和解の持つ力

2014年10月11日 フォーブルフ

プログラム

  1. 開会の言葉
  2. ウィム・リンダイヤー氏の足跡をたどって
  3. きわめて重要なあの時
  4. 一人芝居ではない、相互関係としての赦しと和解
  5. 精神力の勝利
  6. 閉会の言葉

1. 開会の言葉 | ロブ・シプケンス

みなさま、おはようございます。

私はロブ・シプケンスと申します。私は、この四月に日蘭イ対話の会の世話人会を補強してくれないかと頼まれました。ですから、新米がこのように第17回対話の会の開会の辞を述べさせていただくのをとても光栄に思っています。

先ず最初に、本日のプログラムについて短く話させていただきます。

第一回の対話の会は2000年に開かれました。ウィム・リンダイヤさんや村岡崇光教授たちが対話の会の基礎を作られました。しかし、昨年2013年、長期にわたる闘病生活の後、ウィムは天に召されてしまいました。今回のカンファレンスでは、全てがどういう風に始まったのかについて考えてみたいと思います。メリンダ・バーンハートさんは、ウィムの生涯について書いた本について話されます。ウィムの奥さん、アダ・リンダイヤさんは彼の人生の中の決定的な瞬間について、知らせてくださいます。その後、対話の会の創始者の1人、村岡教授が彼自身のこのテーマとの係わり合いとその動機について説明してくださいます。彼が定年後、東南アジアのかつて日本が侵略した国々の大学で無料講座を提供していらっしゃるのはお知らせする価値のあることでしょう。そして最後にパティ・ビュッヘル・ステーンベルヘンさんとアンドレ・スフラムさんは長崎の捕虜収容所に入れられていたお父さんのことについて話されます。

「和解の持つ力」が今回の対話の会のテーマです。

この会は次のことを目的としています。

  • 直接戦争に関わっていないにしても、個人的な物語を交換する場。
  • お互いの物語や体験談を尊敬を持ってゆっくり聞き合うための場。
  • お互いの経験、感情、立場に対して理解を示す雰囲気が作り出される場。

つまり、敬意を持ち合いながら心を開いて意見を交換する場が、人々の間に生まれることを目的としています。そして全ては、和解と平和にたどりつけるという歩み出しの基盤が形作られるためであるという目的であります。

そ二つの話をさせていただきたく思います。聞くということと和解することについてです。

先日ロッテルダムで開かれた、東インド8月15日記念式典のスピーチで、インディッシュのドキュメンタリー映画作家のへティ・ナーイケンス‐レーテル・ヘルムリッヒ氏はインディッシュの沈黙について語りました。皆様の多くの方たちはよくご存知かと思いますが、ご存じない方もいらっしゃるでしょう。そして、この沈黙は多くの孤立を生み出すと言うのです。ヘッティはこの悪名高い沈黙を直ちに破るようアピールしました。

私は、戦争犠牲者の孫また子供としてこの沈黙と共に成長し養育されてきました。私は、1946年に生まれた戦争の落とし子です。日本人の父親を持つインディッシュの子供です。もっとはっきりいえば、インディッシュの母親と日本軍人の子供です。自分の出生との葛藤とアイデンティティ探しの中で、私はこの沈黙に今までずっと、実に今日も向き合わされています。

長い間の怒り、痛み、恥、心の中の葛藤を通して、あたかも奇跡が起こったように、私はようやく自分の中に自分自身と対話を持つ場を見つけることに成功しました。この発見は私にとって啓示であったと同時に、戦いの始まりでした。つまり、全ての人は、自分自身が語ろうとすることに注意を注いで、深く聴くことを学はなければならないと言うことに、ようやく気がついたからでした。自分自身の語ることに耳を傾けることなく、どうやって他者の話しをよく聞くことができるのでしょう。そして、一体、どうやってそう言う聞き方を学ぶことができるのでしょうか?

多分最初は練習が必要でしょう。偏見とか、さらに相手に対する断罪の気持ちなどをかなぐり捨てて、その人に対する尊敬の思いとその人に注目して話しを聞くことを学ばなければなりません。聞きたいという真剣な思いがあって初めて、他者の話していることが理解できるようになります。そうなると、そこにお互いの繋がりが生まれ、対話をすることのできる場と、さらに和解のチャンスが生まれるのです。

聞く方法を学ぶなかで、セントルム45のウェプスター氏が講演でされた話をお伝えします。

ハシディーム派(ユダヤ教)の古い話

主(しゅ)と話したラビ(教師)――――地獄と天国について

「地獄を見せてあげよう」と主がおっしゃった。

そしてそのラビはとても大きな丸いテーブルが真ん中にある部屋にラビを連れて行った。そこにいた人たちは、お腹がすいて失望の中にいた。テーブルの真ん中に全員に十分な大きなフッツポット(食事)の入った鍋が置いてあった。それはなんともいい匂いがして、ラビは口の中によだれがあふれてくるほどだった。テーブルの周りの人たちはやけに柄の長いスプーンを手にしていた。彼らは、そのスプーンで鍋から食事を掬うことができるのだが、その柄が腕より長いので口に持っていけないのだった。この人たちにとって、これが如何にひどいことかをラビは見たのでした。

 「それでは今度は天国を見せてあげよう」と主がおっしゃった。

そして、彼らは別の部屋に入っていった。そこにはさっきと同じテーブルと同じフッツポットの鍋が置いてあった。人々は、先ほどと同じように長い柄のスプーンを手にしていたが、全員、よく肥え、血色もよく笑いながら話していた。

ラビは、初め、さっぱり意味が分からなかった。

「簡単なことだよ」と主がおっしゃった。「だけど、技能が要るのだよ。」

ご覧、彼らはお互いに食べさせることを学んだのだよ」

このたとえ話が私にどんな意味を持ったかご説明します。

私は、長く孤独で葛藤に満ちた道を歩んだ後、私と同じような状況で生まれた人たちとそのグループに出会いました。そこで私は別の仲間の話を何度も何度も聞くことを学びました。その結果、相手は話をよく聞いてもらったと感じてくれるようになっていきました。その人に心を開いて注目することは、魂の塗り薬なのです

そして、他の仲間達も私の話を何度も聞いてくれました。私たちは、長期に渡る孤立感や恥、悲しみ、そしてそれ以外の全ての痛みを伴う感情を、お互いに認め合うことを学びました。しかもその不愉快な体験を基に、自分達が一人ではないという自覚が生まれました。それはたいていの場合、新しいプロセスの始まりです。

人々は自分のスプーンが長すぎると自覚します。・・・そしてその自分のスプーンにばかり気を取られます。

人は、往々にして、自分自身のことを話す行為を通して、自分が犠牲者だという役割から解放されていくのです。そのような方法を通して、そこに存在した孤立感の壁が取り除かれていくのです。お互いの話やお互いのことを思いやり、特に相手には一体何が起こったのだろうかと関心を持って聞くことが重要です。

お互いにそのスプーンで養うことを学ぶ。。。。自分への注目ばかりを求める代わりに

人は、段階的に他者からの話しの聞き方を学びます。そのようにして、私たちは自分の記憶に新しいスペースを作って、その互いの経験や感情を刷り込んでいくのを助け合うのです。新しいスペースが必要です。それは魂についた傷は決して消えないからです。しかしその傷とのよりよい関わり方を私たちは学んでいくのです。その長いプロセスの中で、私は自分自身をあるがままに確認し受け入れることができました。そして、ようやく自分自身と和解できたのでした。

私の個人的な話はこれで終わりです。

本日、皆さまが偏見を持たず、思いやりを持って、お互いの話を聞き合おうと切に願っていらっしゃり、その結果、実りあるカンファレンスをお過ごしくださるよう、心から願っております。

ご清聴ありがとうございました。

(翻訳:タンゲナ鈴木由香里)

 

2. ウィム・リンダイヤー氏の足跡をたどって  |  メリンダ・バーンハート

皆さんこんにちは、今日は、親愛なる友人故ウィム・リンダイヤー氏の足跡を辿る私個人の旅についてお伝えする機会を与えていただき、ありがとうございます。対話の会代表のタンゲナ由香里さん及び対話の会会員の皆さんに、お礼申し上げます。ウィムとその家族についての本の執筆に携わる事は私にとって非常に光栄でした。

話を始めるにあたって、リンダイヤー家の太平洋戦争時及び戦後の希有な経緯についての背景から話してほしいと言われました。そこで一番いいのは、一枚の写真をお見せする事でしょう。この写真は1942年5月、当時のオランダ領東インド、現在インドネシアの、ジャワ島バンドンで撮影されました。ウィムの父親は化学教授でしたが、その町の日本軍強制収容所に捕虜として捕えられていました。母親のネルはそこにこっそり子供たちを連れ込もうとしたのですが、その時なんとしてでも、子供と一緒の写真を撮っておきたかった。それが、この写真が撮られた理由です。(長男ウィム6歳、ヘルマン4歳半、フレディ、現在はフリッツ3歳、末っ子ヨーケ1歳未満)

夫であり父親であるウィムの元に、その写真は無事に届きました。写真の目的が達せられたといえるでしょう。しかしその後、彼はジャワ島から連れ出され、その10月にはシンガポール経由日本行きの過酷な旅を強いられました。「家族に二度と会えないかもしれない」という不安を抱えながら、彼はその旅行中写真を大事に持ち続けました。そしてその後戦争が終わるまで、彼は本州北東釜石近くの大橋に抑留されましたがその時期も決してその写真を手放さず、ついに1946年1月オランダまで持ち帰ったのです。その写真のそんな長い旅も、状況を考えれば当然と言えるでしょう。

しかし間違いなく驚愕に値するのは、それがこの21世紀の日本に現れた事です。しかも今回は、広く知られる事になりました。(皆さんの中にもご存知の方がいるでしょう。)その写真は文化の境界を越えて移動し再び世に登場しました。まずウィムの父親の収容所日記の表紙として現れ(写真2)、2000年には日本語でみすず書房からその本が発行されました。(現在日本語のみで翻訳出版。)しかしそれだけではありません。同写真及び関連記事は日本の新聞(写真3)に現れ、テレビに取り上げられ、そして最も最近では2005年に釜石の生徒の演劇によってその日記の物語が新たに上演されたのです。

2003年、この写真の日本での再登場がメディアで色々取り上げられるようになったのを知り、私は一体これはなぜなのだろうと己に問いました。この家庭、またウィムと言う人の何が、どんな理由で、この写真が次々と広がり、しかもかつての敵国社会のメディアにまで出現するのか、それを理解するのに、私は自分自身もかなり遠い場所へと旅をする必要を感じました。

ウィムの話の最初の戦争時の部分を、私は1969年にアメリカで、彼と同じ大学にいたときに知りました。ヒットラーに対するディートリッヒ・ボンヘッファーなどのドイツの抵抗運動について討議中、話題がヨーロッパの強制収容所に移りました。そのとき、終始温和で上品なウィムが静かに語り始めました。かつて幼い頃、母親と兄弟姉妹と一緒にジャワ島の強制収容所にいた事があり、その間に母を亡くしたと。私は、その場にいた他のアメリカ人と同様、戦争時のインドネシアの状況についても、彼のオランダ人家族が一体そこで何をしていたかも、全く知りませんでした。そのとき知ったのは、彼の父親が世界恐慌時代、教える仕事を見つけて1935年に夫婦でジャワ島に渡っていた事、日本軍のジャワ島侵略後父が日本軍の強制収容所に入れられた事、そしてその父が、決して投函することが叶わないながら、家族宛の手紙に日々の出来事を書き綴っていた事です。しかしアメリカ人の興味はたいていヨーロッパの戦争の事ですから、話題はその後すぐまたヨーロッパに戻ってしまいました。

