに異ならない。

さらに、この教科書裁判を通して正統的歴史というのが歴史家によって決められるのではなく、実は法律家や官僚達によって決まるということが私達に明らかにされた。ある部分が許容範囲内にあるかどうかという裁定とは、ある特定の歴史解釈に対する公的認定と変わらない。一つの部分を削除するということは、ある出来事の解釈の正当性を退けるのみに留まらず、またその出来事の存在そのものを退けることと同様である。そうなると、「従軍慰安婦」は存在したが、それでは「南京戦の中国人婦女暴行」は本当に起こったのだろうか。  最後に、永原慶二がいみじくも指摘しているように、歴史教育の目標が愛国的市民を作り出すことに他ならない という事が判明することによって、文部省は教育を学術研究から事実上切り離してしまった。21世紀の日本では、教育とプロパガンダの間の距離が蜘蛛の糸ほ どに狭まっている。[注9]

しかしながら、過去何十年もの間、家永の証人として裁判に立った何百人もの歴史家達はそれぞれ全くちがった教訓を学んだ。彼らは、歴史学、特に日本の第2次世界大戦の歴史について研究したり論文を書くということが、倫理的また社会的責任と結び付けることが可能で あることを知ったのである。これら多くの個々の学者達にとっては、たとえ受身でも体制の協力者になる、という選択肢はもうありえないだろう。

家永裁判の直接の結果として、「従軍慰安婦」「南京戦での中国婦女子暴行」「731部隊」は現在日本の歴史教科書に載せることができるようになった。1997年4月から全ての中学校教科書に「従軍慰安婦」が記載されたことことが、今日、特に「新しい教科書を作る会」という形で続いている修正主義者たちのグループからの怒り狂った反動の発端となった。修正主義者側もそれなりの成功を収めた。彼らの怒りの圧力を感 じて、教科書出版社みずからが強制検定と検定認可の手続きにはいる以前に、自分たちの教科書の自己検閲に積極的にのり出している。2001年4月、8冊のうち5冊の教科書出版社は「従軍慰安婦」に全然触れないことにした。

しかし、修正主義者たちの抵抗の激しさは、家永の遺産が蒸発したことを意味するどころか、いかに家永が日本の歴史認識に力強い衝撃を与えたかということの証明である。日本の修正主義者たちは本質的には家永に対して抵抗している、反作用の動きなのである。家永は 明らかに、彼らに対して、抵抗のための材料を与えたのである。

家永の遺産

家永は、彼が日本の戦争の真実を書こうとする動機を1978年に次のように述べている。「また戦争について いいことを書けとか、日本を再び戦争に駆り立てろなどと、今回はアメリカの言いなりになって言われる・・・。私はどうしてもこのような教育政策に抵抗しなければなりませんでした。さもないと、私はあの時感じた激しい自責の念を死の床で再び経験するに違いありません。ああ、どうしてまたもや何もしなかったん だろう、と。」 [注10]

家永の遺した多面的遺産のうち、抵抗する、というのがその遺産の一つに数えられるだろう。部分的には家永の自 戒そのものを通して、主に民主主義が国家と社会を分離する空間の中に存在する日本という国において、抵抗するという事が民主主義を唱える者が本物かどうか をはかるバロメーターになったからである。横浜の裁判所において高嶋教授は教科書裁判の控訴の伝統を継続している。今までのところ殆どの県教育委員会で 「作る会」の「新しい日本の歴史」は適当な教科書として選ばれてはいない。
また家永の教科書裁判からもっとも多くを得たのは、日本の歴史学と歴史学者である。多分、日本の子供達も歴 史というものが単に民主主義と共存するというだけではなく実は民主主義の核心そのものであるという思想をかかげて戦ったこの超人的戦士の格闘から、同じよ うな恩恵を得る日が訪れるかもしれない。

[訳:タンゲナ由香里]

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[1] R.Kersten, “Neo-Nationalism and the ‘Liberal School of History’, Japan Forum Vol. 11 No.2 1999, pp 191-203.

[2] Nishio Kanji et al, Atarashii Rekishi Kyokasho (A New History Textbook)(Tokyo: Fuso sha, 2001)

[3] Ienaga Saburo, Japan’s Past Japan’s Future: One Historian’s Odyssey (New York: Rowman and Littlefield, 2001), p.104. Richard Minear trans.

