タンゲナ鈴木由香里とアンドレ・スクラムによる
長崎訪問レポート

以下はタンゲナ鈴木由香里とアンドレ・スクラムの長崎訪問記(2019年10月14日~19日)です。

二人は2020年9月に予定されているエクスカ―ションの準備のために長崎を訪問しました。また、長崎の学校において「ヨハンの物語」がどのように受け止められているか、の視察も行いました。
エクスカーションの準備は随分と進めることができました。まだ全ての準備が完了したわけではありませんが、全て予定通りに準備が整うと確信しています。   「ヨハンの物語」についても予想をはるかに超える成果を上げることができました!教育委員会からの支持を得ることができ、いくつかの学校では既に教材として使われ、あるいは来年度から使われる予定です。これ以上の成功は望めないでしょう!

2019年9月14日 月曜日

由香里と私は二人とも無事予定通り長崎に到着した。午前中はまず二人で今週の予定を確認。その後井原さんのお墓を、彼の息子と共に訪れた。思いがこみ上げる。井原さんは我々にとって、そして福岡第2分所の関係者にとってかけがえのない人物であった。井原さんがいなければ追悼祈念碑は実現しなかっただろうし、私たちの教育活動もこれほど早くは、あるいは全く始まることはなかっただろう。私達の訪問には畠山博幸記者と2人の撮影班が同行した。今週何度か撮影が行われ、NHK長崎が来週月曜日に放映し、承認されれば後日全国ネットでも放映される。このルポルタージュのメッセージがどういうものであるかはまだわからないが、おそらく私たちが今週長崎の若者達に向けて行う教育活動についてだろう(詳細は後日)。 このあと小宮先生(高校の英語教諭)と彼女の父親、小宮さんと一緒に食事をした。小宮さんは子供の頃、福岡第2分所があった香焼島に住んでいた。彼も捕虜や他の子供達同様造船所で働かされ、学校に通えたのは週末だけだった。小宮先生は香焼中学校の卒業生でもある。香焼中学校は戦後収容所の跡地に建てられた学校で、現在も同じ場所にある。福岡第2分所について、そして造船所について小宮さんにいくつか質問をした。

小宮先生とは「ヨハンの物語」を彼女の学校の授業で使うことについての(不)可能性について話した。小宮さんはまだ昔の香焼の地図を持っており、そのコピーを後日いただけることになった。収容所や造船所(の周辺)の詳細がわかるようになることを期待している。それから、もしかしたら第二次大戦中に造船所で働いていた女性が私達と会ってくれるかもしれない。小宮さんが確認・手配してくれることになった。

終戦直後に香焼近くで墜落したB29についての話も重要な点である。福岡第2分所の追悼祈念碑の横にはこのB29の搭乗員のための追悼碑もある。来年はこの追悼碑でも慰霊が行われるだろうか?この点については今週また話す予定。小宮先生のおじが搭乗員の救助活動に関わっており、これについて文章を遺している。この情報をどう扱うか? これについても調べるか? 教育活動に取り入れるか? この点については後日検討したいと思う。
火曜日には来年9月のエクスカーション(戦後75年祈念 in 長崎)の準備のためにあちこちを訪問する予定。

最後に一言:長崎は滞在するのに最高の場所で、天気もパーフェクトだ。心地よい風に暖かい日差し。私は旅行好きなタイプではないけれど、どこかに行かなければいけないとしたら長崎を選ぼう。今週はかなりの時間を由香里と過ごせたというのも非常に特別な出来事だ。心からもてなされていると感じられ、とてもありがたい!

20191015日 火曜日

誰かに会う約束はないが、来年9月11日のエクスカーションの準備を行う日。まず「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」へ。由香里はまだここを訪問したことがなかったので、ここは時間をとってじっくり訪問した。非常に印象的な追悼施設で、図書館もあり、関連資料も収集されている。Arthurが言うには、ここの所蔵資料の中に福岡第2分所に関連した写真があるかもしれないとのこと。担当職員であるGeoff Neill氏は残念ながら不在だったが、木曜日には在席とのこと。その日に彼と会えるようアポイントを取った。それから私達は徒歩で城山小学校に向かった。原爆落下中心地より500メートルというところにある学校だ。

