無力感―辛苦の中から―架け橋作り

2011年10月8日 アウド・ケルク フォーブルグ

プログラム

  1. 歓迎の挨拶
  2. スピーチ
  3. 諸星達雄氏インタビュー
  4. 捕虜として泰緬鉄道建設で働いて
  5. 豊かな多様さは,橋を架けたいと願う人類に新しい運命を拓く
  6. 閉会の辞

1、 歓迎の挨拶 | ハンス・リンダイヤ

世話人会を代表して歓迎のご挨拶を申し上げます。

今日は皆さんにお話をして頂きます。それが私達の過去の歴史であり、未来でもあります。
発表者のお話も主として過去の歴史に関わるものです。それを本や映画で伝えるのも私達の未来のためです。
今日の会合の目的もそこにあります。

プログラムにあがっていること以外にもいくつか面白い選択肢があります。

その一つは次のようなものです。
今日のこの会合の場は生きた歴史教科書のようなものです。
隣の方をご覧になって下さい。左右、前後をちょっと見回して下さい。
誰しもが何かを語ることが出来ます。誰にも歴史があります。そして、それが関心の対象であり、そのために私達は今日ここに集まったのです。悲しみや怒りに彩られた話しもあります。でも皆さんは今日出席しておられます。話しをじっくりと聞く人も,語り手も勇気のある人だと私は思います。
私達は自由な人間です。そこから出発しましょう。私達より前の時代の人たちの中には表現の自由について色々と語った人たちが少なくありません。

表現の自由、それも今日私達に与えられている選択肢の一つです。
もう一つの可能性は本をひもとくことです。

皆さんの周囲を歩いている歴史書のほかに、印刷した本も机の上に並べてあります。
その一つは素晴らしい本ですが、その著者が今日出席しておられます。
ヘンリエッテ・ヴァン・ラールテさんの「母への賛歌」です。ヘンリエッテさん、ようこそおいで下さいました。
この本を基にして映画も作成されることになっています。脚本は完成しています。その映画には「慰安婦」や、青年抑留所へ引っ張られて行った若者達も登場します。これについての映画はほかに例がありません。ヘンリエッテさん、ご成功を祈ります。

著者兼研究者がもう一人出席しておられます。メリンダ・バーンハートさんです。
メリンダさん、ようこそおいで下さいました。彼女の本は来年発売予定です。その本は、私の父が戦争中に書いた手紙に関するものですが、兄のウィムが釜石に出向いてその手紙について語った時に起こったことについても触れられています。これは平和の歴史を語る珍しい作品です。現在執筆中のこの本について連絡してもらいたい方は、受付のところにある名簿に御住所とお名前を書いておいて下さい。

ヘンク・ホーヴィンガさんも著書の「死を目前にして」を携えて出席しておられます。この本は今日の講演の一つのテーマである泰緬鉄道のことと密接な関係があります。その本には、日本軍だけでなく、インドネシアに派遣されていたオランダ軍の間にも行われたやくざ顔負けの出来事についても書かれています。

いくつかの選択肢を紹介しましたが、コーヒーとかサンドウィッチの選択肢については皆さんに一任します。

日蘭イ対話の世話人会内部の移動について短くお話ししたく思います。
私達は今年6人の人たちに別れを告げました。6人はちょっとした人数です。
最初に、私の母のアドリ・リンダイヤ・ヴァン・デアバーンですが、彼女は去る2月2日に鬼籍に入りました。
彼女は、最後の瞬間まで私達に色々なことを教え、また語ってくれました。母がこんなにも長年熱心に私達の間で活躍してくれたことをありがたいと思います。
色々な事情から世話人会を退かれた方が5人居られます。
村岡先生と奥さんの桂子さん。お二人はゆうに10年対話の会の大黒柱、まぎれもないパイオニアでした。今こうしてバトンを受け継いでみて初めてどんなに大変な仕事であるかが分かります。この場を借りて、対話の会を築き上げるためのこれまでの献身的なお働きに対して、お二人にもう一度衷心より感謝申し上げます。
また、パウリーンさん、お嬢さんのドリーン・フレーヴェンさんにも御分かれしました。世話人会の会合のために自宅を開放して下さり、私達を色々と支援して下さり、本当に有り難うございました。
そして、兄のウィム。兄も本当のパイオニアでした。
この5人のパイオニアに拍手を御願いします。

現在の8人の世話人は皆様からのアイデアを歓迎します。確かに世話人会を強化したいのですが、今日は私達が一番大事な人間ではありません。今日は皆さんの話しが中心であり、それを伝えて行くこと、それがプログラムの核心です。

最近話題になったことで私の心にかかっていることがあります。
1947年オランダ軍によってジャワ島のラワゲデで犯された戦争犯罪のことです。
150人もの成人男子と少年達が惨殺された事件です。431人だったという情報もあります。
オランダの法廷で最近出た判決によって新たに話題になりました。
この犯罪行為についての正式の謝罪も、未亡人に対する補償も64年間なされて来ませんでした。
私は現オランダ政府がこの過去の歴史を真摯に処理する勇気を持っていることを願わざるを得ません。
この問題についてもっと知りたい方は世話人会の一人であるイブラヒム・イーサさんと話されることを御勧めします。氏は嘗てのインドネシア独立運動の闘士の一人であり、彼が書いたものも受付の机の上にあります。

次に、最初の発表者をご紹介致します。彼女は私達と二つの点で特別のつながりがあります。
和田竹美さんです。日本の釜石からおいで下さいました。
「生き延びる」という単語は不安と苦痛を想起させます。皆さん方の中には抑留所でのことを思い出される方があるかもしれません。
竹美さんもその単語を御存知ですし、今年3月の津波で不安も体験されました。竹美さんは故郷を飲み込んだ津波を生き延びられましたが、それが出来なかった人たちもあります。
生き延びるという言葉を聞くと私達は直ちに思い出すものがあります。
竹美さんと私達とをつなぐものとして全く違ったものがあります。それは音楽劇です。2006年の対話の会で観たビデオです。
そのミュージカルは私の父が捕虜として釜石にいた時に書き付けた日誌にまつわるものでした。竹美さんはその脚本を作成し、お嬢さんはミュージカルに出演されました。釜石市の中学校で披露されました。
この劇から多くの生徒たちが歴史をありありと実感することが出来ました。

[村岡崇光訳]

