和解は可能か

2004年11月6日  ウーフストヘースト

プログラム

  1. 過去を乗り越えれば未来が開けてくる
  2. 日本への強制連行:事実解明の旅
  3. 和解について思うことども

1、 過去を乗り越えれば未来が開けてくる | アニー・ハウツヴァールト – デフリース

私はここにお集りの皆様方の大多数をよく存じ上げませんので、今回の会合の主題について話すことは容易ではありません。ですから、私の発表の題を御覧になって、これは自分にはどうも、と思われた方があったとしてもおかしくはありません。
何週間か前に、「日本にはあまり親しみをおぼえないので、悪いけど欠席します」と書いてこられた方もありました。私自身が、永年、こと日本となると悪いこと ばかり考える人間でしたから、そういうお気持ちは十分に察しがつきます。インドネシアの抑留所の門を出はしたものの、心の中では獄に閉じ込められていました。蜂に刺されて刺(とげ)がまだささっているみたいなものでした。当時、その刺は深く食い込んでいました。

16 歳の時、母と5人の弟とオランダに帰国した私は10歳の子供のように見えたそうで、劣等感に悩まされ、みんなから相手にしてもらえないように思えましたし、私に関心を寄せる男の子もありませんでした。かててくわえて、日本で病死した父が恋しくてたまりませんでした。自分の体験を一度書き綴ってみたらいい かも知れない、という考えに思い到り、戦後の下手な字で書きはじめました。収容所での最初の半年のことはなんとか書けたのですが、そのさきは涙にまみれて筆が進みませんでした。

書 いたものは二階の屋根裏部屋の誰の目にもつかないところに隠しました。そして、それからはもう泣かないことにしました。わたくしのそれまでの半生の物語なんて世界史の中ではほんの氷山の一角にも過ぎないのだ、と悟りました。それは間違った結論だったかもしれません。後を振り返ってばかりもいられませんでした。学校教師になり、幸せな結婚をし、7人の子の母になりました。いろいろと幸せなこともありましたが、落ち込んだ時もありました。自分が12歳から16 歳までの間の思春期を逃したのであれば、自分の家庭に思春期を迎えた子供がいるとその扱いに手を焼くことになります。私は大きい口を利いたり、扉をガタンと閉めたり、同年令の友だちと流行りの音楽を聴きたがる思春期の子供達の気紛れが理解できませんでした。抑留所時代に、徹底的な服従を教え込まれ、看守にはできるだけ目につかないように心掛け、オランダ人は犬ころと変わらない碌でなしだ、と四六時中聞かされ、散々に侮辱されました。

成人してから、自分の子供達の思春期の気持ちが分からなかったとしても不思議はありません。その結果、自分の過去に対してさらに不満が募ることになりました。私と同じようなところを通ってきた人たちも、具体的な現れ方こそ異なれ、みんな似たような経験をしてきました。あの「めちゃくちゃにされた」時代をも う一度やり直すことは出来ない相談でした。また、そういう必要もありませんでした。私自身の生活がもう少し落ち着き、成人した子供達が独立して行った時、 それまで抑圧されていた過去の記憶が表面化してきて、これを何とかしなければならない、ということがはっきりしてきました。同じ抑留所にいた人で、10代の女の子達に出来るかぎりの面倒を見てやった叔母のアガーテが一度私に書いてきたのですが、「アニー、だれだってこの世では一度は抑留所時代というか砂漠 の時代というかを通るものなのよ。問題は、それにどう対処するか、ということね」。恨みの感情からまだ本当に解放されていなかった自分には彼女の言葉には いろいろ考えされるところがありました。私の内心で内戦が始まりました:「自分は恨みを捨てたいのだろうか? そんなことが本当にできるだろうか? やってみる気があるだろうか?」

私の決意次第で大きな変化が起こるであろうことは分かっていました。私は、最後に、栓を廻して、長いこと私の人生のために祈ってくれ、親しい言葉をかけてく れた親友達と神の助けを頼りに新しい道を歩み出す決意をしました。最後に恨みの刺を取りのけてくれたのは神の子その方御自身でした。「たとえ許しを乞う日本人がいなくとも私がまず赦す者となります」と言える力をいただきました。本当に自由な人生を送れる鍵は敵を赦すことにあります。私自身が長いこと敵を赦 すことが出来ないという罪を犯していました。「私達に負い目のある者を私達が赦しますように、私達の負い目をも赦して下さい」と主の祈りにあります。

そののち、じつに不思議なことがつぎつぎと起こりました。1992年に、子供達がインドネシア旅行をさせてくれました。私が実に辛い何年かを過ごした所に立った時、神の力が上から私を包みました。その旅行も終わりに近付いた時、不思議な夢を見ました。「これでやっと大人になれたね」と語りかける声を聞いた ような気がしました。神御自身の声だったかも知れません。 1997年、ドイツで行われた国際会議の席上何人かの日本人と知り合いになりました。抑留所時代のことを少しお話したのですが、そのなかの年のいった方々は別として、大抵の人たちにとってこれは寝耳に水でした。そして、すっかり仰天して、涙ながらに私に謝られました。

1998 年に、インドネシアの抑留所について本を書きたいからといって林えいだいという日本人の作家が私にインタビューするためにやって来られました。彼は、天皇の名において中国、朝鮮、フィリッピン、インドネシアなどアジア各地で行われた残虐行為に関して多くの著書をあらわしておられました。神官であった父は戦時中、反戦思想を問われて拷問され、最後にはそれがもとで獄死されました。しかし、この作家は英語が全く出来ないことが分かり、危なく大変なことになりそ うだったのですが、最後にはすばらしい結果に終わりました。オランダ語か英語のできる日本人を探さなくてはならなったのですが、そういう人が見つかったの です。日本に宣教師として行ったことのある人たち、アムステルフェーンのオランダ日本語キリスト教会の会員達でした。そして、だれにもまして優秀な翻訳者の村岡先生とも知り合ったのでした。その時以来、先生御夫妻は和解と罪責告白への強い願いに動かされて、第二次世界大戦の犠牲者の痛みを和らげ、互いの視点を一緒によりよく理解しようとして、その精力と能力を投入しておられます。御夫妻にはどれ程感謝しても感謝しきれないように思います。先生は最近定年退職されましたが、その後もいろいろな貴重な企画をもっておられます。

これから、悔悟、謝罪、許しについて私の考えるところを少し述べさせていただきます。

第二次世界大戦における日本の歴史についてはっきりと語ろうとしますと、いくつかの際立った事実があります。それは、謙遜と和解の声であります。日本福音連盟による明白な声明のことを私はここで考えております。終戦後50年の1995年に、

連盟所属の教会は東南アジア諸国の教会に対して、戦時中犯した罪を公式に告白しました。天皇が現人神(あらひとがみ)であるとして天皇崇拝の罪を犯し、それによって偶像崇拝を 行った、と書いています。さらに、彼等は占領地においてそこの住民に同じことをするよう強制しました。海外の占領地において天皇を神として拝まなかったキリスト者の中には投獄され、拷問を受けて殉教した人も少なくありませんでした。にもかかわらず、当時の日本の教会は黙し、東南アジアにおける全面的な勝利を祈願しました。また、日本軍による残虐行為にも言及し、現在でも多くの牧師達によって引用される聖書の箇所はエレミヤ哀歌5:7「私達の先祖は罪を犯し ました。彼等はもはやここにはいませんが、私達は彼等の不義を荷ないます」です。

禅宗の指導者達も2002年に、日本軍によって踏みにじられた東南アジアの全ての国々と、韓国並びに中国とその教会に対して真摯な謝罪を表明しました。 日本の白柳枢機卿と同僚の司教達とによって公表された声明文は「カトリック教会は日本が再び同じ過ちを犯さないように出来得る限りの努力を傾けます」と結んでいます。

これと同じ表現が、長崎の原爆の被爆者永井博士の著書「長崎の鐘」に見い出されます。この感動的な著書の序言に永井博士は書いています:「いったい誰がこの 町を破壊したのだろう?それは、とりもなおさず、この呪われた戦争を始めた我々自身である。だれがこの活気に溢れた工業都市を巨大な火葬場に、とてつもない墓場にしてしまったのだ? それはわれわれである。『剣を執る者は剣によって滅びる』と聖書は語る。我々はこの警告を嘲笑し、戦艦や魚雷の建築に精出した。浦上の丘にあるこの信じがたい墓地は原爆によって作られたのではなく、軍艦マーチに踊らされた我々自身の手によって掘られたのである。輝かしい勝利の 日を夢見ていたのに、限り無い栄誉を求めた代価を払わされることになった。『戦争はもうごめんこうむる』と私は叫んだ。二万四千人の死者、三万人の重傷者 も叫んだ。本書の原稿を書き上げた時、あの苦悩の叫び声はまだ私の耳にこだましていた」。