しかしその夜の彼の声の中に私は何かとても深いものを感じていました。それで2003年私と夫・ハンクがオランダにウィムとアダを訪ねた時、私はその日記について尋ねました。そこで日記の大まかな英語訳と写真を見ることができたのです。その日記の力強い生の体験談は、はたして私の心を奪いました。それは1942年オランダ軍のジャワ島防衛戦で航空支援もなく銃撃や爆撃のさなかで働いた衛生兵の体験であり、ジャワ島から日本への一ヶ月の船旅の中、最低の備品で病人や瀕死の者の手当てに従事した体験であり、また、本州北東の山中にある鉄鉱石採掘所で病気と重労働を生き延びた三年間の体験でした。これは、家族を心配する切実な思いに心を痛めながらも、自身を冷静に保ち、他を助け続け、酷使される事は口にしても相手への憎しみや恨みを吐くことはしなかった、驚くべき極めて貴重な個人の記録でした。

しかしこの日記を読み通すのは困難な事でした。この日記は収容所で秘密に綴られたもので、たくさんの詳細が省かれているのです。私は夫・ハンクに打ち明けて相談しました。この話は人々がぜひ読むべき。その地理や事情をわかっている日本人だけでなく、私や私のシンシナチの友人のような全く背景を知らない西洋人にも本として読んでほしい。しかし歴史事実や地図の詳細に加えて、ところどころ必要に応じて詳細を埋めてくれる腕のいい執筆者がいなければ、この話は埋もれてしまうと。

そしてウィムと彼の継母、アドリー・リンダイヤー-ファンデルバーンに相談すると、彼らもいい執筆者を探す方向を望みました。それからの一年間、私はたくさんの専門家に相談を持ちかけました。しかし皆、その日記の大きな価値を認めるものの、彼ら自身はすでに他の仕事で手いっぱいでした。そして結局それは私の仕事になったのでした。この仕事の長い道のりを歩んできて今、本当に私の仕事、私のものになったと感じています。

この仕事を始めた時、その重要さに私がちゃんと気がついていたらよかったのにと思います。ですが2004年秋にオランダに来た時、私の目的は単に、ウィムの日記の穴を埋める情報をできるだけたくさんウィムから聞く事、そして亡くなる一日か二日前に彼の母が書き取らせた印象深い別れの手紙の英訳を読む事でした。それで、この特別な家族について語るための準備ができると思っていました。当時、私がその物語をどう見て感じたかをお伝えするためには、私がウィムの母ネルの手紙を読んでいかに同情心に圧倒されたかを話さなければなりません。彼女は夫へのその手紙で、夫と同様、自分たちを捕える者たちへの憎しみを語らず、ただ家族が無事に逃れる事を願い、彼女がいなくなったとしたら決して罪悪感を持たずに「新しい妻」「子供のためのよい母」を持ってくれるよう、夫に言い伝えていました。いまだに私は涙無くしてその手紙を読み通す事ができません。

それで2004年に私が本を書こうとしていた時、私の意識は、ネルとその家族を犠牲者と見る事でいっぱいでした。しかしこれは、執筆者として問題でした。むろん彼らは犠牲者でした。そしてその写真(写真1)は捕われの身で体験した別れと喪失を表わしています。しかし同情心でいっぱいの友人として語る私は、偏見の目で全体を見ていました。頭の中で私はこの犠牲者たちと同化し、重要な客観性を失っていました。全ての日本人を邪悪な侵略者と十把一絡げに見るほど愚かではないつもりだったのに、その家族の犠牲に焦点をおくばかりに、少なくとも戦時中の日本人を私は画一的に敵視してしまっていました。

私の狭量な視野を見直さざるを得なくしたのはウィムの最近の経験談でした。1992年、彼のかつての同僚が殺される事件が起きました。それがウィムの心的外傷後、ストレスの引き金になったのです。彼は戦時中捕われの身だった時と全く同様な悪夢に捕われ苦しみました。これを克服し前に進むため、彼は子供時代の出来事をできるだけ平静に事実として理解するよう意識的な努力を始めました。彼は再度母親の手紙と父親の日記を読み始め、先ほど述べたような、憎しみの感情のなさに衝撃を受けました。そして日記から、父と、収容所の日本人連絡係、岩下博衛との友情について知りました。本を読んだ方々はご存知でしょう。しかしまた彼はオランダで行われる収容所関係者の親睦会にも行き、地図や資料を見て彼の知識と比べました。さらに重要な事は、1995年ウィムは、最後に滞在した収容所のあったジャワ島中央地区での出来事について歴史家が書いたものを読んだのです。これによって彼は木戸真一郎という日本軍少佐とその思いがけない行動を知ったのです。

木戸少佐について彼が読んだのは次のような事でした。日本は1945年9月にシンガポールで降伏したのですが同盟国は10月末までジャワに来ませんでした。この間に、スカルノがインドネシアの独立を宣言。過激な若いインドネシア人たちは収容所にいたヨーロッパ人女性や子供たちを、植民地帝国主義者として攻撃しました。(もちろんこれは、日本人全員が侵略者と見るのと同様の偏見による行為でした。)その10月、5日間に渡る激しい戦いの中、木戸少佐は彼の部隊を導き、なんとかつての抑留者である女性と子供たちをインドネシア人から守ったのです。その折250人ほどの日本兵が殺されたのでした。2003年にウィムがこの話をしてくれたとき、彼の頬には涙が流れ、話す事もままならないほどでした。「何百人もの日本人が死んだのだ、私を逃がすために。」と彼は言いました。彼は既に父と岩下との友情を知っていました。そしてまた木戸少佐の話で彼の心の目はより開かれ、強い仲間意識と共感を彼の中に生んでいました。これこそが、人間として対話と平和を促進する行動を起こす、彼自身の動機になったと、私は思います。

その結果1995年に、彼は日本に旅行をしました。「一度行ったら、、」彼は私に言いました。「途端にまたもう一度行きたくなった。」そして1996年彼は、母親の死のために日本人を憎み続けていた事を、父親のいた大橋村の収容所近くの釜石で、いくつかのグループの日本人たちに対して謝罪したのです。後になってから私は、ウィムが心の目を開いて以降、新しい感情を体験していた事に気がつきました。母を失った彼の悲しみがなくなったのではありません。深刻な喪失の記憶は消えません。彼は母親を決して忘れませんでした。釜石で彼の話を聞いた人たちは、私がシンシナチで聞いたのと同じように、彼の声の中にその悲しみを聞いていた筈です。しかし彼は母の喪失を含めて、新たな気持ちを経験し、同時にそれが、彼を釜石へと導き、心の前進へと導いたのです。彼の話は日本の聴講者に深い共感を与えました。それにより(つづめて言えば)父親の日記は、日本人の依頼で2000年に日本語で発行される事になりました。(その際翻訳や出版社との調整に多大な協力をされたのが、村岡崇光教授でした。)

2004年の訪問が終わりに近づいてきた頃、私は、戦争と、その時の我が国による砲撃の結果、心的外傷を受けた釜石の人たちが、ウィムがした通りの事をしていたと知って驚きました。釜石の人たちは彼らの過去を正しく理解する努力をしました。生徒たちは戦争を生き延びた元日本兵たちにインタビューをしていました。その後生徒と教師たちはリンダイヤー氏の日記を読み、自分たちの町で別の視点の話もあることを学びました。彼らは視野を広げ、抑留者に対する共感をも持ち、その共感がウィムのように彼らをも行動に導いていました。彼らは劇と歌で、喪失と抑留者への共感を表わす物語の舞台を創作し、オランダに送って感想を求めていました。

しかしアメリカに帰ってから、2005年になって、その生徒たちがリンダイヤー氏の日記を完全に再現した新たな劇を制作した事を知って、私の驚きはさらに大きくなりました。そのために彼らは、更に歴史を勉強し、戦争前のジャワ島の状態についてたくさんの質問をオランダに送り情報を集め、戦争捕虜を撮影したドキュメンタリー映画も発見していました。そして学んだ事をまとめて、リンダイヤー氏の話と大橋の抑留者の苦しみを主体とした新しい脚本を作っていたのです。釜石市では、2006年までに、彼らがしたような活動を続行していくための組織も立ち上げていました。

私は、私に与えられた仕事が実は日記に説明を付け加えたり地図を付け足したりする以上の大仕事だったことに気がつき愕然としました。ウィムの母親の別れの手紙と父親の収容所での日記が、彼を、自分の心的外傷に向き合わせ、かつての敵に手を伸ばす事までさせた驚くべき展開は、本格的な歴史物語へとつながりました。そしてこの物語は単にウィムとその家族の話ではなく、釜石の話でもありました。この大きな仕事を遂行するため、私はウィムがしたことをする必要がありました。家族の苦しみから一歩下がって、戦争の事実を私の仕事に関連づける事、そして重要なのは、大橋収容所と大橋・釜石地区のたくさんの話をきちんと見に行く事でした。

この物語は私たちの歴史的な記憶が往々にして創りだす形態を備えているので、その重要性を私は考え続けて来ました。しかし勝者と敗者が存在し、勝者の話が主となりやすい戦争という状況でそれらの話をどう表わすかが難しい事に私は気がつきました。かなり最近まで、日本が凶悪な侵略者であると言うのが、太平洋における第二次世界大戦の主要な見方でした。そしてアメリカ人には、それは私たちの「正しい戦争」であり、私たちが「純粋」であり正義として、悪と戦ったのだとする神話があります。私はそんな単純な分類をするより賢いと思ってはいますが「正しい戦争」というのは私の文化に刷り込まれていて、これが私の視点に影響している事は否めません。

しかしながら、大橋収容所の同盟国(オランダに加えて米英濠加)の記録に、私は固定観念に収まらない人間の行動の記録も見つけました。大橋収容所では手ひどい軍幹部や兵による不当な仕打ちがあり、それを決して正当化する事はできません。それでも、戦争捕虜の話には、ごく通常語られる戦争の記述よりももっと複雑な人間関係があり、同じ人間同士助けあう親切な心が窺えます。

一つ二つそれをお話ししましょう。先ほど述べたように、ジャワ島から日本への船旅は抑留者にとってひどい経験だったのですが、テキサスのベン・ケリーという州兵に関する記録に次のようなものがあってはっとしました。

船の前方には日本人部隊、後方には捕虜が配置されていた。ある夜船が高雄(Formosa, 台湾)に停泊中、空腹の捕虜たちは、甲板に野菜が積まれているのを見た。ケリー氏が戦後のインタビューで語るには「今になって考えると面白い事だが、船の前方に配置されていた日本兵は徐々に後方の捕虜の方に位置を変え始め、後方を占め始めたが彼らは捕虜に対して親切に振舞っていた。(空腹でもあったが。)ある夜、我々は一列に並んだ。そして日本兵がガードになって立ち、浜に人がいないと手を振ってサインを送り野菜を盗ませたのだ。あるいは、捕虜が浜に人がいないのを見て日本兵に手を振ってサインしたこともあった。そこには二者の間に確かな協力関係があった。」

大橋収容所でも似たような友好的な行動が見られました。記録では、日本人の根子という医科軍曹がたくさんの命を救ったらしく、捕虜の記録に感謝の気持ちが記されています。根子軍曹と彼の妻は罰則を受けるリスクを負って闇市で薬を買ったりしていたと思われます。またある親切な護衛兵の事も記されていました。アメリカ兵ジェームス・レイノルドの極秘収容所日記に、この護衛兵が1944年クリスマス前夜にみなに一つずつ配るために200個のみかんを購入していたという記述があります。ただの護衛兵なのに、そんな親切をしてくれた、と彼は書いています。