2、 スピーチ | 和田竹美 @釜石

こんにちは。

 本日は、日蘭イ対話の会にお招きいただき、ありがとうございます。
 私は、日本の釜石というところから来ました。日本の北部にある、小さな街です。
 釜石とオランダには歴史的なつながりがあります。しかし、それは悲しい歴史の一部です。第二次大戦中、軍需産業として重工業が発達していた釜石には、二つの戦争捕虜収容所がありました。その収容所には、アメリカ、イギリス、オーストラリア、そしてオランダなど、連合国軍の将兵が収容されていました。彼らは、地元の鉄鉱山で労働させられていました。そのひとりが、E・ウィレム・リンダイヤです。この本は、彼が収容所時代に付けていた日記が基になっており、2000年に日本で出版されました。われわれ釜石市国際交流協会の加藤直子さんが、翻訳協力をしました。その出版の5年ほど前から、彼の息子の、ウィム・リンダイヤ・ジュニアが数度、釜石を訪れ、収容所跡にも足を運びました。それが縁となり、オランダと釜石の交流が始まったのです。
 釜石では、これまでに、真実の歴史、特に第二次世界大戦の語られざる側面について知ろうという取り組みが行なわれました。中心になったのは、中学校の生徒たちと、彼らの歴史の先生です。彼らは独自に釜石の捕虜収容所について調べ、リンダイヤ氏と家族の物語をミュージカルにし、自分たちでこれを上演しました。私の所属する釜石国際交流協会でも取り組みを継続し、これを最も重要な活動の一つに位置付けています。

 今年の3月、日本は大きな地震と壊滅的な津波に襲われました。この恐ろしい災害の後、この対話の会と釜石国際交流協会のつながりを通じて、エドワード・レーマン氏とご家族から、親切にも被災者をオランダに招待するという申し出をいただいたのです。

今日は、日本の東北部を襲った災害について、私の直接的な体験をお話ししようと思います。津波は、多くの人の生命を奪いました。私の両親と愛犬も犠牲になりました。私自身も、家を流され、その日身に着けていたもの以外を失いました。

 その日は、とても静かな朝で始まりました。ごく当たり前の一日になるはずだったあの日。日本人がこれから先、忘れることのできない3月11日、私は両親と飼っていた犬を津波で流され、家を失いました。母はまだ見つかっていません。その日私は、用事で町を出ていました。午後2時46分、これまで経験したことのない強い揺れに襲われました。思わず車ごとひっくり返されるのではないかと感じたほどの揺れでした。ラジオを聞いていた人が「震源は沿岸らしいよ。沿岸地域は大変なことになってるんじゃないか。」というのを聞き、急いで家に戻ることにしました。家に残してきた両親と次男のことが心配になりましたが、大きな津波が来襲する可能性など、全く頭に浮かびませんでした。ただ、揺れで壊れたガラスや倒壊した家具に囲まれているのではないかと、それだけが気がかりでした。町に戻った時には夜になり、あたりはすっかり暗くなっていました。町に入った時、かなりの渋滞に引っかかり、車を止められました。電波の入らない山道を帰ってきたため、ラジオも聴かず、携帯もつながらなかった私は、町で何が起こったのかを全く知らず、その場にいた警察官に恐ろしく場違いな質問をしてしまいました。「交通事故か何かですか。」と聞いた私に、警察官は驚いた顔をして、「ラジオを聞いていないんですか。事故ではありません。津波です。」と言いました。「津波?何でこんなところで車を止めてるんですか。山道ですよ。」と言うと、警察官は「津波はここまで到達したんです。」と答えました。その答えが信じられず、「とにかく、家に帰らなきゃならないんです。親達と息子がいるので。」と言った私を警察官はじっと見つめ、静かな口調で「あのね。町はなくなりました。全滅です。」と言いました。何を言われているのか意味がわからず、制止を振り切って車を前に進めようとした、その時です。車を町の方角に向けて曲がると、ヘッドライトの中に、これまで見たことのない光景が浮かび上がりました。皆さんの中には、津波で家が流されるところをテレビで見た方もいると思いますが、それらの家はもちろん、テレビの画面に収まるサイズです。私が見たのは、実際の大きさでひっくり返っている何百という家々でした。電柱は真っ二つに折れて曲がり、倒れたビルの二階の窓から車がぶら下がっていました。その時初めて、町に大変なことが起こったことを知ったのです。
 とにかく、市内にある中学校の体育館に向かい、そこで夜を過ごすことになりました。その体育館は、災害時の緊急避難所に指定されていたからです。凍えるような寒い夜で、外は雪が降っていました。もちろん誰もこれほどの大きな災害を予想していなかったため、体育館にはストーブも毛布も、床を覆うシートもありません。とても喉が乾いていましたが、小銭があっても販売機も店もなく、売る人々も流され、蛇口からも水は1滴も出ませんでした。私たちは凍死しないように互いに身を寄せ、何とか眠ろうとしましたが、私は寝付けませんでした。両親はどこにいるのか。息子は無事でいるのか。家はどうなったのか。後で聞いたことですが、その晩、近くの病院の屋上で数十人の人が助けをもとめていたそうです。大部分は高齢の入院患者でした。津波で屋上まで追い上げられ、ずぶ濡れの薄い病衣のまま雪の中で夜を過ごした人たち。実際に凍死者も出たと聞いています。また、近くの高校の生徒たち数十人がかろうじて津波を逃れて丘に登り、お年寄りをクラブハウスで休ませて、自分たちは雪の中をジャケットもなく寒さに耐えながら外で過ごしたことも聞きました。その夜、体育館にはほぼ1000人が集まっていましたが、トイレは8つしかありませんでした。電気もつかず、水も出ず、紙も尽き、便座はもはや溢れそうな状態でした。それでも、人の排泄物の上に用を足さなければならない無力感に、トイレで涙が出ました。これが災害の現実なんだ、被災するってこういうことなんだ、自分たちで身を守っていかなければ、と痛切に感じました。
 私は翌朝から、家族を探し始めました。車はもうガソリンが尽きかけていたため、完全に瓦礫と化した街を徒歩であちこちさまよいました。4日目に夫と息子たちと会うことができ、娘とは衛星電話で話をすることができました。探し始めてから10日目、遺体安置所で父の遺体を見つけました。他のたくさんの人たちの遺体と同じように、父の遺体も損傷し、右耳から後頭部が失われていました。遺体の顔はその最後の瞬間をそのままとどめていましたが、それは怒りでも苦悶でもなく、誰もみな、ただ驚いた表情をしていたように思います。2か月もの間、何百体という遺体を収容していた安置所は耐え難い死臭を放ち、駐車場で車を降りるとすぐにそれとわかるほどでした。多くの遺体は損傷がひどく、頭部がないもの、下半身がないもの、顔の造作が失われているものも珍しくありませんでした。そこでは、多くの人の深い悲しみや嘆き、生き残った者の罪悪感を目にしました。ある50代の女性は、巨大な波が目の前に迫った時、逃げようとしなかった母親を家に残して逃げました。彼女は深い後悔にさいなまれていました。一体、誰が彼女を責めることができるでしょう。私自身も、あの日家にいたら、母親は足が不自由でしたから、家に残って両親と一緒に死ぬか、置いて逃げるかの選択を迫られていたに違いありません。母一人子一人の娘を失い、殺してほしいと警察官にすがっていた母親もいます。また、津波の前日に新居に移り、一泊した次の日に家を流され、多額のローンだけが残った家族もいます。生き延びたのに、他の家族全員を失い、自ら命を絶ってしまった人もいます。私にとって耐えがたかったのは、小さな子供たちの遺体でした。親も流されているため、探しに来てくれる人もなく、それらの遺体は身元不明として火葬されています。悲しい話は後を絶ちません。親を探しに安置所に通う中で、私は従兄や友人や近所の人達、多くの知人の遺体を見ました。これらの経験は私の深く心を沈ませただけでなく、今後も忘れることはできないと思います。
 あの日からほぼ6ヶ月が経ちましたが、いまだに、あの地震と津波が私達から何を奪っていったのか、多くの人達はなぜ死ななければならなかったのかわかりません。この辛い経験を通して、図らずもいくつかの教訓を得たように思います。まず、人間は、自然の力を前に、決して奢ってはならないということ。起こりえないと考えられていたことが起こることを私たちは学んだのです。自然を制圧するという考え方から、自然の力を借りた共存へと移行していかなければなりません。また、かけがえのない人たちと過ごす日常の幸せを、決して当たり前だと思ってはならないということ。私自身も、家族や友人たち、ペットと暮らす日常がずっと続くものだとばかり思っていました。あの日の午前中、母から携帯に電話がありました。昨年脳梗塞を患ってから、母はいくらか子供っぽくなり、しきりと目のかゆみを訴えて病院に連れて行ってほしいというのです。忙しかった私は、多少きつい口調で「子供みたいなこと言ってないで。少し我慢して。明日連れて行くから。」と言ってしまいました。まさか、それが母との最期の会話になるとは思いもよりませんでした。今になって、愛情や感謝、思いやりを言葉で伝えることがどれだけ大切か、どれだけ貴重なことかに気づかされたのです。

