“原爆”

2008年10月4日   ニウェウォールド、ハウテン

プログラム

  1. 歓迎のスピーチ
  2. 広島と長崎への追悼
  3. もし原爆が落とされなかったら、、、でもそうしたら?
  4. アニーさんの生涯は日本にいる私たちにどういう意味を持っていたのだろうか?
  5. アニーさんとエルスさんは日蘭対話の会にとってどういう方だったのか?
  6. 閉会の辞に代えて:なぜ和解を?

1、 歓迎のスピーチ | 星野文則

星野文則と申します。日本で生まれ、教育を受けましたが,オランダに住み出してもう20年になります。2001年に友人に連れられて第3回の会合に来て以来、この対話の会には毎年通っています。昨年から準備の会に参加している新しいメンバーの一人として、今回の皆さんに歓迎の挨拶ができることを喜んでいます。

まず,私たちがなぜ『日蘭の対話』が重要であると考えるかを手短に説明します。それは,対話こそが戦争の悲惨な体験の後で平和を見つける 最善の方法だからです。

今日ここに集まったオランダ人の多くの方々は,戦争中インドネシアの日本の収容所であれほど体験をし,戦後も悪夢やトラウマで苦しんだ経験を持っています。収容所での仕打ちはあまりにひどく,腹を立てても当然だと思います。でも残念なことに,憎しみは心に平和をもたらしてはくれません。その代わりに,あなた方 の多くは自分の体験を話したり書き記すことをはじめ,恨みの多い収容所の兵士たちの祖国である日本へと旅をして,現代の日本と和解を見つけています。そん なあなた方の勇気と心の広さに私は深く感動します、私たち日本人がする前に,あなた方の方からから進んで歩み寄ってくれたのですから。そして、これは憎し みに捕われることなしに心の平和を見つけるすばらしい 方法だと思います。対話をするということがこのプロセスの鍵です。

その一方で多くの日本人は,インドネシアにあった日本の収容所について聞いたことすらありません。そこでオランダ人がひどい仕打ちにあったことを知り,自分の 民族がいかに残酷であったかと認識することは、痛みを伴います。でもしばらくすると,国籍を離れて一人の人間として彼らの痛みを分ち得ずにはいられなくな ります。そして僕らは友達を作り,僕らもまた心の平和を見つけるとことができます。これもまた対話のおかげです。

これらの体験に基づき,オランダ人と日本人のあいだの対話を奨励し、双方にとって和解と心の平和を見つける助けにしたいのです。

次に 今日の会合について説明します。去年の会合の後,我々の重要な友人が二人亡くなりました、アニー・ハウヅヴァールトさんが11月に,そしてエルス・ミヒエ ルセン・バルヨンさんが6月に。僕も会合のたびに彼女たちにお会いしましたが,彼女たちの大変な体験とは裏腹に彼女たちの笑顔をよく覚えています。この素 晴らしい彼女たちの追悼のために今日の午後時間を取ります。

そして、今日の会合のテーマは原爆です。

1945 年8月、6日には広島9日には長崎と人類史上初めてたて続けに落とされました。この年のうちに約20万人が死に,その後も多くの人が亡くなったり長い間被 害に苦しみました。原爆が大惨事であることは異論の余地がありません。今日ここにお越しの外林先生は,あの日に広島で原爆を体験し生き延びられました。昨 年までその体験を話されたことはなかったのですが,私たちの招待を快諾し今日はその体験談を話してくだ さいます。

原爆の被害はひどいことは間違いないけれど,いい面は何も無かったのでしょうか? 戦争においては,一方にとって悪いことはその敵にとっては都合のいいことに なるわけです。原爆が日本に降伏を強いたことにより,死なずにすんだアメリカ人兵士もいれば、その他日本が占領した地域にいた人々がいます。多くの日本人 にとってもよかったといえるかもしれない。というのも,もしも原爆がなく、沖縄で起きたことがその他の日本でも繰り返されていたら,さらに多くの日本人が 殺され死に追い立てられたであろうから。そして日本の収容所に捕われていたオランダ人にとっては、原爆は待ち望んだ終戦の自由のシンボルに見えたであろう と想像することは,さほど難しいことではありません。Ton Stephan氏も、そんな立場にいた一人として今日話をして下さいます。

核兵器の問題は,過去だけの問題ではありません。広島と長崎に落された最初の原爆がいかにものすごい破壊力を持っていたか私たちは知った上で、さらに発達した 核兵器が今どれだけあるのかを認識し、それらが爆発したらどれだけの破壊力があるのかを考えると恐ろしくなります。1990年には6万個以上の核兵器が存在し,2000年には2万個以上まで減ってはいるといってもそれでもまだものすごい数です。

日本で広島長崎の悲劇は、第2次大戦の話題としては今でも時々耳にする珍しい話題で、この話の中では日本は戦争の被害者です。でも反対側の話,つまり日本が加 害者としてあの戦争を始め残虐な行いをしたことを聞くことはまずありません。このアンバランスに、よくフラストレーションを感じます。

そろそろ僕の話はやめて,他の人にも話をしてもらい対話が始まるようにした方がいいですね。でも決して対話に加わることを忘れたりためらったりしないでください、それが本来の目的なのですから。