また、何人かの日本政府の要人がオランダで頭を垂れたことは周知の通りです。 しかし、こういう考え方はまだひろく行き渡っているとは言えず、ときとして伝えることも困難です。戦死した夫は英雄として死んだのだという幻想を抱いている婦

人達がいます。そういう人にとっては、日本が原爆の犠牲となったのみか、侵略国でもあったということはなかなか信じがたいのです。村岡先生の言葉を借りますと、「日本は過去の歴史から必要な教訓をまだ学んでいないという徴候があり過ぎます。

近隣諸国からの度重なる批判をもどこ吹く風と、戦犯として処刑された者をも祀る靖国神社に公式参拝を続ける日本の政界の代表者達がそのいい例です」。口先だけでなく、行動をもって実証しなければならない、と村岡先生は言われます。

訪日

口先だけでなく、行動をもって実証しなければならない。この原則をオランダの小さな日本人キリスト教会と、東京並びに福岡の何人かのキリスト教徒達が実行に移してくれました。謝罪の表明がなされただけでなく、私は夫とは訪日を許され、その費用は全額日本人側が負担して下さいました。この申し出は、私を仰天さ せましたが、同時にまたわたくしはその好意に深く打たれました。オランダ国内で友人の日本人に会うのと、現実に日本の土地を自分の足で踏むのとは全く別の ことですから、多少の不安もありました。しかし、日本の方の迎える会の方々との何通かのメールの交換を通じて、私達のために本当に気を遣って準備して下 さっていることが分かった時、私の不安も一切解消しました。日本を南から東京まで旅行してからもうすでに4ヶ月経ちました。でも、あのときの様々な場面が 今でもたびたび目に浮かびます。

1944 年に41歳で厳しい状況の中でで亡くなった父がいた長崎の近くの香焼の俘虜収容所の跡地に建つ中学校の講堂での追悼式典がそのひとつです。それまで会った ことのなかった若い長崎の牧師が、その教会の会員達とこの式典の準備をして下さっていました。土地のクリスチャン何人かの他に、香焼の町長を含む町議会の 代表者も出席されました。この町長はこの式典に非常に積極的に協力して下さったそうです。その席上で、私は長崎の造船所での俘虜の非人道的扱いについて触れましたが、同時に、生存者から伝え聞いた、収容所内での父のキリスト者としての献身的な努力についても語りました。私達に対する遺書となった手紙の中で、父は赦しと、苦しみを堪えることの必要について語っています。そのあとで、私は戦争中に日本人が私達に対してしたことを一切赦します、と列席の多数の日本人に語りました。

すでに多くの人が私のためにそうして下さっています。拡大した父の写真の前に花束を捧げる時はほんとうにつらいでした。それにつづいて、多くの方々が白の カーネーションを捧げられました。また、その場には何人かの子供も出席していました。中学校の校長先生は、涙ながらに言われました:「この場所でそんなに もおぞましいことがあったのだということはいっこうに知りませんでした。これについて、同僚の職員と話し、それから生徒達にも話して聞かせます。こういう ことは二度とあってはなりません。ほんとうに申し訳ありません」。

他にも、出席者で、式典の後、許しを乞うた人たちがありました。 数日後、水巻町の白い十字架の記念碑を訪れました。あらたに美しい花束を捧げ、記念碑に父の名を求め、それを確認するのは辛い体験でしたが、また、真に迫る体験でもありま した。この国で現実にあのことは起こったのでした。週日にもかかわらず、結構多くのかなりの歳をめした、きちんと着飾った日本人の方々がそこに列席してお られ、他方では、若い人たちがクラシック音楽を演奏して悔いと追悼の雰囲気を見事に盛り上げて下さっているのが印象に残りました。見事なアジサイに覆われ た小高い丘の下で、私達は手を堅く取り合って「主の祈り」を唱えました。記念碑とその周辺は水巻の学童達の手で見事に管理されており、私はこの場を借り て、水巻の黒川さんその他多くの人の協力を得て何年か前にこの記念碑を設立されたエメロードのウィンクラーさんにお礼を申し上げます。

まだほかにも特別に記憶に残る出来事がありました。 20歳ぐらいの江戸満子さんは、私が戦争中の苦労について話したのを聞いてその一日後に英語で書いた手紙を持って来られましたが、それには「すみませんでし た。私達はあなたの十代を奪ってしまいました。そして愛するお父様も。時計の針を巻き戻すことは出来ませんが、神があなたを深く愛しておられることを感謝します。そして、あなたのお母さまの信仰と神に対する信頼、そしてあなたが私達を赦して下さることを感謝します。あなたは神様にとても愛されている方だ、 と思います。私達日本人は折り鶴にことよせてお祈りをします」。そう言いながら、彼女は私に二羽の折り鶴を手渡しました。それには、「この黄色のはあな た、こちらの青いのはお父様。あなたのことを決して忘れません」と書いてありました。 あ る会合に偶然に日曜日の礼拝に出席した老婦人がおられました。彼女は「平和と原子力問題」という団体の代表者で、国連でも話をされた、ということでした。 彼女は廣島の生存者で、自分でも永年考え続けてきた問題について私が話したのを聞いたのでした。原爆投下後彼女は多数の犠牲者を助け、死にかかっている人たちに対して、「私達は勝ったのよ。皆さんのおかげです」と言い続けたそうです。こうやって犠牲者達をなんとか力づけてやれる、と思ったのでした。でも、 後日、これがまったく愚の骨頂であることを悟られたそうです。長崎からアテネへの旅行の途中、教会に足を踏み入れられたのも単なる偶然ではなかったので す。

当時香焼の俘虜収容所の所長であった90歳の調牧師との病院での感動的な面会を忘れることが出来ません。彼は、寛大な、人間的な所長として知られ、強制労働をさせられている俘虜達のためにできるだけ多くの食料を呉れるよう、また休憩時間や薬品も十分に入手できるよう当局と交渉し、クリスマスの礼拝ができるよ うな場所も確保してくれました。半年もしないうちに彼がよそへ転勤された時は、俘虜達はいたく嘆いたそうです。病院に調牧師を見舞った時、私は彼の手を堅 く握り、賛美歌を歌ってあげました。別れ際には、彼の満面に天来の後光が射し、弱々しい声を振り絞って「ありがとう、ありがとう」を繰り返されました。それから三週間後に安らかに召天されたとの報に接しました。

東京のある教会で、二人の女学生が私の講演の原稿の写しを友人のインドネシアの学生に上げたいから、と乞われました。このインドネシア人達は日本について非 常に悪い印象を持っている、というのでした。戦争中、両親がジャワ島で日本人にいじめられたからなのでしょう。この女学生達は、和解の必要を理解したので はないでしょうか。

日本人も苦労した

私達に善意を示してくれた日本人の方々から、彼等もまた苦労しておられることが私には分かりました。具体的な例をいくつか述べてみます。

数年前のこと、オランダの新聞NRC Handelsbladに、 『日本に戦争しかけたらさぞかしいい気味だろうな』という題の記事が載っていました。その一部をお読みします:「昨年、神戸を大地震が見舞い5000人の 死者が出た時、ソウルのオランダ大使館勤務の韓国人の一人は、『ざまみやがれ。当然の罰があたったぞ』と叫びながら、廊下を走り回った」。その少しさき に、当時の金大統領の側近の一人の発言として、「日本人と友情を築くには、彼等を打負かすにしくはない。できることなら、戦争に訴えても良い。そうすれば、韓国人が、日本植民地時代に味わった辛さを思い知るだろう。遺憾ながら、戦争はしかけられない。別な方面で、たとえば、文化とか技術あるいは倫理の面でやっつけるしかない」が引用されています。こういう侮辱的な記事を読むと日本の方はつらい思いをされることと思います。そのことは、この記事に寄せて村岡先生が投稿された投書からも知られます:「それでも、この記事の著者はこの韓国人に、日本に戦争を仕掛けるよう忠告するのであろうか?」 しかし、このオランダの新聞紙上でのやり取りはよい結果をもたらし、村岡先生のところに、インドネシアの抑留所生活を強いられたオランダの婦人から手紙が届いたのです。 戦後何年も彼女は日本人に対する憎しみを捨てることが出来なかったのですが、テレビで阪神地震の犠牲者の姿を見た時、日本人も自分と同じ人間なのだという ことに思いいたり、EKNJ(ウィンクラー氏が創設された旧蘭領東印度で日本軍の捕虜になった人たちの団体)の訪日旅行団に加わって日本を訪ね、過去の整理がおおかた出来たというのです。

