蘭領東インドの共通の歴史とわれわれの将来

2000年 7月27日 フォールトハウゼン

プログラム

  1. 開会の辞 | ヘルマン・ハウツヴァールト
  2. 蘭領東インドで共有された歴史と私たちの将来 | 石井正治郎牧師
  3. 林えいだい著「インドネシアの記憶:強制抑留所」の刊行に際して | アニー・ハウツヴァールト – デヴリース
  4. 林さんの本の刊行に際して 1) | リムプキェ・フルネヴェルト
  5. 林さんの本の刊行に際して 2) | ウィス・M・フルネヴェルト
  6. 「ネルと子供たちへキスを」の刊行に際して | E.W. リンダイヤ・ジュニア
  7. 戦後の日本 | 村岡崇光
  8. 謝辞及び閉会の辞 | アドリー・リンダイヤ – ヴァン・デル・バールン

1、開会の辞 | ヘルマン・ハウツヴァールト

中近東伝道協会のこの会場にようこそおいでくださいました。この団体はキリスト教徒とユダヤ人、またキリスト教徒とイスラム教徒との間の和解を達成するこ とを目的として、中近東のイスラエル、エジプト、ヨルダン、レバノンにボランティアを派遣しています。そのために60人ほどの人が社会事業、教育、宗教な どの分野で仕事をしています。この事業についてさらに興味のおありの方は、この部屋の一角に説明書を用意してありますのでお持ちかえりください。

他者が故意に加えた苦しみ について聖書的観点から話して欲しいとのことですが、第二次世界大戦のもたらした結果、そのときに罪のない一般市民にたいして加えられた残虐行為について ここで詳しくお話しするつもりはありません。わたしはこの問題を政治的な視点からではなく、神の国の観点から、苦しみに対する対応、反応の仕方について話したいと思います。

無実でありながら、非常な苦しみを味わった三人の人物を聖書のなかから選んで見ました。一人は旧約聖書の人ダニエル、もう一人は新約聖書からステパノ、最後に神の子かつ人の子イエスです。

ダニエルは紀元前600年頃ユダでバビロニア軍の捕虜となって、無理やりに風土も文化も全く異なる、祖国から何百キロも離れたバビロニアへ連行されました。そこで、故郷エルサレムをまた見ることなく何年か後に客死しました。しかし、彼は自分の創造者である父なる神に仕えることを片時も忘れませんでした。 ある日のこと、同僚のバビロニアの高官たちは、彼ほどに有能でも賢明でもないがために、彼に対する嫉妬心から彼をなきものにしようと謀りました。30日間 のあいだダリオス王以外の誰をも拝んではならないという法律を王に制定させたのです。ダニエルは自分のまわりで何が起こっているかは重々承知していました が、イスラエルの神に毎日三度の祈りを捧げることをやめませんでした。自分の首が危ういと分かっていながらも、主なる神を棄てませんでした。自分をおとし めようとしているのが誰であるかも承知していましたが、彼等にたいしては一言も言いませんでした。

新約聖書の人ステパノは伝道者で、同国人に福音を語りましたが、彼の知恵、彼のうちに働いている聖霊が妬ましくてたまりませんでした。最後には敵から石でうち殺されましたが、自分に対して向かってくる悪魔的勢力の脅威にもひるまず最後まで信仰を守り通しました。

始めであり終わりである方、アルファでありオメガであるお方、イエスは何の罪を犯されたでもないのに、ローマの圧政者たちとイスラエルの宗教指導者たちに よって十字架のはりつけにされました。彼の教えがあまりにも革命的で、既成の体制を脅かしたのです。彼は裕福なパリサイ人に警鐘を鳴らし、神殿に店を出し ていた両替屋の屋台をひっくり返し、娼婦や税金取りと同席して食事をし、といったふうで、彼の教えは当時のイスラエルの指導者たちの態度とは水と油、力と 聖霊に充ち溢れていました。それは神の国の教えでありました。宗教界の大物達は嫉妬と憎悪に駆り立てられ、彼の命を狙いました。彼の教えはさほどに強力で あり、当時のラビたちのそれとは雲泥の差がありました。しかし、イエスは柔和で謙遜でありながらも、その路線を守り、天なる父の意を挺して前進されまし た。

この三人はいずれも、他人が故意に及ぼした苦しみを味わいました。ここで私が興味深くも、不思議にも思うのは、彼等の態度、対応です。他人がなにかひどい ことを仕掛けてきたとき一般の人がどう反応するかはほぼ確実に予想できます。大抵の場合、怒り、憎しみ、殴る、怒鳴る、呪うといったような否定的な反応を します。テレビをちょっとひねればそういった例はいくらでもお目にかかれます。聖書的な視点がこれとまったく逆であることはおおいに考えさせるものを持っ ています。その一つの例として、新約聖書ルカによる福音書6章27節から30節を読みますと

「しかし私は君らに言っておきたい。敵を愛せよ。憎むものに親切をしてやれ。君を呪う者を祝福してやれ。君を悪し様に言う者のために祈れ。君の頬の一方を 引っぱたく者には他方をも差し向けよ。君の上着を取っていこうとする者には下着も拒むな。君にもの乞いする者には絶対に断わるな。君のものを持っていく者 には返してくれと頼むな。他人からしてもらいたいことがあったら、そのとおりに君も他人にしてやれ。」

敵に対する常識的な対応は「殺しちゃえ」です。そういった人はいまでもはいて捨てるほどいます。しかし、神の国の対応は愛のそれです。ダニエル、ステパ ノ、イエスがそうでした。彼等は喚くでなく、敵に愛を示しました。自分を憎む人がいると、憎み返すというのが常道です。しかし、神の国の住人の反応は、憎 む者に親切にしてやれ、です。呪う者に対しては呪い返すのでなく、祝福し、許してやれ、です。自分を苛める者のために祈り、叩く者には他方の頬を差し向 け、もの乞いする者を断わらず、施してやりなさい。ご覧のとおり、神の国の対応は世間一般のそれとは正反対で、たとえ侮辱され、呪われ、憎まれようとも仕 返しするな、というのです。

ダニエル、ステパノ、イエスの行動の秘訣はどこにあったのでしょうか?それは、祈りでした。

ダニエルは、同僚達の自分に対する策略を耳にしたとき祈り部屋に上っていき、エルサレムの方向に開いた窓のところで祈りました——「われらの父よ、お許し ください。私共は誤りました。父よ、私共の悪事をお許しください。どこまでも許して下さる恵み深い主よ、あなたをほめたたえます。」

自分をうち殺そうと群衆が石を拾い上げた時、ステパノはどう反応したでしょう か。跪いて祈ったのです——「主イエスよ、私の霊をあなた様におゆだねします。この罪ゆえに彼等を罰しないでください」

自分をはりつけにした者達に対してイエスは「父よ、彼等を許してください。彼等は自分がしていることが分かっていないのです」と祈られました。

これが神の国の住人の対応の仕方です。

許すことが鍵です。否、それが唯一の鍵です。

最後に、ワルシャワのゲットウで発見された印象的な祈りを引用したいと思います。紙の袋に書き付けられていたこの祈りにはダニエル、ステパノ、イエスの祈られた祈りのエッセンスがこめられています。よくお聴きください。