今日、ここに、皆さんが私達に寄せてくれた力強い支援に、心からお礼を申し上げたいと思います。特に、エドワード・レーマン氏とご家族には感謝の言葉もありません。皆さんの暖かい心遣いは、復興に向けて私達の背中を力強く押してくれています。日本から遠く離れた国で私たちのために祈ってくださっている人たちがいるという思いが、私達の明日への活力なのです。

本日は本当にありがとうございました。釜石をはじめ、日本のすべての人々とともに、心からのお礼を申し上げます。

3、 諸星達雄氏インタビュー | 前川佳遠理

「泰緬鉄道鉄道隊の経験を回顧する」

諸星達雄氏 : 1918年(大正8年9月9日)東京に生まれる。

札幌鉄道管理局に勤務中、1941年9月14日召集令状を受け取る。3日後鉄道第九連隊に未教育補充兵として入隊する。第四大隊第七中隊第四小隊に配属(小隊長:弘田栄治見習士官)。約一ヶ月の訓練の後、10月16日に大阪港から出航、19日仏領印度支那に到着する。弘田小隊長の当番兵に任命される(弘田小隊長は戦後のシンガポール戦犯裁判で刑死)。23日海南島上陸。12月8日泰国のシンゴラ12月4日、三亜、出港。12月8日、開戦し、泰国シンゴラ上陸。1942年1月9日、1942年1月9日、クアラルンプールにて小隊長の当番兵を解かれ、衛生兵に任命される。3ヶ月の特別教育を受け、4月12日ビルマのラングーンに上陸。7月20日、タイのバンコック上陸後は、泰緬鉄道建設隊として、バンボン、カンチャナブリ、カンニュ、マレー部落、ヒントク、キンサイヨークを巡り衛生兵として勤務した。1943年10月1日に泰緬鉄道は完成したが、バンポンから延長するクラ鉄道建設のため連結式には参加せず、1944年4月12日にスマトラ横断鉄道建設のため、パカンバルに到着。スマトラ横断鉄道の完成は1945年8月15日の日本軍降伏の日であった。日本軍の降伏後、英軍の捕虜となりマレー半島のバトゥパハで捕虜の労働を行う。1947年8月末にシンガポールから帰還船に乗船、9月18日に長崎の佐世保港に上陸、即日復員。諸星氏は、その後国鉄に勤務するかたわら、日大法学部で法律を学んだ。1975年に国鉄を定年退職し参与となる。日本では泰緬鉄道関連の資料収集で知られている。
Reference: POW Research Network Japan
https://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/moroboshi_ikegami.html

諸星氏は、捕虜がコレラに苦しむ姿を目撃していたものの、助けることはできなかった。このビデオでは、諸星氏個人としての回顧として、衛生兵として携わった泰緬鉄道、弘田小隊長の刑死、日本軍降伏後の英軍による抑留生活について語ってもらった。2時間以上に及ぶインタビューは、今回の報告にあわせて短く編集してある。諸星氏のビデオは、日本の鉄道隊の一人から、オランダの人たちへのオープン・レターとして紹介する。

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日本の捕虜政策と「戦陣訓」
恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ (1941年1月 東條英機)
死の哲学、捕虜は侮蔑すべきもの、捕虜取り扱いに関する国際条約

将校や軍の上層部は、捕虜取り扱いに関する国際条約をよく知っていた。一方、末端の兵士は捕虜の取り扱いはおろか、自分が捕虜となったときの権利についても知らされていなかった。

俘虜収容所と鉄道連隊の関係 
鉄道建設に関連する、鉄道隊と俘虜収容所の関係図 図1、図2を参照

俘虜の管理監督は俘虜収容所、現場監督は鉄道隊。
  ・「鉄道隊は、国際条約も知らず捕虜を自由に酷使する傾向があった。「俘虜収容所」は捕虜を管理する立場にあり、むしろ捕虜の体力の温存をはかり、酷使される捕虜に対しては同情的であった、という発言もある。「俘虜収容所」は、捕虜を酷使する鉄道隊とはしばしば対立していたという、(吉川利治『泰緬鉄道』同文館 pp.173-4)