日蘭対話の二度目の会合で話をされた二人の方の名もあげたいと思います。デルフト工科大学に留学しておられる石黒宏さんがその一人です。彼は、50年以上も前に起こったことを理由にいまでもハーグの日本大使館前で毎月一度デモがあることにショックを受けました。そこで、本を読んだりインターネットなどを通してさらに情報を得ようとしました。また、この人たちの考え方や気持ちを知るために一度デモに出かけることにしました。そのデモにそれまでに日本人が出てき たことはなかったらしいのです。行ってみると、みんなが自分を避けようとするので、辛い思いをしました。でも、幸いなことにデモの企画者の一人が、「日本 の若い世代が昔のことを知ろうとしているのは歓迎する。こうしてデモるのもそのためだし、君たち若い世代には直接の責任はない」。その後、その中の何人か のオランダ人とは友だちになれたそうです。石黒さんはこの問題に関するホームページを設定して、第二次世界大戦についての情報を広めることにしました。宏さん、ありがとう。

二人目は対話の会の準備委員の一人タンゲナ・鈴木さんです。彼女もいろんな人から日本人として避けられる、という体験をしましたが、問題をただ遠くから眺めていただけでは何の解決にもならないという結論に達しました。彼女とはもう永年来の親友です。

日本国内でも多くの人が苦しみました。何年か前に、私と同年代の婦人と話しましたが、彼女は戦時中武器製造工場で勤労奉仕をさせられました。仕事の成績が思 わしくないと、叩かれたり、食事の量を減らされたりしたそうです。私達は二人とも同じようなところを通ってきましたから、互いに気持ちが通じるのを感じま した。

また、私達のある年の対話集会のあと、日本人の学生が、「ハウツヴァールトさん、私の祖母は赦せないのです。結婚して、最初の子供の出産を控えていた時に、 夫は赤紙を貰ってシンガポールへとばされ、二度と会うことはありませんでした。彼女の恨みは底なしです」と、悲し気に私に語りました。第三世代すらも戦争 の傷をいまなお背負っていることが分かります。

今朝私は別な日本、私達が体験した過去について知りたがっている人たち、和解のための確固たる基礎を据えたい、具体的に新しい道を切り開いて行きたいという人たちのことを少しお話しました。

私達オランダ人も先入観、偏見を捨てようではありませんか。でないと、何も建設的なことは出来ず、ぶちこわすだけです。ここで私自身のことを申し上げます。 北セレベス島にあった私達の収容所の所長山田が処刑される直前に「何の悔いるところもありません。ただただ、次の時代に日本人皆々様が私らの死を無駄にしないことを信じています」と言った、と今回日本で聞かされた時、私の表情は曇りました。「ああ、やっぱり彼は洗脳されていたのだ。最後まで真実が見えな かったのだ」と思いました。

大阪に国際ピースミュジアムがありますが、連合軍による集中的な空爆による無数の日本の民間人の死者や負傷者のことが大々的に展示されています。しかし、そこで出している説明書には、日本が満州、中国、朝鮮、その他多くの東南アジア諸国並びに大平洋諸島にもたらした悲惨に対して責任があることを忘れてはなら ないとも明言しています。この施設の趣旨は、戦争がいかに破壊的であり、相互に平和を愛する共存によってのみ世界を完全な破壊から守ることができることを 示すことにあります。

また、人権、平和を脅かすところの飢餓、貧困などの問題に光をあてることによって世界平和に貢献しようとするものです。遺憾ながら、この施設に日本政府はい まだに財政的支援をしていません。この施設の根本的発想が政府の政策に沿わないからだというのです。でも、私達はこのミュジアムの企画を喜ぶものです。ここに一縷の希望があります。

最後に、私の郷里の近くのバルネフェルトに、じみな色の、直立する石の戦争記念碑が立っていますが、「戦争は時を断絶する」と刻まれています。覆水盆に返ら ずと申しますが、襟をただして、若い世代の無知や誤解を解くことは出来ます。オランダ人、日本人を問わず、ひとり一人がその持ち場においてこの義務を果た すことが出来ます。そうすることによって、主の祈りの中の一節、「御国が来りますように」の実現に向かって私達みんなが一石を投ずることが出来ます。

2、 日本への強制連行:事実解明の旅 | A.P. フレーヴェン・レルス

私の話をよく分かっていただくために、先ず、第2次世界大戦以前の時から始めなければなりません。1931年、新婚早々の私の両親は、旧オランダ領東インドへ渡来しました。 父がそこで就職したからです。当時、ヨーロッパは経済恐慌でオランダでの就職は非常に困難でしたので、父は大喜びでした。電気技師として、バンドンにある 無線電信局で働いていました。そこではエイントホーヴェン博士が所長で、この二人はいつも一緒に働き、仕事を拡張していました。

彼等が居た時、オランダと、または全アジア太平洋地域と、北米までも、遠距離通信できる超現代的な「短波」装置が開発されました。それは同時に、アジアと ヨーロッパをつなぐ中継局でもありました。日本がオランダ領東インド侵略後、その通信局を占拠した時、それは長崎にある彼等自身の装置よりもはるかに大きく、太平洋地域では最大のものでした。更に、近くには相当数の研究所がありまして、電気通信分野でのあらゆる実験が行われていました。

その無線電信局の能力の大きさは、エイントホ−ヴェン博士を先頭に3人の代表が、1938年初頭、エジプトのカイロで開催された遠距離通信の最初の国際学会へ出かけたことからも分かります。ある日、エイントホ−ヴェン氏は、学会参加者の一人で、彼の机の上の書類をこっそり探し続けていた日本人にホテルの部屋でばったり出会いました。同じく、戦前のその時期に、アルバート・アインシュタイン博士の周りにいた科学者たちと関係をもっていたアメリカ人電気技師が数人、バンドンに来ました。アインシュタインは、エイントホ−ヴェン博士の父の友人で、その息子がジャワでしている仕事について聞き知っていました。彼等は、液体空気を電気装置で実験するための研究所設立の相談に来たのでした。しかしそれは極秘にしておかなければならなかったのです。更に、その研究所に勤務する若い日本人技師が、スパイ活動をしていて、自分の同僚がどんな仕事をしているかを正確に知っていたにちがいないということが、はっきりしてきたのです。

1941年12月の「真珠湾」、そして蘭印の宣戦布告後、私達は、2、3ヶ月もしないうちに降服することになりました。降服に先立つ数日、エイントホ−ヴェンと私の父は夜帰宅しませんでした。家庭での緊張は高まり、何が起こっているのか、私は実際には理解出来ませんでしたが、翌朝彼が再び現れたときはほっとしました。その夜、この2人は自分たちで、「アメリカ人」研究所を使いものにならないようにしました。彼等は、別のとき同じようなケースで起こったように、見つかったら当然、裁判にかけられて、絞首刑になるかもしれないという心配がずっとありましたが、何も起こりませんでした。公共生活や大抵の仕事は止み、学校はすべて閉鎖になり、抑留所は一杯になりましたが、無線電信局とほかのいくつかの施設は機能し続けなければなりませんでした。終いに、占領当局によって、 仕事を続けなければならないとされた関係者は、自分たちの家族と一緒に別個の収容所へ移されました。

1943年11月、日本軍将校がエイントホ−ヴェン氏のところへやって来て、彼自身と彼の同僚4人は、日本軍の指令によって、日本で働くために日本へ送られること になったことを通達しました。彼の奥さんと長女の面前で、激しい口論になりました。エイントホ−ヴェン博士は怒って拒否し、自分は自分の自由意思でこれを実行するようなことは決してしない、と言いました。それに対しての日本側の返答は、無理矢理にでも働かせる、でした。彼等の一人が、博士のお嬢さんの胸に銃を突き付けて、男性達が日本人のためにその頭脳を使おうとしない場合に備えて、婦女子は人質として一緒に連れていく、と言いました。その時から、エイン トホ−ヴェン氏、レル氏、レ−ヴェンバッハ氏、レウニス氏、とハーゼンシュタープ氏は、指示を受けるために収容所内の日本人事務所に規則的に喚び出されました。彼等は、その指示をいつも通訳者を伴う同じ将校から受けましたが、最後の面会の時に、彼は通訳者に席をはずさせて、ドアを注意深く閉めてから、完璧な英語で言いました。「みなさん、残念ながら私はあなた方のために何もしてあげられませんし、あなた方が日本へ送られないようにする手段はありません。 しかし1つだけ助言しておきましょう。日本で働かなければならない時はいつも、出来るだけゆっくり働いて、研究課題に関する専門文献をたえず求めるようになさって下さい。井戸はすぐに涸れるでしょうから。ご成功を祈っています。」