他にもまだ特筆すべき事があります。戦争後期に至って抑留者が地元の日本人の苦しみに気持ちを沿わせる話が現れてくるのです。1944年初期、東条首相は演説で日本人に、戦争が5年間の長きに渡る事を覚悟するよう伝えていました。それに際してジェームス・レイノルドは「なんということだ。既に人々の食料は尽きてきているというのに。」と日記に綴っています。釜石の製錬所の爆撃の間、山に向かう浮浪者たちについても「彼らはどこにも行くところがないのだ。」と書いています。このような証拠を読んで私は戦時中日本人がいかに苦しんだかに気づかされました。それらの記述は、戦争の時間の経過とともに捕虜たちが自分たちの苦しみの外まで目を開き、認識を変えて行った事を示していました。

話を追うにつれ、私自身の認識も変化しました。私が書き綴っていた出来事がどんな意味を持つかと同時に、戦争に携わった人たちがいかにさまざまな戦争の影響を被ったかという事も以前は十分に理解し得ていなかったことに気がついたのです。先ほど米国による釜石の製錬所への爆撃について述べましたが、これは一度だけでなく広島の原爆投下の少し前の1945年7月14日、そして長崎への原爆投下の当日と、二度にわたって行われました。私が執筆のための資料を集め始めた頃、その爆撃も、また原爆投下さえも、私は単に、私の属する社会の過去の誰かが犯した悲劇的で悲惨な過ちだと思っていました。悲しい程の間違いを間違いと認め和解への道へ踏み出すという、私にもできたかもしれない責任の行使について、私はよく考えた事はありませんでした。しかし2007年に私は、米国の爆撃が釜石の町中の台所に火事を起こし、町をほとんど破壊に至らせ、たくさんの人々に激しい熱傷を負わせた事を知りました。そのとき、釜石市民の戦争捕虜の痛みを理解しようとする努力の重みを、私は初めて理解し、考えを変えたのです。また、The Day Man Lost: Hiroshima, 6 August, 1945という本も読みました。そこには広島の無数の人々が体験した、人間の手による大惨事の刻一刻の詳細が記述されています。その本に書かれた大破壊と黒い雨の記述を通して、読んでいる者はそこに書かれた人たちをあたかも知人のように思わざるを得ないでしょう。(後に広島の平和博物館を訪れた時、そこに残された個人の所持物は、私の知人の物だったという感覚に襲われました。)ウィムの日本での足跡を辿る中で、私は心から謙虚になる気持ちを覚え、私の戦争体験が彼のそれとは根本的に異なる事をしっかりと把握する重要性を感じたのでした。

私の日本への旅の計画は、2011年4月、対話の会のガイドの星野フミさんと一緒に夫・ハンクと私が、ウィムの体験の中で重要な意味を持つ日本の地を回ることでした。しかし、2011年3月11日の津波により、これは延期になり、その後何日も、私たちは市の国際交流協会の加藤直子さん他の方々の無事を祈り、その後皆さんの無事を知って感無量でした。そして2012年4月、ついに私たちは日本へ行きました。そのとき、私は予測しなかったことに遭遇しました。多くを学んだにも関わらず、日本は一枚岩のように、戦争時の侵略の事を口にした途端に、明言を避け政治家の靖国神社参拝を弁護する人でいっぱいの国なのだと私は感じたのです。もちろん、その反対の動きがある事も私は知っていました。横浜にはボランティアの戦争捕虜研究ネットワークがありました。水巻にはオランダ人訪問者と旧オランダ人捕虜が参加する年恒例の式典がありました。そして釜石では、私が先に述べたような活動が細々と進んでいました。しかし、これらの努力が果たしてどれだけ広がり、そしてさらに重要な事は、これらがどう生まれどう育って来たかを肌で感じ取る事ができませんでした。

しかしながら、現在全国に40名の会員を持つ横浜の戦争捕虜研究ネットワークが、実は、横浜のイギリス国民墓地に眠る何千人もの同盟国兵士の墓を尋ねた二人の偶然の出会いから共感し合って生まれた事を知り、私たちは大変啓発されました。たまたま出会ったこの女性たちは日本軍の収容所とそこで亡くなった人たちの記録を集め、犠牲者の家族に情報を送り、かつての抑留者に日本への心理療養的な訪問を促そうとする気持ちで意気投合しました。彼らの和解への努力は世界中の共感を呼びました。

水巻では、毎年のオランダ人の記念碑訪問に際して行われる行事の多彩さに驚きました。自分たちで開発した教材を使って行う水巻地区の生徒に対する戦争教育。オランダ人訪問者を迎える学校行事。また、毎年行われるオランダの学校との交換留学。これらはかつてオランダ人捕虜であったドルフ・ウィンクラーという個人の努力から生まれたと言う事は大変印象的でした。彼は、ウィムが経験したような、戦争経験から来る悪夢の症状を克服するため1985年水巻の強制収容所の地を訪れました。そこでウィンクラーは、戦争犯罪の判決を恐れる鉱山管理側が、戦争が終る間際に急いで建てた死亡捕虜の記念碑を見つけたのですが、それは、雑草の中に埋もれていました。悲しみを胸に彼は翌年また日本に戻り、黒河博という一市民(その家族に私たちは会ったのです。)の助けを得て、市に記念碑を修復するよう運動したのです。そして、オランダの団体の協力を得て、日本で死亡した戦争捕虜の名を入れる事も要請したことは重要でした。

以前の横浜での経験と合わせ、ここでこの旅行の最も重要な事を学び得ました。つまり、この会のテーマでもある和解の力はたとえ一人の行動からでさえ影響を与えうるという事。ここで大切な事を付け加えます。水巻でオランダ人の交換留学が行われるようになったのは、そのずっと前に起こった出来事から繋がっていたのです。水巻収容所の田村稔という護衛兵がある日ドルフ・ウィンクラーという捕虜とたまたま昼食をともにし病気で体の弱まっている彼の仕事の荷をちょっと軽くしたその出来事かがあったからです。なぜならウィンクラーが1985年に日本を尋ねた主な動機は、そのかつての護衛兵と再会する事だったからです。

さらにもう一つ学ぶべき事は、ある個人が、共感を持ち、心の目を開いて和解へ踏み出すなら、それは輪となり広がるという事です。町全体、あるいは異文化間のネットワークが対話に参加するというように。釜石のウィムの体験だけで、それは既に明らかだったのではないかと言うかもしれませんが、その完全な効果がわかったのはこの旅行をしてからです。ウィムは、1995年釜石を訪問したオランダ人グループを代表して力強いスピーチをし、現地の人たちに強い印象を与えました。その結果、黒河省二さんその他の人たちが二日間に渡ってウィムをインタビューすることになりました。そしてウィムは釜石の歴史の一部になりました。しかし、水巻の記念式典や生徒たちによる多彩な行事は、彼に更なる影響を与えました。その結果、彼は翌年釜石で許しを請ったのだといっても過言ではないでしょう。そして、そこからさらに輪が広ったこと、もう皆さんのご承知の通りです。

釜石では、一年あまり前の津波の甚大な被害からほんの少し回復しつつあった状態にも関わらず、市に暖かく迎えられ、私たちは胸がいっぱいでした。和田さんは二時間も運転して花巻に私たちを迎えに来て下さり、加藤直子さんは私たちをハグし、私の目を見て「来てくれましたね!」と言って、感情を表さない日本人という私の印象を覆しました。私が感謝を示せる事の一つは、その惨事の記憶に残るトラウマに私が気持ちを寄せる事ができることです。深刻な喪失の痛みは単に消えて行く物ではないと述べました。私たちが訪問したときに、釜石は町は再建が始まっており、海岸沿いの私たちのホテルは確かに素敵でした。しかしメディアなどに取り上げられない心理的なトラウマはまだそこに存在していました。戦争のトラウマのように、今も続いています。私はあなたたちに、手を伸ばし共感するよう訴えます。どんな手段であっても。たとえ無形の援助であっても。

最後に釜石に対してその功績を褒め称えたいのです。私の、この話は、リンダイヤー氏の家族の写真が次々と場所を変えて大切に保管され続けた事から始まりました。2004年に生徒たちのミュージカルになったときにその最後に現れ、2005年に再度舞台が上演されたときにも映し出されたそれを、今皆さんにお見せします。このような形で2004年にそれを見て、私の頬を涙が伝いました。そこにネルがいました。家族を抑留所に収容され、歯を失い健康を損ね、最後には命まで奪われた女性。大きいスクリーンに、彼女の犠牲を世に知らしめ、彼女の尊厳を取り戻すように映し出されています。

今、釜石と水巻のこれまでの活動の、さらに大きな重要性に私は気づいています。自分たちの社会の犯した間違いを公に認め、彼らは犠牲者の家族のためだけでなく、彼らの町自体が前進することを可能にしました。(口先だけでない)誠意のこもった追悼というものは、その社会全体に取り憑く亡霊を取り祓うのに欠く事ができないものなのです。みなで行う追悼式により、私たちは、犠牲者に敬意を払う新しい言葉を編み出し、同時に健康と新たな生を感謝し、たたえます。社会的政治的に、そのような式典をどのように実現させたらいいかという大きい問題は、今の私の力のおよぶところではありません。今私が言えるささやかなことは、私が本日言及した方たちは--ネル・リンダイヤー、田村稔、ウィム・リンダイヤー自身はむろん--彼らが示した思いやりの行く先をその時は予測する事はできなかったという事です。彼らのように、私たちも、よりよき社会のためにその輪を広げるよう、できる限りの事をする必要があるのです。どうもありがとうございました。

(翻訳:小淵麻菜)

 

3. きわめて重要なあの時  |  アダ・リンダイヤ-クライトホフ

皆様、

本日は、私の夫ウィムの体験したことについてお話させていただきます。

話の最後に写真とヴィデオを少し見ていただいて、話を閉じたいと思っております。

ウィムという人間を作り上げたいくつかの出来事と、彼がそれを乗り越えたいきさつについてお話します 。その出来事は、彼の人生の後半に始まった日本訪問など、新たな人生の動機の根底にあるものです。

ウィムは、 9歳の少年の時、既に3年半の抑留所生活を経験していました。その抑留所の中で母親が病に冒され、危篤状態のとき、彼は一番上の子供として、2人の弟と 1人の妹と一 緒に、その枕辺に立っていました。彼の中には強い怒りがこみ上げ、こう言いました。

 

「お母さん、悲しまないで、僕が大きくなったら日本人を殺してやるから。」

 

母ネルは、すこし起き上がって彼を見つめてこう答えました。

 

「ウィム、心の中に憎しみを持つと、人を愛することができないのよ。」

 

オランダに帰ってきてからは、日本人のことはあまり考えませんでした。

定年後、彼の父親が北日本の釜石の捕虜収容所で生き延びた状況を調べ始めました。

ウィムの父は、収容所の中で、妻と子供に宛てた手紙文の日記をつけていました。特に家族の誰かがお誕生日だと、色々詳しく書いてありました。オランダに戻ってからは、その日記風の手紙類の入ったファイルは、本箱にしまわれていました。幸いにもその手紙は郵送されず、きちんと保管されていました。

ウィムのお父さんは1981 年に亡くなりました。90年代になって、ウィムはその日記風手紙を色々調べ始め、オランダに住んでいる日本人と連絡を取り合うようになりました。

1995年10月、ウィムと私は日本への旅に出ました。私たちは福岡県水巻町の十字架の碑の前で執り行われた追悼記念式に参列しました。

彼が、2人目の母、アドリー・リンダイヤ‐ファン・デル・バーン宛に書いた旅行記からいくつか引用します。

 

「喜びと励ましに満ちた新たな始まりを確信、日本という国との平安の中での出会い」

「友情の絆を築く」

 