2、 広島と長崎への追悼 | 外林秀人(ベルリン)

I、はじめに

私は長崎で生まれ、広島で成長した。16歳のとき、1945年8月6日に広島原爆を経験し、母を亡くした。

1957年に京都大学より、交換留学生として、ベルリン ダ-レムのマックス・プランク財団のフリッツ・ハ-バ-研究所に留学した。ベルリンの壁の以前から、壁のある時、壁の崩壊後、ベルリンに住んでいる。私はベルリン人です。

50年間ベルリンに住み、仕事をしてきたが、昨年の11月まで、原爆の悲劇を語らなかった。その理由は:日本人は被爆者を国の名誉ある英雄として見る事なく、 伝染病患者のように取り扱い、疎外され、子孫は放射能で汚染されていると考えている。60年間、日本の私の家族を保護するために、沈黙してきた。

しかし世界中で、核の問題は、あまり良い方向にすすんでいない -例えば、テロリスト – 。被爆者の多くはすでに生きておらず、多くの人々に、原爆を語り、この悲劇を忘れないようにする人は少なくなり、語り部の仕事は、私の義務であると思うようになった。

II  1945年8月6日の外林の日記

1 、 私は当時16才の中学生で、広島高等師範学校に設けられいたエリ−ト学級に通学し、工場の勤労奉仕を免除され学習に専念していた。8月6日の8時から、24名の学生が校舎の二階の角の部屋で化学の授業を受けていた。校舎は木造の 建物で、爆心地より1.5キロメメ−トルに位置していた。

2 、 8時15分、授業中、ピカッと巨大な写真のフラッシュのような光が目を貫き、ドカンという音を耳にしたとき、建物が崩壊したらしい。日本語で閃光をピカ、轟音をドンと言うので、広島の人々は原子爆弾のことをピカドンと名付けている。

3、 何がなんだか分からないまま、私が気がつくと、上のほうから光がさしており、障害物を取り除くと自力で這い出すことができた。建物は吹っ飛び、方々から 火の手があがっていた。

4、 友人光明君が負傷して閉じ込められ、助けを求めているのが 見えた。出口を塞いでいる材木を懸命に除き、彼を助けだした。そのうちに火が広がり、早く逃げないと火に巻き込まれてしまいそうになった。誰か下の方から 助けを求める声が聞こえていたが、もはやどうにもならず負傷した光明君を連れて逃げた。

5、 光明君は、片耳が切れて垂れ下がっていたが、歩くことはで きた。そこから川を二つこしたところに舟入の自宅があるのでその方向に待避しようと考えた。橋が 燃えていて渡れないので、小舟を探し、それに光明君を乗せ、それを押しながら泳ぎ、二つの川を渡った。舟入の南の江波に診療所があることを聞き、光明君をそこに連れて行って、別れた。光明君は姫路の出身で、そこから自宅に帰り死亡した聞いている。

6、 私の舟入の自宅は爆心地より南2キロメ−トルの所にあり、木造建てであった。ピカで干してあった布団に火がついたが、父が在宅しおり直ぐ消火したので、家の全焼は免れた。

7、 母は町内の勤労奉仕の日で、町の中心部で、防火のため道路 を広げる作業に早朝から出ていた。父は中学校の教師をしていたので、普通なら勤労奉仕の学生と共に町の中心地にいたはずであったが、母が朝早く家を出たため出勤を少し遅らせ家にいた。母が、もしその日が勤労奉仕の日でなければ、家にいて、父が町の中心部にいたであろう。いずれにせよ、父か、母か爆心地にいる運命であった。もし原子爆弾がもう少し遅く爆発していたら、父も、母も町の中心部に居たであろう。

8、 当時、田舎の知人の息子、沖増君を家に預かり、中学校に通学させていた。父と私は母と沖増君を探さねばならなかった。 先ず最初に沖増君を探すことにした。

9、 彼の仕事場は爆心地近くの本川橋の近くと分かっていたので、父と爆心地の本川橋の方に出かけたのは、昼頃であった。爆心地に近ずくにつれ、次第にそこはまさに地獄の様な光景になってきた。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下がり、粉塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いている人。子供の死体を抱えて、気が狂っように叫んでいる人。

10、 本川橋付近の光景もすさまじいものであった。多くの人々が水を求めてであろう、川への下り口、階段に人が放射線状にぎっしりと詰め倒け、倒れていた。

11、 橋の上からみると、水面上には多くの死体が浮かんでいた。 その死体の一つが、沖増君のうつむきの寝姿によく似ているように思えた。それを確かめるために人をより分けながら下の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな生きており、”水を呉れ”、”わしの家に連絡してくれ”と足を掴んで頼まれるが、どうすることも出来なかった。夢中で川に入り、泳いで 目指した死体に到着し、それが沖増君であることを確かめて、引き上げた。舟入の家に連れかえり、間もなく両親が田舎から出こられ、沖増君の遺体を渡すことが出来た。6日の午後3時頃であった。

12、 次いで、母を探しに、広島日赤病院に父と出かけたのは6日の午後であった。日赤病院は、私が被爆した近くにあって、母が爆心地から逃げて、日赤に行ったような気がしたからである。午前中は橋が燃えていて渡れなかったが、午後は火が消えて歩いて渡れた。病院の建物はコンクリ−ト造りで崩壊せず残っていたが、一部に火災が起きて次第に広がっていた。