主よ、あなたが栄光をまとっておいでになるとき

善意の人達のことだけを思わないでください。

ひどいことをしようとした人達のことも思ってください。

彼等の残虐さ、怒り、暴力だけでなく

彼等が私達に加えた暴力のおかげで私達が生み出した実をも思ってください。

私達のなかのある者の忍耐、他のだれかの勇気、同士としての結束、謙虚、

魂の偉大さ、忠誠心、いずれも彼等のおかげで私達のなかに生まれたのです。

主よ、私達が生み出したこの実が彼等の救いとなるようにしてください。

これは、言語に絶する残虐な厳しい状況のなかで祈られた、神の国の住人にしてはじめて唱えられる祈りではないでしょうか。

私の今日の話しの準備をしながら私が神に教えられたことは、他人から故意に加えられた苦痛に対応していく唯一の鍵は神の国の住人として生きるほかにない、 ということでした。こういうことは、本には出ていません。イエス・キリストに従い、自分を否定し、聖霊の油をいただいて彼のあとに従っていくしかありません。

2、 蘭領東インドで共有された歴史と私たちの将来 | 石井正治郎牧師

(石井牧師は、オランダ日本人キリスト教友好教会の指導者 (1998年から2001年まで)として、『和解』をテーマに2000年8月エルスペートで開催された在欧日本人キリスト教者年次総会の企画・実行に力を 尽くされました。その総会の席上で、アニー・ハウヅワールドさんが、インドネシアでの自身の体験、その後の精神的・内的な葛藤、それに続く日本人に対する 赦しと内的平和の獲得について御話され、 この講話は会場にいた日本人の多くに深い印象を与えました。)

短いお話しを申し上げますが、原稿は私が作り、その英訳は村岡先生にして頂きましたので、一言お断りと村岡先生に感謝を申し上げます。

さて、こういうお集りに私と家内が御招きいただき、皆さんとお交わりができることを感謝しています。そして二冊の意義深い書物の出版記念感謝会というこも大変結構なこと、お喜び申し上げます。

しかし、これらの本で取り扱われている悲しい内容、辛い思いのする内容、人間の罪、日本人の罪に思いを馳せるとき、私の心はふさぎ込み、やりきれない気持ちになるのです。

しかしこれは歴史の事実です。そして過去のその歴史を直視し、誠実に向き合うことをしなければ、私たちは未来を見誤ることになる、これも大切な理解です。 もし過去を曖昧にしたまま、謝罪や和解を怠ったまま、水に流そう、忘れようとする関係者がいるならば、もう未来が開かれたとしても、また同じ悲劇を繰り返 すことになりかねません。

それはあまりにも大きな課題で、政治や経済や精神文化などの領域にまたがっていること、従って、小さい私たちが容易に取り組めるようなものではなく、また 短期間に成し遂げられるものでもないと思います。しかし辛抱強く、忍耐をもって取り組むことこと、歴史に対する私たちの責任であると思っています。

私は牧師ですから、どうしてもそういう問題をキリスト教的に、聖書的に考えされるのは当然ですが、キリスト者なら、罪への悔い改めと神様からの赦しを頂くことを基本的に取り上げる、これは筋です。

赦しや和解には大きな犠牲や痛みが伴うと言われます。当然です。犠牲や痛みを伴わないような赦しや和解はいい加減にでも出来るシロモノです。神様による人 間の罪の赦し、それはキリストの十字架の死という犠牲、神様の痛みがありました。神様が敵を赦すその愛は、キリストの十字架でした。

ローマ人への手紙5章前半で言われているように、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んで下さっ た。わたしたちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛をしめされました」。わたしたちが「敵で あったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」のです。貴い犠牲です。その愛と赦しに圧倒されて私たちは神様の前に罪を悔い、信仰の義の 道に進ましめられるのです。

神様の赦しと愛の実践者になる、これはすごいことだと思うのです。最近私は或る本で次のような言葉を見つけて胸が詰まりました。「踏みにじられた花が靴の 底に残す芳香」。自分たちを軍靴で踏みにじった許せない憎い敵を赦すキリスト者の愛と赦しこそは、まさにその芳しい香であると思うからです。ハウツヴァー ルトさんやリンダイヤさん、そして関係者の皆さんに感謝致します。「平和を作り出す人は幸いです。」そういう人々と、愛と平和の未来を志向して集まってい る私たちに神様の祝福がありますように。アーメン。

3、 林えいだい著「インドネシアの記憶:強制抑留所」の刊行に際して | アニー・ハウツヴァールト – デヴリース

(オランダの婦人雑誌に掲載された彼女の話は、ダルムシュタット(カナーン)に集まるキリスト教婦人ら、及び、ともに働く日本のキリスト教者の注目を集めました。 これをきっかけに、日本のノンフィクション作家林えいだい氏が、ハウヅワールドさんのライフヒストリーを聞き、彼女のホームタウンであるフォールトハウゼンを訪れました。)

インドネシアに日本軍が設置した強制抑留所に入れられていた人間について日本の作家が本を書きたいと言っておられると聞いたときはわが耳を疑いました。ことのおこりはヨーロッパか ら日本に派遣されているマリア福音姉妹会の数人の修道女達との出会いでした。私達がドイツのダルムシュタットにある会の本部での会合に出かけていたとき彼 女らも来あわせていたのです。しかも、彼女らは福岡から来ていたのです。父が戦争中福岡で死んでいますので、福岡には私は特別の感情を抱いています。私は この修道女達に抑留所時代のことや、父のことをすこし語りましたが、なにか考えるところがあったらしく、ことに十字架を通しての和解というところが彼女ら の心に訴えたようで、日本に戻ってから、有力紙のひとつに連絡し、私のことがその新聞に出ました。これを読んだ作家の林えいだい氏もこの話しに感動したよ うでした。彼はお寺の坊さんの息子として生まれ、父親は戦争中非国民として拷問を受けて死んだ人です。林さんはなにひとつためらうことなく、わたくしにつ いての本を書きたい一念でフォールトハウゼンを訪ねてきました。この建物も隣にある大きい建物のなかの一室に林えいだいさんが泊まっておられたのはもう二 年前になります。

本に書いてあるとおり、毎朝近くの牧場の牛の鳴き声、部屋の窓の外の木立の鳥のさえずりに目覚め、9時には拙宅まで歩いて来られ、午後3時から5時までいろいろときかれました。夕方には、昼間聞いたことををもとにして森の静寂のなかで本の構想を練られたことでしょう。