・「鉄道部隊と捕虜収容所が別の組織、別の命令系統に所属していた。ところが、末端の建設作業では、捕虜は鉄道部隊のもとで作業をする」

Struc railway reg and pow camps_NL

4、 捕虜として泰緬鉄道建設で働いて | フェリックス・バッカー

1 太平洋戦争の勃発:戦闘と降伏
1941年12月8日に太平洋戦争が勃発した時、私はスラバヤのグーベンク海兵隊兵舎で海兵隊としての訓練を受け始めてまだ2週間しか経っていなかった。それより一月半前に、新聞広告を見て海兵隊に自発的に志願したのだった。丁度16歳になったばかりで、その他の入隊資格も問題無し、ということで採用されていた。動機は、自分の生まれた祖国を守る任務の一端を担いたい、ということだった。日本が仏印を占領してからは、日本による軍事的脅威は見過ごすことはできなかったし、蘭領印度がいつまでも安泰でいられると考えるほど私もナイーブではなかった。
そして、もうかなり前から予測されていた日本との戦争が始まったのである。
しかし、戦争は、私にとっては、真珠湾からほとんど3ヶ月後の1942年3月5日に始まった、と言ってよいだろう。私が所属していた訓練中の海兵隊員は2隊に分けられ、ジャワ島東部に現れた日本軍を迎え撃つことになった。ケルトソノとンガンジュックでの戦闘で我が軍に甚大な被害が加えられた後、退却命令が下った。二日ほど後に全面降伏となった。

武器を引き渡すことになったとき、どうしてこうなったのかが私には理解出来ず、怒りで涙を抑えることができなかった。周囲を見ると、私だけがそのような気持ちに駆られているのでないことが分かって些か安堵した。
戦闘に従事しているとき、敵は我々よりは優れた武器を持っていたし、空中からの援護のもとにもあったけれど、自分たちが彼等に劣るとか、打ち負かされた、と感じたことは一瞬たりともなかった。

2 捕虜になって
それから数週間後、われわれは夜の暗闇の中を、武器は取り上げられ、無防備の姿でマランの捕虜収容所に入った。私には、その時、戦いはまだ続くだろう、という気がした。その戦いが具体的にどういう形をとるかはずっと後になってやっと分かった。
日本側は、捕虜に関するジュネーブ条約には一切頓着しないつもりであることがわれわれには最初から読み取れた。このことを我々にはっきりさせるために、脱走して、また捕まった5人の捕虜が収容所の後の原っぱで処刑された。我々にとって、これは無力感、怒り、屈辱感、憎悪に打ちのめされた瞬間だった。
たまに行われた虐待、屈辱感を味わわせるための強制労働、七面倒くさい規則等を別とすれば、マラン収容所での生活は私にはなんとか我慢出来た。

3 移動
1942年12月末、合計1100人の一人としてわたしは、窓を覆った汽車に乗せられてバタビアへ移動させられた。一週間後、約1200人の捕虜と一緒に、「ホンキトンキ丸」というお粗末極まりない輸送船に鰯よろしく詰め込まれてシンガポールへ送り出された。3日、3晩続いた酷い航海だった。
チャンギ収容所に10日ぐらいいてから、また移動させられた。一つの汽車に650人ぐらい乗りこんでタイへ向かうことになった。鉄製の貨車一台に36人詰め込まれた。昼間は暑さのために息苦しく、夜は寒さに震えが止まらなかった。時々停車して、機関車に水と燃料を積み込み、捕虜には僅かばかりの食料と飲料水が配給された。船での航海のときと同じく、今回も下痢や赤痢、それに付随する問題に悩まされた。膝を曲げないと坐れないような狭っ苦しい空間では睡眠を取ることは不可能だった。ともかく、5日、5晩、我々の忍耐力は極限まで試された。後日分かったことだが、これはその後我々が体験することのちょっとした前味に過ぎなかった。時には、初めから全部見通しが出来ないほうが幸いなのである。

4 線路建設:強制労働をいかにして生き延びるか
早朝、タイのバンポンに到着。トラックでカンチャナブリヘ。そこから徒歩で、というよりは夢遊病者さながらに森に囲まれた第一キャンプのあるチュンカイへ移動。そこには1942年11月から英軍捕虜が来ていた。我々は、彼らが出会った最初のオランダ人捕虜だったらしい。
鉄道建設やもっと奥地のキャンプについてイギリス兵達から聞いた話しは気の休まるようなものではなかった。
そこで数日過ごしてから、数名の重病人は別として、我々約650人は最初の建設現場へ向かって出発した。尖った枝のついている高温の竹林を二日歩いて原始林を切り開いて作ったキャンプに到着したが、そこにはテントが6つ建っていた。最近出来たばかりのようなテントが5つ並んでいて、それは日本人の収容所長と韓国人監視兵のもので、古びたもう一つのものは重病人用で。、森の向こうの端にあった。チュンカイにあったように、竹とござを敷いた寝床があってヤシの葉の屋根のある兵舎はここにはなく、われわれは大空の下で寝起きすることになっていたわけである。幸いにもまだ乾燥したモンスーンの季節だったのでなんとかなった。暗くならないうちに、命令を受けた者たちは便所を掘り、森で薪を集め、「台所」用の水を川から運んで来なければならなかった。カボチャの汁と小さいお椀一杯のご飯を食べ終わると、もうあたりは暗くなっていて、へとへとに疲れた我々は屋外に寝場所を探さなければならなかった。

翌日は5時起床。お椀一杯のご飯を食べて、5時半には点呼。100人ずつ5隊に分かれて鉄道建設現場へ出発。それぞれの隊に高架の線路を敷設するために一日100立方メートルの土をのけること、というノルマが与えられていた。そのための工具としてつるはし、スコップ、葦の籠があてがわれた。
その後、山林地帯では、橋の建設、丘を掘るとか、岩壁を削る等、違った仕事もさせられた。しかし、我々の建設現場から何キロかの鉄道用の土堤を建設させられた。
当初は、100人一隊で100メートル立方の土をどかし、まだ日没前にキャンプに戻ることが出来た。しかし、病人の数が増えて行くにつれて、100メートル立方の土を減った人数でこなさなければなくなった。しかし、日本側はこういった事情を考慮に入れようとはせず、任務完了まで作業続行が要求された。夜半過ぎまで働かされ、キャンプに戻ることを許されない、というようなこともあった。わたしがそういうことを体験したとき、木を燃やしてその明かりで作業を続け、それからその場で少し寝た。
こういった非人道的な強制労働は悲惨な結果をもたらさずにはおかなかった。疲労、食料や医薬品の欠乏にかてて加えて赤痢、マラリア、脚気、猩紅熱が多数の死者を生み出した。ノンバラダイというーーわれわれはノンパラダイスと呼んでいたーーこの最初のキャンプで18人の死者を出すことになった。そのあとのキャンプでは死者の数は更に増えることになった。
ノンバラダイは、その後に続く何ヶ月にもわたる想像を絶する過酷な強制労働と惨めな生活環境の始まりに過ぎなかった。ことに、モンスーンの雨期に入ると作業のテンポが引き上げられ、既に底をついていた食料の配給も減らされ、捕虜の中の病人、死者は急激に増大し、きわめて憂慮すべき事態となった。同僚の大多数と同じように、わたしも裸足で、褌だけで歩き回った。もう何ヶ月も靴を持っていなかったし、ズボンとシャツは一着ずつしか残っておらず、マラリアにかかって歯をがたがたさせながら震えていた時だけに着るようにしていた。
そのうち、シンガポールから更なる捕虜が到着し、雨期に入る直前に日本軍は10万人以上の東南アジア出身の労働者を投入した。
日本軍が我々が死ぬまで働かせるつもりでいることを私は確信していた。彼等の軍律によれは、捕虜の命はどっちみち一文の値打ちもなかった。しかし、彼等は負傷した同僚の日本兵に対してすらも厳しい態度で接する場面に私は何度かでくわした。
わたしがマランの収容所に到着したあの夜、その時はぼんやりとした印象でしかなかったけれども、我々は生きるか死ぬかの戦いに直面しているのだ、ということが今や明確になった。団結、自律、精神力こそが、最後まで堪えて、決して諦めないために絶対必要なものとなった。勿論、我々の中には、自分だけが生き延びられれば同僚は犠牲にしてもいい、というような態度を取る者もいた。しかし、そういう者は、大抵の場合、その自己中心的な姿勢を厳しく指摘された。