[4] Ienaga, Japan’s Past Japan’s Future, p9.

[5] Ian Buruma, The Wages of Guilt (London: Jonathon Cape, 1994), p190.

[6] Ienaga, Japan’s Past Japan’s Future, p109.

[7] Ienaga, Japan’s Past Japan’s Future, p158.

[8] National League for Suppoart of the School Textbook Screening Suit, Truth in Textbooks: Freedom in Education and Peace for Children (1995).

[9] Nagahara Kenji, ‘Ienaga kyokasho sosho no 32 nen’ (The 32 Years of the Ienaga Lawsuits), Rekishigaku Kenkyu No.706 January 1998, pp4-13.

[10] Ienaga, Japan’s Past Japan’s Future, p6.

ケルステン教授による参考図書及び推薦図書

Ian Buruma, Wages of Guilt (New York: Jonathon Cape, 1994)

Rikki Kersten, ‘Neo-Nationalism and the Liberal School of History’, Japan Forum Vol.11 No.2 1999, pp 191 – 203.

Rikki Kersten, ‘The war in postwar politics’, Bulletin of the Japanese Studies Association of Australia, Vol.15 No.3, pp 1 – 9.

Rikki Kersten, Democracy in Postwar Japan: Maruyama Masao and the search for autonomy (London: Routledge, 1996).

Ienaga Saburo, The Pacific War 1931 – 1945 (New York: Pantheon, 1978).

Ienaga Saburo, Japan’s Past Japan’s Future: One Historian’s Odyssey (New York: Rowman and Littlefield, 2001)

Ienaga Saburo, ‘The historical significance of the Japanese textbook lawsuit’, Bulletin of Concerned Asian Scholars, Autumn 1970 No.4, pp 3 – 12.

Ienaga Saburo, Senso Sekinin (War Responsibility), (Tokyo: Iwanami Shoten, 1985).

4、 オランダの中等学校の歴史教育 | R. ヴァン・デル・へースト

(ウーストヘースト、レインランド・リセウム校 歴史教員)

テサとミルヤム

昨年の9月の初め、HAVO 5年の一人の生徒が私のところにきました。テサというこの女生徒は、彼女のプロフィール・レポートに取り組んでいるところでした。『プロフィール・レポート( profielwerkstuk)』というのは、5年間ないしは6年間に及ぶ中等教育の終りに、生徒が修了試験を受ける予定の、ひとつないしはそれ以上の学科の範囲内で、60時間から80時間を費やして生徒が行う自主研究で、『卒業制作』に相当するものです。

テサは蘭領インドと第2次世界大戦について一度もっと深く知りたいと 思っていましたが、はっきりと何について調べたらよいのかわからずにいました。テサは、彼女のおじいさんが蘭領インドで生まれたのだ、といいました。おじいさんは、日記のようなものをつけていました。おじいさんが亡くなった後、テサのお父さんがそれを保管していました。お父さんはテサにそれを読ませました。それがきっかけで彼女はこの問題に関心を抱くようになったのです。彼女は私に、この日記を彼女のレポートに使ってもよいか、と訊きました。彼女は、この資料が膨大なもので、彼女のおじいさんの写真や絵も付されているといいました。私は彼女に、読んでもよく内容がつかめない本は、取り扱わないようにしなさい、といいました。『君のおじいさんの伝記を書いてみたらどうだろう』というのが私のアドバイスでした。私は、学校の課題を生徒がこんなにも喜んでやっ ているのを滅多に見たことがありませんでした。

彼女のレポートを読み終えたとき、私は、テサが彼女のおじいさんの生涯を通じて、20世紀の歴史におけるいくつかの重要な時期と瞬間をユニークな形で追体験したのだ、ということがわかりました。

蘭領東印度時代の混血児と1945年以降のインドネシア社会における彼等の位置
1930年代における経済危機
アジアにおける第二次世界大戦戦争中の蘭領インドにおけるオランダ人の盛衰
日本に対する原子爆弾投下(テサのおじいさんは当時長崎の造船所で働いていた)
ベルシアップ期とインドネシアにおける独立戦争
蘭領インドのオランダ人、現地人、その他の住民のオランダへの帰国・到来

