オランダ戦争資史料研究所共催 日蘭イ対話の会シンポジウム

2016年6月3日(金)午後1時-午後5時 オランダ戦争資史料研究所(Heregracht 380、アムステルダム)

日蘭イ対話の会は、POW研究会メンバーの訪蘭の機会に、オランダ戦争資史料研究所(NIOD、https://niod.nl)と共同でシンポジウムを開催しました。

シンポジウムの様子

プログラム

歓迎のことば エヴェリーン・ブッヘイム(NIOD)

A. 『POW研究会の成り立ちと活動紹介』 田村佳子(POW研究会)
B. 『太平洋戦争中の日本国内の捕虜収容所について』 笹本妙子(POW研究会)
C. 『海南島の蘭印軍捕虜とオーストラリア人捕虜』 西里扶甬子(POW研究会)
D. 『日本国内に抑留されたオランダ民間人抑留者』 小宮まゆみ(POW研究会)
E. 『NIODに所蔵されている元捕虜による記録・回想録』 エヴェリーン・ブッヘイム(NIOD)
F. ディスカッション ペーター・ケッピー(NIOD)
G. 閉会のことば タンゲナ鈴木由香里(日蘭イ対話の会)

1.POW研究会の成り立ちと活動紹介 | 田村佳子(POW研究会)

POW研究会の設立

皆さま、こんにちは。この度のお招きを有難うございます。

日本では今もなお先の戦争について話をする人はそれほど多くはありません。ほとんどの人がごく近所に捕虜収容所があった事実を知らず、また捕虜達のそこでの状況にも無知であることが多々あります。全てが秘密裏に執り行われ、日本に連行され強制労働させられていた捕虜達と言葉を交わすことも一般市民は禁じられていました。その為、私達は皆これまで孤独に調査研究をそれぞれの跡地で続けていました。私達は徐々に繋がり、2002年3月、POW研究会を立ち上げ、この捕虜の歴史を、抑留者問題を、また戦犯裁判を共に調査し、情報交換することになりました。基金を求めず、政治的、宗教的にも偏らず、それぞれが自由意思で集まり、この歴史に取り組んでいます。設立時の会員は(スクリーンにあるように)20名でした。が、少しずつ興味を持つ人達が集まり、今では会員数は70名に達しました。その内訳は大学生から定年退職者、年齢は20代から90歳以上にも及び、職種も学生、教師、メディア関係、元日本兵士もいます。また日本に住む外国人や海外に住む日本人も会員です。

会員について

日本ではこの捕虜問題について多くを知る教師は少なく、学校で生徒たちはこれについて学ぶ機会はあまりありません。では何故私達POW研究会の会員がこれほどまでにこの問題に興味を持って来たのでしょうか?例えば、笹本妙子と田村佳子は横浜にある英連邦戦死者墓地の近くに住み、この墓地に強く惹かれ、外国の若い兵士達がなぜ横浜に埋葬されるに至ったのか、明らかにされていないその理由を解明したいと望みました。西里扶甬子はジャーナリストとして731部隊の生物兵器を取材するにつれ、中国の奉天にあった捕虜収容所を知り、人体実験の有無について調べ始めました。小宮まゆみは勤務する学校の初代校長が戦争勃発で抑留所に入れられたことを知り、日本の抑留所について調査を始めました。私達の会の共同代表の一人、内海愛子名誉教授は捕虜問題、特に戦争裁判の専門家です。もう一人の共同代表の福林徹は日本における捕虜収容所について調査し、その所在地を確定、またB-29機の専門家でもあります。他には日本への捕虜移送船、いわゆる「地獄船」の調査をしている会員もいます。

POW研究会の取り組み

会員は皆、日本国内外の様々な地域に暮らしています。普段はインターネット上のメイリングリストで情報交換をしておりますが、年一回は地方に住む会員との交流も兼ね、捕虜収容所跡地を訪ねるフィールドワークを行っています。2014年にはオランダの元捕虜ウイリー・ブッヘル・ファン・ステーンベルゲンと娘さん達の来日に合わせ、私達は長崎に出向きました。彼は第14分所にいました。一緒に跡地を巡ることは私達にとってもこの収容所を更に知る良い機会となりました。時には外国にも出かけます。これまで台湾、シンガポール、タイなどで跡地を見学、その土地の人と交流しました。2006年にはオーストラリアのキャンベラに出かけ、オーストラリア国立大学にて学者、研究者、元捕虜達と共に合同セミナーを開催しました。