被爆した校舎の一部がまだ当時のまま残っており、平和祈念館としてこの学校についてと原爆の影響についての資料を展示している。1500人いた在校生のうち原爆から生き残ったのは100名のみであった。終戦後最初の年に卒業できたのは19人だけだった。それまでは毎年250人以上だったのに! 祈念館ではこの学校について、児童、教師について、そして原爆投下後の悲惨な状況の中、生き残った子どもたちのために行われた授業の様子についてなどを知ることができる。来年のエクスカーションの参加者にとっても、ここを訪問することは非常に価値がある、と自信を持って言える。その後私達は学校周辺でバスを降りられる場所、全員でここに入館できるか、などについて確認した。

そして私達は、来年9月11日に全員揃って昼食を食べ、福岡第2分所についての講演が行えるような場所を街の中心部、港の近くで探した。思っていたほど簡単には見つけられなかった。そのような設備を備えているホテルはほとんどなく、または営業を終了してしまう予定とのこと(ワシントンホテル)。幸い長崎出島ワーフで良い場所を見つけることができた。これ以上の場所はないだろう!これから細かい点を詰め、今のうちに予約をする。11日の夜にディナーをするレストランもいくつか探した。水曜日に、この点について私達をサポートしてくれる人に会うことになっているので、この続きはそれからだ。2015年に訪れたホテルモントレも候補の一つだったのでホテルに行って相談してみたが、私達のグループはこのホテルには大きすぎるようだ。水曜日にはまず水巻の青野氏に会い、来年9月10日のエクスカーションについて打ち合わせ。それから学校訪問を行い、長崎氏副市長と面会(市長自身は出張中)。最後に井原、朝永両氏とビジネスディナー。来年9月12日の式典について話す予定。また忙しい日になりそうだ!

2019年10月16日 水曜日

今日は忙しいが、多くの素晴らしい出来事があり、非常に充実した一日だった。まずは青野氏と、戦争と平和、和解へのプロセスなど、彼が行っているゲスト講義で話しているテーマについて話し合った。青野氏は長崎大学の客員講師で、水巻市にある日本で亡くなった捕虜を慰霊する十字架の塔にオランダからの訪問客があると、ホストとして訪問客を出迎えてくれる人である。由香里と私は来年9月10日に水巻へのエクスカーションを企画しており、この件について青野氏と打ち合わせした。青野氏が準備の大部分(バス、昼食、昼食の会場、セレモニーなど)を引き受けてくれることになり、また氏も同行してくれることになった。とてもありがたい。

福岡第2分所にいた捕虜の多くが1945年に水巻の近くに移管され、炭鉱で働かされた。来年これらの地のいくつかも訪問したいと考えているのだが、多くの場所は既に開発が進み当時の面影は全くなかったり、あるいはバスで行くには困難で訪問にはかなり時間がかかってしまう。青野氏は、代わりに現在も当時の面影が残る場所への訪問を提案してくれた(福岡第9分所、宮田)。その場所には小さな博物館があり、当時捕虜が行わされた労働の様子が伺えるという。私達は青野氏の提案に従うことにした。その後私たちは井原さんと共に、かつて福岡第2分所が建っていたところにある香焼中学校に向かった。まず追悼祈念碑を訪問、献花したのち、亡くなった井原さんの、92歳になる姉と話をした。彼女は他の人たちと共に祈念碑の手入れをしてくれており、先日(彼女や他の人たちのために)設置されたベンチをよく利用してくれている。このベンチに刻まれたテキストについても後で話をした。

そしてこの後、香焼中学校も訪問した。ここでは校長と一人の教師と話をすることができた。だが、最も刺激になったのは、生徒5人と「ヨハンの物語」について話ができたことだ。物語についてどう思ったか、改善点は何か、彼らが物語から受け取ったメッセージは何だったか、など。非常に感動的な出来事で、由香里も私もこの若者達(14、15歳)との出会いでしばし放心状態になってしまうほどだった。これからもこのプロジェクトを進めていくという思いを強くさせる、非常によい刺激となった。受け取ったコメントは (1) よい補助教材、(2) 教科書とは異なったアプローチ、(3) 言葉が少し難しい、(4) はっきりとわかる平和へのメッセージ、(5) わかりやすい物語。私達は学校を後にして市役所へ向かい、副市長と3人の部長(そのうち一人は教育委員長)、そして数人の職員(と思われる人物)と会った(市長は出張のため不在であることは私たちも事前に知っていた)。非常に友好的な会合であった。由香里と私は対話活動と「ヨハンの物語」の要点(物語については個人的な視点から)を述べることができ、好意的に受け止められた。最後に教育委員長から、「ヨハンの物語」が正式に香焼市の学校のカリキュラムに取り入れられたことが伝えられた!一日の締めくくりにこれ以上の出来事はないだろう!