私が彼に真っ先に尋ねたことは、本が出版される前に原稿を読ませてもらえるだろうか、ということでした。普通ならばそれは可能なはずでしたが、林さんの到 着直前に、彼は英語の会話は全くらしい、と言われていました。さて、それでは日本語の本をオランダ語に翻訳してくれる人がオランダにいるだろうか、という のが私の知りたいことでした。その時はまだ村岡先生の存在は知りませんでしたし、林さんが来られたときに通訳をしてくれる人もなんとか都合がつきそうだと いうところでした。これは私達の信仰の大きな冒険だったのです。林さんと私達とで、どちらがより大きな信仰を持っているだろうか、と自問しました。多くの 方に祈っていただきました。祈りはすべてを変える力を持っています。林さんの滞在中7人の通訳が与えられました。あれから二年、あの緊張に充ちた12日間 を振り返って見て、神様の導きのあったことを思って心より感謝しております。このような困難な状況のなかにあっても神様は独自の計画をはたらかせておられ たのです。仮に、林さんが英語を流暢に話す方だったら、今日ここに一同に会している私共の出会いはなかったでしょうし、イエス様を通して許す機会もなかっ たことでしょう。私の敬愛する日本人の皆さんに助けられ、またオランダ人の元宣教師の皆さんにもすっかりお世話になりました。

皆さん一人一人各々に違った、いろいろなつらい体験をして来られたことと思います。このようにして皆さんとお会いできることはなんともすばらしいことです。私達は共同で一冊の本を書いただけでなく、お互いと貴重な平和の関係を築き上げることが出来ました。

本の目的と内容

ボッセブルック(A. Bossebroek)という人が海外の植民地からの帰国者の受け入れについて本を書いていますが、そのなかに、「この本には戦争が長い影を落としてい る。しかし、そこに語られている物語のいずれにも小さいながら真珠の粒が見えると思う」という所があります。林さんの本についても同じことが言えると思い ます。林さんは、戦争は単に兵隊や武器のことではなく、戦争は人間の魂と精神とを破壊するものだということを、人類に強く訴えかけています。この点におい て彼の本は説得力があると思います。しかし、彼が小さい真珠の粒のことも忘れなかったことを私は嬉しく思います。彼は私の両親の信仰のことに触れていま す。この信仰のおかげで敵は彼等の精神を砕くことは出来ませんでした。両親は彼等の神を信じつつあらゆる困難に立ち向かっていきました。それによって、彼 等はしばしば人知を超えた安心を体験しました。

この本を読んで得た私なりの感想をすこし申し添えたいと思います。この本で日本人がしばしば悪玉として描かれているのがいささか気になります。抑留所時 代、母は「日本人を憎んでは駄目よ。いい日本人もいるのだからね」、と私によく言いました。今でも私は日本人に非難の指をさすつもりはありません。林さん とアルンヘム近郊のブロンベークにある退役軍人の老人施設を訪ねたとき、日本で捕虜としての数年を過ごしたという二人の老人から嫌味を言われました。その 晩、林さんは深い良心の呵責を胸に施設を後にしました。林さんがどういう日本人なのかが彼等にはどうして分かったのでしょう?

三百年に及ぶオランダの植民政策について林さんが率直に書いていることも私にはよく分かります。ブロンベークに据え付けてある巨大などす黒い大砲はかつて の蘭領東印度におけるオランダ帝国主義の雄弁な証拠です。私達が購読している新聞の記事の見出しに「尊敬が終わるところに攻撃が始まる」と、ありましたが、オランダ人、日本人を問わず、今日でもそれは変わっていません。あれから53年経ったのに、なにも変わっていないのだな、というのがブロンベークで私 が得た印象でした。

結論として、林さんはいろいろな状況を深く洞察するすばらしい能力を備えたすぐれた作家であると思います。村岡先生の訳して下さった英語版を読みながら、 私は一瞬戦時中に引き戻されたような錯覚に陥りました。何百人という婦人や子供達と抑留所の敷地を歩いている自分の姿が彷彿としました。あんなに大勢の人 と一緒にいるにかかわらず、すごく寂しく、見慣れた、安全な環境、使い慣れた玩具を恋い慕う子供ならばだれしもがもつあの空虚なこころもち。

父の死は最も厳しい試練でした。林さんは母が父の訃報を携えてきた瞬間を描写するのに最もふさわしい文体を巧みに選んでいます。あの時、私は家族とは遠く離れて、病院にいたのでした。

林さんとお会いしたとき、私は時として感情を抑えてお話ししました。でも、本になったものを読んでみて、著者が私の心の動きを的確に捕えているのには驚嘆 の念なきを得ません。言葉の障害、文化的な背景の相違もあってあまり込み入った話しは出来ませんでした。林さん自身の内心でどういうことが起こっているの かは知る由もありませんでした。正直言って、あまり多くを期待していなかったのですが、この本を読みながら、わたくしは林さんの心のうちを垣間見ているよ うな気がします。彼は、不当な扱いを受ける人に対する深い理解と同情を感じることの出来る暖かい心の持ち主です。私が希望し、祈ってやまないのは、この本を手にされる多くの方が、いかにしたら生き残り、癒され、許し、精神的な牢獄から抜け出すことが出来るかを分かっていただきたい、ということです。私は、 日本人を悪人と決めつける態度を過去にとっていたことの許しを神に求めました。

林さんは眼の手術のために追われるようにしてこの本を書き上げられました。しかし、真実を保存し後代に伝えたいという使命は見事果たされました。出版後林 さんからの私宛の私信に、「本書は後代に贈る私の遺書、日本人に対するあなたからの使信となるかもしれません」とありましたが、まさにそのとおりです。で も、さらに一歩進んで、この使信は日本人だけではなく、全世界の人に向けられているのではないでしょうか。同じ様なことをした国はほかにもたくさんあるの ですから。

神の恩寵のもとに祈るわれわれの祈りにあわせて、この本が日蘭両国の間の、親子の間の、また兄弟姉妹の間の平和と和解の橋渡しとなりますように。

えいだいさん、私の言いたかったことをよくぞ分かってくださいました。有難うございます。

4、 林さんの本の刊行に際して 1) | リムプキェ・フルネヴェルト

(林さんの本の278ー300頁に彼女の体験が書かれています)

明日、7月28日は父Pieter Hendrik Groeneveltの誕生日です。父はわずか36才の若さで1944年1月、日本の俘虜収容所、福岡第九分所において飢餓と過労がもとで死亡しました。

この損失と死別は戦後長年私の念頭を離れませんでした。あまりにも無意味な死、人間が自ら引き起こした悲劇であり、私には理解できませんでした。

1990年11月、同じく戦争中俘虜となり福岡第六分所におられたD. Winkler氏とその奥さんの引率する一行に加わって、かつての俘虜やその家族と日本を訪ねることの出来る機会にめぐまれました。父がハワイ丸に乗って 門司港の波止場の土を踏んでからほぼ半世紀が経っていました。これは、私にとっては一生にまたとないであろう好機でした。

それまで私は何年間も自分の戦争時代の記憶の整理にかかっていました。父が捕虜として収容されたばかりでなく、私たち母子5人も三年半にわたって日本占領 下のジャヴァ島の収容所に入れられていたのです。私はそこで三才から六才半までを過ごしました。その三年半は恐怖、飢え、疲労、病気、それに死が私たちの 心を支配しました。私の拠り所であった母を取り上げられるのではないか、という不安。私は母の勇気、楽観主義、愛情、神に対する信頼に多く負うところがあ ります。母は神の愛を収容所の同僚を通して、時には親切な日本人の収容所所長を通してすら体験しました。日本人が最年少の妹のウィースのお盆にバナナを投 げ入れてくれたことがあるのをいまでも覚えています。不安がつのると、母は「イエスのみ腕に安らかに」という賛美歌が口をついて出ました。私はこの信仰に よって今日まで生き延びることが出来ました。