教師である私にとって、テサのような生徒を指導することは教職の最も素晴らしい経験のひとつです。 二つめの例は、今日是非ここに出席していらっしゃれば、と思っているのですが、その方から私のところにある日突然舞い込みました。この2月に、レオ・ゲレインセ氏から私のところにいくつかの新聞記事の切抜きが送られてきました。それらの記事には、『日本の幼年者収容所での氏の抑留体験とこれについてのその後の対処について多く公表して居られる』氏が、16歳のHAVOの生徒からインタビューを受けたことが書かれていました。この女生徒ミルヤムは、『レオ・ゲレインセは生き延びた』というタイトルの修了試験論文(多分プロフィール・レポートでもあったと思いますが)を書いています。2002年5月3日付けの『レーウワルダー・クーラント( de Leeuwarder Courant)』は、ミルヤムが『歴史の授業よりも多くをゲレインセ氏との対話から学んだ』と言っています。

ドックム(北フリースランド)とウーストヘーストの学校の二人の生徒は、ほとんど時期を同じくして、それぞれに自分で選んだ課題、それもほとんど同じ内容の課題:蘭領インドにおける第二次世界大戦前後を生き延びた二人の人物の生涯、について取り組んでいます。そして互いに別々に課題に取り組んだこの二人の生徒たちは、他の歴史の授業からよりも自分で書いたレポートから多くを学んでいます。これは偶然のことでしょうか?これらの例は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。

中等基礎教育(中等前期=日本の中学校に相当訳者注)における諸規則

オランダの歴史教育は、生徒に(そして教師や教科書の著者にも)次第に独自の選択をする余地を減らしている傾向にあります。オランダ政府は、数年前より、厳格な規則によって教育の内容を規定するようになっています。

それは、すでに basisvorming という基礎教育(中等教育の最初の2年ないし3年)において始まります。この規則は歴史に対する西側の見方を反映しています。非西洋の歴史は25項目の主要目標の中のわずか2項目の中に現れるのみで、それはまた非常に限られたものです

* 主要目標第12項で生徒たちは「中世におけるキリスト教的ヨーロッパ文化とイスラム教的アラブ文化の接触について、また、キリスト教的ヨーロッパ文化に対するイスラム教的アラブ文化の影響についての例をあげることができること」を求められます。

* 主要目標第25項で生徒たちは「オランダと、東インド及び西インドとの間の植民地時代と植民地支配以後の関係がもたらした、この地域における現在の開発問題に対する影響を記述できること」を求められます。

基礎教育における歴史教育は、私たちオランダ人の立場から書かれていて、世界的な見地、ましてや非西洋的見地から見るということは全くなされていません。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアといった名、ましてや日本の名は中核目標には出てきません。

第2段階(中等後期=高校訳者注)の諸規則

いわゆる第2段階と呼ばれるHAVOおよびVWOの後期の最後の2年の規則を見ると、基礎教育に比べると、非西洋の歴史教育に若干の希望が持てます。ここでの教育はいわゆる「ドメイン」と「サブ・ドメイン」に分けられています(VWOの場合、それぞれ7個と14個)。 ドメインのうちのひとつは、「諸文化の間の出会い」というものです。このドメインの中の二つのサブ・ドメインは、「非西洋社会」と「西洋社会と非西洋社会の接触」というタイトルのものです。この、後の方のサブ・ドメインは2001年と2002年に、全国統一最終試験(het centraal eindexamen)でも「オランダとインドネシア、4世紀に渡る接触と影響」として取り上げられました。インドネシアの日本占領はほとんど取り上げられていません。

全国試験の二つのサブ・ドメインを除くと、その他はいわゆる学内試験(schoolexamens)でテストされます。しかし、第2段階の課題の多さに対する教育界(特に生徒自身!)からの強い批判がなされた後、学校は3つのサブ・ドメインについて試験をせず、 生徒たちに対して歴史の概観を話して聞かせることによってこれととって変えるようにすることが認められるようになりました。私の知る限り、これはいまだかつて全国的に調査されたことではありませんが、私は、多くの学校で非西洋世界に関するサブ・ドメインがその考察の対象になっているのではないか、と思っています。それについてはいくつかの理由が挙げられます。
教師たちが非西洋世界の(比較的)知られていないテーマについてあまり関心を持っていないこと
教科書が、教師らに対して非西洋の歴史について多種雑多な教材を提供していること

第2段階の教科書

VWOの第2段階のための教科書は非西洋の歴史についてどのような関心を持ってかかれているのでしょうか?