鉄道建設の作業内容は色々あった。深い峡谷に橋を架けるのには甚だしい危険が伴った。そのために使われた足場は濡れた木の皮でつなぎあわせた竹の竿で出来ていた。降りしきる雨の中、深い谷を下に見下ろしながら、裸足で、滑り易い竹の足場で橋を架けるというのはこれは命がけの作業だった。当時の生活条件はともかく、橋と土堤の建築とは変化もあり、面白くもあった。それに比べると、岩に穴をあけてダイナマイトを埋め込み、爆発させてからそこらに散らばった大小の岩石の破片を取りのけるのは頂けなかったし、体力を消耗させること甚だしいものがあった。これがワンポの高架橋の南側の高い、長い岩壁をのぞくく時にわたしが受けた印象である。この作業には三組交代で昼夜突貫工事で4週間を要した。
鉄道線路が完成してからも、数ヶ月は私はその近くのキャンプで働かされた。

5 鉄道線路完成:空襲の期間
1943年11月、日本軍はこの鉄道線路の運行を始めた。
多くの作業所は閉鎖され、病人や労働に不適な捕虜は全員タイの病人用の収容所へ移動させられた。
1944年の中頃からタイの標的に対する連合軍による空爆が開始された。鉄道線路やその沿線にある捕虜収容所もこの空爆の標的となった。ジュネーブ条約に違反して、これらのキャンプは上空からもそうとはっきり見分けられるように表示されていなかった。それがために、捕虜の中からも相当数の犠牲者が出た。オランダ人捕虜を収容したノンプラヅックの収容所では空襲の結果として97人の死者が出、負傷者もこの数を上回った。
1945年1月から3月まで私はタマカムの収容所にいた。そこから200メートルぐらいのところに大きな鉄橋があり、そのすぐ近くにクワイ川に架かる木製の橋があった。最初の空襲で、我々の収容所から17人の死者が出た。空爆の標的は上記の二本の橋であったものの、毎週二度の午後の空爆には神経をすり減らした。鉄橋が大打撃を受け、木橋が完全に姿を消した時、収容所はやっと閉鎖になり、私はチョンカイに舞い戻った。
収容所の周りには深い濠が出来ていて、土手の四隅には機関銃壕が備え付けられていて、銃口は内側に向けられていた。何を目的にこれが作られているのかは誰にも分かった、あるいは推測出来たが、誰一人としてそのことを口にする者はなかった。

6 終戦
一ヶ月後に、私は125人の仲間とともにタイ湾の西海岸に面したプラチュアップキリカン収容所に向かった。そこで2ヶ月ほど、漁船や小舟から日本軍の物資の陸揚げをさせられた。これが、強制労働者として嫌々させられた最後の仕事となった。1945年8月15日、プラチュアップキリカンで私は終戦を迎え、取り戻した自由に初めて浸ることが出来た。

7 振り返って
あと2ヶ月すればまたもや12月8日がやって来る。きっかり70年前のその日、ここで述べ来たような出来事が始まろうとしていたのだった。あの頃のことについての私の記憶もだんだんと薄らぎつつある。感情的な問題はもう何年も前に克服することが出来た。あれから何度もタイに行って来た。日本も何度か訪問した。もう10年以上親しくしている日本人の友人も何人かあり、彼等との対話も始まっている。最後に、自分の生まれた国を過去30年、毎年訪ねることが出来たのは大変ありがたいことだと思う。
泰緬鉄道についてはこれまでに多くの本が書かれており、いろいろな機会に体験談が語られて来た。また、公的な資料も多数発表されている。もう何年も絶版になっていて、再販されていない本も少なくない。私がとくに深い印象を受けた本が一冊あり、皆さんの注意を喚起したい。2009年に死去した画家兼作家Otto KreefftによるDe Birma Spporweg: Een visuele herinnering 「泰緬鉄道:目で見る記憶」である。オランダ語原著の初版は1998年出版で、2010年7月に第二版が出版され、英語版も外国では出版されている。
御静聴有り難うございました。

[ 村岡崇光訳 ]

5、 豊かな多様さは,橋を架けたいと願う人類に新しい運命を拓く | ジョティ・テル・クルヴェ

本日皆さんとご一緒できる機会を与えられたことに感謝します。(釜石からお越しになった)和田竹美さんと前川佳遠理さんの話を聞くと,あの大震災で被災した全ての方々のことを 私は心から思いやらずにはいられません。被災により荒廃した地域の映像を見て,そこで幾重にも続く苦労を耐え忍ぶ日本の方々の姿を見て,世界中の人々が心を打たれました。この逆境に立ち向かう日本の市民の立派な姿を見て,私は敬服します。