この渾沌とした数日、このことは戦前のあのスパイ行為の結果であるかも知れないと思ってみた者は誰もいませんでした。

その後直ちに、1944年1月19日に、成人11人子供11人から成る私達一行は、バタビアへ移され、日本の沿岸航路船に乗せられて、3日かかってシンガポールへ移されました。そこで、私達22人は、ホテルの2部屋に閉じ込められました。とても大変でした、特に、私生活が守れなくて、意見の衝突が始まりま した。私達は約6週間そこに監禁されて、それからやっと、「アラミス号」で、12の護送船を従えて出航しました。4回魚雷攻撃に遭い、タンカーを2叟、 魚雷艇を数叟失いましたが、これも途中補充されて、終いに、1944年3月26日、下関に到着しました。困難を極めた航海でした。

凍てつく寒さの中、長いこと待たされて、汽車で、車窓から外が見えないようにした客室に座って、東京へ向かいました。東京では、空き家ではありましたが、しかしまだ家具は残っていたチリ大使館の2ケ所に居住するようになりました。私達は、この新しい境遇にゆっくりと適応していきました。

男性たちは、現在では日本電気会社(NEC)の一部門として良く知られ、今流行りの i-モー ド携帯電話で有名な住友で働くよう配置されました。登戸の生田にある住友の研究所へ毎日、監視付きで、電車と汽車で1時間半かかって出勤しました。基礎研究をし、うんざりするような長い報告書を提出しなければなりませんでしたが、彼等は所詮敵国の科学者であり、軍の究極的な意図が何であるかを知ることは許されませんでしたので、彼等に与えられる指示は曖昧ではっきりしませんでした。エイントホ−ヴェンとレルスは、真空管測定装置を作るよう命令されました。 秘密にちょっと小細工すると、それがレシ−バ−になり、それでサンフランシスコが聴けました。喜びはつかの間でした。それは、住友の職員はその装置に感心し ましたが、全面的に信頼せず、数日後にはどこかへ消えてなくなりました。

家族は家でなんとかうまく過ごすようにし、親は子供に学校教育を、できる限り上手に教えるよう努めました。食べ物は日毎にひどくなっていきましたが、日本の最初の夏は比較的静かに過ぎました。

1944年11月、最初の米偵察機が東京上空に現れ、即刻警戒警報が鳴り響き、それからは毎日このくり返しでした。爆撃が始まり、1944年終わりごろには非常に激しくなり、新年になっては更にひどく続きました。特に、東京では50年ぶりの極寒で、着物は僅かしかなく、暖房は何もありませんでした。父親たちは、自分たちで防空壕を掘りましたが、もはや力尽きてその暗い冷たい穴に数時間も座って居られませんでした。私は気をそらすために、父と暗算をしなければなりませんでしたが、燃え始めたところを消すために男性たちはしょっちゅう走り回っていました。

1945年1月、私達はひどい風邪に罹り、重病でした。エイントホ−ヴェン氏はまた病気になり、2月15日急性肺炎で亡くなられました。数日間、往診を頼みました が、やっと来てもらいました時に、息を引き取られました。彼の家族にとって、私達全員にとっても、大きな痛手でした。

その間、空襲は激しさを増し、虜われの身である私達は全くお手あげでした。わが身を守るための消火作業は間断なく続きました。3月9日夜から10日明け方にかけてのあの恐ろしい火の嵐は一番ひどいものでした。火事によって吸い込まれた酸素が風嵐を引き起こし、火の粉が耳のかたわらを飛び交い、呼吸困難にな り、そしていたるところ火事でした。

男性たちはもはや生田へ行きませんでした。そして5月に突然、汽車で南方へ連れて行かれました。岡崎で2-3台の、屋根のないトラックに乗せられ、名古屋の東の山並みへ移されました。もう一度自然が見られるということがどういう意味をもっていたか、私は決して忘れないでしょう。それは、圧倒される程にすばらしかったです。非常に驚いたことに、私達の終点は、広沢寺と言う小さいお寺で、豊田からそんなに遠くない所にありました。到着した時、衛生上の設備は何 もないらしいことが分かりました。私達は、身体を洗うところもなく、大広間が1つだけ、お寺の玄関脇(11X 6 米)の一室が私達男女子供のために当てがわれました。近くのもっと大きい寺には14人のイタリア人捕虜が入り、そちらには、小さい暖炉がありましたので、 私達の食事の準備をしてもらいました。食事といっても、1日3回、野菜の葉っぱが2-3枚パラパラと浮かんでいるだけの小麦粉の水っぽい汁だけでした。

このお粗末な宿泊施設で、飢餓が始まりました。飢餓は前にも経験しましたが、それが私達の毎日を完全に支配し始めたのです。許可なしで、自分達で食べ物を探し始めました。ここで私は、いろんなものをたくさん集めて、良いお手伝いをしました。

いろいろな食用葉、竹の子、桑の実などを見つけました。蛇も捕まえました。父は、薮で見つけたカタツムリを食べました。私達は、遠方の名古屋上空ではまだ行われている爆撃の被害は蒙りませんでしたが、私達の監視はだんだんやる気を失い、イタリア人たちが耳に挟むラジオのニュースは私達にはますます楽観的に聞こえてきました。

8月15日、私達がただちに再び自由の身になれた日のことは、私はあまり記憶にありません。その時私は病気が非常に重くて、自分自身でよく理解出来ませんでした。元気が全くありませんでした。その後私達を訪ねて下さったスウェーデン公使は、一部まだ無傷の名古屋観光ホテルへ行けるようお世話して下さいました。そこで、その時すばらしく丁重に扱われ、アメリカの渉外担当官は早速に私達を訪問し、私たちの本国送還の手筈を整えて下さいました。

9月4日、アメリカ戦艦の中に混じって浜松沖に停泊していた病院船「レスキュー号」に運ばれて医学的な検診を受けました。翌日、魚雷駆逐艦で日本の海岸沿い に横浜港へ運ばれました。9月2日にその甲板で終戦が調印されたミズリ−号も停泊していた同じ埠頭で、厚木飛行場へ私達を運ぶために爆撃のあとの焼け野原の中にブルドーザーで連結道路を作るまで、夕方遅く迄待たねばなりませんでした。

沖縄経由でマニラへ飛び、そこで少しくつろぐことになりました。更に体力をつけて自由な生活に慣れるために、3週間後、やっとオーストラリアに到着しました。

日本滞在は何のためであったかと、尋ねられるといつも返答出来ませんでした。父は、レーダー開発のためだったという意見をいつも持っていましたが、憶測の域を出なかったのです。

その20年後の1965年夏に、無線通信国際学会に父が参加するため、私の両親は東京に行きました。その時に、戦時中に日本へ連行されたのはなぜか、日本人にとっても複雑な手順であったに違いないがその目的は何だったのか、について情報を得たいと最善を尽くしました。しかし、住友への接近はきっぱり断られた のです。数年後、レ−ヴェンバッハ夫妻も日本へ行きました。彼等は、住友の建物に招じ入れられて、住友男爵に丁重な歓待を受けましたが、返答は得られず、 お辞儀をして、再び退去せざるを得なかったのです。

のちに、アメリカが原子爆弾開発のためにその研究をどんなに広範囲に亘ってさせていたかが、アメリカで明らかになったとき、レーヴェンバッハ氏は、日本で働かせられたあの5人は、バンドンに秘密の研究所をとアメリカ人に頼まれたまさにあの5人だったことに気がついたのです。

月日は流れ、各自思い思いの途を行き、過去は出来るだけそっとしておくようにしました。親達は亡くなり、子供たちだけが生き延びています。

そして、まだそんなに昔のことでもないのですが、私は「元日本軍捕虜とその遺族の会」(EKNJ)と知り合い、それを通して2001年の秋、弟と日本訪問が可能になりました。あのお寺をもう一度是非見たいし、現代日本を知りたいと思いました。そして、私達の強制連行の謎をもう一度解き明かしてみたいという思いが湧き上がって来ました。日本外務省がこの旅行の補助金を出しているので、私達のこれまでの生涯の中で片時も念頭をはなれることのなかったあの質問に返答して欲しい、とNECに問い合わせてみてもらえないだろうか、更に、あのお寺と観光ホテルを訪問したい、と手紙を書いてみました。数カ月たっても、何の返事もありませんでした。