Memo という教科書は、非西洋社会の例として、「中国、孔子から毛沢東まで」を取り上げています。また別の章では、「蘭領インドからインドネシアまで」(日本占領に関してはいくつかのパラグラフ)が取り上げられ、アジア、アフリカ、中東は「植民地帝国の滅亡」についての項目にある20世紀の歴史的概観の中で扱われます。第二次世界大戦における日本の関与は、「アメリカが戦争に関わる」という項目の中で取り扱われています。

Deltaという教科書は、3部を非西洋歴史に割いています。ひとつは中東、ひとつはマヤ帝国の興亡、そしてもうひとつはオランダとインドネシアの間の接触、というものです。日本は第二次世界大戦に関する章の中でのみ登場しています。

Pharosという教科書は、中国(1500年から現在まで)と南アフリカ(1652年から現在まで)の歴史を詳しく取り扱っています。日本は初めのテーマの中で補足的な役割を果たしています。

Sfinxという教科書は、西洋文化と非西洋文化の出会いのための舞台装置としてラテンアメリカを扱い、全体主義国家の例として中国を取り扱っています。目立っているのは、「江戸-日本」という章で、神道、将軍、サムライの世界を非西洋社会の例として取り上げていることです。

Sprekend verledenという教科書は、7章を非西洋の歴史に割いており、すべての地理的地域が取り上げられています。1945年までの日本は独立した章です。後の章で、第2次世界大戦以後のアジア東方地域の歴史が扱われています。

注目すべきなのは、SfinxとSprekend verledenだけが日本の歴史にかなりの関心をはらっていることです。Sprekend verledenは世界の全地域についての歴史についての歴史的概観を書いた唯一の教科書です。その他の教科書はテーマ別の取り上げ方をしているのみです。

このように、中等後期(高校レベル)の教科書は、非西洋世界の歴史に関して互いに非常に異なっています。政府は前に述べた二つのサブ・ドメインに関してそれ以上の規定をしていないので、こうなるのです。教科書の著者らは自分で世界のある地域や国を選ぶことができるのです。さらに、多くの教師が非西 洋世界の歴史に関するサブ・ドメインを歴史の概観を話すことで代用しているのではないか、と私は推測しますので、そうだとすると、非西洋世界に対する関心がお粗末なものであるという私の見方もあたっていることになります。

大半の生徒たちは、彼らが学校を卒業する時、日本の歴史についてどのようなイメージを持っているのでしょうか?私は、それは多分次のようなものから成るのではないか、と残念ながら思っています。
日本は第2次世界大戦において攻撃的な国であった。(パールハーバー、アジアの大部分の占領)
日本国民は広島と長崎での二つの原爆投下によって重く罰せられた。
日本は第2次世界大戦以後経済繁栄国として早く発展した。
そして生徒たちはこのイメージの一部を映画館(パール・ハーバー)で、また、他の学科(経済)で得ます。歴史教育は十分ではない、と残念ながら私は思っています。

将来

この現状が変わる見込みはあるのでしょうか? 2003年4月26日付のNRC紙上の『科学と教育』というタイトルの紙面に「殺戮と炎上、歴史教育ヨーロッパ中で改訂さる」という見出しの記事が掲載されました。ヨーロッパ全体からの 200人以上の教師と教科書の著者らが、最近イタリアで、ある会議中に、歴史教育における変化について分析しました。この記事によると非西洋についての歴史教育にはあまり希望は持てないよ うです。 ナショナリズムは放逐されないばかりか、政治的ロビーが決して過小評価されるべきでない要因としてあり、ヨーロッパ連合からは歴史教育にヨーロッパ中心主義的な記述が強要されている、とのことです。これに対してどのようなロビーが抵抗することができるのでしょうか。

2001年1月に、「デ・ローイ委員会」の名で知られる歴史・公民教育委員会の諮問書「過去、現在、未来」という報告書が発表されました。この報告書は、今後の歴史教育の規則を含んでいます。その内容をみてみると、近い将来、非西洋世界についての歴史教育にとって有利になるような革命的な変化は期待されないようです。