2004年には横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されている日本で死亡した捕虜の名簿を完成させました。これが私達のサイトに載るや否や、世界中からの問い合わせが殺到し、大変驚きました。2009年、オランダの公文書館の要請で捕虜銘々票を英語に翻訳しました。これは捕虜を捕獲後、日本帝国陸軍がその収容所移動などの動きを記録、戦後オランダに返還したものです。日本における唯一の捕虜問題研究の会として、日本の国内外で認められたようで、元捕虜やその家族のみならず、研究者やメディアなどからも問い合わせが増えました。私達はそれに答え、捕虜問題における国内の、また海外の歴史に貢献出来ることを大変うれしく思います。

和解について

時折、元捕虜やその家族は私的に来日し、関連の捕虜収容所跡地近くに住む会員が案内し、また横浜の戦死者墓地にお連れしています。

日本の外務省はこれまで英国の元捕虜、またオランダ王国から元捕虜・抑留者達を招聘、そして日本兵を父とするオランダ人も招いています。2010年、オーストラリアやアメリカ合衆国からの招聘事業も始まりました。当会では外務省に彼らの元捕虜収容所関連の情報を伝え、また市民との交流会を開催しています。このような取り組みを通じ、徐々に彼らの日本への憎しみが減少し、同時期の日本人の苦悩に同情を示す人が増えて来たことに気づくようになりました。

2015年9月13日の追悼碑除幕式の例をお話ししたいと思います。この長崎の香焼島には福岡第2分所と呼ばれる捕虜収容所がありました。捕虜の大半はオランダ人で彼らは近くの造船所での労働を強いられました。帰国日までに73名が肺炎、脚気、事故など様々な理由で命を落としました。長崎の人々、特に長崎原爆犠牲者及びその子供達はこの捕虜のことを知り、来日した元捕虜達に実際に会うことで、自分達は犠牲者だったが、同時に加害者でもあったことに気づきました。収容所跡地に追悼記念碑を建て、犠牲者を追悼したいと奔走したのは、この原爆被害者達でした。当会は彼らを全面的に支援し、収容所に関する資料を提供、海外の人達との橋渡しに関わりました。この追悼記念碑の除幕式には18名のオランダ人と10名のイギリス人、関係諸国の大使館から代表、長崎県知事と市長、原爆被害者、市民、当会から数名の会員が参加しました。オランダからの参列者には90歳になる元捕虜のヘンク・クラインさんもいました。更にアメリカから4人が参加しました。彼らは1945年9月4日捕虜救援物資を運ぶ為に飛来し、目的地直前で墜落した搭乗員14名のうちのたった一人の生存者の息子二人とその家族でした。この墜落については一人のイギリス人捕虜が日記に書き残していたことから調査を開始、飛行士の名前・住所が判明し、除幕式の翌日、息子達はその父親の救助者達と感動的な対面をしました。この除幕式については最近発行された当会の報告集に詳しく書いております。

憎しみを超え、共に平和を維持すること

多くの捕虜は精神的にも肉体的にも傷を抱えて帰国し、それは後の人生を苦しめることとなりました。配偶者を苦悩させ、その苦しみは子供世代をも巻き込みました。私達の政府が出来ることは沢山あります。が、私達市民も草の根レベルで出来ることが多くあるでしょう。悪夢やフラッシュバックに未だに悩まされている元捕虜とその家族が数多くいることを私達は知っています。POW研究会の会員として、私達が出来ることは、まず第一にこの歴史を調査し、第二にこの記録を若い世代に伝えて行くことです。私達の活動は日本だけに基盤を置いてはいません。海外の人々にお会いし共に活動することはもっとこの歴史を学ぶことに繋がります。そして第三として、頻繁に意思疎通を図ることで理解と更に友情も深まると私達は信じております。このようにして私達は「平和の架け橋」を築き、私達の活動を通してより良い未来を構築したいと望んでおります。

 

2.太平洋戦争中の日本国内の捕虜収容所について | 笹本妙子(POW研究会)

皆さん、こんにちは。私は笹本妙子と申します。私は日本国内にあっ た捕虜収容所について約 20 年調査を続けています。
太平洋戦争中、日本軍は約 35 万人の連合軍兵士を捕虜としましたが、そのうち占領地のアジア人兵士は日本軍への忠誠を誓わせた上で解放したため、実際に捕虜として抑留されたのは欧米人兵士約 14 万人でした。彼らは占領地で日本軍が使用する鉄道や道路、飛行場などの建設作業に従事させられましたが、皆さんもご存じのように、その生活は大変過酷なものでした。

一方、日本国内では成年男子がみな戦場に送られ、深刻な労働力不足になっていたため、その穴埋めとして、捕虜 14 万人のうち約 36,000 人が日本本土に送られました。このうち約 7,840 人がオランダ人でした。日本国内には 130 か所の収容所が設置され、捕虜たちは炭鉱、金属鉱山、造船所、工場、港などで使役されました。日本での生活も非常に厳しく、終戦までに約 3,500 人が死亡しました。このうちオランダ人は約 860 人でした。
オランダ人が 1 人でもいた収容所を数えると 50 か所以上になりますが、特にオランダ人が多かったのは九州の炭鉱や東北の鉱山などの収容所でした。ジャワからシンガポールを経由して来た人たちもいれば、泰緬鉄道の建設工事終了後に送られてきた人たちもいます。