13、 各部屋は負傷した人で満ち溢れていて、母を探して回ったがなかなか見つからなかった。火災が次第に広がり人々は移動していた。火の手が回る最後の部屋で、幸運にも母を見つけだした。意識はしっかりしており、見た所何も傷は無かったが、動けない状態であった。発見がもう少し遅れていたら、そのまま火に巻き込まれていただろう。母をリヤカ−に載せて舟入の家にかえったのは6日の夕方であった。

14、 三日後、8月9日に母は死亡し、近くの畑で火葬に付した。35才であった。母を見つけ、死に水をとり、野辺の送りができたのは、せめてもの気休めであった。後で知ったことですが、母の死亡した8月9日に、第2番目の原子爆弾が、私の生まれた町、長崎に投下されました。

15、 爆心地の近くの親戚や知人が、舟入の家に逃げてきた。怪我もなく元気そうだったが、やがて髪が抜け、歯茎から血がでるなど典型的な原爆病の症状があらわれ8月中に次々と死んでいった。

III  フイルム”ひろしま” 私の家はどこに行ったのだろう

Director & Producer : Masaaki Tanabe

Project & Production & Copyright: KNACK IMAGES Production CENTER in Hiroshima

Cooperation: the Restoration of Hypocenter Film committee

”ひろしま”は3Dグラフィックを使用して原爆投下以前の広島を再現したドキュメントフイルムです。

国連に、このフイルムを献納することで、核戦争がない世界を目指す平和教育に利用されることになりプロデュサ-田辺の夢が満たされた。

だだ一つの原爆で全てが崩壊された。 恐るべきことだ。

日本の広島と長崎に、二つの原爆が投下されたが、日本人にだけ投下されたのでなく、世界中の人類に投下されたのだ。私は、世界の住人、60億の一人として話しています。

核兵器は通常の兵器と異なっています。通常の爆弾は、最初の爆発で、その脅威は終わるが、核兵器の場合このように簡単でない。核爆弾の場合、放射能の影響 が、誰も解らなのだが、日、週、月、年にわたる。次の代、子孫に影響するかもしれないのだ。核兵器は、人類が、今まで生み出した兵器のなかで最悪のもの だ。核兵器の存在は人類の心理、精神にマイナスの強い影響をあたえている。

私はこの事を、人々に知って貰いたい。

我々が住んでいるのが、どのような環境なのか、一緒に考えましょう。 そして我々は、将来どのような世界を作っていくのか、一緒に考えましょう。

3、 もし原爆が落とされなかったら、、、でもそうしたら? | トン・ステーファン

歴史学者は、上のような仮定的な問いを発することによって、世界は政治的にどのように変わって行ったことであろうか、とい う問題を考究することが出来ましょう。また、小説家は、復員して来た日本兵が長崎の郊外に住む家族をどのようにして尋ね当てたろうか、というような話をもとにして小説を書くことも出来ましょう。

しかし、私は歴史学者でも小説家でもありません。私がこれから申し上げることは、戦争の事を考える時に私の心に浮かぶいろいろな想念から成っています。ここで戦争と 言う時は、我々の会合でしばしば取り上げられるあの戦争の事を考えています。この戦争は私の念頭を片時も離れることがありません。父は、1942年1月16日、日本軍がタラカン(Tarakan)を攻撃した時に戦死しました。ジャワ島で日本軍によって家族と一緒に抑留されたあの戦争です。

こういったことをわたしが意識的に考えはじめたのはようやく70年代になってからでした。そのころ、核弾頭を搭載した大陸間ミサイル配置の可否についてオラン ダでもいろんなことが言われていました。これについての決定を阻止しようとして、時として激しいデモがありました。冷戦のまっただ中で、いつ、なんどき第 三次世界大戦が勃発しかねないような雰囲気すらありました。核戦争になったら、われわれも、ヨーロッパもなにひとつあとに残らないだろう、というのが大方の意見でした。

そういうある日のこと、当時まだ10代だった長女が、「お父さん、私ね、学校の友達と核兵器反対のデモに行くの。お父さんも一緒にどう?」と尋ねました。この質問に度胆を抜かれた私は次のように答えました。「そういう兵器に反対したものかどうかお父さんは良く分からないんだよ。一度話したと思うけど、広島、長崎に原爆が投下されてなかったら、お父さんは日本軍の抑留所で生き延びられなかっただろうし、そうしたら今頃ここにはいなかっただろうし、お前だって生まれて来なかったわけだ。」

しばらく沈黙が続き、「原爆がまた投下されたら、私はもはや生きてないし、お父さんだってそうだわ」、と娘は答えました。

というわけで、私もデモに参加することになりましたが、気持ちは複雑でした。戦争が早く終結したおかげで、餓死せずに済んだのでしたし、他にもそういう人がた くさんありました。私はいまでもそう思っています。しかし、私が助かるために原爆は投下されたのでしょうか? そのおかげで、何万人の命が失われたのでしょ うか?