この会合の前に、主に由香里と井原さんが来年9月12日の式典についての打ち合わせをした。この時期の長崎の暑さを考慮し、屋外、祈念碑でのセレモニーは充実した内容、しかし短時間のものになる。その後屋内でレセプションを行い、最後に日蘭イ対話の会が訪問者と日本の若者を対象に短いカンファレンスを行う。他にもいくつか行事を行う上で必要な点について話し合った。全てを順調に進めるために重要なことである。

そして最後に、ベンチに刻まれたテキストについても話をした。現在は祈念碑建立に際し大きな役割を果たした人たちの名前が刻まれている。実現に尽力した人、維持管理を行っている人、祈念碑に関連するイベントを企画・実行する人、送迎の人、花の世話をする人、掃除をする人などである。詳しい背景については知らないが、対話の会財団の名前も刻まれている。亡くなった井原さんがそのように手配してくれた。ここに、オランダとオーストラリアの寄付者についてのテキストも加えることになった。「生存者と家族」または「生存者と遺族」というテキストが候補として挙げられている。内部で話し合いが行われている。このテキストは、その他のテキストと同様日本語でもベンチに刻まれる。

夜は素晴らしい和食レストランに招待された。外出先でこれほどおいしく、そして特別な食事をしたことは滅多にない。井原さん、朝永さん(祈念碑の維持管理委員会代表)、そして私たちが明日行うゲスト授業のホストと一緒のディナーであった。この時にベンチのために集めた寄付金を正式に贈呈した。ものすごく感謝していただいた。   NHK長崎放送の畠山記者は私たちのスケジュールの多くに同行している。撮影だけではなく、折に触れてインタビューも受けている。私達の訪問について、来週月曜日にテレビで放送される予定だ。私たちはそのコピーをもらえることになっている。この放送をNHKが気に入れば、その後全国ネットでも放送されることになる。

2019年10月17日 木曜日  

由香里は午前中は平野氏と打ち合わせ。来年9月12日の式典の後に行われる予定のカンファレンスと、ピースメッセンジャーの関りについて(後述)。この団体の青少年による来年のオランダ訪問についても話になった。私自身はホテルに残り、水曜日のレポート作成と木曜、金曜に行う授業の準備に費やした。

昼食後は揃って外出し、戦時中17歳で造船所で働いていたという、現在96歳の女性を訪問した。この女性は当時長崎市の郊外に住んでおり、毎日船で香焼島に通い、造船所の倉庫で働いていた。銅管などの資材を出す仕事をしており、捕虜がいくつかの船で福岡第2分所にやってきたところを目撃している。捕虜たちが集合場所(造船所の赤の広場ではないだろうか)への通路で紐を持っていなければならなかったのか、あるいは捕虜たちが縛られていたのか、についてははっきりと覚えていない。彼女は捕虜とやり取りをすることはなかった。それは厳禁されていたのだ。捕虜たちがかわいそうだったと思っており、小さくお辞儀をしたりほんの少し笑ったり、なるべく捕虜に対して冷たい態度をとらないようにしていた。これが見張りに見られたりすると、銃剣を向けられひどく怒られた。   彼女の友達は当時造船所の厨房で働いており、捕虜たちの食事を作っていた。食事はわずかな米、肉、海藻や魚の入ったスープだった。造船所の労働者はその約3分の2が捕虜で、日本人はわずかだった。韓国人もたくさん香焼島に住んでいたが、彼らは造船所ではなく、鉱山で働いていた(香焼にも鉱山があるのだ)。彼女は原爆が投下された時にはもう造船所で働いてはいなかった。1945年に最初の子供が生まれ、彼女の両親と一緒に自宅にいたそうだ。ご主人は軍に召集されていた。彼女の家は丘の後ろにあり、このおかげで原爆が若干遮られるような形になった。原爆が落ちる直前、彼女は洗濯物を干していた。そのすぐ後に地獄はやってきた。翌日彼女は父親と一緒に、親戚の者を探しに市街地まで歩いて行った(歩いて数時間)。全てが破壊されていた。親類は誰一人見つけることができなかった。原爆が落ちた後は何日も、彼女が両親と住んでいたところの近くにある砂浜に街から船で負傷者が運ばれてきた。負傷者の手当てをしようとしたが、何もできなかった。若い人たちの症状は重く、みな亡くなってしまい、遺体は付近の韓国人たちが船で近くの小さな無人島に運び、そこに埋葬された。彼女の次男も若くして白血病で亡くなったそうだ。医者によると、彼女が与えた母乳がこの病気の原因だという。おそらく彼女の母乳は放射能で汚染されており、それによって息子も放射能に汚染されてしまい、これが後年がんを引き起こしたのだろう。何という悲劇!!! 彼女は泣きながらこの話をしてくれた。今までこういう話をしたことはなかったのだそうだ。今になってやっと話せるようになり、だから元捕虜たちが戦時中のことを話したくない、話せないということもとても理解できる、という。この稀有な女性との、忘れがたい出会いとなった。