アメリカやイギリスやオーストラリアなどの捕虜に比べると、オランダ人は少し特殊な位置にあったように見えます。それはインドネシア系の人たちが多かったからです。日本人と同じアジアの血を引いているということで彼らに親近感を持つ日本人もいました。ある元監視員は「オランダ人は素直でおとなしかったので、よく私の家に連れてきて、畑仕事を手伝ってもらい、その代わりにいろいろな食べ物を分けてあげた」と語っていました。

これから、オランダ人がいたいくつかの収容所について、その生活状況や様々なエピソードをご紹介したいと思います。

 

まず、九州の炭鉱地帯にあった水巻(みずまき)収容所です。別名「折尾(おりお)収容所」とも呼ばれ、オランダ人が最も多く収容されていた収容所でした。
水巻収容所は1943 年4 月に開設され、収容された捕虜は約 1,200 人、 そのうち 800 人以上がオランダ人でした。捕虜の大半は炭鉱で使役され、地底深い坑内で石炭の掘削や採炭、運搬などの作業に従事しました。大変な重労働でしたが、病気になっても容赦なく仕事に出されました。坑内は十分な安全対策が施されておらず、落盤事故などによる死傷者も沢山出ました。収容所の生活は、他の多くの収容所と同様、過酷なものでした。食糧も医薬品も乏しく、冬でも暖房はなく、日本人による暴力にも悩まされました。その結果、終戦までに 74 人もの捕虜が死亡しました。このうち 60 人がオランダ人でした。脱走を図って銃殺されたオーストラリア人もいます。
終戦直後、炭鉱会社は進駐軍の心証をよくするため、亡くなった捕虜のために立派な「十字架の塔」を建てました。しかし捕虜たちの遺骨はここに入ることはなく、オランダ人とアメリカ人の遺骨はそれぞれの母国に持ち帰られ、イギリス人やオーストラリア人など英連邦の人たちの遺骨は横浜の英連邦墓地に埋葬されました。

 

「十字架の塔」はそれから長い間放置され、荒れ放題になっていましたが、1985 年、この収容所にいたオランダ人、ドルフ·ウィンクラーさんが水巻を再訪しました。彼は藪の中に埋もれていた「十字架の塔」を見つけ、異郷で無念の死を遂げた仲間たちを追悼するため、この「十字架の塔」を整備したいと訴えました。その話を聞いた地元住民·黒河博(くろかわ·ひろし)さんは、子ども時代に哀れな捕虜の姿を見ていた経験から、ウィンクラーさんの思いに応えようと、「十字架の墓標·平和と文化を育む会」を組織し、十字架の塔の掃除を始めました。そして1987 年、きれいに修復されたこの塔に水巻で亡くなったオランダ人の名前を刻んだ銅版がはめられました。さらに1989 年には、日本で亡くなったオランダ人全員の名前を刻んだ銅版もはめられ、塔の周囲にはオランダの小学生たちから届いたチューリップが植えられました。水巻の小中学校の生徒たちもこの塔の清掃活動を始め、収容所の歴史を学ぶようになりました。さらに、水巻の生徒たちとウィンクラーさん の住むノールドオストポルダーの生徒たちとの交流も始まりました。毎年、日本政府の招聘でオランダの戦争犠牲者の方々が来日した折には、必ず水巻を訪ね、子どもたちや町の人々と温かな交流が行われています。

 

 

 