唯一希望の持てる点は、新しい規則でも、教科書の著者や学校が教育の一部を自ら満たすことができる、ということです。おそらく、毎日の教育現場でこの機会を独創的に利用するのが、賢明かつ妥当でしょう。より強力な対抗策を御存知であれば、歓迎します。

実践からの事例

実践上の事例を持ってこの話を終えるために、わたしは、私の学校で非西洋世界の歴史をどのように取り扱っているかを少しお話したいと思います。

三年生の授業で生徒たちは2,3人ずつのグループに分かれて、自分たちで選んだ非西洋の国のポスターを作ります。ポスターには、その国のいくつかの面(政府、経済、文化など)をヨーロッパ人の到来以前の時期・植民地支配期・独立後の時期という、3つの時期のイメージとして描かなくてはなりま せん。

VWO 6年生については、私たちは、2002年の9月から11月の期間、二つの学内試験を中国と日本に関して行いました。最初の試験は1945年から1949年までを扱い、二度目の試験はその後の期間を扱っています。今回の会合の通知に添付した資料に、日本に関して出した問題を抜き出しておきました。ここに御出席の皆さんが、これについてどのように思われるか是非伺いたい、と思います。

この講演で取り扱った教科書とテサのプロフィール・レポートを持ってきましたので、どうぞ閲覧ください。

ご静聴ありがとうございました。

5、 日本の中学校の歴史教育 | リヒテルズ直子

(このスピーチは始めの予定では、オランダにあるある日本人学校の歴史の”O”先生がお話くださる予定でしたが、会合の間際になって都合により出席できないとの連絡がありました。そのため、以前、同様のテーマでスピーチを担当したことのあるリヒテルズ直子が、代行講演をしました。)

はじめに

オランダと日本で歴史がどのように教えられているかを議論するに当って、私は、まず、教育の一般的な目的とは何であるかをもう少し考えてみる必要があると思います。言い換えれば、歴史の授業は、教育の一般的な目的に対してどのように貢献するものであるのか、を確かめるべきではないか、ということです。

そこで、「学校教育の目的とはなんなのか?」

個人主義的な見解を強くもたれる方は同意くださらないかもしれませんが、学校教育の最も重要な目的とは、将来の世代に属する各人を、世界にまで広がる社会に貢献できる、あるいはこの社会の維持に関わ れるような責任を持った存在として送り出すこと、と言えないでしょうか。社会を尊重し、そのために尽くす知識、技術、態度を伝え教えることがこうした教育 の重要な目的です。特に、今日のように大変多くの情報が万人にすぐに届き、そればかりかその情報が毎日のように更新され、さらには、世界のいたるところの 個々人が頻繁に接触することができるという状況では、ひとまとまりの限られた知識を教えることが学校教育にとっていかに不十分なことであるかは明らかで す。私たち一人一人が、また、次の世代の各人が必要に応じてどんな情報でも知識でも得る機会を持ち、外部の誰からも統制されたり限定されたりすることなく自由に自分の考えを述べることができるべきです。そのような開かれた社会を保障することが、学校教育の重要な目的である、と私は思います。創造性・柔軟 性・独創性は私たちに、また、次の世代の彼らに対して毎日のように挑戦してくる国際社会の新しい問題を解決する能力を養うために、生徒にとって非常にパワフルな能力でありましょう。

こういう意味において、「歴史教育」は私たちの過去の経験から得られる叡智を次の世代へと伝えるためのものでなければなりません。

しかし実際には、世界の多くの国で歴史教育はより 国家的な目的のために使われてきました。「何よりも現状を維持し、時にはその国の現在の為政者の維持のために国家的アイデンティティを若い世代に伝える」 ことに焦点がおかれてきました。この点での強調の仕方は国によって異なりますが、そうした考え方はオランダや日本の歴史教育にも見られます。

それでは、ここで、O先生が私たちに送ってくださった資料を検討し、日本の学校での歴史の授業の現況がどのようなものであるかをみてみましょう。

O先生は、先生が教えておられる学校での授業の実際を示す3つの資料を送ってくださいました。

学校指導要領の一部:中学校における歴史教育のための一般的な目的と規則
学校で使用されている教科書
教室で教科書を使う祭に参照する教師のためのマニュアル

規則: 学校指導要領

学校指導要領は文部科学省が発行しています。これは、基本的に日本の公私立の学校がカリキュラムを制定しそれを実施するに当っての一連の指導方針が書かれたものです。「学校指導要領」は第2次世界大戦の終了以来発行されており、学校段階ごと、また、教科ごとに作られています。O先生が送ってくださったのは、中学校の社会科、すなわち地理、歴史、公民科に関する部分で、第6回目の改訂版です。