この後私たちは道の反対側に渡り、原爆資料館の写真資料を見せてもらいに行った。「よく調査している情報源(Arthurのこと)」によると、ここには私たちがまだ見たことのない福岡第2分所の写真があるはずである。とても友好的に迎え入れられ、色々助けてもらい、多くの写真を見せてもらった。知っているものもあれば初めて見るものもあった。全てではないが、写真も譲ってもらった。全てをもらうには数が多すぎた。写真はみな私たちもよく知っているアメリカの公文書館にあるものである。彼らもこの写真を(かなりの額を支払って)アメリカから入手したとのこと。次回また訪問するか、またはメールでもっと具体的な質問をすることができるだろう。

今日の締めくくりは広島長崎ピースメッセンジャーへの訪問だった。これは若者の組織で、原爆のない世界を目指している。彼らは今年ノーベル平和賞にノミネートされたほどで、ただの善意を持った生徒たちのグループというわけではないのだ。ノーベル賞は残念ながら彼らではなく、エチオピアの大統領に贈られることになった。私たちが訪問した時、東京からの高校生も訪問しており、メッセンジャーたちが行っている活動について学んでいた。光栄にも、彼らにゲスト授業を行う機会を与えられた(ヨハンの物語)。正直に言うと、この日は調子のいい日ではなかった。随分疲れていたし、東京からの生徒たちがほとんど全く英語を理解しないことに戸惑った。明日行う予定の話は修正を加えたほうがいいだろう、と考えた。先にばらしてしまうが、話には修正を加え、金曜日は非常にうまく行った。予定がぎっしりの一日で、二人共随分疲れてしまった。明日もう一日、それですべての予定が終了する。NHKの取材チーム(畠山博幸記者、樋爪かおり記者、それからカメラマンと音声担当)がほとんど常に私たちに同行し、その途中で質問も受けた。普段から行うようなことではないし、時には負担に感じることもあったが、しかし畠山記者には訪問の約束の手配をするのにものすごく助けてもらったし、長崎のあちこちを案内してもらったりもした。NHKには非常に感謝している。そして彼らも私たちに感謝している、と言ってくれた!

2019年10月18日 金曜日  

今日はまず三和中学校を訪問した。以前香焼中学校で教えていた、という英語教師と初めて会う機会でもあった。非常にいい、刺激になる訪問となった。「ヨハンの物語」についても十分時間を取って話をすることができた。大事なことは、「ヨハンの物語」は来年度からこの学校でも使われる、ということだ。

この学校は藤田尾町のすぐ近くにある。終戦直後、ここからすぐ近くの山に米軍のB29が墜落した。このB29は救援物資投下のために香焼に向かっている途中だった。藤田尾の住民たちはB29が墜落した後、機体を探しに山に登った。搭乗員は一人(グレン・ホルムス)を除き、全員死亡していた。住民たちはグレン・ホルムスを山のふもとまで運び、村で手当てした。グレン・ホルムスはアメリカに帰国、回復し、老年になってから亡くなった。福岡第2分所の祈念碑が建っているところには、このB29の搭乗員を追悼する碑も建っている。中学校では、B29を探しに行った住民の孫、という生徒にもあった。

彼は緊張しており、私達や校長、英語教師、記者二人とはあまり話をしなかった。そりゃあ緊張してしまうだろう。ただ、彼のおじいさんのことを、そしておじいさんが墜落事故について、その後起きたことについて話してくれたことをとても尊敬している、ということは語ってくれた。このあと由香里と私はこのB29の話を教育プログラムに取り入れることについて話し合った。何といっても特別な話であるし、それに教育にも適した話だ。NHKの樋爪かおり記者もこのことを歓迎するだろう(彼女はこの件について私たちのタクシー議論の目撃者でもある)。この後私たちはNHK長崎の建物の中でランチをし、その後スタジオに案内され、カメラで撮影しながら、長い時間続けてインタビューを受けた。非常に盛りだくさんの内容だったが、オープンに語り合い、樋爪記者、畠山記者共に満足してくれた。私たちもだ! その後スタジオを後にし、私たちの屋外での映像を撮影するために平和公園に向かった。やったことは主にポーズをとることで、雨が激しく降っていたので、あちこち見て回る、と言うことはできなかった。それに私たちは予定から遅れていて、活水高校の生徒たちが私たちのゲスト授業を待っているのだ。活水高等学校は長い歴史のあるキリスト教の高校だ。