次に、北日本の釜石市にあった釜石収容所についてお話します。戦犯になった収容所長とその孫娘の話です。
釜石は 2011 年 3 月の大津波で壊滅的な被害を受けた町ですが、ここには日本でも有数の大きな製鉄所がありました。その製鉄所で捕虜を働かせるために、1943 年 11 月に収容所が設置され、ジャワから移送されたオランダ人 200 人が収容されました。先任将校はシテンヘーハ中尉でした。捕虜たちは製鉄所で鉱石や石灰岩などの積み込み、旋盤、溶接、機械修理などの作業に従事しました。しかし、到着から 3 か月も経たないうちに 16 人もの捕虜が死亡しました。死因の大半は肺炎でした。彼らは到着時点で既に弱っていた上に、熱帯のジャワから寒い日本に来て、体が適応できなかったのでしょう。病気を治すに必要な食べ物も薬も不足していました。そこで 2 代目所長の稲木誠(いなき·まこと)少尉は、捕虜たちにできるだけ栄養を取らせるよう力を尽くしました。部下の捕虜に対する暴力は厳しく諌めました。その結果、捕虜たちの健康は次第に回復し、平均体重は北日本の収容所の中でトップとなりました。シテンヘーハ中尉からは「釜石収容所は日本一だ」と褒められました。
1945 年に入ると大都市では空襲が激しくなり、5 月には首都圏から 200 人の捕虜が釜石に疎開してきました。ところが、7 月 13 日と 8 月 9 日、釜石沖に現れた米英艦隊の艦砲射撃によって釜石は壊滅的な被害を受け、多数の市民が死亡しました。海岸近くにあった収容所も全壊し、捕虜 32 人が犠牲になりました。
終戦後、稲木所長は戦犯裁判にかけられ、捕虜虐待の罪で 7 年の判決を受けました。彼は、捕虜を公正に扱おうとあれほど努力した自分がなぜ罪に問われなければならないのかと憤り、煩悶しながら、刑に服しました。出所後、彼は新聞記者となり、それらの体験を何冊かの本に著しました。
戦後 30 年経ったある日、釜石市役所宛てに、釜石収容所の捕虜だったフックさんというオランダ人から手紙が届き、稲木氏に転送されてきました。その手紙には「釜石収容所の取り扱いは良かった。釜石市民にも親切にしてもらった」と書かれていました。それは稲木氏にとって神の福音のように思われ、長年の鬱屈からようやく解放されました。稲木氏とフックさんはそれから 10 年余り、お互いに亡くなるまで文通を続けました。
稲木氏の孫娘、小暮聡子さんは、高校生の頃、祖父の本を読んでとてもショックを受けました。捕虜のために力を尽くした祖父がなぜ戦犯に問われなければならなかったのか、釜石を無差別に艦砲射撃した連合軍こそジュネーブ条約に違反しているのではないかと。戦争とは一体何だろうと、彼女はそれを学ぶために大学の法学部に進学し、釜石収容所のことも調べ始めました。
そして、ある人の紹介で私に連絡してきました。私は彼女を POW 研究会に誘い、アメリカで行われた元捕虜の大会にも誘いました。彼女は元捕虜たちの体験記を読み、彼らの生の声に接する中で、捕虜たちの実態を知るようになりました。祖父自身は精一杯の努力をしたかもしれないけれど、日本全体として捕虜を過酷に扱ったことは否定しようのない事実だと気が付きました。そして、捕虜たちはもちろんのこと、祖父もある意味で戦争の犠牲者であり、このような悲劇をもたらす戦争は絶対に起こしてはならないと強く思うようになりました。
彼女は今、ニューズウィーク誌の編集者として、戦争と平和の問題についての記事を発信しています。2、3 年前、彼女はオランダのフックさんの遺族やアメリカの元捕虜の家を訪ね、彼らにとても温かく迎えられたとのことです。

次に東京近郊の工場地帯にあった東京第 14 分所についてお話します。この収容所は 1943 年 12 月末に開設され、オランダ人、イギリス人、オーストラリア人、アメリカ人など約 200 人が収容されていました。捕虜たちは東芝電気工場で使役されました。
ここの生活も大変過酷なものでした。オーストラリア人捕虜のラムジーさんは、悪名高い泰緬鉄道や日本に移送される途中でヘルシップの沈没を生き延びてきた人ですが、数年前に来日した時、捕虜生活で一番つらかったのは東京第 14 分所だったと語っていました。

収容所の場所は 4 回も変わりました。そのうち 2 か所が空襲で焼失しました。1945 年 4 月の空襲の時には、オランダ人捕虜の van Merode が死亡しました。日本軍作成の死亡者名簿には、彼の死因は「爆死」と書かれていますが、戦後、進駐軍が調査した報告書には、彼は空襲のドサクサの中で日本人軍曹に斬り殺されたと書かれています。 van Merode は足が不自由だったので、空襲で避難するときに足手まといになったのかもしれません。
3 番目の収容所は東芝工場内に設置されました。ところがこの収容所も 1945 年 7 月 13 日の空襲で焼失してしまったのです。そして 29 人もの捕虜が死亡しました。このうち 22 人がオランダ人でした。

 

 

4 番目の収容所は 1945 年 7 月末、住宅地の中に建設されました。収容所の隣の家に容子という 16 歳の少女が住んでいました。彼女は音楽学校進学を目指して、毎日ピアノの練習に励んでいました。ある日、 容子がふと窓の外をみると、収容所の屋根の上で 1 人の捕虜が容子のピアノに耳を傾けていました。翌日から、屋根の上の捕虜は2 人になり、3 人になり、次第に数が増えて、ついに 20 人ほどになりました。 やがて戦争が終わり、米軍機から収容所に救援物資が投下されるようになりました。