でも、あの戦争はわたくしの心に深い傷を残しました。1946年以来、私は何度となく悪夢にうなされました。収容所から収容所へと移動させられたときのこ と、死別、暴力のことなどを思い出すのです。私が目撃したことは私の理解を遥かに越えましたが、その記憶は消せなかったのです。私にとって、日本は死、餓 死、残酷、破壊の象徴になっていました。

過去をもう一度辿ってみようとしたのもこのためでした。日本訪問でなんとかなるのではないか、と思えたのです。かつての敵国に、虎穴に入らずんばの覚悟で行くことにしました。目的は二つ、父の最期の場所を探し出すこと、日本人に会うことでした。

ところがどうでしょう。じめじめした、荒涼とした日本というイメージが音をたてて崩れました。私の想像していたものとは似ても似つかぬ国、驚きの連続でし た。友情、親切、歓迎、愛にかこまれて仰天しました。それにたくさんの美味しいご馳走!私はほっとすると同時に、胸に痛みをも感じました。

私にとって決定的に重要であったのは林えいだい氏との出会いでした。私は日本人に向かって亡き父を思う私の悲しみを語り、それのみか子供時代を過ごした収 容所での恐怖、無力感について語ることができたからです。言うなれば、かつての支配者に向かって私は語っていたのです。信じ難いことですが、林さんは聴い てくれたのです。そして分かってくれました。わたくしはこれで癒されました。それに、彼は私を父が死んだ宮田町の炭鉱の収容所跡に案内してくれました。時 間の流れが一瞬停止したように思えました。

これを契機として私は正常な人生を歩むことが出来るようになりました。お互いをつなぐ橋、未来につながる橋を築きつつ。父も、生きていたら、同じ道を歩むにちがいありません。

5、 林さんの本の刊行に際して 2) | ウィス・M・フルネヴェル

(林さんの本の261-70頁に彼女の体験が書かれています。彼女は上記Rimpkjeさんの末の妹で、収容所に入った時生後7ヵ月でした)

あの恐怖の戦争が終わった後、年齢に応じて戦争体験から来る問題は異なる、と聞かされたとき眼からうろこが落ちたような気がしました。よく考えてみれば、当然のことなのですが、それまでにはそうと気がつかなかったのです。やっと、自分のことが以前よりよく分かるようになりました。

幼児の問題は過小評価され、十分に認識されていない、と思います。幼児には明確な記憶がないので、成人してから、過去の体験を論理的に整理することが出来 ず、それがためにその体験はその後の生涯にずっと後遺症となって残ります。私の問題は、抑留所での辛い体験に由来するというより、むしろ生きる意欲の欠如という根源的な気持ちによるものです。いまでも、毎日生き続けて行くためには私はありったけのエネルギーを必要とします。私は、すでに幼児のときに、自分がなにもかもが滅茶苦茶な世界に生まれてきたことをいちはやく嗅ぎつけた、と思います。

私は、この地上での生活を真面目に考えたことはない、と思います。今日に至るまで、私の生活は本当に根づいている、とは思えないのでが、でもいまになって振り返りますと私はこれ でよかったのだ、と思うようになりました。子供のころはいつも神様と一緒に生活しました。神様の言葉にありますが、「この世の友とならんと欲する者は神の敵である」と、ありますが、この世の嫌いな私はこの言葉が好きです。

私は大人を軽蔑しました。子供なりに彼等の行動を否定的に評価するだけの知性をすでに備え持っていたのでしょう。それに、抑留所での大人の残虐振りを体験した私には、あそこでは当り前だったことをしたといって学校で罰を加えられるのが私には解せませんでした。

でも、私は「主よ、ありがとうございます」、と言うことが出来ます。神様を愛する者にはすべてのことが合い働いて益となることを私たちは知っています。そして、私は神様を愛しています。この世に根を下ろさなかったお陰で私はいろいろな危険から守られ、この世の友にならずにきました。私はまだ幼いころから善 悪がはっきりと見分けが付き、ただ世間一般のひとと調子を合わせていくのでなく、自分なりの意見を持つように努めてきました。もちろん、大きな失敗もやら かし、いまでもそのつけを払っていますが、これまでずっと神様を頼ることを心掛けてきました。いまでも、不安になったりすることがあるとすれば、それは私のせいであって、神様には責任がありません。 私は、日本の方々もこの戦争から教訓を学ばれたであろうことを願います。

6、 「ネルと子供たちへキスを」の刊行に際して | E.W. リンダイヤ・ジュニア

この本の出版を準備するに際してはいくつかの偶然の要素が絡み合って、必要ないろいろな作業を調整するのに重要な役割を果たしました。かの悪名高いCarl Jungが言ったとおりです。それはともかく、昨年の12月の始め、私共の何人かの日本人の友人の発案で父がジャワ、シンガポール、日本の捕虜収容所にいたとき、またジャワから日本へ輸送されたときに手紙の形でつけた日記を日本で出版してもらうことが決まりました。

そこにいたるまでの経過

まだ私が十代のころ父の日記を父の図書のなかに見つけました。その後、父は私と一緒にこれを読もうと言ってくれましたが、残念なことにこれは実現しません でした。結婚して家族を持ち、仕事も忙しくてとにかく時間がとれなかったのです。それに、その当時としては73才という若さで、父は81年の11月にデル フトで他界しました。

私が所属しているインドネシア出身者の団体EKNJの他の会員と1995年始めて日本に旅行したとき、妻と私は父の日記を持っていきました。日記のなかに は東京出身で捕虜に対しては親切だった岩下博衛さんが密かにとった写真も何葉かはさまっていました。岩下さんは岩手県の大橋にあった日鉄の鉱山の職員でし た。大橋は溶鉱炉二基があった釜石からそう遠くはなれていませんでした。

その後、私は母アドリを伴って再度日本を訪問しました。この時も日記と写真を持参しました。この時も日本の人達がこの日記に非常な興味を示したのに私共は 少なからず驚きました。一般市民を始め、新聞社、地方自治体、学校などから相当な反応がありました。日本の人達にこの日記を知ってもらうためには和訳の必 要があることは自明のことでした。

この夢は98年の4月釜石の加藤紀子さんと仙台の阿部香里さんという二人の若い日本女性の助力を得て、エリザベツ・H・フォッペンさんがオランダ語から訳 してくれた英語版を和訳してもらうことで実現のめどがつきそうになりました。つづいて、今年の始めにHelmondにお住まいの青地澄子さんが和訳をワー プロして下さり、それを村岡崇光先生が東京のみすず書房と密接な連絡を取りながら編集するという膨大な仕事を引き受けてくださいました。

この日記の出版に対して出版社が示した関心には予想外に大きいものがありました。みすず書房の編集部の栗山雅子さんは本の体裁や内容についても多数の点に ついて問い合わせて来られたばかりか、表紙の装丁や本につけて下さった題も私たちの心を打ちました。最初は7月31日出版予定でしたが、驚くなかれこれが 大幅に繰り上がって7月13日には印刷、製本が仕上がりました。その成果はご覧のとおりです。

いろいろな形で本書の出版のために無償で時間を割き、熱心に献心的に尽力して下さった方々に対して深甚の謝意を表するものであります。

ヨブの物語?