こういう疑問にたいして、私は明確な解答を見い出す必要を感じました。

1945年時点において、少年や老人男性を抑留したキャンプに閉じ込められていた私にとって、餓死は極めて現実的な問題でした。10歳から18歳までの男の子約 800人、それに400人ぐらいの老人や病人が抑留されていました。抑留者はあちこち移動されたりしてその総数は一定しませんでした。我々男の子達は、 44年の9月、女子抑留所に母親達といた時に連れ出されてジャワ島中部のセマランのバンコン抑留所に連れて来られたのでした。

この種の抑留所の状態や、其処での「生活」についてはすでにいろんなことが広く知られています。毎日の決まりきった食事は、当然の事ながら量が少なく、そこか らいろいろな問題が生じました。年令の如何に関わらず、だれもが正確に同量を貰うというのが厳重な規則でした。その量がいくらになるかは、あるとききちん と計算してはじき出されました。それは、私には到底不十分でした。11歳の少年として、私は一日2140カロリー貰う必要がありました。44年の10月に はその7割、45年7月には6割しか貰えませんでした。しかし、17歳の兄はこの同じ抑留所で、必要量の55%しか貰えず、あとからは45%にまで減りました。

婦人抑留所でも同じようにひどい状況でした。栄養失調のための病人が多数出ました。母が黄疸に悩まされたらしい、というようなことも人づてに聞きました。そして、薬代わりに砂糖をちょっびり余分にもらうのもやっとのことだったとか。

死者の数も少なくありませんでした。その一年だけで男性330人が死亡、うち200人程は最初の8ヶ月に死亡しました。青少年達の中には「たった」の13人し か犠牲者が出ませんでした。45年の正月から青少年の死亡者が出始めたことは心配の種でした。我々はもう力尽きていました。兄には栄養失調の別な症状が出 始めていました。神経系統がやられたらしく、変な歩き方をし始めました。

抑留所の外の状況はどうだったでしょうか?

私は 相当数の青少年達に混じって、毎日、町はずれにある畑で強制労働をさせられました。そこへ行く途中、着物らしいものも着ていない貧しいインドネシア人が道 ばたに座って、あるいは横になっているのが日ごとに増えて行くのを見ました。我々と同様、彼等も痩せ細って、脚気で脚は腫上がっていました。数日後に同じ ところを通ると、何人かの遺体がそこには横たわっていました。誰からも構われずにただそこに置いてありました。

飢餓は至る所にはびこっていました。その重要な原因は、かつての蘭領印度が、日本の軍政下に入って、その経済が完全に崩壊したことでした。ルー・デ・ヨング (Dr. Loe de Jong)は、その第二次世界大戦史において、まずコーヒー、茶、砂糖、煙草の生産が止まるに至った様子を描写しています。日本の船舶が、完全に破壊され た港湾を利用できず、のちに港湾が修復された時には、アメリカの潜水艦によって撃沈されて、日本には船舶というべきものがほとんど残っていなかった、とい う事情もこういう経済破綻に拍車をかけました。収入源もなく、食料を買うことも出来ませんでした。

戦前のオランダ政府は、原住民には十分な米の供給を確保し、収穫が十分でない時は、米は輸入され、ジャワ島と他の諸島との間には必要な食料品の交換がなされる ようになっていました。所謂「外海諸島」には、たとえば、ジャワ島からの米や砂糖は入らず、ジャワ島には工業用、鉄道用に必要な石炭が外海諸島から入って 来なくなりました。以前の蘭領印度は日本軍政の下で新しく分割され、ジャワ島とスマトラ島は日本陸軍、他の諸島は海軍の管轄下に入り、それぞれ独自の政策を導入しました。

日本側は夙に43年から連合軍のジャワ島上陸の可能性を考慮に入れて、それに対処するためにジャワを17の自治区に分割しました。この自治区相互の輸出入は禁 じられました。その結果、ある地区では米が潤沢にあるのに、他の地区には何もない、というような事態が現出しました。トンネルの中に食糧が貯蔵され、現地 住民の必要はそっちのけで、日本軍の必要の充足が至上命令となりました。

日本占領下の他の場所でも、否、日本本国ですら同様であったと思われます。米潜水艦による攻撃のおかげで、日本の貨物船舶の保有量は著しく減じていました。そのために、戦争末期には日本は孤立し、食料品の輸送は事実上停止しました。そのうえ、すべてが軍のために犠牲にされました。

このような状況をつかむのには、私がかつて観た今村昌平の映画「カンゾー先生」が役立つかもしれません。終戦前の数カ月、ある漁村の赤城という医者が黄疸を患 う患者の脚の筋肉を文字どおり抉り出すという話です。村に肝臓炎が流行りだしたのです。しかし、そのことは赤城が、人もあろうにオランダ人脱走捕虜の助力を得て行った調査の結果やっと分かったのです。研究結果は日本の医学界からは認められたのに、患者の治療のために必要な砂糖を軍から拠出してもらうことは出来ませんでした。

われわれの抑留所でも毎週の砂糖の割り当ては一人当り75グラムでした。砂糖は薬、エネルギー源、また、たまの楽しみでした。そのころの私にとって、毎日の砂糖は、今の晩酌の一杯以上の価値がありました。