村岡先生はこのことについて聞き知ったとき、ご親切にも、先生の親友で、日本在の井上氏に、なんとかNECと連絡をとってもらうよう、頼んでみましょうかと、提案して下さいました。更に、彼は名古屋近辺に住んでいるので、広沢寺があっただろうと思われる場所にも近い、と。この探索は、大変な仕事でした。終いに、スリルある探偵物語が出来上がりました。そして、井上氏の捜査感覚のお陰で、彼はその3ケ所すべてとうまく連絡をとることに成功なさいました。

そういうわけで、弟と私は、EKNJ旅行の第1部のあと、名古屋に到着しました。駅のホームで、井上ご夫妻にお会いできて素晴らしかったです。彼等はその日1日、案内を務めて下さいました。戦後立派な建物になった観光ホテルでは、社長が待っていて下さり、私は、当時私達グループを受け入れて、ご自分達の持っ ているわずかな物でお世話下さったご親切に対する感謝を伝えることが出来ました。そのあと、広沢寺へ向かいました。この場所をすぐに、完全に見分けること が出来たのは、大きな喜びでした。何ひとつ変わっていないように見えました。当時のお坊さんの、今は老齢の未亡人とそのお嬢さんに迎えられて、井上ご夫妻の通訳のお陰で、お互いに心から話し合うことが出来ました。既に長年経っているのに、私達は再び当時の子供に戻ったかのようでしたが、あの惨めな滞在も、 今は少し距離を置いて眺められるようになっていたし、沢山の場所を確認しながら、むしろ楽しんでさえいました。この密度の濃い日の夕方、井上氏との素晴ら しい夕食のあいだ、後日談は尽きませんでした。

2-3日後、旅行団の他の団員と一緒に東京へ入りました。東京では到着日にNECとの面会が予定に入っていました。私はその時とても緊張していました。多く の人たちがいろいろ骨折って下さり、やっとここまで来れましたが、今どんな結果が出てくるというのでしょうか。NECの建物の上階にある非常に大きな会議室で、役員による特別歓迎委員会、古文書担当者、以前の協働者たち、そのまん中に、90才を出た活気漲る高齢者、戦時中研究所所長で私達の父たちを強制 労働させたその人、大沢氏が居ました。彼は、背筋を真直ぐにして、力強い声で、私達を歓迎し、私達のために特別に収集し、一緒に吟味するための書類を数枚 机の上に用意してくださいました。はっきりと、その計画が書いてありました。彼等はそこでレーダーシステムを設計するために従事し、そして、それは真実な結論でした:私達の日本滞在の目的は、レーダー開発だったのです。

この印象的な会合が終わったとき、私たちはまだ少し頭がふらついていました。56年後にやっと本当の返答を得たのです。私達の日本旅行は素晴らしい結末を迎えました。

さて、今日のテーマは、「私達はお互いに和解し合うことができるだろうか? 私の経験は」ですが、私は、自分の体験、最近どんなことが起こったのか、についてすこしお話しいたしました。私達の数奇な運命がどんな理由だったのかについて確答を得ることができたのは、ひとえに何人かの日本人の非常な努力に負うものです。お寺のお坊さんは当時軍の命令で私達をかこっておくために相当なお金をもらい受け彼の妻は私達とはあまり関係を持とうとはしませんでした。今、私達は、お坊さんの家で、テーブルを囲んで座り、大いに熱心に喋りあったのです。私達の父達が生田で働いていた時、大沢氏は、彼の回顧談に書いているよう に、自分の国と国民の役に立つであろう新兵器製造のもつ意味だけのことを考えていました。あとで、彼は当時のことについて書いています:「さらに言うこと が許されるのであれば、私の生田は、愚者の天国であった。この苦い経験から、充分な情報を持ち、正しい歴史観を持つことはきわめて重要なことであると確信するに至った。」この内的確信から、弟と私を、長年経った今、おおっぴらに、非常な善意をもって迎えようとした彼の決意が表われています。

私達の国外強制連行についての私の話は、「歴史」です。私の和解は、私の過去を呑み込み、鎮めたところの今日の日本人との触れあいで完成しました。触れあいが公式の経路を通して実現するのは、非常に困難か、殆んど不可能です。個人レベルでは自由に話し出来る一方、他方、組織の中では口が堅いという、この相違 は、私たちにとってはつらいことです。日本の公式の場、政府筋にこれは特に非常にはっきりしています。

彼等は、どのようにして、そしていつ、そこから抜け出せるのでしょうか。

3、 和解について思うことども | ヤンイーナ・バウテンダイク

(2009年に、つまりこの発表の5年後に、バウテンダイク夫人の活動を取り上げたドキュメンタリー番組がオランダで放送されました。 Zen en Oorlog 19世紀終わりから20世紀の初めにかけての、日本の禅宗界と戦争遂行との関係を取材したとても興味深い番組でした。)

村岡先生から今日の会合の主題である「日本人とオランダ人は和解できるだろうか?」について、禅仏教に関心をもつ者の視点から話をしてもらいたい、と依頼されました。日本の禅仏教のいくつかのグループに私が宛てた書簡がきっかけとなって、戦争責任に対する深い悔悟の情と、オランダその他の地にある戦争犠牲者に対する謝罪の表明が行われました。私が手紙を書いたのは、生きた信仰は日常の生活になんらかの形で表現されなければならないのではないか、という問いに 発するものでした。のちほど、戦時中の仏教界指導層、また日本のクリスチャンが果たした役割について述べます。わたくしは、手紙の中で、悔悟を表明するこ とによって、戦争犠牲者達が抱えている憎しみや恨みが和らぐ可能性があるのではないか、という希望を述べました。しかし、そういうことが現実に可能でしょ うか?かつての敵と現実に和解することができるでしょうか?

1999 年の大晦日、新しい千年紀を世界各地でどのようにして迎えるのだろうかと思って、テレビを正午からつけっ放しにしておきました。クリスマス諸島での祝いか ら幕が切って落とされました。この場所が選ばれたのは偶然に過ぎなかったのかも知れませんが、その島の名前が私にはなにやら象徴的な意味合いをもって迫ってきました。第三千年期はここで始まり、その第一日はここで終わったのです。第二千年期から第三千年期への移り変わりの時の祝いでいまも記憶に残っている のは、皮膚の色、衣装、言葉それぞれ様々だけどいかにも楽しそうに祝っている人たちのイメージです。互いに好意をもって結ばれ、今この瞬間を感謝し、平和 な未来をひたすらに願う点で一致していました。テレビの画面には一日中、何万人とも知れない群集が次から次へと写し出されました。私達が人類として一体で あることをこのときほど強く感じたことはこれまでにありませんでした。現代の情報技術はこの多様性の中における一体性、また私達の行動が世界の他の人たち におよぼす影響をを絶えず私達に見せてくれます。

過去の2000年にくらべて、もし今後もなお、人類が生き延びるものとすれば、またそう願うのであれば、わたくしたちはこの地上における一切の生が相互に関 連しあっていることを絶えず認識する必要があります。私達の行為は世界のいたる所で起こること、一生会うことはないかも知れない人の一生にまでに影響を与 え得るのです。

1999 年、Brian Victoria著「戦時中の禅」と題する本を読んだ時、わたくしは人類のこの相互のつながりを極めて具体的に体験しました。著者は禅僧であり、東洋語の 専門家です。彼は、第二次世界大戦開戦前並びに戦時中の仏教指導者達、ことに禅宗の指導者達の態度を25年にわたって研究しました。この時期に、ほとんど 全ての禅師並びに禅僧達は戦争支援活動に参加し、日本の侵略領土拡大政策を全面的に支援した、というのが彼の結論です。この本に触発されて私は行動を起こすことに決し、日本の禅仏教者達との連絡をとることにしました。

主人は戦争中蘭領東印度で、子供時代に日本軍が設営した強制抑留所に閉じ込められ、その時の日本兵の態度から来る精神的後遺症を今日もなお日常的に抱えています。その傷は私達の家庭生活にも影を落とさずにはおかず、もう17年この方、精神療法を受けています。