そして 8 月 30 日、捕虜たちの帰国の日がやってきました。20 人ほどの捕虜が沢山の荷物を担いで容子の家を訪ねてきました。彼らは容子に「ピアノをありがとう。心を癒されました」と言って荷物を渡しました。缶詰やタバコや砂糖やチョコレートなど、日本人とっては夢のような贈り物でした。彼らは容子の両親がもてなしたお茶を楽しむと、 迎えに来たバスに乗り、手を振りながら去っていきました。

容子の赤い手帳には何人かの捕虜の名前と住所が残されていました。3 年前、彼女がイギリスの新聞社を通じて彼らを探してもらうと、2 人の捕虜の遺族が見つかり、今、容子はその1人と文通を続けています。捕虜の中には、とてもハンサムなインドネシア系オランダ人がいたそうですが、その人の消息は分かりません。捕虜たちを慰めたピアノは、今も容子の家で美しい音色を奏でています。

 

 

 

九州にある長崎はオランダと縁の深い街です。17 世紀半ばから 19 世紀半ばまで、日本が鎖国をしていた時代、長崎の出島を通して唯一交易を許されたのがオランダでした。当時の日本は長崎を通してオランダとつながり、世界とつながっていたのです。

戦中、その長崎に 2 つの捕虜収容所がありました。1 つは爆心地の近くにあった福岡第 14 分所、もう1 つは郊外にあった福岡第 2 分所で、どちらもオランダ人が過半数を占めていました。
第14 分所は 1943 年4 月に開設され、ピーク時には500 人の捕虜が収容されていました。彼らは三菱造船所で使役されていましたが、病気や労働事故で 100 人以上が死亡しました。さらに、1945 年 8 月 9 日の原爆でこの収容所は全壊し、8 人が死亡しました。このうち 7 人がオランダ人でした。辛うじて生き延びた人たちも、戦後、被爆による様々な後遺症に悩まされたことでしょう。そのうち何人かが日本政府より被爆者手帳を交付されましたが、海外在住のため実質的な医療援助を受けられない人が大半でした。
ワーレルにお住いのウィリー·ブッヘルさんは 2014 年に被爆者手帳を取得し、それをきっかけに 3 人のお嬢さんと共に長崎を訪問しました。長崎の市民グループによって盛大な歓迎行事が行われ、私たち POW 研究会も様々な形で協力しました。ブッヘルさんはその後、日本政府に対し慰謝料請求の訴訟を起こしました。これは、海外在住を理由に被爆者としての援護を受けられなかったことに対する慰謝料ですが、彼は金銭的な理由ではなく、在外被爆者全体の権利向上のために訴訟を起こしたのです。そして今年 3 月、ブッヘルさんと日本政府との間で和解が成立し、規定の慰謝料が支払われました。元捕虜に慰謝料が支払われたのは初めてで、大変画期的なことでした。ところが彼は、この慰謝料を日本の平和活動グループに寄付することを決め、その1 つに私たちPOW 研究会も加えてくださったのです。捕虜として被爆者として、言語を絶する体験をしたにもかかわらず、日本人に対してこのような配慮をしてくださったブッヘルさんの寛大で尊いお志に、私たちは深く心を打たれ、感謝しました。

長崎のもう1 つの収容所、福岡第2 分所については既に田村佳子さんから説明がありましたので、私からは省略します。

日本国内にあった 130 か所の捕虜収容所の 1 つ 1 つに様々な歴史が秘められています。私はこれからもその歴史を掘り起し、次世代に伝えていきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

 

3.海南島の蘭印軍捕虜とオーストラリア人捕虜』 | 西里扶甬子(POW研究会)

こちらからプレゼンテーションをダウンロードしていただけます(英語のみ): |

 

4.日本国内に抑留されたオランダ民間人抑留者 | 小宮まゆみ(POW研究会)

(はじめに)
私はPOW研究会のメンバーで小宮まゆみです。このような機会を与えられ、お話させていただけることを感謝しています。私は第2次世界大戦中敵国人として日本国内に抑留された、連合国側民間人について研究しています。本日は日本国内に抑留されたオランダ民間人についてお話します。
第2次世界大戦中日本軍が占領したジャワでは、約10万人のオランダ民間人が抑留されました。この数は膨大であり、現在も抑留を体験された多くのオランダ人やそのご子孫は、恐らくいまだその過酷な扱いを憎んでいることと思います。そしてその痛ましい経験はオランダでは鮮明に記憶されているに違いありません。しかしながら、

