エド
2014年のこと、私は偶然にもインターネットで父マルティヌス・ペトルス・エーワルトの名が一つの人名リストに載っているのを見つけた。それはシンガポールから日本の門司へ戦争捕虜たちを移送する船-地獄船と言われた「梅丸」-の移送人名簿だったのである。それ以来それは私の念頭から離れることがなく、実態はどういうことだったのかをどうしても知りたいと思い始めた。
それから私は探索に乗り出したのだが、実に多くのことが埋もれたままになっていたのには驚かされた。 父の家系図、日本の収容所カード、インドネシア年金管理財団(SAIP)のデータ、この三つの書類が1938年から1950年までの父の人生を追跡するための手掛かりの資料となった。 インドネシア、日本やタイで父と一緒だった人たちの日記や旧兵士たちの話 がデータの筋書きの内容を豊かにしてくれた。父は昔私によくその時代の話をしてくれたものだがその話はバラバラに孤立した話で、調べてみて初めてその話がいつどこで起こったことなのかの繋がりが見えるようになった。 私は旅をするのが大好きだし歴史には非常に関心があるし調査の結果多くのこと知るに至ったので、父の行ったところを自分も訪ねてみようと思い立ったのである。過去への想いをまとめてみたかった。父の行ったところやその土地の人々の自分なりのイメージを持ちたかった。

それで私は2015年に泰緬鉄道・パカンバルー記念財団(SHBSS、 https://www..shbss.org/) のタイへの巡礼旅行に参加した。そこで父が収容されていた収容所のあった場所を全て歩いて回った。70年以上前に父が実に非人道的的な状況のもとで労働に喘いだ場所を歩き回るのは感動的なことだった。そこで私は「日本へ行こう!」とはっきり思ったのである。

そして2016年3月にロディー・ピータースさんと話し、その年の11月に彼女の妹のサンドラと私のパートナー、リディアも交えて一緒に日本へ行こうということになった。我々の決心の決手となったのは目撃者たちと会って直接に話ができるかもしれないという可能性であった。 ロディーとサンドラの父親も私の父と同じ収容所に入っていたのである。我々の父たちが歩んだと同じ道のりを、時には逆方向の行程も含めて旅してみようと決めた。収容所跡、入り口、建物、橋、道路などなど1944年から1945年の当時を物語る沈黙の証拠物がまだ沢山残っていたのは大きな驚きであった。あの当時父が住み、働き、生活していたまさにその場所に立ったことは、言い尽くしがたい特別な、深く感動的であると同時に非常な緊張感を伴った体験となった。目撃者や日本人専門家たちと話すことができたのは我々の旅行の幕を閉じるにふさわしい一齣となったと思う。次はインドネシアとシンガポールを訪問することが今の計画である。

父は私の人生の一部であり今の自分が形成される過程を支えた人である。1938年から1950年まで父が遭遇した状況は父に多大な影響を及ぼしたに違いない。だからこそ父の過去を探ることは自分自身を知る道でもあるのである。

エド・エーワルトさんはオランダ人で泰緬鉄道巡礼の旅に参加、現在スイスに在住し仕事をしている。

リディア

2015年はまたいつもと同じような年になると私は思っていた。パートナーのエドと私はいろいろな行楽や旅行のプランを一緒に立てる。私たちは遠い国を訪れてその国の歴史や文化を学び自然に触れることができる旅行が好きだけれども、それまではタイや日本を訪問することは希望リストの中には入っていなかった。でもエドは、彼の父親が1938年から1950年の間、特に太平洋戦争中に遠いアジアの国々-インドネシア、タイ、そして日本-でどんな人生を送ったのかについての疑問を解く手掛かりを求めて長い間模索していたのである。彼の模索の一環として私たちは2015年に泰緬鉄道巡礼旅行に参加してタイに旅行することとなった。エドに「君も一緒に行くかい?」と尋ねられたとき「そうね、行ってみるのもいいかしら」と思った。私はタイに行ったことはなかったし当時のタイの実情には興味がもてたが、殆ど何の予備知識も大した期待感も無く巡礼旅行に加わった。しかし旅行が全てを変えることとなった。

インドネシア、タイ、日本、そしてオランダの歴史や民族について実に多くの新しい情報、学校の教科書に載っていないような情報を得ることができた。私はこれらの国々の歴史をもっとよく学び、出会った人々の家族の話や経験について書き留めておこうと決めた。現地で人々の経験や目撃者たちの話を分かち合うことで歴史の出来事の理解が変わった。そうやって日本や日本人についても多くのことを知るようになったのである。泰緬鉄道建設に当たった日本人、オランダ領インドネシアやシンがポール、そして日本国内の強制収容所の日本人。私はその体験や太平洋戦争について多く彼らが語ることに聞き入った。

私はドイツ人で、戦争といえばヨーロッパの戦争の話を聞きながら育った。日本人とドイツ人は、対オランダ関係では長い間オランダに歓迎される存在ではなかったという意味で共通点をもっている。

私のパートナーの探求の旅で、彼が是非行ってみたいと願っていた日本の戦争捕虜収容所 を訪問してみようという考えが生まれた。

2016年6月初めに第二次大戦中の日本の戦争捕虜収容所に関するシンポジウムが日蘭イ対話の会によって主催された。そこで私たちはロディ―・ピータースさんと一緒に日本戦争捕虜研究ネットワークの田村佳子さんや彼女の同僚たちに会い、互いの関心から戦争のこの面についてもっと知りたい、父親たちの戦争体験を探ってみようということで2016年11月に日本への巡礼旅行を企てた。第二次世界大戦の時代へ戻る旅に出るには日本の民族、歴史や文化についてもっと知らなければならない、歴史を理解し結論を引き出すには全てを多方面から見る必要があると考えていたが、巡礼旅行と日本人との出会いは私に非常に強い印象を与えるものであった。いろいろな書物やテレビ報道やオランダ人の話から抱いていた私の日本に関するイメージは全く変わった。私の親戚の中には太平洋戦争に関わった者は一人もいなかったけれど、それでも自分自身の過去についても考えさせられることがある。日本もドイツも戦争の時代に酷いことをしたが、その時でさえ、そして今もいつも人を助けようとする人たちがいるのだ。平和な社会と和解を求めて努力する人たち、過去を美化することなく過去を正しい視点で捉えようと努める人たち。田村良子さんや彼女の同僚たちはその善き模範ともいえる人たちである。

旅はする度にまた新しい旅への想いを呼び起こす。この次は日本旅行になるかも。

リディア・ショーンマイヤーさんはドイツ人で泰緬鉄道巡礼旅行(2015)に参加。現在スイスに在住し仕事をしている。

Mrs. Oyama (88)
大山さん(88歳)は福岡8b捕虜収容所の近くの稲月に住んでいた。彼女の義父は写真家であったが収容所の病棟で強制的に働かされていた。自分の記憶を辿って収容所の図面を描いてくれた。.

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