私は、もう永年、長期にわたる修行と学びを終えたのち、日本の禅師から、教授資格を得たドイツ在のカトリックの司祭のところで禅の瞑想をしています。「戦時中の禅」を読んでから、禅が約束するものと、主人や、彼と似たような境遇の中にある多数の他の人たちの状況とをどのように調和させなければならなかったのでしょう?私にはそれができませんでした。そこで、日本の禅の団体の総裁に手紙を書いて、私のジレンマを説明し、彼の前任者の一人が戦争を遂行した政府と 協力したことについて、戦争犠牲者に謝罪するよう求めることにしました。彼の団体が発行する機関誌の2000年の3月号に彼の謝罪声明文が掲載され、禅信者達の大多数を驚かせました。それまでにも、戦争協力態勢に加担したことを禅宗諸派の大多数に認めてもらおうとする努力は一切水泡に帰したのでしたから、 これは驚きでした。日本の禅宗界では、戦時中の事は相当はっきりと分かっていたのですが、外に対しては公言しませんでした。4年前でもこれがどんなに困難 なことであったかは、声明文が英語だけで公表されたことからもはかられます。問い合わせてみて分かったことは、問題の団体の会員達で高齢者達は総裁のとっ た処置に必ずしも賛成ではなく、妥協策として英語だけでの公表となったとのことでした。この謝罪声明をきっかけに、日本各地の何十かの禅院の導師達に似た ような内容の手紙を出しました。返答はごく少数でした。ただし、最も重要な臨済宗派が2年後に徹底的な、心底からの謝罪声明を発表し、これは日本でも行われました。今年4月、臨済宗では京都において戦争責任問題をテーマにしたシンポジウムを開催しました。それに先立って、大平洋における日本の侵略戦争の犠 牲となった全ての人のための追悼式典がありました。私も招待されて、なぜ手紙を書いたかについて話してくれと言われ、日本の新聞もこのことを取り上げまし た。

仏教、禅仏教の指導層の戦争協力をなぜわたくしが訝っていたのでしょうか? それは予想されることだったのではないでしょうか?また、欧米で禅を実践する他の 人たちもどうしてそう思わなかったのでしょうか? ヨーロッパの教会だって同じことをやったのではなかったでしょうか?私が抱いていた疑問を分かっていただ くためには、禅とはそもそも何なのかということをかいつまんで申し上げる必要があります。禅は経験に基ずく道であり、色々な規則ずくめの教えではありませ ん。勿論、仏教に由来しますし、仏教には仏が教えたいろいろな戒律があります。禅はキリスト教の伝統の中の瞑想に相当します。禅とは沈潜を意味し、外界の もの、たとえば花とか、文書とか、内心のものすら一切排除した瞑想です。このようにして、われわれは自分が一番深いところで何者なのかを発見することができる、と言います。常にある自分ですが、まだ自分には分かっていない自分です。人間は神の宮であることを悟ります。その境地に達した時、悟りを開いた、と いいます。かくあるべし、という信仰に基づいてではなく、今あるがままの生(せい)の神聖さに力点が置かれます。

仏陀は悟りを開いてから、それまでに自分が発見したことを教えとしてまとめました。最も有名なのは、人生これすべからく煩悩なり、という言葉かもしれません が、私達は、だれかが大変難儀したりしていると、この言葉をときに冗談半分に引用したくなります。しかし、本当はそこには非常に深遠な真理が隠されてい て、それが本当に分かっている人は死にものぐるいの生活を強いられるのです。それは、人はだれしも心底で幸せを希求し、苦痛はできるだけ避けたいからで す。仏陀によれば、人間はこの無苦の状態—涅槃とも言いますが — に到達することは出来ます。これに到達することを妨げる最大のものは、あらゆる相をもつ欲、憎しみ、迷いです。涅槃に至る条件は、徳、叡智、瞑想です。こ れは、いわゆる八正道に規定されている範疇です。この道を辿れば涅槃に対する願望が満たされる可能性が一番高いのです。禅宗では、当然の事として、禅師が 最初の涅槃に到達し — 第二の涅槃は死後に到達できます— それによって仏陀に直接に繋がっている、と考えられています。そのような師は仏陀の性格、仏陀自身の本性を獲得し、他の生きとし生ける者に対する慈悲に満たされるのです。徳こそはこの途上における全ての進歩にとって必須のものであり、個人として成長するための基礎であります。徳、善行をつむためには、極めて明瞭な戒律があります。その第一は殺生を避け、他者を傷つけない、ということです。非暴力は仏教倫理の根本です。すべて生きとし生けるものは幸いを求 め、苦痛を避けたいと願うという前提にたちます。相互性の原理が先行します:「自分の身に起こってもらいたくないことを他人にしてはならない」というので す。八正道の別の極めて大事な教えは、適切な言葉を用いる、ということです。真理を語るべきであって、嘘をついてはならない、ものを言う時、他者に対する 敬意が表れなければならない、というのです。そのようにして、他者との正しい関係が維持できるのです。ヴィクトーリアの研究結果を知ったとき私がとてつも ない問題に直面したことを容易に御理解いただけると思います:悟りを開いた境地に達し仏陀と同列に位置するということは、善悪を弁えることができて、善を為すには自分の精神力では不十分である、ということを意味するのだろうか?苦痛を減ずる代わりに、日本においても、ここ欧州においても、禅の指導者達の行 動は無限の苦痛をもたらしたのではないでしょうか?

そのような行動が、当時は、遺憾ながら、禅宗信徒達に対して、また国民全体に対して正当化されたことは、ヴィクトーリアが多数の例を挙げています。彼は、た とえば、日支戦争勃発直後に禅を代表する二人の教授の発言として以下を引用しています:『おおまかに言って、中国の仏教徒達は、戦争は、いかなる犠牲を 払ってでも、避けなければならない、という見解をとっている。しかし、日本の仏教徒は、正当な理由によって行われる戦争は、仏教の本質であるところの善意 と大慈悲と合致する、 と考える。よって、仏教はこの戦争を是認するのみか、全面的に支持するものである』。こう発言した教授連は、戦争遂行に衆生の救済という仏教の究極的な目標を達成するための手段を見ています。そのための導師は日本の天皇でした。なぜならば、この著者達によれば、天皇は俗世の中で、際立って悟りを開いた存在であるからです。たとえ天皇が武器を必要とするとしても、彼は憎しみや怒りからそれを用いるのでなく、親がときとして愛情に迫られて子を叩くように、慈悲をもって武器を執る、 というのです。二人の教授によれば、仏教は戦争のさなかに多数の人間を殺すことを非難するものではなく、戦争は、より強い、高尚な慈悲を実践するために不可避である、と看做すのです。鈴木大拙も著明な禅学徒でした。米国に10年間滞在し、英語の著作もあり、広く尊敬されていました。しかし、彼も日本の侵略 戦争と天皇の熱烈な支持者でした。仏教は愛と慈悲の教えを伝える、と言いながらも、非暴力、非殺生の戒律を、「剣を執ることを義務付けられている者 — すなわち、兵隊 — は本当は剣を執るのでなく、剣自身がひとを殺すのである。兵隊は誰をも傷つけたくはなかったのであるが、敵が目の前にあらわれて、自ら犠牲となるのであ る。武器が、言ってみれば、自動的に正義の機能を果たすのであり、それが慈悲の機能である。兵隊は、この行動を通じて、全く創造的な芸術作品を生み出すと ころの最高の芸術家に変わるのである」という怪し気な議論を展開しています。鈴木が、いま引用したことを、1937年、日本軍が当時の中国の首都、南京で 大虐殺を行った年に書いたということは遺憾極まりないことです。7週間にわたって、35万人の中国民間人が暴行、拷問、虐殺の犠牲となりました。日本軍の 行動は残虐そのものでした。市内にはその後何か月も死体の山が積まれていました。

1937年のラジオ放送で禅師関精拙は「天皇に完全な忠義を尽くすことは大乗仏教の宗教実践と合致する。この宗教は絶対君主の法と一致するからである」と発言しま した。また後日、「赤い悪魔、すなわち国内の共産主義者を抹殺し、外国の悪魔を払拭するよう努めなければならない。そのためには、一丸となってこれにあた り、陛下に忠義を誓い、お仕えするにしくはない」と発言しました。

ヴィクトーリアによりますと、戦時中、天皇は仏陀と同格に置かれ、天皇に対する忠義は仏陀の教えに合致し、日本は仏教国と同じとされました。第二次世界大戦 後、さまざまな禅師達がとくに合衆国に出かけて教えましたが、不思議なことに、戦時中彼等が果たした役割について質問が発せられることはなく、彼等自身も その点については語りませんでした。日本国内においてもこういった教師の大多数は戦時中の事は依然として弁護を続け、日本は欧米の支配者からアジアの民族 を解放するために犠牲を払ったのだ、という当時の通念を踏襲しました。

仏教徒達が時の政府の政策に全面的に賛同した重要な根拠は、それをもって自らの愛国精神を証明したかったからです。仏教はつねに日本独自の宗教とは看做され ませんでした。日本土着の宗教は、皆様も御承知の通り、神道です。仏教の他にも、外国の宗教、しかも西欧の宗教が日本にはありました。とりもなおさず少数 派のキリスト教です。彼等は戦時中どう行動したのでしょうか?