この指導要領には、歴史教育の目的として4項目、歴史教育の内容、すなわち、どの時代のどういう歴史的な出来事を教えるか、に関して21項目、さらに、これらの歴史的出来事を教室でどのように取り扱うか、という方法に関して28項目が書かれています。

オランダの中学校の「主要目的」に比べる と、日本の指導要領は内容や教育方法に関してはるかに立ち入っており、指導的です。残念なことに時間がなくて皆さん自身でオランダのものと比較することが できるようにこの学習指導要領の全文を翻訳することが出来ませんでしたが、その代わりに、文部省が教授方法にいかに積極的に関わっているかを示す例をひと つあげます。歴史的出来事を教室でどのように取り扱うか、という部分で、指導要領は、12回にわたって「深入りしないように」「詳細に立ち入らないよう に」という注意書きをしています。(これについてはまた後で述べます)

教科書の画一性

学校指導要領が教科書の内容に影響を与えるこ とは言うまでもありません。これほど細かい指示が政府から与えられては、教科書の著者の自由も大変限られたものになってしまいます。しかし指導要領は法ではありません。「単に方針に過ぎないのではないか、なぜ教科書の著者は彼らが子供たちに教えるべきだと思う通りに書かないのだ」といわれるかもしれませ ん。そういう議論は当っている、とわたしも思います。 しかし、同時に政府は教科書の検定もしています。政府は学校教育で使用されるすべての教科書を検定します。もちろん学校指導要領が教科書検定の基準です。

その結果、実際にはいくつかの異なる教科書出版社がありますが、教科書の内容は互いに大して相違がないものとなっています。 2年前、この会合で私がオランダと日本の歴史教育の話をしたときにも、異なる 版社のいくつかの教科書を比べてみましたが、実際教科書の構成や内容はほとんど同じでした。

教科書に関する限り、学校も教師たちも選択の幅がほとんどない、といえます。

教師・学校の「教育内容や方法についての自由」選択の余地のなさ

今説明したように、「学校指導要領」と「教科書検定」によって政府が学校での授業に対して枠を与えているために、学校や教師たちは自分の考えを学校での授業に生かすための余地をほとんど持っていません。

それだけでなく、私はさらに日本の教師や学校の自由を奪っているいくつかの要因を上げることが出来ます。

まず第一に、学校で教えられるべきであるとされている知識の量があまりに広く多いため、教師たちは自分の主導的な考えで授業を行うための時間を持たないことです。

第二には、学歴偏重とそれによる入学試験合格というストレスが中学校に重くのしかかっていることです。

第三には、教師や学校の間で、現場での教育は中立的で公平でなければならない、という強い信念があり、それが、自分たちの主導的なやり方で壊れてしまうことへの怖れがある、と思います。

この講演の準備中に、私はO先生と電話でお話をしました。私はO先生に「先生は、日本とオランダの歴史的な関係について、教科書にかかれていないことを特に取り上げられることがありますか。」と質問しま した。大島先生の答えは、「私たちは一度生徒を連れてハーグ市の平和宮に行った事があります。しかしそれ以外は、教科書にない事柄について詳しく立ち入ら ないようにしています。私たちの学校は「公立」校です。私は公務員です。私たちに期待されているのは、子供たちが日本にいる子供たちが学校で学んでいるの と同じことについて教えることです。私たちはできるだけすべての子供に同じチャンスを与えなければならないし、学校の授業で教師の個人的な考え方を押し付 けるようなことをすべきではない、と思っています」とのことでした。

すべての子供が学校で同じ内容のことを学ばねばな らない、という強い考え方の後ろには、日本における入学試験制度の重圧があると思います。日本では、子供たちは政府及び大学が出し、また、評価する入学試験に合格しなければなりません。 子供たちは中学校の卒業資格だけで望んでいる大学に行く権利を持つことは出来ません。しかも、ごく最近まで、一連の有名大学に入学することはその子の一生の成功を約束するパスポートだという考え方が広く受け入れられていました。このような状況では、中学校の先生も自分が選んだ内容と方法で独自の授業を行う余裕もありません。