日本国内の抑留所にもオランダ人が抑留され、同じように痛ましい体験をしたことは、あまり知られていないのではないかと思います。
日本で抑留されたオランダ民間人は、3つのグループに分けることができます。1つ目は戦前から日本に在住していたオランダ人です。2つ目はジャワ海で拿捕され日本に連行されたオランダ病院船の乗務員たち。3つ目はジャワから連行された電気技術者とその家族たちです。彼らがいつから、どこに抑留され、どのような生活を送ったか、それぞれについて少し詳しくお話したいと思います。

(1.戦前から日本に在住していたオランダ人)
戦争が始まって最初に抑留されたのは、戦前から日本に在住していたオランダ人たちです。日本に住みついたオランダ人について少しお話させて下さい。日本では17世紀から徳川幕府が外国の影響を排除する鎖国政策をとってきました。その間オランダは唯一西欧諸国の中で日本との貿易が許された国でした。そのため19世紀後半に日本が開国して以降も、オランダ人は政府機関や高等教育の教師、技術者、また貿易商や実業家などとして日本で働き、日本の近代化に貢献しました。

しかし1930年代になり日本が中国の一部を侵略すると、日本と諸外国、特に英米との関係は悪化しました。戦争の危険が迫る中で日本在住のオランダ人の多くはオランダに帰国し、また他の国へ去っていきましたは。しかし一部のオランダ人は様々な理由から日本に留まりました。1941年12月太平洋戦争勃発の前、日本国内に在住したオランダ人は109名でした。これは米国人1044名、英国人690名よりずっと少なく、開戦によって敵国人とされた外国人総数2138名のうち5%程度でした。(注1)

1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾でアメリカ合衆国軍に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争が始まりました。米英は直ちに日本に対し宣戦布告を行い、オランダも12月10日日本に対し宣戦布告を行いました。日本とオランダは互いに敵国となったのです。戦争の勃発により、たくさんの外国人居留者たちが敵国人とみなされました。その結果、日本国内に在住する外国人の抑留が始まりました。内務省の方針は、成人男子は抑留所に抑留し、女性、子ども、老人は家に留まらせて厳しい警察の監視下に置くというものでした。
1941年12月末の時点で、日本国内に抑留された外国人は全部で342名、そのうちオランダ人は23名でした。抑留所は外国人が住む県内に設けられたので、この23名は居住していた兵庫県に8名、東京都に5名、長崎県に4名、神奈川県に3名、青森、滋賀、熊本に各1名抑留されました。(注2)

1941年12月時点における日本在住の敵国人および抑留者数

日本在住の敵国人 在住者数 抑留者数
アメリカ人 1044 93
イギリス人 690 106
カナダ人 188 67
オランダ人 109 23
オーストラリア人 41 1
ベルギー人 38 16
ノルウェー人 19 1
ギリシア人 9 14
 その他の国籍 18
合計 2138 342

神奈川県に抑留されたヘルマン・ドンカーカーチス氏は、19世紀後半に長崎出島の最後のオランダ商館長として赴任し、1855年最初の日蘭の貿易条約に調印した、ヤン・ヘンドリック・ドンケルクルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius)の孫でした。(注3)戦前彼は神奈川県で乳製品の工場を経営していましたが、戦争が始まると直ちに特高警察に捕えられ、抑留されました。その抑留所は、横浜市の競馬場の騎手宿舎でした。日本を愛していた彼にはショックでした。

J.H.ドンケルクルティウス
ヘルマン・ドンカ―カーチスと家族

民間人抑留の一方で、スパイ容疑により全国で7名のオランダ人が検挙されました。またオランダ外交官18名が公使館や領事館に軟禁されました。約60名の女性や高齢者や子どもたちは自宅に軟禁されました。彼らは夫や父から引き離されて、強い不安のもとで生活を送りました。
1942年7月、戦争のため敵国人と見なされたヨーロッパ人を本国に送り返す「日英交換船」が日本を出航しました。この交換船「龍田丸」に乗船して、41名のオランダ人が帰国しました。そのうち14名は敵国人抑留所に収容されていた男性たちでした。しかしながら、資産や日本人家族と離れることができなかったオランダ人の中には、この交換船に乗らず残留した人もいました。ヘルマン・ドンカーカーチス氏もその1人でした。
1942年9月には女性についての抑留方針が変わり、教師・宣教師・修道女などの女性に対する抑留が開始されました。その結果2名のオランダ人修道女が東京の抑留所に収容されました。その後1943年12月には、抑留方針はますます厳しくなりました。それによって横浜市などに残留していた外国人女性や子ども高齢者が、新たに神奈川県厚木市に開設された抑留所に収容されました。3名の高齢オランダ人女性がそこに抑留されましたが、そのうち2名はヘルマン・ドンカーカーチス氏の姉たちでした。