映画の終わりで、赤城医者は、研究よりも人間の方が大事であることに気付きます。沖の小さい島に住む女の患者の家に辿り着いた時はもう手後れで、彼女は肝臓炎で死にました。彼は、再び普通の医者になります。若い女性の助手と船を漕ぎながら、彼は彼女に対する自分の愛情を見い出し、船底で彼女を抱きます。彼等の 戯れが最高潮に達した瞬間に湾の反対側に鋭い閃光が走り、茸状の雲が立ち上るのを見ます。「終」

1945年8月6日、広島に投下された最初の原爆でした。なぜ、あそこに爆弾を投下することが決ったのでしょうか?そして、3日後の9日、長崎にも。

長年、私には一つの説明しか考えられませんでした。連合軍、ことに米軍は日本を目指して大平洋づたいに島を一つ一つ攻撃、占拠して行かなければなりませんでした。それには、双方にしばしば多大の人命の犠牲を伴いました。

大英百科事典の最新版によりますと、1945年2月、硫黄島が4週間の激戦を経て米軍の手に落ちた時、3万人の戦死者が出た、としています。4月1日、米軍は 沖縄に上陸しましたが、10万人の日本軍がその防備に当たり、神風特攻隊は米軍の上陸部隊に甚大な損害を及ぼしました。12週間後、米軍は沖縄全土を手中 に収めました。米軍の犠牲者5万、日本軍の戦死者9万、米軍相手に戦闘に参加することを強いられた民間人の犠牲者10万。こういった統計については今日なお意見の相違が存します。いずれにしろ、この殺戮は凄まじいものです。

私はこう思います。

米軍にとっては硫黄島と沖縄での戦闘は日本本土に上陸しなければならなかった場合の前味でした。その計画は既にたてられていました。「オリンピック」の暗号をつけられた作戦が、10月か11月に九州で展開されるはずになっていました。これを迎え撃つのは35万から成る日本軍と100の特攻機。膨大な艦艇と80 万の米兵を配したノルマンディ上陸にも比すべき大作戦となることが予想されました。予測される米軍側の犠牲者の数については様々な数字があげられました が、死者4万、負傷者9万というのが平均値でした。

その次は、46年の春または夏が予定され、東京に焦点を当てて本州に上陸する「コロネット」と名付けられた作戦でした。9万の戦死者が予想されていました。戦 死者、負傷者、行方不明者あわせて合計10万と予想されましたが、それまでの太平洋戦争において米軍には17万の戦死者が出ていました。

日本軍の戦死者、負傷者の数はこれに輪をかけて膨大なものになると予測されました。米軍が得た情報によれば、日本軍は最後の一兵まで死闘し、沖縄の場合のよう に、民間人も本土防衛に巻き込まれることが予測されました。本土防衛に当たる日本軍の兵力は230万、そのほかにすでになんらかの形で陸軍あるいは海軍の ために働いていた者40万でした。それに民間人から成る警防団員2500万、とふんでいました。

問題は、日本は降伏するだろうか、というのでしたが、その気配はありませんでした。

大都市のほとんどは集中爆撃によってすでに廃虚となり、あるいは焼夷弾によって焼け野原と化していました。45年1月23日の東京大空襲のとき、焼夷弾によっ て2キロ四方が焦土と化しました。3月9日には334機のB29による空襲に東京は見舞われました。10万人の死者、100万人の負傷者が出たと推定され ましたが、全員が民間人でした。東京の約20キロ平方が完全に焼き払われました。想像を絶する数字です。インターネットによれば、43年から45年までの 間に七十の都市が爆撃を受けた、とあります。

米空軍司令官ルメイの推定では、45年の9月には多少とも重要性のあると看做しうる日本の都市はすべて破壊されているであろう、というのでした。米空軍にとっ ては、この空爆は牛乳配達みたいなもので、いずれは日本中のゴミ箱も爆撃されるであろう、と米軍の飛行士がどこかに書いていました。しかし、45年の7 月、米軍情報機関は、九州で日本軍の部隊が増強されているとの情報をつかみました。

日本は降伏したかったのでしょうか、降伏できたのでしょうか? 米国は日本に一貫して「無条件」降伏を要求してきました。しかし、この「無条件」というのが、日本政府にとっては米国が意図した以上の重みをもって受け取られたようです。日本側は、天皇の地位が危うくなることを恐れました。これは、彼等にとっては承服し難いことでした。

そうこうしているうちに、6月29日には、トルーマン大統領は本土上陸作戦計画を承認しました。しかし、7月16日の原爆実験の成功は状況を劇的に変化せしめました。欧州では戦争は終結し、米国は急にあせりを覚えはじめました。7月17日には、昭和天皇の承諾を得て、広田弘毅はソ連大使を介して戦後のアジアの 支配を日露の両国で担おうという案を提示していたという情報も入っていました。7月21日、米政府は即時無条件降伏を要求し、さなくば日本は壊滅であろ う、というのでした。7月29日、日本はこの最後通牒を蹴りました。原爆を使用することが7月25日に決りました。攻撃目標として広島、小倉、新潟、長崎 が選ばれました。当初は、横浜と京都も候補にあがっていました。これらの目的地は、原爆の開発者達が要求した条件を充たすもの、と考えられました。すなわ ち
市街地が少なくとも直径4.8キロある重要都市たること
爆発によって甚大な被害が生じること
これまでの空襲によって被害を受けておらず、空軍による今後の攻撃の対象としてまだ 選ばれていないこと
上記のような要求が出て来た根拠は明瞭です:科学者達が爆撃の結果を出来るだけ正確に計測できなければならなかったのです。マンハッタン計画に参加した科学者の中には、この原爆投下決定をなんとかして覆そうとした者もありましたが、彼等は少数派に留まり、彼等の抗議はトルーマン大統領の耳には届かなかったのです。賽は投げられました。