次の引用からは、彼が真摯に平和に貢献したいと願うようになったという個人的な進展がうかがえます。

 

「憎しみの炎は消え去った」

「平和実現のための計画をつくる」

「私の人生を確認する為の旅行」

 

1995年からウィムはしばしば第二の母、アドリを伴って、日本を六回も訪れました。これから、写真と短いヴィデオをお見せします。

 

4. 一人芝居ではない、相互関係としての赦しと和解  |  村岡祟光教授

私達の会合は、その第一回のとき以来、専門的な学者であれ、素人であれ、歴史研究者の集まりでもなく、単に知的な関心をもって集まって来たわけでもありません。私たちの主たる関心は、日蘭というふたつの国が共有する歴史がもつ倫理的、政治的意味を追求することでした。このふたつの国に数年前からインドネシアが加わりましたが、インドネシアが加わったことは、現代史が繰り広げられたのはとりもなおさずそのインドネシアが舞台であったわけですから当然の成り行きと言えましょう。

私達の会合にはひとつの特殊な次元があります。歴史を共有している場合、それはどのふたつの国ににとっても関心の対象で有り得ます。ドイツとオランダ、ドイツとポーランドがその例でしよう。私達の会合に特殊な性格を与えているのは、私達の関心事である歴史上の事柄の多くは、いまなお毀れたままになっていて、当該国の真剣な関心事であるべき国家間の関係にかかわっているという点にあります。こうした状況は国家間の真に友好的、調和のとれた関係を築く上での厳しい障害になっています。

問題の国家間の関係がいためつけられてからすでに70年を経ていることを思うとき問題の深刻さは明らかです。1991年の夏、ライデン大学のヘブライ語教授として任命された私はオーストラリアのメルボルンから着任したのですが、それからしばらくして現地の新聞でオランダ東部でオランダ軍が隣国の軍隊と合同演習をしている、という記事が目にとまりました。中国海軍と自衛隊とが東シナ海で共同演習、というようなことはまず考えられません。私達の関心事は、私達のなかで歴史に特に興味がある人達だけでなく、関係三国の一般市民の関心の対象でもなければならないのではないでしょうか。

私達のこれまでの会合の特徴と考えてよい三つ目のことに触れたいと思います。これは個人的な内容に関わる、と言えるでしょう。私達は嘗ての戦争を私達のなかのある人達が個人としてどのように体験したかに興味があるのです。最初の会合は今を去る2000年にナイケルク (Nijkerk) で開催されましたが、その目的はだれがそう意図したわけでもなかったのですが、偶々その年に東京で二冊の本が出版されたことに因んだものでした。それは日蘭両国において400年に及ぶ関係を記念して色々な行事があった年です。二冊のうちの一つはノンフィクシヨン作家の林えいだい著「インドネシアの記憶ーオランダ人強制収容所」でしたが、著者はわざわざ日本から今は亡きア二ー・ハウツヴァールトさんをインタビューするために来蘭されました。彼女は少女時代にスラウェシで日本軍が設営した抑留所に家族と一緒に収容され、捕虜となった父上は北九州の炭坑で働かされるために連れ去ちれ、そこで病死なさいました。もう一冊の本は「ネルと子供たちにキスを:日本の捕虜収容所から」で、これもア二ーさんのお父さんと同様に捕虜として日本に輸送され、岩手県大橋の鉱山で強制労働に服させられた故エヴェルト・ウィレム・リンダイヤ博士が蘭領東インドに残っている妻子に宛てた手紙の形を取った日記の和訳で、その手紙は投函されることはありませんでしたが、生き残った著者とともに無事オランダに持ち帰られたのでした。その長男でこれも今は亡きウィム・リンダイヤ博士とその継母の今は亡きアドリ・リンダイヤ夫人はア二ーさんとその夫のへルマンさんとともに、それぞれが天に召されるまで私達の間で大変重要な役割を果たされました。対話の会の輝かしい星と言うベきこの方々はみんな、アジアのオランダの植民地にはルーツのないへルマン・ハウツヴァールトさんは別として、それぞれの個人的な体験から出発して私達の会の成長を助けて下さいました。過去の会合の講師の大多数はインドネシア帰りであったと言っても過言ではありません。そのお話はご自分の体験に基づいたものでした。

しかし、私達が過去16回の会合で聞かせてもらった話は決して楽しい内容のものではなく、屡々辛い話しでした。それはある意味で当然でした。にもかかわらず、私達は心の温まるような、励まされるような話しも聞きました。それは、自分の辛い過去の記億から逃避することを拒み、嘗ての敵を赦し、互いに和解に到達し、調和のとれた、友好的な、平和な閏係を構築したいという真摯な願いをもって、勇気をもって相手と向かい合い、この難局を乗り越えようとした人達からの話しでした。私が最初に申し上げましたこの問題の倫理的次元、その政治的意味合いがここにおいて正面に出てきます。

赦しは和解の過程における最も重要な要素です。ひとはだれしも平和と謂和を渇望します。故意に敵対関係や憎悪をただそれだけのために求める人はありません。しかし、敵を赦すということが至難の業であることは私達はだれしもが知っていることではないでしょうか。私が個人的に存じ上げているインドネシア帰りのオランダ人で、いまなお私達の会合に出られないでいる、という方があります。日本人から受けた苦しみの記憶が今なおそういった人達について離れないのです。

2003年、韓国で初めて無報馴でへブライ語を教えて帰宅してしばらくしてから、従来は「道徳再武装」の名で知られていた「変革へのイ二シアティプ」という団体のオランダ支部から、私の韓国訪問について語る機会を与えられました。質疑応答の時間になった時、初老の男性が立ち上がり、ハーグのインドネシア記念碑にオランダを公式訪問した海部首相(当時)によってそなえられた花束をその夜、近くの池に投げ込んだのは自分である、と自己紹介されました。しぱらくして、その方からインドネシア帰りの数人の仲間との会合に招待されましたが、出席者のなかには、戦後日本人に会うのは私がはじめてである、という方が数人あり、会合の前夜、刀を振り回す日本兵に追いかけられる夢を見た、と明かされた方もありました。

2005年7月、ロンドンの地下鉄で連続爆破事件が発生し、52人の死者が出ました。数年前に読んだ新聞記事で、その悲劇のなかで一人娘を亡くされた英国教会の牧師助手のことが出ていました。悲劇の数年後彼女は教会に辞表を提出しました。何故でしよう? 日曜ごとに、聖餐式の施行に加わり、私達が赦されるために十字架上で自らの命を犠牲にされたイ工スの死をそこで追悼し、出席している会衆にそのイエスに倣うように勧めるているのに、自爆した若者を未だに赦せないでいる自分にはこれ以上教会での責務は勤まらない、と辞表には書いてありました。

ほんの数年前、在オランダドイツ大使が5月4日のアムスでの恒例の追悼式出席を請うたのに対して、ナチによる占領時代を生き延びた、あるいは愛する者を失った多くのオランダ市民にとってはまだ機が熟していないことを根拠に断られる、ということがありました。先程私が言及しました両国の軍隊による合同演習を思いますと、これは実に罵くべきことです。加害者を赦し、胸の奥深く疼く恨み、悔しさを乗り越えることがどんなに辛いことであるかは、本当に深く傷つけられた経験のある人にしてはじめて理解出来ることでしよう。それだけに、本当の和解が実現した時は、天にも昇るような気分になります。

そのような素晴らしい状態にどうしたら到達出来るでしようか? それが現実となるためにはいくつかの前段階を踏まなけれぱなりません。

1) 加害者と被害者は、その一方が倫理的、道徳的に間違った、不当なこと、決してやってはいけないことを故意に行った、という点について最大限の合意に達する必要があります。

非を認める時は、具体的に認めるべきです。キリスト教神学者が言うところの原罪というような曖昧模糊とした、なんともつかみどころのないものでは駄目です。必要とあらぱ、時と場所、関係者の名前などもそなわった、明白な、きちんとした内容でなけれぱなりません。

非を云々しますと、そこには道徳的、倫理的、あるいは宗教的、と言ってもよいかもしれませんが、そういったニュアンスが伴います。2007年7月、私は当時はまったく面識の無かったオランダ人からメールを受け取りました。相手の方は戦争中インドネシアで日本軍の性奴隷制の犠牲になったオランダ人女牲達のために、日本のアジア女性基金からまわって来た資金を管理する委員会の議長を勤められたマルゲリー卜・ハーマーさんで、その翌月15日にハーグで行われる追悼式の席上で、慰安婦問題についての講演を準備しておられて、日本語の資料には「お詫び」と「謝罪」という単語が屡々使われるそうだが、両者の間に差異はあるだろうか、と質問して来られました。私は、「お詫び」のほうは、誰かに迷惑をかけたような時に「済みませんでした」とお詫びする時のことを指し、「謝罪」の方はその漢字の一つに「罪」という字が使ってあることからしても遥かに重みがあり、「罪、犯罪」を認めることを含む、と申しました。それに対して、お詫びの方は、電車を一本やり過ごしたために会合に半時間遅刻した時などにやることでしよう。

3年前、福島の原子力発電所を稼働していた東京電力の経営陣が記者会見をし、世間に大変なご迷惑をかけた、といって深々と頭を垂れながらお詫びをしました。しかし、その時点で東電が然るべき予防策をとることを怠ったがために何人かの死者が既に出ていました。私見によりますと、彼等に求められていた最小限の対応は、即刻辞表を提出し、年金も一切返上する、ということではなかつたでしょうか。お詫びをするのに法廷に引き立てられることはありませんが、謝罪は罪や犯罪に関わることですから法廷におぃて、正式に処理される必要があります。その法廷は普通の裁判所でも、宗教裁判所でもよいでしよう。

2) 加害者を赦すことが難しいと同様に、わが非を認めることも容易ではありません。誇りや自尊心が邪麿をします。このことは個人だけでなく、集団、民族、国家についても言えます。私は、日本人として、米国人、オランダ人やインドネシア人よりもこのことがもっとよく分かるのかもしれません。私達日本人は、太平洋戦争が終ゎって既に70星霜を閲しようとしているのに祖国が始めた戦争と、それがもたらしたところの諸悪を紛らわしいところの一切無い言葉で糾弾することをいまだにしていません。諸悪のなかから一つだけ例として所謂「慰安婦問題」を挙げましよう。韓国の朴大統領によれば、日韓の関係の改善を妨げている諸要因のなかで、これが最大のものである、とされます。数ヶ月前、朴大統領と安倍首相はハーグでの国際会議に出席していながら、膝付き合わせての会談には至りませんでした。

非を犠牲者に対して認めることは和解が実現するための最初の段階です。これは絶対に必要であり、ここを通らずして和解は不可能です。非を認めたがらなぃというのは日本人の専売特許ではなさそうです。

ナチス時代の非をはっきりと認めた点においてドイツは模範生としてしばしぱ賞賛されます。これは正当である、と私は思います。しかし、皆さんの中で嘗てのドイツの植民地の一つで、ドイツ領南西アフリカ、今日のナミビアで起こったことを御存知の方が何人いらっしゃるでしようか? へレロとナマという原住民達が反乱に立ち上がった時、ドイツは仮借なき手段をとってこれを鎮圧し、3万人とも、11万人ともいう犠牲者を原住民の間に出した、と言われています。その後も、後年のナチスの強制収容所の先駆けとなったかのようなキャンプに原住民を押し込み、強制労働に服せしめ、更なる、無数の犠牲者を生んだといいます。ドイツによるこの政策の目指すところは原住民を抹殺するところにありました。この組織的な、徹底した虐殺は国連によって20世紀の最初のジェノサイドと認定されました。10年前にこの悲劇を追悼するための行事がナミビアで開催された時、ドイツの大臣も出席し、ドイツ民族としての非を認め、赦しを乞いましたが、犠牲者の遣族に対する財政的補償をすることは拒否しました。