この日記は聖書のなかのヨブの物語にも比せられるかもしれませんが、同時に私の父という生身の一個人の一生の記録でもあります。

ヨーロッパと東南アジアで戦争が勃発したとき、父はなに不自由ない幸せな人間でした。家族はみんな健康、仕事も楽しく、しかも大事なことに主なる神を深く 信頼していました。戦争は神に対するこの信頼を本物とし、実際の状況のなかで確かめていくことを余儀なくしました。最後には、この激しい内面の葛藤に打ち 勝ち、ヨブと同じように、失ったものはすべて神の愛によって取り戻し、否、二重の報酬をもらいました。

日蘭のあいだの、バンドンをめぐる戦闘は42年3月8日カリジャティでのオランダ軍の降伏に終わりました。父は自分の持っていたものを次々と奪われて行き ました。自由、金、財産につづいて家族も失いました。最後には生ける屍さながら、孤独の人になりますが、神に対する信頼だけは失いませんでしたが、これも 完全に孤独な環境のなかで厳しい試練にかけられました。

妻のネルもジャヴァにあって同じ様な体験をしますが、彼女の場合は四人の幼い子供が彼女の喜びの源、生き甲斐であると同時に彼女の重荷でもありました。彼 女も神に対する信頼に支えられて生きました。中央ジャヴァのムンティランの三度目の強制収容所で45年7月25日に過労がもとで他界したときの彼女の態度 にこれがうかがわれます。クリスティーネ・スロテマーカ・デ・ブルイーネ婦人が私の父に宛てて書かれた手紙から、母は壮烈な内心の葛藤を経たのち平安を見 いいだし、神に完全に信頼し、わが身を委ねることができた様子を読み取ることができます。精神の勝利でありました。

彼女は子供たちのことを憂慮し、まず自らがこの内的平安と確信に到達し、子供たちが安定した家庭で成長していくために必須の、将来に対する確信を彼等の心 に植え付けてやりたかったのです。夫に宛てた遺書のなかでアドリ、リーク・ヴァン・デア・バーン姉妹と連絡をとるよう勧めていますが、そこに私たちは彼女 によるこの最後の試みの素晴しい証拠を見ることができます。

このようにして、神を信頼した私の両親はどちらもその信頼を裏切られることがありませんでした。新しい母アドリと私の父は私共にとってすばらしい親となってくれ、私共8人は幸せな家庭で成長しました。私の実の妹一人、弟二人に加えてさらに妹一人弟二人が与えられたのです。

母は父がまだ生きていることを知っていたでしょうか?知っていた、と思います。ヨブの場合と同じく神に対する彼女の深い信仰は、神は彼女が思いも及ばないようなことをもいつか実現して下さる、という確信を彼女に与えてくれました。

手紙形式の日記

妻ネルと子供たちへの手紙は父が捕虜収容所から持ち帰ったもののほんの一部に過ぎません。父は赤十字所属の衛生兵でしたが、44年5月に大橋の鉱山内に あった電気機具の修理、保全を担当する部門へ配置換えになり、旋盤を使っての仕事は結構面白かったようです。その仕事場でこっそりと将棋盤だの、ろうそ く、電灯のスタンドなどを作り友人や日本人にやりました。

数学を忘れないために、教科書を書き、その方面で結構仕事があったようです。後日自分でもわかったのですが、鉱山の坑内での仕事にまわされなかったのは、 全くの偶然でした。そのころ、坑内でひどい事故があり、50人以上の死者が出ましたが、父のグループからは一人も犠牲者が出ませんでした。

日記は42年5月から始まっていますが、蘭領東印度軍の兵隊の大多数は捕虜となり、収容所では手持ちぶたさでした。最初は妻子は収容所には入っていませんでした。だれもが収容所の柵越しに、手を変え品を変えて連絡を取り合おうとしました。

日本側は東京からの指示待ちで、日本がなにを狙っているのかはだれにもわかりませんでした。秩序、規律を維持するために規則違反に対する罰は日を追って厳しくなりました。

捕虜のなかには教育程度の高い者も多く、勉学を継続し、あわよくば後日試験を受けられるように、いろいろな授業や講座を設けようと最大限の努力がなされました。

42年後半から東南アジア各地でのいろいろな作業に捕虜を使うために彼等の輸送が始まりました。父はそういったかなり初期の輸送団のひとつにいれられて東 北へ送られました。バタヴィア(今日のジャカルタ)から下関までの非人道的な航海で多数の捕虜が命を落としましたが、航海中だけではなく、上陸後も航海中の劣悪な条件の結果として死亡しました。

友人のステンフェルトやその他多数の同僚と同様、父も42年のクリスマスの頃危うくこの航海に起因するところの病気で死ぬところでしたが、奇蹟的に、友人 のウィム・フリブナウの親切のおかげで一命を取り止めました。坑内労働を免除され、フリブナウと共同で病人の捕虜たちの面倒を見ることを言いつけられたの は幸いでした。病室の日本人の担当者は根子軍曹という花巻の農家の子弟でやさしい人でしたが、私の二度目の訪日中、96年に亡くなられました。

病人の数は相当数にのぼったので、その看病は重労働で、とくに冬期は大変でした。夜番もあり、交代でやりました。そういうとき父は日記の記入に余念がありませんでした。それが一種の生き甲斐でもありました。

父は悲しみを克服し、神に対する信頼を強め、このような内的体験、葛藤を自分自身のためにまた家族の将来のために書き留めておくことで生き延びることを得 たようです。そのほか、数学もやり、中高校用の数学の教科書を書いたり、他人のためになるようなことに意を用いようと心掛けました。

父ともう一人の衛生兵フリブナウを含む何人かの捕虜と岩下さんとのあいだには特異な関係ができあがったようです。岩下さんはフランス語が好きで、父は自分が書いた教科書を彼に贈りました。お返しとして、岩下さんは東京出張のときに父のために英語の数学の本を入手しようと奔走してくれました。

日本側と一部の捕虜達のあいだの交渉でもっとも驚くべきことは、
現在の戦争に関する印象
戦争の今後の成りゆき
日本兵に関する印象
日本の印象
の四点についてドイツ語で書かれた質問状が提出され、これに対してドイツ語での返答が求められたことでした。その後もこれをめぐってフリブナウと日本側とのあいだで文書の交換があ りましたが、一部しか残っていません。それを読みますと、両者の間には厚い文化的壁があったことがわかります。父の返答も日記のなかに残っています。