北足柄村の抑留所

戦争の初期には抑留所の食事もそれほど悪くはありませんでした。しかし1943年頃から太平洋の戦場で日本軍は劣勢となり、食料や物資の不足が深刻になりました。そのため抑留所の食料は乏しく粗末なものになりました。その上日本本土が空襲にさらされるようになりました。その結果ドンカ―カーチス氏のいた神奈川県の抑留所は、横浜市内から遠く離れた箱根山のふもとの山間部である、北足柄村(現南足柄市)に移転しました。彼の姉たちがいた厚木の抑留所も、東北地方の秋田県に移転しました。

食料や医療不足から多くの抑留者が病気になり、亡くなる人も出てきました。終戦までに神奈川県北足柄村の抑留所では、53名の抑留者中5名が亡くなりました。また厚木(後に秋田に移転)の抑留所では、33名の抑留者中6名が亡くなりました。幸い抑留されていたオランダ人に死亡者はありませんでしたが、生き残った人にとっても大変厳しい生活だったことは確かです。1945年8月15日終戦の時点で、日本に残留していた在日オランダ人は約60名、そのうち抑留されていたのは11名でした。

オプテンノールト号

(2.拿捕されたオランダ病院船の乗務員)
次に抑留されたグループは、オランダの病院船オプテンノール号の乗務員たち79名でした。(注4)1942年2月27日のジャワ海海戦で、連合軍海軍は日本海軍に手ひどい敗北をしました。この時オプテンノール号は日本海軍に拿捕され、乗組員は降伏しました。船は日本に回航され、1942年12月横浜に着きました。それから専門職のオランダ人42名は、広島県の三次市へ送られました。彼らはタウジンハ船長以下18名の乗組員、7名の医師、17名の看護師で構成されていました。2名のインドネシア人機関士も、オランダ人と一緒に三次市へ送られました。彼らは全員そこに抑留されました。一方同じ船の35名のインドネシア人水夫は、宮城県仙台市に送られ、そこで抑留されました。
三次市で抑留所となった建物は、以前カナダ人宣教師が設立した幼稚園の建物でした。警備は軍隊では無く日本の警察によって行われ、虐待や強制労働はありませんでした。しかし夏服のままやってきた彼らは、日本の寒さに悩まされました。暖房が無いことや、食料の不足が彼らを苦しめました。船長の記録によると、終戦までに男性は体重が平均26キロ、女性は10.6キロも減少したとされます。
その間仙台市では、インドネシア人水夫の抑留所に、カトリック元寺小路教会が当てられました。ここでトンポという名のインドネシア人水夫が病気で亡くなりました。1945年7月10日、この教会はアメリカ軍による空襲で焼失しました。インドネシア人たちは恐怖の中を緊急避難して別な教会に移動させられました。空襲による犠牲者がいなかったのは幸いでした。

終戦後彼らオランダ人とインドネシア人は9月14日に日本を発ち、マニラ経由でバタビアへ帰りました。

(3.ジャワから連行された技術者とその家族)
3つめのグループは、ジャワで捕えられ、日本に連行された電気技術者とその家族たちです。その数は女性や子どもを含め22名でした。抑留者の一人アニー・レルス氏はその体験を「アニー・レルス‐フィッサーの日本抑留日記」(注5)に記しています。
ジャワ島のバンドンにあるオランダ国立ラジオ研究所では、高度な教育を受けた電気技術者たちが働いていました。W・アイントホーフェン博士は研究所の所長でした。1942年3月にジャワを日本軍が侵略したときに、電気技術者たちは研究所を破壊して降伏しました。日本軍はその後もしばらくは彼らに無線電信局の仕事を続けさせました。ところが1943年11月、アイントホーフェン氏を含む5名の電気技術者は、家族(6人の女性と11人の子ども)とともに、日本へ送られることになりました。彼らは1944年1月バタビアを出発し、シンガポールを経由して長い航海の末、3月25日に下関に到着しました。そこから東京へ送られ、元チリ公使館へ収容されました。ここから技術者たちは川崎市生田の住友通信工業の研究所に通勤させられました。それは日本陸軍の命令でした。陸軍は彼等の高度な技術をレーダーシステム開発のために利用しようとしたのです。1945年2月インフルエンザが流行し、このグループのリーダーだったアイントホーフェン氏は肺炎のため死亡しました。
3月10日の東京大空襲以降東京は度々空襲にみまわれるようになり、一行は5月に愛知県の名古屋市郊外の石野村(現:豊田市)にある広澤寺という寺院に疎開させられ、そこで抑留されました。彼らは寺の本堂で共同生活をさせられましたが、そこには椅子もベッドもありませんでした。
ここではまともな食事が与えられず、雑穀や野菜を大鍋で煮た雑炊

 