ここで私が驚くのはドイツ国内でこの問題が取り上げられることがほとんどない、ということです。1947年にバジレア・シュリンクというドイツ人のクリスチャン女牲が創立したマリア姉妹会という団体がダルムシュタットにあり、ドイツ人キリス卜教徒とユダヤ人の間の和解を促進するために非常に精力的に活動を続けています。私たち夫婦も一度訪問したことがあります。一年ほど前に、そこのシス夕ーの一人にアフリカにおけるこの民族虐殺について質問したことがあるんですが、マリア姉妹会のなかでこのことは殆ど知られていなぃことが分かり、鶯愕しました。ドイツが過去においてどれだけユダヤ人のことに真剣に取り組んで来たか、そして今なおそれを続けているかを思うとき、この歴史に関する無知、無関心は実に罵くベきことです。アフリカにおける自国の植民地支配の歴史に対ずるこの無関心の主たる理由は人種差別ではないか、と私は推測します。この場合はその対象が有色人種、黒人である、というわけです。アジアの植民地を奪回しようとしてインドネシアの独立宣言後にオランダ軍がインドネシアでおこなった「行き過ぎ」についても触れることは出来ますが、時間の関係で割愛致します。ドイツの植民地についてかなりの時間を割きましたのは、「結局どこの国だって同じなんだ。なぜ日本だけを槍玉に挙げるのだ?」と言いたいからではありません。私達が対応しなけれぱならない課題が如何におおきなものであるかを強調したかったまでです。

3) 非を認める時は、その認罪は誠実、真摯な態度をもってなされる必要があり、すぐに取り消したり、糊塗しようとしてはなりません。何ひとつ言訳をしないのが最善の認罪、謝罪です。1993年、村山富市首相(当時)の時、所謂河野談話なるものが公表され、その中で日本政府は元慰安婦の方々に対して「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明しました。ここで、日本語では「お詫び」という表現が使われています。ところが、これに関連して非常にショッキングで、気になることがあるのです。河野談話が発表されたのは1993年8月4日ですが、まさにその日に同じ日本政府の一部である内閣官房内閣外政審議室によって、日英両語による「従軍慰安婦について」という題のサイ卜を立ち上げたのです。そのなかに次のような一節があります―

『慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かった。その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性がたかまり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた。』

初めてこれを読んだとき、私は刮目しました。これでは何万人とも言われるこの犠牲者達を募集し、酷使したことを稚拙な仕方で正当化しようとしているのと同じではないでしようか。村山首相と河野内閣官房長官が痛恨を表明したとき真摯であったことを私は瞬時も疑いません。しかし、今引用した箇所は今なお疼くこの御婦人たちの生傷に塩を擦り込むに等しく、彼女たちを深く傷つけ、また無礼この上なく、女性全体に対する侮辱でもあります。そういう女牲に対する「必要」を云々するというのは2年前に橋下大阪市長が、戦場においてはそれは必要悪であった、ととんでもない発言をして世界中から叩かれたのと同じ発想です。このサイ卜は2010年の私達の会合で横畑さんが慰安婦問題について話して下さった直後、偶然に日本外務省の公式サイ卜で見つけたものです。私は即刻、前原外務大臣(当時)に、メールではなく、手紙を出し、上記の文言の削除を考盧して頂きたい、と申したのですが、何の反応も得られず、翌年、後継者の松本外務大臣(当時)に同じ内容の手紙を出しましたが、これも梨の礫で、いまでも同じ内容が外務省の当該サイトで日英両語で閲覧出来ます。

2009年6月ハーグ市庁舎で、韓国・ドイツ・オランダ共催の慰安婦問題に関する展示会が20日間にわたって開催され、私たち夫婦は明日で閉まるという日に出掛けたところ、受付にいた韓国人の若い青年が、「お二方は最初の日本人来館者です」と言われました。数週間後に拙宅に訪ねて来られた日本人の知人にこの話をしたところ、自分は最後の日に行ったが、「あなたは三人目の日本人です」と言われたそうです。その20日間、日本大使館の職員は全員夏休にでも出て留守だったんでしようか?これでは誠意のひとかけらもありません。情けないと言うか、実にけしからんです。

心からの、真摯な謝罪は犠牲者の心の傷を癒すのに大きな力があります。2003年、年輩の韓国人の元慰安婦に会いに出掛けました。彼女は、自分が欲しいのはお金ではない、天皇にここへ来て、脆いて謝ってもらいたいのだ、ということを声を大にして叫ばれました。太平洋戦争中、日本兵には天皇陛下が総指揮官だったんですから、彼女の発言は筋が通っています。

4) 難しいのは加害者として非を認めて赦しを乞うだけではなく、犠牲者として受けた被害、苦しみを忘れないことです。過去に辛い目にあった記憶はもう忘れてしまいたい、というのは人情です。今年の初め、インドネシアのジャワ島の4つの神学校で教えさせてもらいましたが、私が教えた生徒たちのなかには私の胸に押しかぶさっている重荷を少し軽くしてあげたい、と思った人があったようです。インドネシアで広く受け入れられている人生観によれば、過去に受けた辛い体験のことは忘れて、よりよい未来を築くことに努め、後ろ向きにではなく、前向きの姿勢が大事である、と言いました。私が問題にしているのは、津波、地震、洪水のような災害によって受けた被害、心の傷のことではない、天災は人力には如何ともし難いことであり、誰を責めるわけにもいかない、そうではなくて、他者によって不当に、故意に加えられた被害、傷のことです、と私は答えました。一例として、自分のおばあちやんが戦時中慰安婦として散々に虐められた話しをし出したら、あなただったら「おぱあちゃん、もういい加減にしといて。この赤ん坊の世話を御願いするわ」と言えますか、というんです。忘却は素晴らしい効果を生むかもしれません。これは素晴らしい精神療法だ、としてひとに勧めてもよいかもしれません。でも、それではどうにもならない、という人も必ず出て来るでしよう。

私は、これまでにも何度か「前事不忘後事之師」という中国の古い格言を引用しました。つまり、過去を忘れる事なく、むしろそれを将来への指針とせよ、ということです。自分の輝かしい成功談だけでなく、他者から不当に加えられた悪事や苦しみをも記憶にとどめなけれぱならないのは何故でしようか? 2011年に私どもはミャンマーに行きました。ある夜、ホテルで現地のテレビチャンネルをひねったところ性的虐待に関するドキュメン夕リを放映していました。加害者はミヤンマーの兵隊達で、被害者は隣国との国境周辺の少数民族の女性達でした。太平洋戦争中、ミャンマーの女牲達のなかにも日本軍の慰安婦にされた女性が少なくなかったのを私は知っています。ですから、昨曰の犠牲者が今日は加害者、というわけです。仏教の人生観によれば「赦して、忘れよ」というのだそうです。

その一年後、私達はバンコックを訪ねました。ある日、死の鉄道として悪名高い泰緬鉄道に関係したいくつかの場所に連れて行ってもらいました。そのひとつはカンチヤナブリのJEATH戦争記念館でしたが、JEATHはJapan、England、Thailand、Australia、Hollandの頭文字をとったものです。この五カ国の捕虜がこの鉄道建設の犠牲者となったのです。記念館の展示物は原始的な工具、建設現場の写真、捕虜達が描いた絵、新聞記事などで、オランダ出発前に予め色々なものを読んでいた私達にとって目新しいものはありませんでした。私達が罵き、心穏やかでなかったのは、そこに展示してないものでした。周知の通り、6万人近くの連合軍捕虜の他に、近隣の東南アジア諸国から連れて来られた労働者もありました。中国人、マライ人、夕ミール人、インドネシア人、夕イ人、ビルマ人などです。西欧の捕虜の場合のように正確な統計はなく、少なめに見積もっても20万人と言われ、そのなかには多数の夕イ人が含まれていました。それなのに、博物館には現地の、何万人というタイ人の労働者が蒙った苦難に関する展示は何ひとつないのです。博物館は1977年に現地の著名な高僧が発起人となって出来たものです。だったら、そこには自国の歴史が反映されてしかるベきではないでしょうか? 悲劇は連合軍捕虜のみならず、多数の現地人にも及んだのです。建設中には現場からはあまり情報は外に漏れなかったかもしれませんが、建設終了後、この地獄を生き延びた夕イの労働者達は帰宅して身の毛もよだつような話しをして聞かせたのではないでしょうか。もし、この記念館が欧米の犠牲者達に対して現地の仏教社会が同情と哀悼の意を表現しようというのであれば、そういった犠牲者達の遣族でここを訪問する人達には暖かく受け止められることでしよう。私達が訪ねたカンチャナブリの戦没者墓地だけでも1896人のオランダ人の犠牲者が埋葬されています。しかし、タイの仏教社会は現地の死亡者の成仏を願い、今なお過去のトラウマに苦しまされている生存者のことを気遣うべきではないのでしょうか? 私が教えさせてもらったバンコックの神学校での礼拝で説教した時、推定で5万人という夕イ人犠牲者があったとすれば、その妻子、親兄弟などを入れればいまでも百万人ぐらいの現地人があの不当行為を怒り、悲しみに沈んでいることになる、と申しました。また、タイ人だけでなく、他の近隣の国からも相当数の労働者が強制的に駆り集められたことも知られています。インドネシア出身者は「ロームシヤ」(=労務者)の名で知られています。連合軍捕虜の場合と違い、アジア人の犠牲者の総数は知られていませんが、約13,000人と言われる前者の場合を遥かに上回ることは確実です。

欧米の犠牲者の出身国ではこれまでに追悼とか研究とか資料や体験談の出版とかぃろいろな活動が行われて来ています。犠牲者の一人一人についての詳細が記録されています。ところが、ミャンマー、夕イ、インドネシアでは、私の知る限り自国民に及んだこの悲劇については、その莫大な被害の程度にも関わらず、研究、出版は殆ど行われていません。

同様のことは慰安婦問題についても言えます。インドネシアの女牲達のなかの犠牲者の総数について最近私はハン・ヒスケさんとメールを交換しましたが、ヒスケさんによれば信頼に値する統計がない、とのことです。この無関心はインドネシアの現地の歴史家達の間だけのことではありません。もっとひどいのは、インドネシアの指導者達、インドネシア政府が自らの選挙民の間にいる犠牲者達のことに無頓着だ、という事実です。これには二つの理由があるのではないか、と推測します:(1) インドネシア経済をしっかりと支配している日本からの報復に対する恐怖、(2) 自国の高齢の有力者達のなかに当時の日本軍と協力した人達がいること、そういう者たちは自分の暗い過去が暴かれることを好まないのではないか、という懸念。最近のオランダの新聞(NRC)の記事によりますと、次期大統領候補者一その後、正式に大統領として確定したJoko Widodoは今後も「黒幕」と付き合って行く必要があるのではないだろうか、ということです。今度はドイツ人ですが、哲学者へーゲルの記億すべき名言をいつになったら私たちは永久に忘却することが出来るのでしょうか? 彼は言いました、「人が歴史から学ぶことは、人は歴史から学ぶことをしない、ということである」

みなさんがクリスチャンであられるかどうかとは関係なく、不正は忘られてはなりませんし、記憶から抹殺したり、押し入れにしまい込んで知らんぷりをしているわけにはいきません。きちんとした処理が必要です。倫理的責任を問われないような人生は人生の名に値しない、と愚考します。1923年の関東大震災で10万を超える死者が出ました。その後、著名な日本人のクリスチャンの藤井武が、われわれが目指すのは復興ではなく、創興である、と言いました。つまり、震災以前と同じ東京を再建するのは無意味であり、新しい東京を創造するのだ、というのでした。昭和20年8月15日に彼が生きていたら、同じことを言ったでしょう。そして、その後の同胞が、日本が戦争の灰燼の中から不死鳥のように蘇生し、奇跡的に経済を立て直したとして有頂天になっている有様を目の当たりにして慟哭したことでしょう。私たち日本人にとって、あの戦争はまだ終わっていません。8月15日は敗戦記念日ではあっても、まだ終戦記念日ではありません。しかし、現今の日本の指導層はまた戦争を始めたくてうずうずしているようです。