この対話の会が始まった契機の一つは,私と同じように第2次大戦中日本軍の強制収容所での経験を持つオランダ人リンダイヤー氏とリンダイヤー夫人が,過去と訣別し,日本人たちと平和を結ぶと決めたことだと理解しています。
人生の中で最も暗い日々でも,暗黒の空に輝く星を見ることができることを,私は個人的に経験しました。しかしたとえ囚われの身であっても,自由な人間でありつづけることもできれば,希望や信念は失う必要もないのです。
私達の話は,残念ながら日本軍の抑留所経験を共有した多くの女性たちの話ですが、これはまた今現在でも全ての大陸で、戦争の暴力のせいで夫や子どもと離れ離れになったり,子どもに充分食べさせられずに心を痛めたり,強姦され,そしてしばしば忘れられている女性たちの話なのです。
1942年に日本軍が旧蘭領東インドを一週間で制覇した時,私はまだ14才で,ちょうど今の私の孫ウィビアンと同じ歳でした。占領軍と初めて遭遇したのは、当時私達が住んでいたジャワ島のリンガジャッティという小さな村でのことで、今でもまざまざと覚えています。
姉と二人でプールから歩いて家に帰る途中で,何百人もの日本兵が、みな緑の制服を着てバイクに乗って急に目の前に現れたのです。それが3年続いた悪夢の始まりで,それが終わっても次の悪夢へと続きました。ベルシアップと呼ばれるゲリラの戦争です。これは、日本が降伏した直後の1945年8月17日に、スカルノ大統領とハッタ副大統領がインドネシア共和国の独立を宣言をした後で勃発しました。これはオランダ市民対インドネシアの若者の血なまぐさいゲリラ戦でした。日本軍によって訓練を受けたインドネシアの若者たちが,自由を求める戦士となったのです。このベルシアップ期に,日本軍から抑留されなかった多くのオランダとインドネシアの混血の人々が,惨殺されました。これは私達の歴史の中のとても暗い頁で,長い間私達政府にすら認められていませんでした。
アジアに於ける第2次世界大戦でもう一つ忘れられているのが,無数のインドネシア人が「労務者 Romusha」として駆り出され,オランダ人らの捕虜と共に劣悪な環境で、日本軍の指揮の下で強制労働させられたのです。
私は政治家でも歴史研究家でもありませんが,色々な経験をしました。少女時代をインドネシアですごし、父はオランダ人で母はオランダとインドネシアの混血でした。日本による占領を体験し、卒業した後世界中の多くの国で働く機会を持つことができ、父が建てたリンガジャッティの我が家は、インドネシアの自由を象徴する記念館になりました。これらの体験が,私を世界市民にしました。

戦争は人を破壊します。今でも捕われていた経験に苦しめられる友人たちを知っていますし,私の世代の多くは 永年探し求めた平和を見つけることなくこの世から去っていきました。
そして今日,アフガニスタン・エジプト・リビヤ・イラク・その他の国々から,戦闘により手足を失ったり精神的にボロボロになった少年少女達が、毎日のように帰ってきます。そして,自由に生きることができるならば、自らの命を投げ出す事すら厭わない若者たちの事を考えてみて下さい。
彼らに私達は何を与えることができるでしょうか? 私達の体験を彼らと分かち合うこはできるでしょうか? 私達にできるのは,自らの過去から学んで,この分裂した世界の中で共通の目的を見つけようと努力することです。今日のような会合はその始まりになるかもしれないし,私達は今日この場で,問題の一部になるのではなく解決の一部になるのだと決意することができるかも知れません。
一人一人がそれぞれ、ポジティブな解決を捜そうと決意できるのです。手始めに,それぞれの家庭や近所や学校で始めたらどうでしょう。私がまだ少女であった時の一つの体験が、私のその後の人生に大きな影響を及ぼすことになったのですが、それをここで皆さんと分かち合いたいと思います。それは,インドネシアの島々が日本人の支配下になるすぐ前のできごとでした。
私は14才で,まだ戦争は始まっていませんでした。リンガジャッティの両親の家の近くの水田の中を、一人で気持ちよく歩いていました。その時突然、宇宙と一体になったような感覚に包まれたのです。声が聞こえ,私に言いました。「私はあなたの神だ。私があなたを守ってあげるから,恐れることはない。」 私は宗教とは無縁で育てられましたから,これはとても特別な体験でした。
しばらくしてその保護が必要になりました。戦争が始まり,日本軍がリンガジャッティも含めたジャワ島の大部分を占領しました。そんなある日私の母は、17才の姉と私を連れて、シレボンの憲兵隊の詰め所の司令官まで出頭するように言いつけられました。行ってみるとすぐに、母は娘たちを置いて一人で立ち去るように命令されました。そして姉と私は日本軍売春宿に連れて行かれると。「それならあなたはまず私を殺す必要があります。私が生きている限りは、娘たちに手を出させはしません。」と母は司令官に答えました。私達は部屋に閉じ込められ、数時間後にまた彼の前に連れ出されました。同じ命令を受けましたが,母は再度拒絶しました。すると急に,彼は私達を放免するよう命じました。
だいぶ後になってから,あれこそは神の約束した保護であったのだと気がつきました。
戦争の後30万人のオランダ移民とともに私はオランダに移住し,ユトレヒトで法律を学ぶ特典を受けることができました。卒業後パリへそしてスイスへと発ち,ある非営利団体で職を得て世界中で仕事をしました。1952年にスイスのコー(Caux)で開かれた国際会議で、そうちょうど今日のような機会で,日本人との平和を結びました。
この機会が,私にその後一生続く熱情と目的を与えてくれました。この時に何が起こったかについて戦争直後書き記したのですが,それは星野氏が対話の会のサイトに載せてくれたので、もし興味があればご覧下さい。(英文 https://sites.google.com/site/dialoognljp/programmas/essays/4kul) 過去のことに捕われてばかりいることはやめ、心を開いて人の話を進んで聞くようにしようと私は決心したのです。それも日本人だけではなく特にインドネシア人の話を聞こうと。
この決断のおかげで,他の文化・人種・国籍の人々を理解し 心を開いてつき合う事ができるようになりました。そして多様さがいかに重要で、決定力を持つかを理解できるようになりました。異なる文化の豊かさと多様さは,新しい可能性を創造します。多様さは,私達を前進させてくれます。新技術が私達にもたらす、数々の機会やスタイルや選択肢の多様さを思い浮かべて下さい。多様さは私達の一部なのです。
世界は多文化/多民族の社会へと向かっています。でもそんな世界がちゃんと機能するようにしようを私達が望むならば,グローバリゼイションの副産物である様々な国境を越える問題について、私達が自ら進んで受け止め,取り組み,私達自身を変えていく必要があります。
2002年に新しい冒険が始まりました。医者である私の弟は,当時国連のためにアジアで仕事をしていて,インドネシアによく行き、インドネシア政府や地元の医師たちと協力して、インドネシアのための家庭計画プロジェクトをたちあげることに関わっていました。この弟が,1930年に父が建てた 私達の両親の家を小さな歴史資料館にするための財団の設立に手を貸してくれないかと,私に頼んできたのです。インドネシアの人々にとって自由のシンボルとなったこの資料館についてオランダ人にも知ってもらうための仕事の手伝いをしないかと。
1946/47年にこの家でリンガジャッティ協定が調印され,そこでオランダが事実上初めてインドネシア共和国を認めたのです。シメイ火山のふもとにある この「家の会議」歴史資料館は、インドネシアの自由のシンボルですが,それは彼らにとって,対話と相手への尊敬を通じて自分達の目標を達成できる能力があるということを意味しているのです。歴史資料館は、国中のインドネシア人が訪れるだけではなく,オランダ人や他の国の人々も詰めかけます。
最近嬉しい知らせを受け取りました。建国の父シャフリルがこの協議の間滞在した昔のクウェー家の家も歴史記念物に指定されたのです。リンガジャッティ村は,インドネシアの少年少女が,歴史を学びに集まってくる名所になるでしょう、アメリカのウィリアムズバーグのように。
このリンガジャッティ協定は,インドネシアの議会では承認されましたが,オランダ議会ではそのまま通ることはありませんでした。「蘭領印度を失ったら,災難となる」という不安が支配したのです。
協定に同意する代わりに,私達は兵隊を私達の元植民地に送ったのです。そうすれば,インドネシアの武装勢力をまたすぐにオランダの支配下に戻すことができるだろうと私達の目には映り,期待したのです。
残念ながら,オランダのアジアに於ける政治的役割が,この決定のせいで突然終わりになってしまうことに,私達は気がつきませんでした。
対話の会のサイトのロゴの3つの重なった国旗が,アジアでの最後の世界大戦の話を語っています。でも星野氏が日本的な美しい方法で表現したように,私達が新しい真珠を/新しい世界の秩序を創りたいとしたら,まず私達は今自分達の身の回りの世界で何が起きているかを認識する必要があります。
2011年の時点でオランダの問題は、アジアではなくヨーロッパなのです。1945年の時のように世界が現在また急にがらっと変わっていこうとしていることを,私達は国として 私達の政治家たちは そしてあなたや私のような市民は,しっかりと認識できているでしょうか? 1945年に私達オランダ人は、植民地についてはまさに船に乗り損ね、アジアの解放がすぐそこまでに来ていることが見えていませんでした。
オランダやヨーロッパにいる我々は,世界の力関係がもう変わっていて、西から東へと力がシフトしたことを認識しているでしょうか? アジア・アフリカ・南アメリカのどの国も,この小さな惑星にある貴重な宝物(資源)について彼らの取り分を求めています。私達はヨーロッパで,民族や文化の境界を越える架け橋を造ることができるでしょうか? 国境を越えて新しい一つの統一したヨーロッパを創ることができるのでしょうか? 私達は共有する歴史から,教訓を学んだのでしょうか?