8月6日、B29エノラゲイはリトルボイと呼ばれたウラニウム爆弾を広島上空で投下しました。66000人が即死、69000人が負傷しました

米国は、日本側がこの爆撃の意義を考慮して対応するのに必要な時間を与えませんでした。被害の程度をすぐ確定することは不可能でした。

8月8日にはソ連が日本に戦端を開き、米国はアジアでの影響力を失わないために即刻反応することを迫られました。8月9日、長崎にプルトニウム爆弾ファットマ ンが投下されました。当初の目標は小倉でしたが、上空に雲がたち込めていたために長崎が標的とされました。爆撃直後に死者39000人、負傷者25000 人を出しました。

この二度にわたる原爆投下による被害者の数字には上記の数字と違うものがしばしばあげられることは周知のことです。計算にあたっての基準、視点の違いによるも のでしょう。しかし、直接の被害者の数は甚大です。今日でも、その結果はだれしもが唖然とする程に衝撃的です。放射線被害による二次的犠牲者の総数は上記 の数を遥かに上回ります。

いずれにしろ、原爆の結果として、日本の内閣では降伏の条件についての討議が始りました。当初はいろいろな難点が指摘されたようですが、8月14日天皇の鶴の一声でことは決し、無条件降伏が指示されました。天皇としての地位だけは確保されることになりました。これをもって戦争は正式に終了しました。

しかし、原爆が投下されたのは、私や、私と同じ境遇に置かれていた者を「救出する」ためだったのでしょうか? 原爆投下の直接の目的はそこにはありませんでし た。われわれがあのときまで持ちこたえられたのは運が良かっただけです。戦争がもっと長引いていた場合、占領地にいた者のうち何人が持ちこたえきれずに犠牲者となっていたかを確定するのは至難です。

米軍が日本本土に上陸した場合には、占領地にいた捕虜と被抑留者のなかで40万人が殺害されたかも知れない、と主張する資料もあります。(そう解釈してもいい 軍の命令書がジャワ島で発見されています。)また、何十万、ひょっとして100万人の日本人が助かったのではないか、と言う者もあります。

しかし、「捧げられた」犠牲者を生き残った者で勘定をあわせようとするようなことは正当化できるものではありません。倫理の尺度を算数でごまかすことは出来ません。自分が犠牲者の中に入らなかったことを感謝することは出来ましょう。

蘭領東印度における戦争の時期だけに限定するならば、ルー・デ・ヨングによれば5000万人のジャワ人のうち、20人に一人は死亡したようです。捕虜 42233人のうち五人に一人は死亡し、抑留所の外にいたヨーロッパ人22万のうち、戦時中、何人が死亡したかは不明です。抑留されたヨーロッパ人10万 人のうち六人に一人は死亡しました。

他の者は生き延び、私も、核兵器反対のデモに娘と一緒に参加できたのです。私はそのことを有り難いと思いました。

[訳:村岡崇光]

4、 アニーさんの生涯は日本にいる私たちにどういう意味を持っていたのだろうか? | 岩堀智子(東京)

第十二回日蘭対話集会でアニーさんの追悼の時がもたれるということで、本日、日本に住む私も皆様とご一緒にアニーさんを偲び、彼女の信仰の歴史を思いつつ共に神様の恵みを分かち合えますことを心から感謝します。 

今から4年前、終戦後ちょうど60年を迎えた2004年の夏に、アニーさんはご主人のヘルマンさんに伴なわれて、日本を訪問して下さいました。

アニーさんが御国に旅立たれた今となっては、初めてであり最期となったこの訪日は神様が備えてくださった本当に時にかなった神様の時であったと思わされています。私はアニーさんご夫妻を日本にお迎えするために事務局を務めさせていただきました岩堀智子と申します。

第二次大戦終戦後、焼土と化した日本のいわゆるベビーブームと言われる時に私は生まれ育ちました。戦後生まれの私は直接戦争を知りません。

戦後63年経つ今も日本は過去の戦争に対して国として正しい検証をしておらず、戦後生まれの私達は自国の近代歴史について正しく学ぶことなく大きくなりました。

「罪からくる報酬は死です。」と聖書のみことばにあります。私達は祖父たちが犯した戦争の罪、負の遺産を担うものです。

アニーさんは少女時代に、日本軍から受けた消し去る事のできない記憶、飢えと死の恐怖、帰ることのなかったお父さまのことなどつらく苦しい過去の痛みを、イエス様の十字架を通して祈りのうちに乗り越えられ、和解の言葉を携えて日本に来て下さいました。

わたしは、あなたがたに天の御国のかぎをあげます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)と主は約束して下さいました。