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7、 戦後の日本 | 村岡崇光

今日ここにご出席の日本人のなかで本当に戦前派と言えるのはお二人だけ、あとの皆さんは実質的に或いは事実上戦後派と言ってよいかと思います。かく申しま す私自身は昭和13年、1938年の生まれ、終戦時は小学校2年生でした。航空参謀として南京に駐在していました父の指図で終戦数年前に南九州の寒村に 引っ越していましたお陰で空襲、ましてや原爆というような戦争の直接の被害は受けずにすみました。ただひとつ今でも生々しく記憶しているのは敗戦直後数年 の食料、物資不足です。尾羽打枯らして復員してきた父とのあいだには、傷ついた父の自尊心を思ってか、戦場でのことが話題に上ることはありませんでした。 しかし、日本の社会は占領軍の統治下で急激に変わっていきました。元職業軍人として父は公職追放の憂き目にあい、仕方なく百姓仕事をイロハから覚えなけれ ばならない羽目になりました。運転手付の軍用車であちこちしていたのが、牛車に乗って農道を走りました。軍人としての大志を果たしえなった父は一人息子で 長男のわたくしに外交官か高級官吏の夢を託しました。その息子がまわりまわってオランダでヘブライ語の教師になるなどとは夢想だにしませんでした。母の実 家は村の農地の半分以上を所有する旧家でしたが、戦後の農地改革でその土地の大半を、かつては上納米を納めて田をつくらして貰っていた水呑み百姓に二束三 文で払い下げることを余儀なくされました。学校では、天皇陛下の写真(御真影)が蔵ってあるといわれていた奉安殿に向かって毎朝の朝礼のときに敬礼するこ ともなくなりました。現人神は人間宣言をされました。もっとも、その後も長年にわたって宮内庁の職員達はありとあらゆる手段を尽くして天皇と一般国民との あいだに高い壁をたてておこうとしました。戦後の数年間、敗戦の廃虚からの復興に汗水流している国民を激励するために天皇は全国津津浦浦を行脚されまし た。私の住んでいた地方にも行幸があるということで、ある日、その一帯の全学童がまだ夜の明けきらないうちにバスで隣町まで連れて行かれ、県道わきに一列 に整列させられました。陛下の御到着近しの信号のもとに、われわれは先生から敬礼を命じられ、指示があるまでは絶対に頭を上げてはいけないいわれました。 よし、と言われて面を恐る恐る上げてみると陛下とご一行をお乗せしたお車は埃っぽい道路を何百米も先にわずかな一点となっていました。

これからは民主主義の世の 中だと言われ、労働組合も合法化され、教科書も書き換えられました。戦後何年かは日本教職員組合(日教組)の指導部は極左に握られていました。太平洋戦争 時の軍国主義、帝国主義を非難、批判する激しい語調には自虐的な感じさえしました。いつから時勢が変わり始めたのか私の記憶は定かでありませんが、 1950年の朝鮮戦争の勃発がひとつの境目であったかもしれません。米国は、自国の対外政策追及のために日本に政策変換を迫り、漸次にしかし確実に再軍備 への路線を日本は歩み始めました。警察予備隊の隠れ蓑のもとに近代的な軍隊が誕生しました。この頃導入された政治的方向はその後も止まるところを知らず、 もう永久に葬られたかとかつては思われていた昔の亡霊がまたもやその不気味な頭角をもたげつつある兆候が最近とみに明らかになってきました。私の母校で教 鞭をとっておられた著名な高齢の歴史学者家永三郎教授はやっと最近、何十年に及ぶ熾烈な裁判に勝たれ、先生の書かれた日本史の教科書を削除したり、時の政 府の戦争観に合致するように書き換えを指示した文部省の非合法性が指摘されました。

私たちが反動的な歴史観によって書き換えられた教科書に基づいて教育されたのみか、実際の教室での授業が、今でもそうかもしれませんが、時代を追って先史 時代から始まるので、ようやく現代にたどり着いたときは駆け足でそそくさと年代や人名、地名を丸暗記するのが精一杯で討論や思索の余裕はなかったのです。

私は高校時代にアメリカ人の宣教師との出会いを通じてクリスチャンになり、ある程度までそのおかげで試験地獄でもがいていた平均的な高校生は目もかけない ような本も読みました。私が愛読した著者のなかには戦前の自由主義者でクリスチャンをも含む、内村鑑三、矢内原忠雄のような人物が含まれていました。彼等 は時の政府の軍国主義、帝国主義を身の危険をも顧みず批判し、それがために矢内原は東京大学を追われ、戦後双手をもって総長として迎えられました。

このような多少左がかった、キリスト教的傾きを持って私は1964年にイスラエルに留学すべく日本を離れたのでした。その時の私は海外において火の洗礼を 受けなくてはならなくなるのだ、ということは知りませんでした。イギリスのマンチェスター大学の教師として家族とともに過ごした十年間、11月の第一日曜 日になると年々歳々BBCの提供する有名な(あるいは、悪名高いといいましょうか)映画「クワイ河にかかる橋」を観せられました。昭和天皇が英王室の国賓 として訪英されたときは、一体何のための来訪かと現地の新聞論調はきびしいでした。その後オーストラリアのメルボルン大学に奉職していた時、天皇がお隠れ になり、だれがオーストラリアを代表して葬儀に列席するのかで国をあげての喧々囂々たる論議が沸騰しました。しかしながら、私たちのつらい再教育はこれで まだ終わっていなかったのです。1991年の夏ライデン大学のヘブライ語教授として就任して来た私は、なにやらただごとならぬ様子に気がつきました。その 直前に訪蘭した時の海部首相がハーグの東印度記念碑の前に献げた花束がその夜のうちに近くの池に放り込まれるという事件が発生していたのでした。早速大学 の日本語学科の図書館に足を運んで過去数週間の日本の新聞をめくってみたのですが、二大新聞のいずれもこのことには触れていないのには苛立ちを覚えまし た。総理大臣の公式の外遊となれば新聞記者が雲霞のように随行することは周知のことです。家族をひき連れて渡り歩いたこの三つの国にはいずれも太平洋戦争 中日本軍の手によって受けたひどい仕打ちをいまなお忘れられないでいる人達がいるのです。彼等は日本に戦争で勝ったのですから、不満は一層つのったわけで す。私たちはこの国にしばらくは腰を落ち着けるつもりで来ましたから、家内と私はこれではいけないと思い、この問題について読みあさり、考えました。ま た、私たちが購読しているNRC Handelsbladは鵜の目鷹の目で関連記事を探しました。96年の2月に同紙にこの有力紙にしてはいささかいただきかねると思える一頁大の記事が日 本海に浮かぶ竹島をめぐっての日韓の紛争にこと寄せて「日本に戦争を仕掛けたら痛快だのに」という題でのりました。私が編集部に出し、のちに同紙に掲載さ れた抗議文がきっかけとなって、その時は未知の人であったPrillwitz夫人を識るにいたり、彼女は私たちをLindeijer博士とそのお母さんに 紹介してくださいました。三人とも今日ここにおいでをいただいています。その後、私共が会員であるところのオランダ日本語キリスト教会のつながりを経て Goudswaardご夫妻ともお近づきになることを得ました。