日本の中学生は歴史の授業で何を学んでいるのか

O先生は学校の歴史の授業で使っているカリキュラムと教師用マニュアルを送ってくださいました。このカリキュラムとマニュアルは教科書会社が作ったものです。教科書の部、章、項目が学校指導要領のどの部分に適合するのか、表にしてあります。

それでは教科書に目を通してみましょう。日本の学校の子供たちは歴史の授業で実際に何を学んでいるのでしょうか。私自身は日本の学校で教鞭を取った経験はありません。また、戦後6回にわたって改訂された 学校指導要領の変化を追ってきたわけでもありません。したがってここでは私がおよそ35年前に使った教科書と現在の教科書を比較してみるに留まらざるを得ません。

現在の教科書の特徴

私の頃の教科書と比べると、現在の教科書には次のような3つの違いがあることに気付きます。

まず第一に、私の頃は、「世界史」、といっても主として西洋の歴史ですが、それと「日本史」が互いに並列的に取り扱われていました。 しかし、現在の教科書では、日本史が飽くまでも歴史の中心です。西洋史は、日本やアジアの他地域との接触があった場合、または、 その結果日本に何かの影響が起った場合に登場します。 一見しただけでは、日本に対する強調が強まっているように見えます。 言い換えれば、ナショナリズムが 以前より強くなっているように見えます。 しかし同時に、この変化を、異なる文化の間の接触やその日本に対する影響という歴史的ダイナミズムへの関心の増大とみることも出来そうです。 日本は以前にもまして世界の一部として提示されているのかもしれません。

第二に、日本中心的な歴史が主立ってきている一方で、アジア地域の他の国の歴史への関心が増えていることです。 これはおそらくこれらの国との交渉が増えたため、すなわち最近の年間の日本とアジアの他の諸国との間に発展してきた政治的あるいは経済的な関係のためでしょう。

第三の違いは、太平洋戦争前後の歴史に関するこ とです。 歴史教育のこの部分がおそらくは国際的に最も議論・批判されたものと思います。 国内においてもそうでした。 35年前に比べると、「日本の中国侵 略」「日本の朝鮮半島植民地化」「南京大虐殺」「日本の攻撃性のためのアジア地域での戦争犠牲者」「沖縄の人々の犠牲」などについて、しばしば最低限の記述であるとはいえ、はっきり書くようになって来ています。 (最後の項目については意外かもしれませんが、沖縄の人々は北の本土の人々から搾取され、不法に取り扱われ、無視されてきた、と感じてきた、あるいは今も感じています。 これについてあとで取り上げます。)

アメリカ合衆国との関係下でのジレンマ

これらの違いのほか、私は、私の頃にもあった戦争中の出来事についての同種のジレンマを見出しましたこのジレンマは日本が、戦後、民主化、経済成長、冷戦体制下での国家の安全保障などの点でのアメリカ合衆国に対して依存していたことから来ています。 このジレンマは原爆投下や戦中戦後の沖縄に関する記述に明らかです。

原爆投下については、教科書はこれが日本の軍事的攻撃性を停止するためにとられた処置であった、とも書きませんが、同時に、この人類に対する大量殺戮兵器の使用に対する合衆国への日本人被害者からの怒りについても書いていません。こういう方法で、子供たちは、 一体どのようにして、誰が何について間違っていたのか、を学ぶのでしょうか。 戦争が終わって何年も後に生まれてきた子供たちは、どうやって この戦争についての本質的な問いについて判断するのでしょうか。 子供たちはおそらく「戦争が悪かった」というような、かなりぼやけた印象を得るだけでしょ う。、、、「誰が悪かったって?」「戦争が?」

沖縄の歴史の取り扱いにおいても同様のジレンマを見出します。 特にそこでの戦争被害者についてです。 沖縄では全人口の4分の1が終戦間近に亡くなりました。 さらに、彼らの農地の大半がアメリカ合衆国の軍事基地のために取られました。それだけでなく、私は、1980年のフィールド調査の折に、沖縄の人々による北アメリカ兵士や日本政府に対する嫌悪の感情が明らかであることを知りました。そうしたことについて教科書には何も書かれていません。