日本・インドネシア・オランダの3国に共通するのは民主主義です。自由と、公開の議論のない民主主義は不可能です。民主国家の人々は,戦闘を通じて独裁者を追い出すことをしてはいけませんが、尊厳を切望するアラブ世界の人々の気持ちは共有します。
どこかの記事で読みました;尊厳とは価値を認めることだと。そして「リーダー達が人々に価値を見いださなければ,政府は国を前に進めることはできない。」これは独裁主義にも当てはまりますが,民主主義にも当てはまります。
私達が,一人一人日本人として,オランダ人として、インドネシア人として,自らに問うべきことは,第2次世界大戦から学んだ教訓で,私達の子どもや孫に引き継いでいってほしいものは何かということです。
まずはオランダについて。私達オランダ人は,インドネシアの人民の願望についてとても傲慢で鈍感でした。この私達自身の考え方を変革してから、インドネシアと新しい関係を築く必要があったのです。1945年時点でも,そしてその後でも,私達は蘭領東インドを失ったらオランダは破産すると信じていました。それは間違いでした。ヨーロッパとの貿易は,戦前もオランダに富をもたらし,戦後も貿易はオランダの生命線なのです。今現在でもヨーロッパはオランダにとっての生き血のようなものです。
民主主義と近代化が日本の繁栄をもたらし、日本を世界で有数の貿易国に仕立てました。第2次大戦中アジア諸国を占領し手に入れた時よりも,より大きな富と世界からの尊敬を、日本は戦後手に入れたのです。日本は今,アジアの民衆にとって、世界の貿易のパートナー兼信用の於ける友人・パートナーとなったのです。
そしてインドネシアについて。インドネシアは、植民地から独立国家へと移行する途上で とても困難な政治革命と格闘をした時期がありましたが、今のような国に発展することができました。一つの国の中にある多様さ(異なる文化・少数民族・言語)を維持しながら,一つの国・一つの民・一つの言葉という彼らの理想を維持したのです。これは素晴らしい快挙です。スハルトの時代は大変困難でしたが,今ではインドネシアは世界の模範の一つになりました。
それでは,どんな教訓を私達はこの三つの国から引き出すことができるでしょうか? あなた方や私のような普通の人々も政治家たちも,自分たちの目の前の関心や地平線を越えて世界を眺めるのだと決意し、同時に他の国の人々との共通の好機を意識しながら,さらにわれわれの繁栄を危険に晒す脅威にも注意しない限りは,私達は失敗に終わるでしょう。小さくなった世界で進行中のグローバリゼーションの問題は,私達が(国境や文化の壁を越えて)力をあわせないと取り組むことはできないでしょう。
あるところまでは,国家とその国家を構成する個人は似ています。国家も個人も自らの利益を追求します。でも、家族のメンバーは,自分の利益だけを強引に追求してはいけないという認識が必要であり、時にはより大きい家族のための利益を優先させる必要もあります。同じように,国家もいつでも自らの利益だけを追求するのではなく,国家の家族とも言うべき世界全体の利益とのバランスも考えなければならないのです。
私達の好むと好まざるに関わらず,グローバリゼーションは私達をこういった状況へと追い込んでいくのです。
最後に,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏の引用で結びにしたいと思います。ワシントンDCの彼の記念碑を訪れました。そこにこう記されています;
「闇は闇を退けることはできない。光のみがそれを為し得る。憎しみは憎しみを退けることはできない。愛のみがそれを為し得る。」

ワッセナーにて、2011年8月11日

[ 星野文則訳 ]

6、 閉会の辞 | 村岡崇光

本日のプログラムも終わったところで、今日の会合で私達が聞いたこと、観たことについて暫く考えてみたく存じます。

過去2年間、私達の対話集会は重要な変貌を遂げました。インドネシアという次元が加わったことがそれです。名称も「日蘭イ対話集会」に変わりました。今になって思えば、これはある意味で極めて自然な、当然の展開でした。私達の対話集会は,もともと、インドネシア島嶼において起こった軍事的、政治的葛藤とその後の展開に焦点があったわけですが、この葛藤にはもちろんのこと現地のインドネシア人達も関わっていたわけです。この関わりは、不幸にして、1945年8月の日本の降伏とともに終わりませんでした。戦後の蘭印の葛藤は、少なくともある程度までは、日本によるインドネシア占領中の状況に起因するものです。