日本の新教(プロテスタント)キリスト者が戦時中果たした役割についてはHuamin Toshiko Mackmanさんが2003年に英国バーミンガム大学神学部で博士論文を書かれました。彼女は、19世紀において、日本の国粋主義が全体主義国家に変貌 し、自己保存のために国家神道を形成した過程を描写しました。日本国の黎明期に出現した天照大御神をめぐる神話は、天皇と皇室をこの女神の直系であると仕立てることによって新しい生命を吹き込まれました。皇室に対して忠義を守ることはこの太陽神を崇拝することと同一視されました。日本人はすべからく、天皇崇拝を根幹とする国家神道の信徒とされました。かくして、政府は天皇を国家統合の象徴に祭り上げ、天皇は、1889年発布の明治憲法のもとでは「神聖にし て犯すべからざる」存在とされました。公の場ではいたるところで、学校をも含めて、国家神道にまつわるところの宗教的祭儀が執り行われ、その実施が厳重に 監視されることになります。これによって、だれが国家にとって危険人物であるかを判断するための材料となりました。キリスト教徒はこの状況にどう対処した のでしょうか?天皇を神として拝むことが出来たでしょうか?もちろん否ですが、しかし事はさほどに容易ではありませんでした。政府は、仏教徒と同様、キリスト教徒も除け者扱いされたくないと願っていることを巧みに利用しました。最初は、キリスト教会は国家神道、神社にお参りして天皇を拝むことになかなか馴染めませんでした。1938年に印度で開催されたプロテスタント教会の国際会議でこの苦悩を訴えました。しかし、最後には、反対の立場を放棄して、国家神道は宗教にあらず、単に日本の伝統に過ぎず、という政府の立ち場をのむことになりました。政府に歩調をあわせるようにとの上からの圧力はいよいよ強くなりました。マックマンさんが挙げている例を引きながら説明致します。欧米のみならず、日本国内においても賀川豊彦は代表的なキリスト教徒として知られていま した。非常に有能な、熱心な伝道者、また社会運動家でもありました。30年代までは徹底した平和主義者で、日本の海外進出政策に対して批判的でした。国際 連合への嘆願書に、彼はガンディ、アインシュタイン、タゴールと名を列ねています。他の日本人キリスト教徒と同じく中国のキリスト教徒と非常に友好的な関 係をもっていた彼は、日本の満州侵略に際して、悲痛の念を詩に託しています。1940年後は、彼とその妻の著作は没収され、彼自身は絶えず警察の監視のも とに置かれます。非暴力抵抗を訴えた説教をしていた時に逮捕されました。獄中に一月あったのち書いた論文で、自分は祖国を愛し、国家を常に護る覚悟であ る、と言っています。1943年、青年達に徴兵拒否を奨めたかどで警察に尋問されました。このことがあってからは、彼は一貫して政府の代弁者となり、政府擁護のラジオ放送もしました。アジアを占領することによって神の国を打ち立てよというキリスト教徒に対する使命を果たすよう教会に呼び掛ける賛美歌まで書 きました。もっとも、政府の海外進出政策にアジアにキリスト教を広めるための手段を見い出したキリスト者は彼だけではありませんでした。政府は賀川を支那へ派遣し、彼地のキリスト者に日本を首班とする新しい世界秩序を樹立する事業に参画するよう奨めます。終戦後、彼は内閣の顧問に任じられ、天皇が戦犯として極東軍事裁判に召喚されることのないよう運動するのにひとはだぬぎました。時の政府は「一億総懺悔」をかかげて天皇制温存の運動を始めたのです。その狙いは、戦争責任を一 部の軍や政界の最高幹部や天皇に帰せず、国民ひとりひとり荷なわせようとするにありました。それによって、究極的には誰一人責任をとらずにうやむやのうちに終わったのです。これで、みんなが悪者の肩をもつことになりました。こうして過去の歴史を省察する貴重な機会を日本国民は失うことになりました。その結果は今日に至るまで残っており、将来にも残るのです。ひとえに自省、反省によって、国民は根付くことが出来、ふたたび悪が頭をもたげてきた時それに引きずられないための主体性をつちかうことができるのです。当局が、指導層が過去をはっきりと語ろうとしないのは、日本的な恥の文化による面もあるのかも知れま せんが、近代的な社会ならばもはや許すことの出来ない、一種の恩情主義に他なりません。オランダ人の芸術家が日本人をも含む国際会議に出席して、子供の 時、日本軍が設営した民間人抑留所にいたことがある、と話したところ、会議の後、30歳ぐらいの日本婦人がやってきて、「インドネシアの日本軍の抑留所? 初めて聞きました。そんなものがあったこと全然知りませんでした」と言ったそうで、これなどは典型的な例です。オランダの、皆様方のこのグループや日本の 類似の団体が、過去の歴史を知ろうとしておられるのがいかに重要かがこの例からも明らかです。和解には相手がいります。相手が何も悪いことしたことない、 と思っていたら和解どころではありません。

「戦時中の禅」では、強制を余儀無くされる、容赦のない体制のことも語られていますが、焦点は当時の禅宗界のいかがわしい対応にあてられています。倫理的行動 が問題である場合は、常に人間、この場合は仏教界指導層のそれに関係します。法廷においても被告は一個の人間であって、単に体制の一部ではありません。判決は、人間には良心があり、それゆえに自己の行動に対して責任を問われる存在であるという大前提に立っています。ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントはヒット ラー政権下におけるドイツ人の態度を徹底的に研究した結果、だれしもが良心をもっているとは限らない、という私にとっては驚くべき結論に達しました。わたくしは、ある人々は良心を故意に用いようとしないのではないか、という前提から出発しました。アレントによれば、戦時中、良心をもっている証拠を示し、ナチスと協力しなかった人々は、ドイツ人のあらゆる階層、インテリのみならず労働者、神を信じる者のみならず無神論者の中にもいたというのです。彼女により ますと、こういった人たちは自己とともに生きることを大事にし、思索する時も、自己と語り、悪人として自己と共に生きることを拒否した、というのです。極限的な状況にあっては、個人にとってはソクラテスのとった立場、すなわち、「悪を行うよりは、悪をひっかぶることのほうがましである、完全な一個の人格で ありながら自己と不和のうちに生きるよりは、全世界と不和のうちに生きる方が自分にとってはましである」という原理が妥当する、とアレントは主張します。 たとえ沈黙のうちに、他に仕方がなくてであったにせよ、盲目に政府に協力することを拒絶し、場合によってはそれがために苦しむことをも辞さなかった人たち こそは、人間の尊厳と栄誉を救った人たちであったのです。彼等は、人間の尊厳に矛盾する法に服することは出来ず、服する必要もない、と判断したのでした。 どのような政治体制も支配者と非支配者から成り立つ、という通念をアレントは欺瞞であると断定します。いかなる政府も服従ではなく、同意の上に成り立つのです。成人の市民は同意し、子供は服従します。成人の市民が同意する場合は、服従を求める権威あるいは法を支持するのです。宗教的な意味においては、服従 を云々することが出来ます。神と人間との関係は大人と子供の間のそれに比較が可能だからです。それゆえに、天皇を神に等しい父親として提示し、これに服従 することは当然の義務であるかのように押し付け、人間の尊厳を無視してまでそうしたのでした。

はじめのうちは日本人キリスト者もここに問題点を感じていたのですが、すでに、1938年に開催された前述のプロテスタント教会国際会議へ向かう船上において、日本代表達は国家神道によって規定された儀式に参加したのです。それのみか、会場に着くと、大会議長のウィンチェスターの大司教から、政府に楯突いてもっと厄介なことになるのもどうか、という忠告を受けたのでした。大司教によれば、天皇崇拝はマリア崇拝あるいは聖者崇拝の一種と考えられる、というので した。大司教すら、良心を与えられている信者は、自分の願望や世間のそれを問題にしているのではなく、あくまでも神との関係が問題なのである、という大原則を忘れていたようです。肝心なのは自己の良心であって、それをもって自分の行動は決定されるべきなのです。ローマ皇帝を崇拝することを拒んだが故に命を失ったキリスト教徒がローマにはかってあったのではないでしょうか?それは悪だったのでしょうか、善だったのでしょうか?いまになって考えますと、二つの 悪のうちの比較的さわりのない方を選んだことによって手のつけようのない恐慌への道が開かれることになってしまったのです。日本政府にとっては、キリスト 教徒が天皇崇拝に合意したことは彼等の側からの抵抗はもうないもの、と受け取られたのです。