イスラエルに6年いてヘブライ語以外にも私は何か学ぶところがあったでしょうか?ええ、おおありでした。クリスチャンになって始めてキリスト教会とユダヤ 民族との間の長い関係のなかの暗い過去を知りました。中世における血の中傷、十字軍の兵士たちがエルサレムへの途上犯したユダヤ人殺害、蛮行の数々、数え きれないほどの迫害、略奪、侮辱、強制的なキリスト教への改宗など枚挙に暇がありません。しかもこれはすべて教会の名において行われました。そのときまで は、ユダヤ教から分派したキリスト教はユダヤ教より高等な宗教だ、と単純に思っていた私の誇り、誤った根拠に基づいた誇りは雲散霧消しました。紀元前8世 紀の偉大なイスラエルの預言者イザヤは言いました:「掟はシオンより、主の言葉はエルサレムより出る」(イザヤ2:3)。ローマからではないというので す。私は、ユダヤ民族は人類の良心であると思います。この良心に動かされて、オランダ国会が任命した調査委員会はオランダ政府とオランダ国民が国内のユダ ヤ人社会に対して負うところの財政的、道義的負債を返済すべきことを勧告し、政府はこれを承諾しました。その結果としてオランダ内の他の集団に対する負債 の返済も取り上げられるに至りました。何年か前、東京の一流保険会社に勤務する友人から聞いたのですが、台湾在住の何人かの高齢者から日本植民統治時代に かけた保険金に関する問い合わせがあったので、大蔵省の担当官に相談を持ちかけたところ、できるだけそれ以上寄せつけないようにしてくれ、ということだっ たそうです。私は経済学や財政学にはまったく疎いのですが、日本経済がいまだに抜け出せないでいる十年来の長期不景気は戦後日本とその指導層の倫理、道義 感覚に潜む根本的な欠陥と無関係ではないのではないかという印象をどうしても振り捨てることが出来ないのです。

もう半世紀以上も前の日本の軍人たちによる行為に対して戦後世代のわれわれに責任をとれというのは筋が通らない、というのにも確かに一理あります。法律的 に厳密に言えば確かにそうです。われわれの父親や、叔父や、祖父たちが犯した行為ゆえにわれわれが法廷に引き出されて、刑を言い渡されるということはあり えません。しかし、その様な行為の多くは日本人として、あるいはある特定の国の国民として、天皇の名において、軍の、政府の指導者の名において、王の名に おいて、女王の名において行われました。私たちが、自分が属する国、民族との関係を公に放棄しない限り、私たちはその国の、民族の歴史の一部であり、それ に対してなんらかの責任を担っています。ドイツ人であればベートーベン、ゲーテ、シラーだけを誇りとし、ヒットラーやそのおさき棒をかついだ者たちには そっと触れないでおくということは出来ません。ナチス時代のドイツ市民で自分の村の一角にある施設で何がなされているかを知っていながら知らぬ振りで通し ていたとしたら、それはGoldhagenの言うヒットラーに進んで手を貸した死刑執行人であったことになります。のみならず、ニュルンベルグの戦犯裁判 は人間性に対する犯罪という新しい概念を国際法の分野に導入しました。人種とか民族、政治的国境を超越した犯罪です。私はナチスのオランダ占領時代、アム ステルダムや国内のその他の所にいたユダヤ人に対して、またドイツの強制収容所から生き残って帰還したユダヤ人に対しては何一つやましいことはしませんで した。しかし、私はオランダ政府が請求してくる所得税を全額支払うことに何の抵抗もありません。そのうちの何ギルダーかは最近ユダヤ人社会との間に合意さ れた賠償金支払いに当てられることでしょう。今週読んだ新聞記事にドイツの歴史学者がベルリンの教会の古文書室で、戦争末期に市内の28のプロテスタン ト、カトリックの教会が連合軍の空襲によるドイツ市民の死者の埋葬をロシヤ、東欧の捕虜に強制的にやらせたことを示す書類を発見したことがでていました。 これをうけて、ベルリンのドイツ福音教会はこれに対する責任を認め、戦時中の同様の犠牲者に対する賠償をするために連邦政府が設立した基金に一千万マルク を拠出することを決定した、とも同紙は伝えていました。

旧約聖書の神は「主なるあなたの神私は妬む神であり、私を退ける者は、親の罪ゆえにその子を三代、四代までも罰する」(出エジプト20:5、申命記 5:9)と言われます。一読はなはだもって奇異の感を免れません。道理にあわない、とも言えるかもしれません。事実、この箇所の解釈は古来学者の頭痛の種 でした。私見によれば、その言わんとするところは、教育、訓育のことではないか、と思います。ここで言われている刑罰は、まずなによりも親に向けられてい るのではないでしょうか。わが子が、孫が、曽孫が親の自分の不行跡ゆえに苦しむのを見て胸をいためない親はありますまい。皆様のなかには旧約聖書の英雄の 一人ダビデ王の話しを御存じの方もありましょう。彼は外人の部下をいかにも卑劣なやり方で殺しておいてその美貌の新妻を6人目か7人目の妻として寝取って 設けた赤子が生まれ落ちるや否や重病にかかって地獄の苦しみを味わい、無名の王子の夭折を嘆きました。無名の王子とは前代未聞ですが、生まれて七日には息 絶え、割礼を受けて命名して貰うためには一日寿命が足りなかったという、いともあわれな末路でした。父親の放縦な、みだらな女性関係は子の性格形成に影を 落とさないではすみませんでした。この悲劇よりほど経ずして、息子の一人が自分の妹を犯した兄弟を殺害します。これから数年後にはこの生き残った愛子が人 もあろうに王自身の腹心の部下の手にかかって悲惨な最期を遂げます。悲報に接した王は、「おう、わが子アブサロム、わが子、わが子、アブサロムよ、私が死 んだらよかったものを、この私めがそちの代わりに。おう、アブサロム、わが子よ、わが子よ」と呻き、胸の底から絞り出されたようなこの悲痛の叫びはエルサ レム中にこだましました。「わが子」という呼びかけを5回も、その名「アブサロム」を3度も繰り返しています。ここに教育の重要性が読みとれます。自ら を、また後に続く世代を教育し、過去の歴史を、その事実を究め、そこから未来への教訓を学びとることの重要性。この二冊の本が日本人一般、ことに若い世代 に、アジアの現代史のなかで日本が占める位置、何万人というオランダ人に日本人が故意に加えた苦しみについて教え、このような歴史を二度と繰り返してはな らないという決意を固くせしめ、肌の色も違い、いろいろな言語を母国語とし、慣習も異なり、様々な文化を継承していながらも和合と相互に対する尊敬を基と して共生でき、他者を傷つけるのでなく、むしろ愛し、かばい、かまい、等しく神の姿に似せて創造されたものとして、優越感にも、劣等感にも煩わされずに生 きることの出来る世界を作り出していこうという営みに貢献することが出来れば、というのが私の衷心より希求してやまないところであります。この二書の刊行 に私が多少なりとも関係することになったのはこのような私のこころもちのささやかな表現です。去る四月長崎を訪問された際に述べられたWillem  Alexander皇太子のお言葉に私は深甚よりの賛意を表します。「私たちは、両国がお互いにどのように関わりあってきたか、その歴史に思いを致すと き、その歴史のなかのこの暗い頁を忘れてはなりません。そのような歴史に直面し、それを乗り越えていくために、私たちの間の特別な関係を再建することが出 来るようになるためにそれは必要なのです」