神に御国の鍵を委ねられたアニーさんは東京の教会の集会で語られました。「聖霊が私に『本当に自由な生活への鍵は、敵を赦すことだ』と教えて下さいました。 自分の罪を赦されたことを体験したいまとなっては、それは私にとって決して難しいことではありませんでした。そして、私はその鍵を回したのです」と。

アニーさんご夫妻の来日は、直接御協力くださり関わって下さった方々だけに留まらず日本の多くの人々が神様と人との愛と真の平和を分かち合う感動の時となりました。

『私は日本人を愛しています。』とのアニーさんの言葉は、主の御手の中の真珠のように輝き、加害者として決して癒され得ない多くの日本人の心を揺さぶり、アニーさんの愛と信仰の歩みはベタニアのマリアがイエス様に降り注いだナルドの香油のよ うに芳しくイエス様を御喜ばせするものとなりました。

労働者のほぼ一年分の賃金に相当する高価な香油を壷ごと割ってイエス様の頭に注ぎ、できる事の最善をしたマリアの行為を周りにいた人々は理解せず無駄と思いました。しかしそのマリアの愛と献身は十字架に向かわれるイエス様への大きな励ましとなりました。絶望的に数え切れない多くの戦争犠牲者の一人に過ぎないアニーさんの訪日であり加害国と犠牲者の余りにも大きなその深淵を思うとき、『和解』という言葉は決して軽々しく使える言葉ではありません。しかし主の十字架の福音こそ隔ての壁を取り除き人を死と破滅に向かわせるあらゆる問題の解決、和解と平和の秘訣であることを教えられました。

アニーさんの旅の最後の聖日に私の属する小さな教会の礼拝にご案内しました。そして月の初めの主の聖餐式に共に預かりました。それはキリストの裂かれた肉なるパンと流された血なるぶどう酒を味わい神様による全き赦し、愛と和解を味わう恵みの時となりました。主をお喜ばせするこれに勝ることがあるでしょうか。 アニーさんのお父様ヤン・デフリースさんとお母様の圧倒的な主への愛と献身、執り成しの祈りの実としてアニーさんご夫妻と共に私も皆様も和合する事の喜び主の愛と平安、恵みを今この様に味わうことが出来る幸いを感謝します。地上でアニーさんと再びまみえることはできませんが、永遠のいのちに繋がれており、アニーさんにつづきゴールを目指して主の福音に生きるものでありたいと願います。ハレルヤ。

5、 アニーさんとエルスさんは日蘭対話の会にとってどういう方だったのか? | アドリ・リンダイヤ − ヴァン・デル・バーン

前回の会合以来、私達は二人の際立った女性に先立たれました。

今日の会合のプログラムに「アニー・ハウツヴァールトさんとエルス・ミヒエルセンさんは日蘭対話の会にとってどういう方だったのか?」という問いが投げかけられています。

しかし、彼女達にとっては日蘭対話はどういう意味をもっていたのでしょうか?

アニーさんの生涯は、少女時代に日本軍抑留所での辛い体験を出発点として、その深淵からひとたび這い上がってからは、「神の国の約束」という大きな目的を求めての不断の葛藤であった、ととらえることができましょう。この目的を目指しての苦しい旅の過程で、彼女は、自分と共に行動してくれる旅人を求め、彼等に 手を差し伸べ、彼等は彼女に勇気を与えてくれました。そういう努力は無意味であることを彼女に説こうとした人たちも少なくありませんでしたが、彼女は自分 の信仰に縋り続けました。しかし、彼女は父親の運命、抑留所での辛い体験、失われた青年時代を思うと恨みをなかなか振り切ることが出来ませんでした。

彼女は、最後に、胸の奥深くに隠された青年時代の辛い体験を、わざわざこのためにオランダを訪ねて来た日本人の作家と分かち合う勇気を見い出しました。そこに、彼女は、本当の開放と、憎しみと恨みは和解を通じて克服することができるという回答を自ら見い出したのでした。

日本人作家の林えいだい氏の筆になるアニー・ハウツヴァールトさんの生涯の物語が2000年に出版されましたが、それと時を同じくして私の主人の日記も日本語で出版され、これが「日蘭対話」のもとにその後開催された一連の集会のきっかけとなったのでした。アニーさんと御主人のヘルマンさんはこの会合に多大の貢献をされました。日本旅行から戻って来られてから開催された第8回会合での「過去を乗り越えれば未来が開けてくる」という彼女の講演は出席者に深い感銘 を与えました。最後に、その中から一部引用しますと、

「今朝私は別な日本、私達が体験した過去について知りたがっている人たち、和解のための確固たる基礎を据えたい、具体的に新しい道を切り開いて行きたいという 人たちのことを少しお話しました。私達オランダ人も先入観、偏見を捨てようではありませんか。でないと、何も建設的なことは出来ず、ぶちこわすだけで す。」

「覆水盆に返らずと申しますが、襟をただして、若い世代の無知や誤解を解くことは出来ます。オランダ人、日本人を問わず、ひとりひとりがその持ち場においてそ の義務を果たすことが出来ます。そうすることによって、主の祈りの中の一節、『御国が来りますよう』の実現に向かって私達みんなが一石を投ずることが出来 ます。」