これまで述べてきましたところから、ある状況の中にみずから巻き込まれていると、その状況を正確に把握することがいかに困難であるかをお分かりいただけたと 思います。人を裁くことも同様に難しいことです。「聖戦」を云々した禅師の中には、弟子達から厚く敬服されていた、非凡な才能に恵まれた人々がありまし た。賀川牧師は日本の貧民層のためにすばらしい働きをしました。でも、彼等はその行為の責任を負うのです。

私が日本の仏教界の人たちに書簡を送りました時、宗教者は神の前に責任ある人間でありたいはずである、悟りを開いた者として行動したいはずである、という前提に立っていました。

不行跡や悪行は人間の弱さに由来するのであり、別な行動の仕方があったのではないか、ときめつけるにしても、そういう我々自身、ひょっとしたら同じ過ちを犯したかも知れないという可能性を忘れてはならないのです。そのような状況にあっては、

われわれに力が授かるように希望し、祈るほかないのです。この謙虚な態度が和解を助けることが出来ます。

和解とは加害者と被害者の間の関係の修復のことです。私達の法体系においては、加害者は処罰されるか、損害賠償をするかで、両者が和解するかどうかは本人同 士の問題として残されます。被害がひどければひどいだけ和解は困難になります。被害が遠方に住む未知の人間によって加えられた場合は特に困難です。日本政府による謝罪表明にもかかわらず、インドネシア出身の戦争犠牲者の中には、いまだに、本当の意味での公平な処置がとられていないという気持ちが強く残って いる、というのが私の感触です。支払われた賠償金も不十分であり、日本人は日本人でどんな悪いことをしたのかを知らないままでいます。

禅宗の臨済宗派による悔恨の情の表明と謝罪は、ことが起こって60年してはじめて行われました。直接の関係者はほとんど物故しておられるのです。この長期に 渡る躊躇は身内のものを攻撃しあってはいけないという深い文化的背景の違いに起因するものです。精神的父は往々にして肉親の父以上に大事なのです。よっ て、師を軽々しく難ずることはしないのです。ある師にとってはこれは信仰の問題ですらあります。師が過まったというようなことは考えられないのです。しか し、いま、「彼等は過った。その責任を我々が負う」と言われたのです。これは、犠牲者一人一人に向けられた本当に真摯な対応です。

これに対して私達の方からなんらかの応答があるべきでしょうか? 悔恨には赦し、和解をもって応じるべきでしょうか?否です。許しは決して義務であってはなり ません。さもなくば、それは新しい形の暴力になります。赦すことも出来ない、赦したくもないがゆえに良心の呵責を感じるようであれば、その当事者は二重の犠牲者となります。時として、傷が余りにも深いがために、赦す心持ちになれず、そういう場合には、自分の無力を神の手に委ねる以外にありません。キリスト教は許しを余りにも長く当たり前のこと、分かりきったこととして扱ってきたきらいがあります。罪人は許しを必要としている、とばかり考えて、犠牲者の深い 傷、良心の苦しみをしばしば顧みなかったのです。イエスは、許しを義務として課してはおられず、むしろ過去の牢獄から一歩を踏み出すための解放の呼び掛け として捉えられております。

ひとは過去にとらわれて、苦しみ、憎しみ、恨みを抱き続けることがあります。過去のことを話題にすることを避け、同じような境遇を経た人を探し出して、共通の想い出を交換するのです。それでなんとか持ちこたえることができる場合もありますが、失敗することもままあります。犠牲者意識にしばられ、復讐してやり たいという欲求に閉じ込められてしまうことがあります。そのままでいてもよい結構な口実があるのかも知れません。でも、ある瞬間に、これ以上自分を犠牲者 として考え続けるのは止めよう、と決心することだって出来ます。加害者がいまなおあなたにたいして振るうところの力を粉砕してやりたいと思いませんか?未 来が開けているだけでなく、過去もあなたの前に開けているのです。過去の出来事に別な意味を付することができるのです。自分の記憶の中で、相手の視点を取 り入れることができるのです。そうすることによって、相手の行為を肯定するわけではありません。その行為は絶対に悪であり、永遠にそうなのです。あなた自 身と等しく人間である加害者を人間として肯定し、受け入れるのです。幸せを求めている何百万という人の中の一人としてです。かならずしもそうは思えないか も知れないですが、加害者もその行為によって自分自身をすでに罰したのだと思えないでしょうか?行為は自らを罰しますし、未来に対して結果をもたらしま す。歴史に残る痕跡は決して完全に抹殺することは出来ません。しかし、積極的な行為、憎悪と恨みを捨て、復讐と報復をやめることも色々な結果をもたらしま す。あなた自身にとって、あなたの周囲にとって、世界平和にとって。この世の紛争の大半は憎悪に起因します。しかし、このような積極的な行為を実践できる ためには、あなたがまずあなた自身と、あなたの人生と調和、安心を確保し、自分自身の運命に対して愛をつかまなければなりません。

過去は静止していません。これまでとは別な見方が可能です。すでに申しましたように、相手の視点を考慮に入れることが出来ます。もっと大事なことは、自分に託された、二度とめぐり来ないこの人生の一部としてそれを見ることができるということです。「ありがとう。でも、私は別な考え方をしていました」と言うこ とも出来ます。しかしまた、この苦しみ、悩みは自分に何をもたらすことが出来、またすでにもたらしているかを考察することも出来ます。私の禅師は、君を妨げるものを君はいつでも自分の益に転換することができるのだよ、と私に諭してくれます。つらい想い出を、自分とは関係ないものだとしてはねつけるかわりに、それに絶えず刃向かい、苦悩と怒りとを追体験し、最後にはそれがあなた自身の、あなたの人生の一部になる、というところまで行くことだって出来ます。 そういう場合は、誰かの助けを必要とするかも知れません。

自分の人生で起こるすべてを体験しこれを受容するということは神の意志を求める道に他なりません。問題は出来事それ自体にあるのではなく、それを我々がどの ように受け止めるかにあります。これは悪事を肯定し、正当化するわけではなく、その行為の「結果」を自らの肩に荷なうことなのです。傷口は残りますし、ときとしてまた疼くこともありましょう。でもいつまでも加害者の所為にしないのです。憎悪と報復の普通の過程が逆転するのです。過去はあなたに対してもはや 威力をふるいません。ですから、許しの賜物はいつも奇跡です。

人はだれしも幸せを願います。しかし、それは、他人によってもたらされた場合も含めて、苦しみを経ずには到達できません。仏陀の深遠な叡智はベトナムの禅師 Thich Nhat Hanhによって次のように表現されています:「我々は、我々の視点を変えることができるようになるために、苦悩に満ちたこの人生を生きなければならな い。もし我々がこの世にあって、われわれの苦悩をも含めて、すべてが善なりと観ずることが出来たならば、我々は真に自由である」。

そのとき、我々は同胞の人間と和解することのできる自由な人間となったのです。

参考文献

Lascaris,Dr.A.(1993) Het soevereine slachtoffer, een theologisch essay over geweld en onderdrukking. Baarn: Ten Have

Lascaris, Dr.A.(1999) Neem uw verleden op, over vergeving en vergelding. Baarn: Ten Have

Tongeren, P.van, (red.) e.a.(2000) Is vergeving mogelijk? Over de mogelijkheid en moeilijkheid van vergeving, vooral in verband met oorlogsmisdaden. Uitg. DAMON

Brugmans,E.(red.) e.a.(2000) Rechtvaardigheid en Verzoening, over de fundamenten van de moraal in een tijd van geweld. Uitg. DAMON

Valkenberg,P.(red.) e.a.(2002) God en geweld. Uitg. DAMON

Ganzevoort,R. e.a.(2003) Vergeving als opgave,Psychologische realiteit of onmogelijk ideaal? KSGV Tilburg. Tel.013-4663342

Khoury, A.T. e.a.(2003) Krieg und Gewalt in den Weltreligionen, Fakten und Hintergru¨nde. Freiburg in Breisgau: Herder

Arendt, Hannah (2004) Verantwoordelijkheid en oordeel, samengesteld door Jerome Kohn. Rotterdam: Lemniscaat

Burggraeve, R.(red.) e.a. (1996) De vele gezichten van het kwaad. Meedenken in het spoor van Emmanuel Levinas. Leuven/Amersfoort:Acco

Post, van der Laurens (1963) The seed and the sower. A compelling story of captors and captives in a Japanese POW camp in Java. Penguin books

Post, van der Laurens (1970) The night of the new moon. A remarkable story of his experiences in the prison camp in Java. Penguin books