特記すべきは、生徒全員が通常の授業に加えて部活動にも取り組んでいることである(後述)。これはこの学校の伝統であり、この学校の特徴でもある。ゲスト授業は順調に行うことができた。生徒たちもよく集中して聞いてくれた。その後多くの質問があり、若者たちと良い議論を行うことができた。ところで、このように順調に行ったのは、生徒たちがほとんど英語を理解できたおかげでもある。授業の後で、生徒たちは彼らの平和推進活動や核兵器反対、原発反対運動といった課外活動について話してくれた。

とても高いレベルで驚かされた。オランダの学校ではこういった活動がほとんど行われていない、と改めて考えさせられた。生徒たちに、高校を卒業したら何をしたいか、を聞いてみた。彼らの答えは非常にバラエティに富んでいた。スチュワーデス、言語療法士から「まだ決めていません」まで。将来も積極的に平和活動を続けていくか、ということは聞かなかった(後で思いついた)。この若者たちの熱心な活動ぶりを目の当たりにしたら、そういう子たちが出てきてもびっくりはしない。この学校の歴史担当の教師も、「ヨハンの物語」を授業で使うことにとても前向きな様子を見せてくれた。彼女は高校で使われている歴史教科書の編集者の一人で、「ヨハンの物語」を受けて、教科書にも戦争中には日本にも捕虜収容所があったことを取り上げたい、と考えていると話してくれた! 福岡第14分所の話も出た樋爪かおり記者との最後の短いインタビューの後(彼女には14分所についての問い合わせ先をいくつか伝えた)、記者と別れた。由香里と私はその後少し話をし、私たちもここで別れた。なんと充実した、素晴らしい一週間であったことか!

おわりに

この訪問は、来年9月に予定されているエクスカーションの準備のためだった。また、長崎の学校において「ヨハンの物語」がどのように受け止められているか、を見る事であった。エクスカーションの準備は、(おそらく期待していた以上に)随分先に進めることができた。まだ全ての準備が完了したわけではないが、全て予定通りに準備が整うと確信している。「ヨハンの物語」についても予想をはるかに超える成果を上げることができた!教育委員会からの支持を得ることができ、いくつかの学校では既に教材として使われ、あるいは来年度から使われる予定だ。これ以上の成功は望めないだろうこれからも続けていく、そしてもらったコメントや日本に来てから浮かんだ新しいアイデアを取り入れ、更に教育(教材)を開発していく、よい刺激となった。ところで、ここでは「ヨハンの物語」は主に平和教育において使われている。オランダにはそういったものはないが、ここでは非常に熱心に取り組まれている。オランダの教育にも取り入れることができるのではないだろうか。由香里はいろいろなアイデアがあふれ出ているようで、後日またこの話をすることになるだろう。多くの出会いは強い印象を与え、時に感情があふれ、そして何よりインスピレーションにあふれていた。多くの人に理解、協力してもらい、私達に対し(言葉だけではなく行動でも)ポジティブに向き合ってもらえたことは非常に嬉しく思う。得られたものは非常に大きい。日蘭イ対話の会にとっても!

そして最後に、今回の訪問についてのメディアの関心について。NHK長崎放送とNHK全国放送は私達に密着取材し、私達の訪問について放映する予定である。最初のアイテムは既にテレビで放映され、今後も更に放映される予定で、私たちのところにDVDが送られてくることになっている。NHKは来年オランダを訪問し、生き延びた元捕虜、その子供や孫などにインタビューをする予定でいる。これらは全て来年9月の準備のためで、9月にも彼らは取材に来るはずだ!由香里は既にこの件に取り掛かっており、式典に出席するであろう若者達、そしてピースメッセンジャー(木曜日のレポートを参照)と一緒に取り組むアイテムその他のことについて色々アイデアを出している。

手が回らなかったこと  「よく調査している情報源(Arthur Frijlingのこと)」によると、1970年代にPOW団体が長崎に存在していたらしい。この件については調べることができなかったので、後日メールで問い合わせする予定。もう一点、見つけることができなかったのは、福岡第2分所で死亡した捕虜が火葬された古い火葬場。可能であれば是非この場所の写真も手に入れたい。これも後日メールで問い合わせる予定。