5) 今日の私の講演の第にもありますように、和解には双方の関係者を必要とします。共同作業です。相手に向き合わずしてその人との和解は不可能です。自分に対して罪を、不義を働いた人を赦すということはキリスト教徒ならばだれもが目指し、涵養すべき最高の徳のひとつに数えられています。主の祈りの中に「我らが、我らに罪を犯せしものを赦したる如く、我らの罪を赦し給え」という一節があります。でも、罪人と向き合わずして赦すことができるでしょうか? 赦しの絶対的必要なことを力強く説かれたイエス・キリストは十字架に磔にされながら驚くべき発言をされました。自分をあざ笑い、槍を自分の脇腹に突き刺す者たちを眼下に見下ろしながら言われました:「父よ、彼らを赦し給へ。彼らは自ら何をなしおるやを解せざるが故」。辞世の言葉として、これだけのことしか言えなかった、執り成しの祈りをしてやるのが精一杯ということは彼にとってどんなにか悲しかったことでしょう。その時のイエスには「私はあなた達を赦します」とは本気では言えなかったのです。あなたに対してどんなにひどいことをしたか、ということをまだ自覚していない人を赦し、復讐はすまい、自分に対する倫理的負債を取り立ててやることは諦めよう、と独りごつことができたら、精神的、心理的苦痛からは解放されるかもしれませんし、愛と慈悲の功徳として賞賛の的になるかもしれません。でも、そういうやり方は、私には少し感傷的、浪花節的に響きます。精神療法、一人芝居と大差ないのではないでしょうか。赦しと和解という尊い徳を安売りにしていることになりませんか? 殺人容疑者を裁判所がきちんとした裁判もせずに無罪放免にするのに似ています。そうなったら、もはや正義を司る法廷ではなく、猿芝居になります。どれほど辛くとも、加害者と被害者は向き合う必要があります。普通の法廷には三人の当事者が列席します: 原告、被告、検察と裁判官を含む司法陣です。倫理、道徳の法廷も同様です。その際、第三者は仲介者という人間であることもあるでしょうし、たとえ仲介者を立てなくても、通常の世俗的な関心ごとや功利的原則を超越するところの一連の主義、原則という形をとることもあってしかるべきです。そのような主義、原則は両社が基本的に合意出来る宗教的信条であることも可能です。一般的に、普遍的に認められた一連の基本的人権という形をとることも可能でしょう。

 

5. 精神力の勝利 | パティ・ファン・ビュッフェル・ファン・ステーンベルヘン

本日、私は父の話を皆さんとお分かちしたいと思います。父は1945年8月9日に長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」を生き延びました。彼は福島分所14号で戦争捕虜として捕らえられていました。対話の会の世話人の方から戦争犠牲者の子供として育つというのはどういうものかを少し話してほしいといわれました。

父は、1942-45年の間の話題を決して自分から持ち出すことはなく、常に合理的な視点から質問に答えていました。子供の頃は、父が原爆を生き延びたということを友達に話すのは、実際素敵な事だと思ってました。実に、ユニークなことですから。原爆を生き延びたお父さんを持ってる友達は誰一人なく、私一人でした。もっと後で、本などでそのことを読んで、もっとその状況を知るようになって、どうやってそんな中を生きながらえたのか、と考えました。本当に私の中でそのことがもっと意味を持つようになったのは、つい最近、映画製作者の東志津(あずましず)氏がドキュメンタリー映画「美しい人」を撮り始めたときからのことでした。私は生まれて初めて父が「ファットマン」について詳しく話すのを聞きました。それは特別な日でした。父が静かに注意深く語る話に驚きました。この後、このドキュメンタリー映画を送ってもらって観ましたが、非常に感動的でした。

色々な事があって、父は長崎に再び行く気になってきました。彼は既に94歳となってましたが、日本のPOW研究会の方々の手助けにより、彼が人生の中で衝撃的な経験をした場所を訪れることになりました。この春、私は父と2人の妹と共に普通では考えられないような長崎旅行をしてきました。私は父がどうしていまだにこんなことをもっと知りたいと思うのか、信じられない思いでした。また、様々な状況の中で、どうやってその希望を失わなかったのかと考えずにいられませんでした。日本では、私は、如何に多くのメディアが父の訪日に関心を持っているか、また父の希望をかなえる為に如何に多くの人たちが労をいとわず動いてくれたかに驚かされました。今、父が経験したことをようやくほんの少しだけ自分の目で見ることがかない、彼が侵略者たちへの憎悪を持たずにここを出てきた精神力の強さに、ようやく思い至りました。私の子供時代、父は一言も日本人の悪口やそこでの体験を口にしませんでした。それどころか、日本の電気機器や自動車が大好きでした。

私は、戦争犠牲者の第二世代としてその事が自分の人生にどんな影響があったかを話すように頼まれました。

父は几帳面で規律に忠実な人で、子供たちにも同じようであるよう要求したので、思春期には相当の摩擦がありました。暖かみにあふれ理解のある父とは言えませんんでしたが、自身の葛藤の負い目を私たちに負わせることはありませんでした。父の人生を顧みて、彼が経験してきたことを見た上で、今現在彼がどのように自分の人生を送り、現状に合わせながら自己啓発にいとまないかを見るにつけ、なんて強い人だろうと言う外ありません。そこから、私の演題を「精神力の勝利」としました。

さて、これから数分間皆さまを父の思い出の中にお連れしたいと思います。彼の考えや、生き延びる為の戦略を披露し、皆さまにこのような出来事がもしあなたの身に起こったら、あなたはどんな衝撃を受けただろうかと聞いてみたいと思います。

話は1942年蘭領東インドの降伏から始まります。父は22歳の青年でした。1942年3月、不均衡な戦いの後、蘭領東インドは日本に降伏し、軍の全員が捕虜となりました。一般的予想では、その収容期間はそれほど長くならないだろうと思われていました。ある人たちは、妊娠がどれぐらいかを問い合わせるジョジョボジョという占い者に問い合わせました。

私が収容所に登録すると、(既に収容所の中にいた)多くの人たちがこの収容期間がどれぐらいかかるか、新しい情報を知りたがりました。私は、その場で何の知識もないままとっさに1945年までと答えました。みんなに信用されるよう、その後も聞かれるたびに同じことを言いました。

捕虜となる

私は両親と四人の兄弟とバンドンに住んでいました。

私の収容所生活は博覧会場から始まりました。私は、収容所に投降しないと家族が殺されるという脅しで、降伏の三週間後に登録に行きました。ジョクジャカルタでかかった重いマラリアの症状があったので、両親のところで快復中の出来事でした。両親を安心させる為に出かけていきました。私は、お祭り市場が開かれる場所に収容されましたが、直ぐに歩兵や対空砲台のバラックに移されました。そこでは、他の捕虜や外にいる人達と連絡を取ることが禁じられていましたが、最初の頃は鉄条網をはさんで、また後には、遠くにいる人とジェスチャーで連絡を取ることができました。

ある日、四人の脱獄者があり、その晩その中の三人が捕まり木に結わえ付けられました。彼らは同じ収容者たちの目に三日間晒されていました。オランダ人の収容者代表がいずれ彼らが受けなければならない刑を、長期禁固刑に変えてほしいという要請は、受け入れられませんでした。数日後この三人は目隠しされ一列に収容所内の外柱に縄で縛られました。その収容所は鉄条網の中にあったので、砲弾では外の別の人に当たってしまう可能性があったので、銃での死刑は無理でした。日本兵たちは、銃剣を手にして並んで待っていました。号令と共に彼らは猫が獲物に飛びかかるように犠牲者たちに銃剣を突き刺しました。それ以上見ていられなくて、そこを後にしました。

チマヒへの移動

数ヶ月の後、収容者はチマヒに集束されていきました。ある朝早く5時ごろ、数千人のバンドンの捕虜たちがチマヒに行進を始めました。8kmほどの行進でした。所有物はスーツケースやリュックサックにつめられ、まとめて持っていきました。早朝にもかかわらず、離れた所に家族や知り合いが愛する者を最後に一目見ようと道に沿って立ち並んでいました。

食料調達の為にバンドンに行く雑役に就くと、手紙を投げ合って家族と連絡を取る機会を与えてくれましたが、日本兵は直ぐに察知してこの連絡方法はできなくなりました。

最初の移送先、バタビア

チマヒに来て一ヶ月ほど後、移送されるグループ分けがありました。私は、第二グループに入れられました。そこに収容されていた兄弟2人と戦争が終わった後に再会の希望を持って別れの挨拶を交わしました。どこに行くのか、何の目的なのか何も知り得ませんでした。行く先は、悪名高いソネイ長官のいるバタビアでした。彼は、予測できない行動をするので有名でした。

ソネイは真夜中によく検査をしました。検査が始まると我々は列を作って並び日本兵が数を数えます。そしてもう一度数が数えられるのでした。まるで文盲たちのようでした。ソネイ様はいわゆる健康診断を夜中や早朝にするのがお気に召しているようでした。その後にたいてい移送がありました。私たちはそれを「環突き」と呼んでいました。列に並ばされて、ズボンを下げ、前屈みになると、肛門を棒で突かれます。そこに血がつくとそれは病人とみなされ、移送から外されます。その後に検便が課せられました。その時の臭いは気分のいいものではありませんでした。

移送を逃れる為にある方法が編み出されました。指に針を刺して血を便の上にたらす方法です。また、他の人の便を使うこともありました。そうすることによって、友達同士が一緒にいられるようにする為でした。結局、それはうまくいきませんでした。最終的には全ての者が強制労働に就くために何処かに移送されました。

二度目の移送先、スラバヤ

一ヶ月の苦役の後、我々が電車に乗せられ24時間後に降ろされた所はスラバヤでした。一体次の目的地はどこでしょう!二週間後、今度は外が見えない幌のかかったトラックにぎゅうぎゅう詰めに積み込まれ運ばれました。そこから降ろされた時の衝撃は大きかったです。そこは、スラバヤ港の桟橋で我々をいずこかに運ぶ船が横付けされていました。

我々約千人は、「前橋丸」の船尾の空間にあたかもその船のバラストになる為のように詰め込まれました。我々は、二段に分けてその空間に押し込まれました。上の段と下の段の差は、人が座った高さほどでした。しかも隣の人との間に殆ど隙間がないほどにぎゅうぎゅう詰めでした。新鮮な空気が大きなパイプから吹き込まれていましたが、物凄い人数のところには焼け石に水でした。トイレに行く時だけ、外に出ることが許されました。そのわずかなチャンスに必要以上にできるだけ長く外にいるようにしました。日本人の警備員が見張っていてもう十分と思えば、大声で怒鳴って、中に入るよう叫ぶのでした。トイレは、船体の外にぶら下がっているような木の小屋でした。直ぐにお腹を下す人が現れ、トイレの前には行列ができました。そうすると長く外にいられるチャンスでした。それは地獄のような旅でした。途中、潜水艦が見つかったときには、バンカの港に数泊停泊しました。我々はシンガポールに到着するとチャンギにある英国軍のバラックに割り振られました。