対話集会のこの三角関係はテア・クルベさんの講演に見事に反映されています。彼女は、前世紀の半ば以来、時として辛い抗争に巻き込まれて来た三つの独自の民族によって代表されているところの文化的、歴史的、民族的、また政治的違いと多様性とを止揚し、その間に橋を架ける道を探ろうと試みられました。インドネシア生まれの彼女の話には極めて個人的で、細やかな次元が加わっていました。

彼女の今朝の講演からも、また御自身が言及された、別なところに発表されているかなり詳しい記事からも、スイスのコーと1954年米国のミシガン州で開催された会合で具体的にどのような形でそこで出会われた日本人と和を結ばれたのかが私には今ひとつはっきりしませんでした。二人の個人或いは集団の間で本当の意味での和解が成立するためには、一方が他方によって不当な被害を加えられた、ということで両者が合意に達することが絶対に必要であることに彼女が異を挟まれるとは思いません。リンダイヤー氏は、歓迎の辞の中で、1947年にジャワ島で起きた戦慄すべき虐殺に対してオランダの裁判所が下した有罪判決に言及されました。この判決のことを私が新聞で読んだ時、私はその法廷の勇気と真摯さに深く心をうたれました。この裁判所は、このような深刻な犯罪に対しては時効の原理は適用出来ない、という立場を取ったに違いありません。その原則はナチスの戦争犯罪に適用されるべきものとしてドイツでは法文化されています。日本の裁判所や、戦後の日本政府はしばしばこれとは逆の立場を取って来たことを私は日本人として恥じるものです。ごく最近のことですが、日本の外務大臣は韓国の金外交通商相に対して、戦時中の「慰安婦請求権問題は解決済み」と語った、と報道されました。玄葉外相は村山元首相の時に創立されアジア女性基金についての日本外務省の日英両語の公式サイトにある以下の文言を御存知なのでしょうか?

『慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かった。その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性がたかまり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた』また、玄葉外相は,彼の二人の前任者に対してこの箇所の削除を考慮して頂くよう私が個人的に手紙を出しているのに、受け取り確認すらされていないこと、また在オランダ日本大使にもこの手紙の写しを御送りしてあるけど梨の礫であることを御存知でしょうか?この文言は犠牲者に対して、その人たちの祖国に対して、また女性一般に対して明らかに侮辱的ではないでしょうか。また、この文言は,太平洋戦争は日本が始めたのに,戦争の拡大をあげて慰安婦徴集を正当化するというような倒錯した歴史観の情けない証拠でもあります。これでは、問題解決済みどころか、新たな問題を作ったに等しいとすべきでしょう。

この件は、我々自身の歴史を正視し、そこから教訓を引き出すというのが対話の会の主たる目的の一つであることを今一おおいに寄与する内容でした。幸いにも、氏は、私どもの前世代の同国人によって氏に加えられた非人道的な苦難を生き延びられはしましたが、この場を借りて慚愧の念に堪えないことを表明させて頂きます。ここに持って参りましたものは、地獄にも比すべきあの数年を氏に想起させるかもしれません。来月、私は妻を伴って、嘗てのビルマ、今日のミャンマーに向かいますが、彼地の二つの神学校で5週間ヴォランティアとして講義をさせてもらうことになっています。太平洋戦争の最後の数年間、ベッカーさん、貴殿や貴殿の同僚達に加えられた苦痛を想いつつその5週間を過ごすことになるでしょう。テア・クルベ女史も貴殿も死の鉄道の建設には膨大な数の労働者が東南アジア諸国からも動員された、と言われました。対話の会の三角関係に鑑みて、ここでインドネシア出身の労務者の例を挙げても宜しいか、と愚考致します。その労務者は、過酷な労働を生き延びはしたものの、戦火は止んでも、帰国するにも先立つものがなく、やむなく現地に残ることにし、土地の女性と結婚したのですが、数年前、前川さんも言及された故永瀬隆氏が彼の住むタイの村にやって来た時、彼の境遇に同情した永瀬氏が往復の航空券を買うための援助をしてくれたのです。半世紀以上経って初めて戻ったスマトラの村では、最初は村民ともなかなかツーカーいかなかったそうです。ある夜、老齢の女性が近寄って来て、「私のこと覚えてらっしゃる?」と尋ねました。どんなに記憶の糸をたぐろうとしても思い出せないでいると、彼女が「私あなたの婚約者だったのよ。まだそうなの」と呟いたそうです。年老いた彼はそこで泣き崩れました。このような悲劇的な例は、彼一人ではなかったかもしれません。

前世紀の前半に日本と日本軍がアジアで行ったことの多くは惨事、災害と呼んでよいでしょう。しかし、それは起こってはならなかった人災でした。日本人をも見舞った人災でした。その全てが自業自得とは言えませんけれど。戦争、侵略、破壊、略奪によって意図的に破壊された関係が修復され,嘗ての仇敵の間に平和と和解とが回復されるとき、それがなんと素晴らしい,尊い体験であるかはテア・クルベ女史ベッカー氏の話しから私達は知ることが出来ました。諸星さんは、泰緬鉄道建設に酷使された捕虜とは直接の関係はなかったので、日本兵としての立場から戦争の虚しさ、悲惨を語られましたが、人災でなく、自然災害も時として驚くべき、癒しの力を発揮することがあります。東日本大震災に関連して私が書きました「災害は人間関係をずたずたに切り裂くけれど、人と人とを結びつけることもある」と題した小論の中で、この対話の会の契機の一つとなったものは実は日本を1995年に襲った阪神大震災であったことを述べました。今回の地震、津波の直後に、オランダ人で、何年か前の対話の会で講演して下さった方から、この災害に大変な衝撃を受けた、被災者の日本人クリスチャン達の為に、といって決して小銭とは呼べない金額を送って来られました。私は宮城県の教会の牧師さんそれを転送しましたが、この援助は、フランス人、ドイツ人クリスチャンからのものとは本質的にわけが違うと思う、という主旨のことをその牧師さんに伝えました。今日ここに集っている私達のなかの何人かは先月17日オランダの北東のRuineという村で行われた「ドレンテと日本との出会い」という感動的な催しに出席しました。対話の会の世話人の一人であるタンゲナさんもその準備に奮闘され、財団「サクラ」の会員であるレーマンさんの後援によるものでした。父親を日本人として戦時中インドネシアに生まれ育った彼は、今度の災害に大変心を痛め、御自分の懐をはたいて釡石から二人の若い日本人をオランダに招待されました。和田竹美さんがその一人です。リンダイヤー氏は和田さんと対話の会を結びつける大事な絆がふたつあることも指摘されました。調子に乗って舌が廻り過ぎたかもしれません。講演者のお一人お一人、この有意義な会合を準備して下さった世話人会の皆さん、そして言うまでもなく、御出席下さった皆様一同に深くお礼申し上げます。本日の会合で、対話の会はまた一歩前進したのではないでしょうか。

ご清聴有り難うございました。