これは、日本では一般的に、沖縄の人々が伝統的にどちらかというとアウトサイダーとしてみられてきたことが一方にあり、また、他方には、戦後アメリカ合衆国が一般には、日本の経済発展に大きく貢献してき た、という見方があったからといえましょう。 私はここで倫理的な私の見解を述べるつもりはありませんが、こうした問題について歴史の授業でもっと取り扱わ れてもよいのではないか、と思います。

ところで、私はこの講演の初めに、学習指導要領が、歴史教授に関して12回にわたって「深入りしないように」とか「詳細に立ち入らないように」と述べている、といいました。子供たちの、多く議論されて いる事項についての独自で創造的な思考や積極的な態度を奨励し推し進めるためには、私たちは時として、当然ながら問題に深入りしたり、詳細に立ち入ったり しなければならない、と思います。 しかし指導要領はわざわざいくつかの事項について詳細に立ち入るな、といっています。

文部科学省の学習指導要領が学校や教師に立ち入る ことを望んでいない事項とは、例えば、「古代における氏姓制度」「古代東アジアにおける王国の変遷」「律令制度の変遷や律令政治の実際」「武家政治期にお ける土地所有制度の詳細や政治制度」「ヨーロッパ人到来に関して、宗教改革について」「織田と豊臣の全国統一と外交」「近代における社会変動に関して商業 の発達と農民一揆」「ヨーロッパ諸国のアジアへの進出」「大正デモクラシー期の政党の発達、民主思想の普及、社会運動を除く近代における人々の政治的覚醒 の詳細、」 などです。

指導要領はなぜこれらの事項が深入りして、あるいは詳細に取り扱われるべきでないのかについての理由は示していません。 興味を惹かれます。

結論

1960年代後半の私の頃に比べると、現在の生徒 たちは、日本の戦争中の「加害者」としての歴史について少し多く学んでいるようです。 私は、これは、何よりも戦争中の日本の攻撃のための犠牲者を多く出した国の人々の要求によるものだ、と思っています。 もちろん、日本社会の一部、一部の教師たちは、現在の教科書の書き方がより適切であると感じていると思い ますが、教師や学校の自由がこれほどに制限されていることを考えると、この変化が内から発したもの、とは考え難い、と思います。 私たちが自分の過去の過ちから学ぶ機会であったことを思うと、このことを大変遺憾に思います。

もう少し一般的に言って、現在の日本の歴史教育 は、私が最初に述べた目的を果たすものでしょうか? 大雑把には、果たしているといえましょう。 内容は、日本社会がいかに時代を超えてきたかを示し、日本の地域的世界的な位置づけを示しています。 しかし、本質的な意味では、目的にかなっているとはいえません。 政府による強い統制がもたらしている学校教育の非柔軟性・画一性、教師・学校そしておそらくは親自身の間にある強い中立性への要求、大学入学試験のプレッシャーなどが現状維持を過渡に強調し、私の見る限り次の世代が現実の問題と取り組むために十分な準備をしていないと思います。 しかも、これらの要因は、現状を改善することに対して悲観的にならせずにはおきません。

けれども、この私たちの状況には本当に希望がないのでしょうか。不登校児の増大、自室に閉じこもって親や兄弟をも含む外界との接触を拒絶する子供たちの増大など、日本の学校制度が生み出している社会問題は、次第に政党、市民グループ、個人らの関心を引くようになって来ています。教育の多様性、教育の自由、学校を選ぶ自由などの問題が人々の関心をゆっくり と得てきています。社会の多数派の関心を引くにまでは至っていませんが、、、。

こうした市民グループのひとつと私は個人的に関わってきており、オランダにおける教育の自由に関する歴史的・法的背景、さらに、それがどのように機能しているかについての情報を発信してきました。このグループのメンバーらは、オランダの教育の実際について大きな関心を寄せています。 私たちが目標を達成するには、まだまだ長い道のりがあるでしょう。しか し、いつの日か私たちが、わたしたちの各人が正しいと信じる形で子供たちを教育することが許される制度を持つ日がくるという希望を捨てていません。 その日が来るまで、私たちは、私たちが過去に犯した大きな誤りから得た叡智について忘れずにいなければならない、と思っています。