それは、丘の上にあって、外にある箱状のトイレに座ると湾の素晴らしい景観が望めます。悲惨に満ちた日々の中では、嬉しいプレゼントのように感じました。最初の身体的問題が出てきました。それは、ビタミン不足からの非常に痛みを伴う口内炎でした。収容所内で売られていた生のヤシ油がいいと言われました。医薬品はもう既に手に入らなくなっていました。収容所内の駅に集められた人たちは、ビルマに送られると聞きました。私の目的地は日本でしたので、それほど不利ではない気がしました。

三回目の移送先、日本

この移送は、約一ヶ月に及び、時にアメリカの潜水艦に足止めを食わされました。毎日与えられた食事は、ご飯と魚のスープでしたが、その臭いはたまらなく、風が部屋の中にその悪臭を吹き入れ、気持ちが悪くなりました。彼らは、デッキのハッチのところで配膳していました。私はチマヒで持っていた最後のお金で砂糖を買ってあったので、毎日ご飯にかけて自分のエネルギーの状態を保持しました。

日本到着

日本の門司に昼ごろ到着し、下船後すぐ、その晩には目的地も知らされず電車に乗せられ運ばれました。季節は春でまだ寒いのに、我々はほんの薄い服しか着ていませんでした。でも日本兵たちはそんなことには全然気を遣う風ではありませんでした。長崎が私の1943年春の最終目的地でした。見た所まだ新しい収容所に入れられ、今度は実際に施錠されました。もう外の空気は吸えません。船上での食事に比べれば少しましな食事が与えられました。

ここで、日本人の楽しみは殴ることだと知りました。彼らの目に処罰に値することを何か私がしたので、警備所に連行されました。そこで起立の状態で顔を思いっきり殴られました。指揮官が始め、他の者達もその後やりたい放題でした。 私は、起立の姿勢を続け、倒れて彼らを喜ばせるようなことはしませんでした。

我々の移送中は殆ど食事らしい物が与えられませんでした。気候のせいか、初めての日本の食事のせいか、私は赤痢に罹ってしまいました。数日後単に痛みを和らげるアヘンをもらいましたが、病状はよくならず、何の治療にもなりませんでした。

結局病錬に連れて行かれましたが、医薬品は無く、私の周りに痛みに苦しむ人や死んで行く人を見ました。私はしばらく何も食べていませんでした。少しでも何か口に入れるよう、看護兵にお粥を布の上で潰して漉してくれるよう頼みました。そんな布すらないそのご時勢では無理な願いでした。幸運にも私はまだハンカチを数枚持っており、毎日一枚ずつお粥を漉すのに使いました。そうすると糊のような液体状のものができます。東インドでは、タジェンと呼んでいました。二週間後、奇跡の中の奇跡のように私はよくなって病錬を後にしました。

私はいまだに、もし私がハンカチを持っていなかったら、今生きていなかっただろうと思います。ちなみにそのハンカチは二度と私の手に戻ってきませんでした。あのような状況で私のハンカチが捨てられたと言うことはありえないでしょう。人のモラルは日に日に悪くなっていました。

その一週間後、まだひどい下痢が止まっていませんでしたが、すでに働き始めていた仲間と一緒に造船所に入りました。日本人には病人と言うのは価値が無い者なので、食事は要らないと考えられていました。だから、私は造船所に仕事に行き毎日の行進の後はいつもトイレで自分のズボンを洗いそれを濡れたまま、またはいて仕事に行きました。造船所では、自分の病気をうまく使いました。自分が働いている船の足場から下に下りてトイレまで行くのに相当時間がかかりました。私は、指でお腹をさしてからお尻の辺りで動かすと、グループのリーダー、「ハンチョー」はその意味をくみ取り、問題なくトイレに行かせてくれました。

ある朝、私は彼意地悪をしてみました。私たちはデッキにいましたが、デッキの板がきちんと貼られていませんでした。彼はジェスチャーで楔ををよこすよう言いました。私は、馬鹿で何も分からないと言うように何回か肩をあげました。彼の顔の表情が変わるのを私は見ませんでした。彼は自分の怒りを私の顔を数回殴って思い知らせました。私は立ったままでしたが、何も見えなくなってしまいました。私は盲目になるのではないかと怖くなりました。それが自然に治るものなのか、はっきり分かりませんでした。目から血が流れていると仲間が言いましたが、最終的にはゆっくり快癒しました。

日本の警備兵たちにとって捕虜を罰することは特権でした。午後の時間はその特権を見せるチャンスでした。このために昼食を逃すこともありました。殴るのは当たり前で、もっとひどい罰を作りました。細い竹、時にはもう少し太い竹を手渡され、それを両手で高く持ち上げ少しでも下げると腕に平手打ちをくわしました。後に彼らは他の方法も編み出しました。前に述べたような竹の上に跪かせるのです。ひどいのはその棒をひざのぼんの窪のところに置いてしゃがまなければならないのです。別の姿勢をとろうとすると殴られます。サディスティックなやり方でした。

空爆によって私たちの生活が中断することもありました。我々は突然夜中にたたき起こされて、防空壕に入れられました。この壕は防水ではなかったので、冬のさなかにくるぶしまで水に浸かって立っていなければなりませんでした。さらに不運にも、収容所のそばに爆弾が落ち以前からちょっとゆるくなっていた防空壕の閉じ蓋が外れてしまいました。幸い1人が亡くなっただけで、日々の生活はそれでも過ぎていきました。

この爆撃で、鶏が何羽かやられたようでした。防空壕から出てきて収容所に戻った時、私は台所をうろつきゴミ箱の中に鶏の腸を見つけました。これは肉とみなされます。このような状況でこれを捨てるなんて勿体無いと、私は思いました。少し向こうには料理人達が立っていましたが彼らがそれを見てないだろうと考え、見つからないようにそれを取ってその「肉」を火の中に投げ入れました。私はその匂いを先ず楽しみました。オランダ人の料理人達は私の行動を見ていませんでしたが、私がうろうろしていたので向こうに行けと指図しました。しかしその「美味しい物」は私をそのまま行かせることはなく、私はまだ半焼けの腸を少しだけ火から取りだしました。この事が見つかって問題になったりしないため、私は「プレゼント」をすぐさま口に入れました。最初の一口はあまりおいしいものではありませんでした。腸の中身は少し薬味がきつすぎたからです。想像がつきますか? 私は、この「薬味のきつさ」を無視して、その腸を全部食べてしまいました。これでまた少しエネルギー源が上がりました。

1944年に我々の仕事場は収容所の隣にあった工場に移りました。時間は経過し、平和への展望は見えてきませんでした。この頃、肺炎や栄養不足などで死ぬ者が多く出ました。死者の数があまりに多かったので、このテンポで死んでいったら、2,3週間で収容所は空になってしまうだろうと計算したほどでした。1942年に捕虜となった時、私は口から出まかせに戦争は1945年に終わると言いました。1945年7月の時点で終戦になりそうな様子はありませんでした。頭の中では、その日を1年延ばしにしていました。この考え方を、友達に勇気を与えるよう教えてやりました。敗北感を受け入れることは単に死への道を急ぐことです。捕虜になったばかりの頃、同じ境遇の人たちの中にこのことを見たからでした。

194589

この日は私たちの人生に激変をもたらした日でした。

それは、青空の晴れ渡った日でした。その前の数日間は、収容所の周りの敷地内で以前の爆撃で壊れたり崩れたりした物の片付けに駆り出されていました。誰かが、空の上のほうにB29のきらきらした機影を見ました。直ぐに空襲警報が鳴りました。我々は、いつものように防空壕に行くのではなくて、収容所に戻るよう指示されました。変なことです。結局何事も起こらず一時間後にはまた仕事に就かされました。でも仕事を再開して直ぐにまた飛行機がきました。このときは、防空壕に入る指示もありませんでした。各自各々の判断に任せられました。何人かは地面の高くなった脇に横になりました。ある者は、空を仰いで、何かパラシュートにぶら下がって降りてくる物を見ていました。私は、とっさに工場の中に駆け込んで、隠れるところを探しました。でも何かに躓いてできるだけ自分の身体を小さく折りたたみました。何か閃光が見えました。無感覚になってしまい、屋根全体が壊れて下に落ちてきたのすら聞こえませんでした。正気に戻ったとき、私は屋根の鉄骨の梁の四角の枠の中に横になっており、周りは崩壊物が散らばっていました。私は屋根の低い部分を這いながらその中から出て、すっかり薄暗くなってしまった世界の中に立ち上がりました。信じられない気持ちで立ち尽くし、自分の目に見える物に仰天していました。私の頭に先ず浮かんだのは、爆心地に向かって傾いてしまった収容所から「大切な物」をリュックにつめて持ち出すことでした。その敷地内には他にも助かった仲間がいました。

外では、赤十字の包みを集めるよう呼びかけていました。私はまた工場の中に戻りそこで軽症を負って瓦礫の中に倒れている日本人を見つけ助け出しました。彼はその後、歩み去りました。女の子もその混沌の中から1人で出てきました。仲間の1人が何かにはさまれて倒れているのも見つけました。八人の仲間と一緒にそのけが人を自由にする為に、彼を押し込めている鉄の梁を持ち上げようとしました。彼は40センチほどの厚さの鉄の台の脇に倒れていました。その上に鉄の屋根の梁が真横に横たわっていました。彼の身体つきでは我々がその間から引っ張り出すことは無理でした。燃え盛る火と煙が立ちこめ始め、我々は彼をそこにおいたまま出て行かなければなりませんでした。

忘れられない一瞬でした。

その辺を歩いている者たちは、パニックに陥っているようには見えませんでした。誰もがやらなければならないことを意識しながら、行動していました。その荒涼と荒れ果てた場所では、人々が落ち着いているのが奇跡でした。それはほんの一握りの人たちのグループでした。どのようにまた誰とその大多数の仲間たちが丘の上の焼き場に集まったのかは分かりませんし興味がないことでした。私は目の前に大混乱を見ましたが、同じ収容所の捕虜仲間のことと自分の体のことにしか考えが及びませんでした。

この話は我々の多くが語り、全ての人に深い印象を残しています。

その後、丘の下まで荷車を引いて下り、既にそこにいた人々と日本人の警備兵たちと合流しました。その日本兵たちは英雄的な軍人ではありませんでした。彼らは、自分達がまだ我々のボスなのだと言うことを言うのでした。

ここで我々は一晩を過ごさなければなりませんでした。爆発音がしたり、大きな火事が一晩中あったので、私は眠れませんでした。

原爆の翌日

その次の日、我々は再び規定の場所に戻り、洞穴や町の東側で働いていて丘の上に避難していたグループと落ち合いました。洞穴に留まる事は日本人に皆殺しにされることを意味しました。日本人は我々の収容所の第46番にもそのような計画を持っていました。このことについては、その収容所の捕虜の日記に書いてありました。この場合、根も葉も無い噂ではありませんでした。

私たちは、自分達が住んでいた建物が建っていたところを通り過ぎました。そこにはもう何もありませんでした。そこには工場の鉄の骨格と、もう建物が一軒も残ってない谷があるだけでした。浦上川の東岸の屋外で私たちは、命令を待ちました。4日後、我々は動き始めました。病人はストレッチャーに乗せられて「健康な」捕虜仲間に担がれて近くの丘の上に運ばれました。お分かりと思いますが、非常に困難なことでした。結局夜中の零時まで、四回往復いたしました。1人の日本兵もこのチャンスを使って横になって丘の上まで運ばれましたが、彼が本当に怪我をしていたか疑わしいものでした。当然あまり喜ばしくない挨拶が彼に投げかけられたのは仕方ないでしょう。

1945815

確か我々は15時に収容所の庭に集められました。日本人の収容所長が涙をこらえながら終戦を告げました。少し遠慮がちな歓声が上がり我々の間でも涙無しではすみませんでした。