抑留所となった広澤寺

や、時々雑穀のかわりに小麦粉が加えられたので、それはまるで糊(のり)のような味でした。オランダ人たちは、栄養を補うために見つけしだい蛇や雑草を食べました。アニー・レルスの日記によると、娘のポーリン(当時12歳)は涙を流し、「ああお母さん、とてもつらいの。ここでは本当に少ししか食べ物をもらえないから、私はいつもお腹が空いていて、体が震えるの・・・」と言いました。それでも母親たちは、手作りのおもちゃで子どもたちの気を紛らわし、サツマイモや野草を持ち寄って誕生日を祝いました。8月15日の終戦以降、スウェーデン大使館職員の世話によって彼らは名古屋のホテルに移り、9月4日に名古屋を発ってマニラ経由でオーストラリアに向かいました。

(まとめ)

このように延べ130名ほどのオランダ人が戦争中日本国内に抑留されました。抑留中の死亡者は、第2グループのインドネシア人水夫と、第3グループのオランダ人技術者の計2名で、ジャワにおける犠牲者に比べればずっと少ない数です。それでも私は日本政府がオランダ人を苦しめたことを大変遺憾に思います。第3グループのオランダ人の体験は特にユニークで、子どもたちを守り通した母親たちの強さと賢さは賞賛すべきものだと思います。私は彼等の体験を、日本人女性によって日本語に訳された「アニーの日本抑留日記」を読んで初めて知りました。この日記原本とその日本語訳は出版されていませんが、このNIODに収められていると聞いています。貴重な記録を保管し公開しているNIODの素晴らしい活動に、改めて敬意を表します。
ご清聴ありがとうございました。

注1 内務省警保局 『外事警察概況』1941年による。
在日外国人抑留の全般的な状況については、小宮まゆみ『敵国人抑留』2009年による。
注2 内務省警保局『外事月報』1941年12月分による。
注3 ドンカ―カーチス氏については、佐藤彰芳「家族の肖像」12雑誌『横濱』2008年春号による。
注4 オプテンノール号と拿捕された乗組員については、三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか』2001年による。
注5 A.Lels-Visser著、A.P.Greeven-Lels編 戸田系子訳「アニーの日本抑留日記」1998年未出版。

5.NIODに所蔵されている元捕虜による記録・回想録 | エヴェリーン・ブッヘイム(NIOD)

(原稿なし)

 

6.ディスカッション | 司会:ペーター・キッピー(NIOD)

(原稿なし)

 

7.閉会のことば | タンゲナ鈴木由香里(日蘭イ対話の会)

皆様、今日はオランダNGO財団、日本-オランダ-インドネシア対話の会主催のシンポジウムにようこそいらして下さいました。私はこの会の代表をつとてめておりますタンゲナ鈴木由香里と申します。

このシンポジウムを通して大変優秀な五人の研究者をご紹介できましたことをとても嬉しくまた光栄に思っております。

日本のPOW研究会の方々をオランダにお呼びする可能性が出てきてから、私にはこのようなシンポジウムを開催したいという夢が与えられました。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、日蘭イ対話の会はこの三つの国の人々がお互いにより良き関係を築けるよう和解を推進する会でございます。POW研究会の皆様はこれまでに日本で非常に多くの元POW(戦争捕虜)の方々を助けサポートしてこられており、この会の方たちをオランダに紹介することは和解推進を掲げた私達の任務に他ならないと強く思いました。

私は、和解とは継続的な改善を進めるために次々と新しいヴィジョンを持つことだと信じております。和解とは、一回こっきりの一時的なものではなく、よりよい世界のために働きたいと願う心を奮い立たせるものだと信じるからです。ですから、より良き相互理解と過去の間違いを繰り返さないためにも、このシンポジウムをオランダと日本の研究者の方々が今後さらに共に働く機会としていただけたら大変嬉しいです。

このシンポジウムは、NIODのエヴェリーンさんとキッピーさんのご協力なしには開催が不可能でした。お二人のおかげで、この会はとても充実したものとなりました。本当にありがとうございました。また、この素晴らしい場所をご提供くださり心から感謝申し上げます。このこと自体、日本の研究者の方々に暖かな和解の手を差し伸べてくださった美しいお手本のように思えます。

今日このプログラムが開催できたことを本当に有難く思っておりますが、明日開催されます私たちの対話の会のカンファレンスにも皆様、どうぞ是非ご参加くださいますよう、心からお願い申し上げます。

最後になりましたが、ご自分たちの研究をお分かちしてくださるために、はるばる日本からいらして下さった四人の皆様に暖かい拍手をお願いします。

福岡捕虜収容所第二分所のレポートと本を販売いたしますので、ご興味がある方は是非どうぞ。

下の会でお飲み物を用意しておりますので、私たちのさらなる友情のために是非乾杯いたしましょう。皆様が気持ちよく家路につかれますことを願ってます。

どうもありがとうございました。