今日お集りいただいている皆様のなかにかつての蘭領東印度において、タイ、ビルマ、はては日本本国にあって日本人からひどい仕打ちを受けた方、またその親 族、友人の方がおいでになることは十二分に承知しております。林さんの著書に、Annie Goudswaardさんのお父様がご家族宛に書かれた手紙、 結局は遺書となったものを私が訳したものをいれていただきました。また、Nel Lindeijer夫人が臨終の床に横たわって、衰弱の余り親友に口述を余儀なくされた夫君宛ての遺書も私が訳しました。どちらの手紙にも日本人を非難す る、なじる言葉はただのひとつもありません。お二人とそのご家族が受けられた仕打ちを思うとこれはただごとではありません。この二通のお手紙は何度となく 読み返しました。その度ごとに自分のたかぶる感情を制するのに非常な困難を覚えました。こうして人前でこの手紙のことを語るのも容易ではありません。この方々は物理的、身体的にだけでなく、侮辱、屈辱、失望など精神的にも筆舌に尽くし難い苦難を経られました。そのうえ、この二通の書簡の著者は自分の内心に 逆巻く厳しい戦いがあり、最期にはそれに打ち勝たれました。それは、このような状況におかれればだれしもが体験するであろう人間の性(さが)、本性、本 能、このような目にあわせる相手に対する憎しみ、恨み、怒り、復讐心です。最期には、お二人とも、神にあっては愛と正義とがあいまみえることを納得してそ の神の意志に身をゆだねられました。Lindeijer夫人のお言葉を借りますと——

「最後には神様が決めて下さるのだから、というところに辿り着くまでの内心の葛藤は、並大抵でなかったこと、わかっていただけると思います。でもいまは、何もかも安らかな気持ちで、神様におゆだねすることができます」

アニさんのお父様De Vriesさんの手紙は新約聖書のなかのパウロのコリント人への第二の手紙からの引用で結んであります。「このしばらくの艱難は働いて、永遠の重い栄光を、溢れるばかりに私たちに得させるからである。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(コリント第二4:17ー18)

私はここにおいでのオランダ人の方々に申し上げたいのです。私には皆様方が受けられた苦しみがすこしは分かりかけてきました。皆様方やその他多数の方にこ の様な名状し難い、不当な苦痛が日本人によって故意に加えられたことを深く恥じます。わたくしは、皆様方のなかで私が個人的に存じ上げている数人の方が、 日本人が求めないうちに、許しと和解の手を差し伸べて下さったことに特別な感動を覚えます。このような私の気持ちはここにお集りの日本人の方は皆さん同様であろうと推察いたします。

最後に、僭越ではありますが、皆様御起立いただきまして、何万人もの無実の戦争犠牲者、被害者、無事に生き残られた方々、そうでない方々、オランダ人、連 合軍将兵、インドネシア人、中国人、韓国人、その他東南アジア、太平洋諸島の国々の方々、そして日本人の犠牲者に敬意を表して一分間の黙祷を捧げたく存じ ます。

まことに有難うございました。

8、 謝辞及び閉会の辞 | アドリー・リンダイヤ – ヴァン・デル・バールン

皆さん、今日の会合を閉じるにあたり、いろいろな方に一言お礼を申し上げたく思います。

今日、この場所に歓迎されて、日本人とオランダ人が一同に会しているその趣旨は、私共の間の関係の頂点を体しているように私には思われます。

400年ほど前にリーフデ(慈愛)号が日本の臼杵に漂着して以来、両国間の関係には浮き沈みがありました。往々にして偏見や、無関心、利己主義のおかげで少なからぬ誤りが犯されました。

この関係が最低であったのは第二次世界対戦中で、私共のお互いに対する態度は愛とは遥かにかけ離れていました。しかし、今日、日本人側からの発意に基づいて、隠された過去を明るみに出し、新しい関係を築こうとする試みがこの二冊の本として結実しました。

ここまで至るには長い道程がありました。どなたかのお名前を言い落とす虞(おそれ)なしとはしませんが、この道程を共に歩んで来られた多数の方のお顔を今 日ここで拝見することが出来てわたくしはことのほか嬉しく存じます。Dolf Winkler夫妻は水巻の十字架の記念碑の前での慰霊祭を現地の人々と共同で実現し、これは悲しみに打ち沈む何百人という人の大きな慰めとなりました。 夫妻が創設された団体EKNJに加わって私たちは日本を訪ね、ウィムの父でもある私の夫の俘虜収容所の跡地を訪問しました。水巻では、ハウツヴァールト夫 人の一生に関する書物の著者林えいだい氏にお目にかかる光栄に浴しました。

ここに石黒さん御夫婦のお顔も見えますが、デルフト大学の石黒さんとその友人たちはこの日記が日本で出版されるべきだと確信し、出版社を探そうとホーム ページにそのことをのせられたのが、私共の親友ライデン大学の村岡崇光教授と桂子夫人の目にとまり、村岡先生が東京のみすず書房にこの話しを持ち込んで下 さり、その後、一部の翻訳、翻訳の訂正、ゲラの校正、その他いろいろな調整役という大役を引き受けてくださいました。これも今日ご主人と一緒に出席されて いる青地澄子さんには和訳草稿をワープロしていただきました。このようにして、驚くべき短時間に今日ご覧のとおりの本が出来上がり、すでに日本の書店の店 頭に並んでいるはずです。願わくは、本書が多くの読者、ことに若い読者を得ますように。私たちの、もっとも願っていることは、本書が学校の教室で取り上げ られ、戦争と平和、人権問題などの勉強の教材として用いられ、憎悪は決して平和とより良い世界を作り出すものではなく、愛(Liefde)のみが最後には 勝利するのだということを分かって貰うことです。

また、私は中近東宣教協会の理事会とその職員にお礼を申し上げます。皆様のお陰で今日はこのようにして、多数の参加者を得て会合を開くことが出来ました。 準備のご苦労も並大抵ではなかったことと、推察いたします。ヘルマン、アニ・ハウツヴァールト御夫妻、そのご家族、ご友人一同に感謝致します。

ウィム、最期になったけれど、あなたにも一言。ここに至るまでには、長年の努力がありました。おまえはこの日記と共に成長し、日記もあなたを解放しなかった。自分の内心の葛藤を克服するためのセラピーとして始め、そこに自分自身や、過去に関する問題の解決を探ろうとした。奥さんのアダさんはそれがために犠牲になったようなことも再三あったようだけど、彼女は支援を惜しまなかった。おまえは、ついに和解と慰めと安心とに到達した。最後には、お父さんを日本に連れ戻したのです。しかし、今度は屈辱感をかみしめ、馬鹿にされた、ろくでなしの捕虜、奴隷としてではなく。日記の形式を借りた本書の題名にそれは余すところなく言い尽くされています:そこには、著者が愛妻と四人の年端もいかない子供の安否を気づかい、妻子からむごくも引き離されていることの苦しさ、家族がどうしているのか皆目分からないもどかしさ、果たしていつか再会出来るのかどうかという不安が赤裸々に綴られています。

ウィム、著者の彼に代わって、そしてあなたの他の兄弟姉妹一人一人に代わって 心の底からお礼を言わせてもらいます。