私たちは解放されたものの、まだうちには帰れませんでした。

もう日本人側からの脅しは一切ありませんでした。実際、もう彼らを見ることはありませんでした。多くの仲間達は「町」の中を見に出かけて行きました。ある晩アメリカ兵を収容所に連れてきました。彼は質問攻めに合い、誰もが彼の持っていた重い機関銃を見たがりました。それは我々が戦争で使った「ちゃちな拳銃」とはまったく違う物でした。元捕虜たちにエスコートされて彼は港に帰っていきました。

私は自由時間を収容所の裏の自然の中で過ごしました。三日後に爆撃機が低空飛行して荷物を落としたのを、私はそこで目撃しました。それは荷物ではなく二つのドラム缶が溶接されたもので50キロほどの目方がありました。その中身は、色々な食べ物で、ビスケット、チョコレート、タバコ、等々でした。亀裂の入ったところを開いてこの美味しいものをようやく楽しむことができました。私の選んだのは、ハーシーのヴィタミン入りチョコレートでした。魚のスープや鶏の腸でこの三年間を生きながらえたあのひどい状況の後の、天からのプレゼントでした。

私が待ち望んだ両親との再会はやっと7ヵ月後に実現しました。マニラに三ヶ月、ボルネオに同じぐらいの期間、そしてしばらくオーストラリアに寄ってからのことでした。

これが私の父の物語です。私はこの事が私にどんな影響を与えたかいうことを話すことはできません。なぜならこれは私にとって単なる参考文献に過ぎないからです。父がこういう経験をしなかったらどういう人になっていたかは分かりません。ただ、このことについて話をするよう招待されたことは、私自身にとっては、たくさんの詳細と共に、以前決して話されなかった物語を父から聞く機会を得たということです。彼はユーモアをもって色々な話をしてくれ、その話をすることをさらに楽しみにするようになりました。何か、もっと詳しいことを思い出すと、直ぐに私に電話をよこすようになりました。私は、日本に対する憎しみを持って、育てられませんでした。

この物語が、理解しあうこと、尊敬しあうこと、そして和解しあうことが人々をつなぐのだと言うことを人々に知らせる助けとなり、よりよき世界となるよう望んでいます。

(翻訳:タンゲナ鈴木由香里)

 

6. 閉会の言葉  |  タンゲナ鈴木由香里

皆さま、お疲れ様でした。丸一日、皆様とご一緒に過ごすことができ、心から嬉しく思っております。今回は、ちょっと欲張ったプログラムでしたが、どうにか消化できほっとしております。この日のために私達は今年の初め頃から色々と案を練って今日に至りました。

さて、昨年の対話の会で、私は対話の会インジャパンを開催することを予告いたしました。そのご報告を少しさせていただきます。昨年、11月、東京のオランダ大使館で、50名ほどの日本の学生たちに、昨年の対話の会で見せた「ありがとう」の映画を見せて、旧蘭領東インドで戦争中にどんなことが起こり、現在までもその影がオランダには残っていることを折田教授に講義していただきました。30年以上も前に私が驚いたのと同じように皆さんとても驚かれました。つまり、今でも日本の歴史の授業ではそのことはきちんと教えられていないのです。日本が今右傾化しているとよく言われていますが、それはこういった教育のありように根があるように思えてなりません。

彼らは、この勉強会のすぐ後に、外務省の招待でオランダから来た戦争犠牲者の方々と交流の時を持ちました。一生懸命彼らの辛い思い出を聞いている学生たちがそこで得たことは、彼らの人生の中にきっと何か今までと違ったものを生み出したに違いありません。フィードバックにはとても貴重な体験であった、戦争と言うのをともすると政治的歴史的に捉えがちだが、一人ひとりの悲しみと苦しみがあることに思い至った、今まで知らなかった事実を日本人として日本がしたことをきちんと学ぶ機会を得ることができた、被害者としてばかり戦争教育を受けていることに気づいた、と感謝のメールをいただきました。

対話の会は小さな力ですが、日本ではあたかも忘れさせようとしている戦争中の加害者国家としての自覚を促す仕事をこれからも続けて行きたいと願っています。幸い、大使館から今年も是非と言われ、11月には内海愛子教授をお招きして対話の会インジャパンを開きます。また、12月にはサクラとジンの方たちの訪日に合わせて、彼らを主人公に作られた日本人ドキュメンタリー作家の映画『子供たちの涙~日本人の父を探し求めて』を見せる会も開こうと計画しております。どうか、日本からのニュースを楽しみにお待ちください。

今日の対話の会に話を戻しましょう。この会を準備するに当たり、世話人会は1年の歳月を費やして準備してきました。そして、その課程は実にたくさんのことを学ぶチャンスでもありました。

今回は、ウィムさんを偲ぶ意味でも対話の会の原点に戻ってみよう、と試みました。また、日本のPOW研究会との共同で今、日本でどんどん消し去られようとしている日本国内の捕虜強制労働収容所の跡に記念碑を残すプロジェクトに参加したことから、長崎の捕虜収容所にスポットライトを当ててみました。

遠くアメリカからメリンダさんにここまでいらしてお話ししていただけるとは、最初は夢物語と思っていました。でもお伺いすると間髪いれず是非話したいとおっしゃってくださいました。勿論手弁当で、しかも釜石から和田竹美さんを招待くださいました。

彼女が今日ここでウィムさんの人生の軌跡を辿りながら、次第に彼女自身に出会っていったことを伺えたことは非常に貴重なことだったと思います。彼女は観察者の立場からだけでなく、ウィムさんの和解の経験に直面しながら、彼女自身の人生の旅を始めておられることは、素晴らしいことだと思いました。彼女のとても謙遜で繊細な生き方に、私は、山上の垂訓の一節を思い出しました。山上の垂訓とは、聖書のマタイによる福音書に書かれているイエス様が山の上で教えられた言葉です。「心の貧しい者は幸いです、天のみ国はその人のものだからです。」

実は、第一回の対話の会で、ウィムさんの第二のお母様、アドリさんがこう述べました。ウィムさんが自分自身のセラピーとして自分探しに埋没されたことを話した後、「奥さんのアダさんはそれがために犠牲になったようなことも再三あったようだけど、彼女は支援を惜しまなかった。」アダさんは支援を惜しまなかっただけではなく、彼の長期に渡る病の間、実に7年もの長きに渡って本当に細やかな愛を持ってウィムさんのお世話をされました。そして、ついには、彼の愛してやまないインスピレーションの源であった母親、ネルのお墓にウィムの遺灰をまきに、わざわざインドネシアまでいらっしゃったというのです。「柔和な者は幸いです、その人たちは地を相続するからです。」と言う言葉はアダにぴったりだと思います。

村岡先生は、許すということ和解するということの本質を問いただされました。私たちの国も含め、多くの国々の中にある不正の問題を通して私は、国家とは何なのだろうたらためて考えさせられています。

過去に犯した様々な悪事を、国家はともすると隠そうと沈黙を決め込みます。しかし、私たちは不正に怒りを覚えるのです。どうにかしてその不正を正そうと思うのです。先日の水曜日の日本の新聞にオランダのティマーマンス外務大臣が日本人記者に対して、慰安婦問題に関して、河野談話を公に支持し、日本軍により強制売春が行われていたことを再確認しました。このガイドラインは幸いにも私達がこの対話の会でも共有できる点であります。何故このことをオランダの大臣が改めて日本にアピールしなければならなかったのでしょう?不正とは真実でないことを正しいとすることですが、私たちの国が今直面している問題は一筋縄ではいきそうにありません。村岡先生のお話に賛同される方は、きっと 「義に飢え乾いている者は、幸いです、その人は満ち足りるからです。」

パティさんは対話の会で講演することになって、お父さんに与えられた辛苦の体験の詳細を初めて聞かれたそうです。お父さんのディックさんは私に戦争の体験談については、聞かれたら、聞いた人に聞かれたことだけを答えるとおっしゃいました。パティさんは今回お父さんの体験されたことを詳しく聞く機会を得て、お父様の大きさに、精神の強さに驚かれましたが、ディックさん父娘のより深い関係のきっかけを作ったのは何と日本人のドキュメンタリー作家でした。パティさんのお話の中に日本兵が銃剣で捕虜を刺すシーンが出てきましたが、今年の5月16日に、日本の94歳の方が自分は戦時中中国で銃剣で人を刺すよう上官に命令され、やらなければならなかった。その苦しさ辛さを一生この歳まで心の底に背負ってきた、そんな戦争は何が何でも二度と御免だし、義の戦争などあり得ないと新聞に投稿されていました。ディックさんとその収容所仲間だけでなく、この元日本兵もどんなにか悲しみに沈んだことでしょう。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。」

今日はウィムさんのお話が中心でしたが、私たちの先人には、彼の第二の母、アドリ・リンダイヤさん、ヘルマンとアニー・ハウツワルドさん、今日そのお嬢さんがいらしてるエルス・ミヒールセンさん、など、忘れられない方たちがいらっしゃいます。この方たちが私たちに残してくださった愛と友情の貴重な遺産は、はかりしれません。ウィムさんが釜石で「今まで日本人を憎んでいたことを許してください」と、おっしゃった言葉の根柢にあるものを大切に継承していく責任が私たちにはあります。

皆さん、私たちを 動かしているものは一体何なのでしょう?メリンダさんがわざわざオランダに来て抑留所で命を召されたネルさんやウィムさんの話を 語ろうと思ったのはどうしてでしょう。アダさんがウィムさんのために犠牲を強いられながらも、ウィムさんを支え、愛情を注ぎ続けてこられたのは何なのでしょう?正義に飢え乾く思いを村岡先生に与え、毎年アジアの国々に行こうという思いを与えるものは何なのでしょう。ディックさんはどうして憎しみを持たずに戦後を生きてこられたのでしょう。アンドレさんが躊躇の後、今日話をされようと思ったのは、何だったのでしょう。そして、今日皆さんをこの対話の会に来る動機を与えたものは何だったのでしょう。

それは私たちが「希望」を持っているということではないでしょうか?より善き世界を望む力こそ希望です。

現在の世界を見てください。70年前よりましですか?時にこの荒れ果てた世界を突きつけられ、私は涙せずにいられません。誰が何をしても無駄だと、無気力に襲われます。でも、いつもそんな時、ささやく声が心に聞こえてきます。「あなた方は世の光です。」

私は私たちが神の姿に似せて創られたという聖書の言葉に希望を持ちます。「あなた方は世の光です。」と言われた言葉に希望を持ちます。キリスト者であろうと無かろうと、真実の希望は失望に終わることは無いと信じます。何故なら、あなた御自身が世の光だからです。

ご一緒に、善き世界の為に、それぞれの場で、力を注ぎましょう。

それこそが本会のテーマ「和解の力」です!

本日はご参会くださり本当にありがとうございました。又、来年お会いするのを楽しみにしております。

そこに真理が働いているといったら、皆さんはとんでもないとおっしゃるでしょうか?私たちは神の姿に似せて作られたという聖書の言葉に、希望を持ちます。あなた方は、世の光ですと、断言された方がいたということに、希望を持ちます。キリスト者であろうとなかろうと、よきものにあこがれる心がある限り、この希望は失望におわる事がないからです。

心に憎しみを抱いていると、人を愛せないと、あの戦争のさなかに、ひどい扱いを受けながらもこのような言葉を語らせた真理こそ、私達一人ひとりの心の中に光をともし続けるのではないでしょうか?

今日は、本当によくいらしてくださいました。また来年、お目にかかれますことを楽しみにしております。

講演者の皆さま、グループディスカッションのリーダーの皆さま、司会のトンステファン、同僚のハンスリンダイヤとロブシプケンス、心からどうもありがとうございました。