アントワネッテさんが母親のエルス・ミヒエルセンさんについて、「母がやり遂げたことをやろうと思ったら、大抵の人は五度生まれ変わらなければならないでしょう」と申されました。

私は、ジハピト抑留所でエルスさんと識り合いになり、部活動という形で、教会がやっていた青年達のための活動に打ち込みました。集会禁止令があったりして、 楽ではありませんでしたが、抑留所内の通常の作業のほかに、できるだけのことはやりました。エルスさんは趣味を生かしてアルバイトもしていました。空の香水瓶を集めてきて、これに綺麗に花模様を描くのです。彼女が、別な抑留所へ移動させられた時、いろんなものをあとに残して行かなければならなかったのですが、絵の具や筆の入った箱は勿論持っていけませんでした。ストラウスワイクではお母さんの世話の他に、台所主任としての重責を果たしながら、趣味にかける 時間があったでしょうか?いずれにしろ、帰国してドリーベルへンに落ち着いてからこの趣味にまた打ち込むことができるようになり、陶磁器に絵を描いておられました。

戦後しばらくは私達は連絡がとれなくなりました。エルスさんはオーストラリアで将来の夫となる男性に巡り会い、ほどなく二人の娘さんが生まれましたが、私は バタビアで4人の子持ちの男性と結婚しました。私達はいずれも、夫はあとに残して、子供達だけをつれてオランダへ帰国しました。私達は、母親となるとい う、人生の新しい目標を見い出しました。何年かしてから、インドネシア帰りの人たちの会合で再会しました。そのうち、私達はいずれも夫に死別し、新しい視野を求めていました。

エルスさんはストラウスワイクの台所主任としての体験をもとにして、「不寝番、異常ありません」という本を書かれ、1996年に出版されました。

私は倅と一緒に日本へ出かけることとなりました。1996年、EKNJの会員と共に訪日しました。

エルスさんは1998年に、これもEKNJの 会員と共に訪日、2000年には私も一緒に日蘭協会が企画した、いわゆる「都詣で」の旅に参加して訪日しました。これは、私達二人が過去から解放されるのを助けてくれました。このことは、日蘭対話の集会に関わる中で、日本人と協力しながら再確認しました。ここに、相互理解、対話、歩み寄り、和解のための橋を架ける可能性を私達は見い出しました。それ以来、エルスさんは対話の集会には毎回出席し、また日蘭対話集会の世話人会のメンバーでもありました。彼女 は、この道が正しい道であることを確信しておられましたから、このような形での彼女の貢献を思う時、私達の心は感謝に溢れます。特に、ドリーベルヘンの和 やかな自宅を世話人会の会合に度々開放して下さったその御親切を思わずにはおれません。

エルスさんは良心的な、忠実な女性で、記憶力も驚く程確かで、まだほかにもいろいろと貢献して下さることのできる方でした。

その生涯を通じて、幸せの絶頂にあった時も、苦労のどん底にあった時も、彼女は自分が信仰によって支えられている、と確信しておられました。

アニーさんと同様、エルスさんについても、「彼女らの一生は、実に多くの人にとって多くの意味を与える人生であった」と言うことができましょう。

[訳:村岡崇光]

6、 閉会の辞に代えて:なぜ和解を? | E.W. リンダイヤ

1995年の末、財団EKNJ(元戦争捕虜ならびに親族)の会員に同行して初めて日本を訪ねた時、私は私の父をまだ覚えているかも知れない日本人と連絡がとれたら、という希望を抱いていました。しかし、彼等が自分達の過去と向き合うことが彼等にとって何を意味することになるかについては私には何も分かっていませんでした。

どういう反応が返ってくるか分からないまま、父が日本で捕虜になっていた時に密かにつけていた日記を恐る恐る彼等に見せました。オランダ語で書かれていましたから、彼等には読めなかったにもかかわらず、みなさん一生懸命にコピーされました。

私達が会った先生達や、歴史研究者達との話し合いの中で、戦争中のことを戦後世代の人たちに知らせずに置くことは良くない、という意見が述べられました。ほんの数日の滞在でしたが、いくつかの学校を訪問することが出来、場合によっては授業時間の組み替えが必要になったこともありました。

皆さんから快く迎えられ、また生徒さん達からの真摯な対応に接して、私達自身が戦時中の経験から抱いていた日本人像とは違った日本人の姿に接することが出来ました。あの敵性国人というイメージは大幅な改定を迫られました。

過去を否定することなく、憎しみと復讐心を捨てて、未来を見つめる道を見い出すことが必要です。それは、もはや敵としてではなく、相手を人間として尊敬するところから始ります。私にとっても、恨みの気持ちが和解への道を阻んでいたことを認めざるを得ませんでした。そのような感情はマイナス効果しかなく、問題の解決に資するところはありません。そういう感情を抱いていたことに対して赦しを請うことによって私は本当に、精神的な解放感を得ることが出来たのでした。 そこには、相手に対する弾劾の姿勢がありませんから、これは大事な一歩であり、問題解決への唯一の道でした。そのとき、心の扉は開かれ、どちらにとっても 厳しい過去についての対話への可能性が生まれます。恒久的な平和をもたらす未来を目指すにはこれよりほかに道はありません。

[訳:村岡崇光]