テーマ「過去に向き合いそれを伝えよう」                                                     

サンドラ・ベーレンズ

短編映画「ありがとう」について

日本軍が蘭領東インドを占領していた時代には、私の母はまだ幼い子供でした。彼女はその時代のことに起こった怖ろしい事柄を実際に見、聞き、我慢して耐えてきたのでした。しかし、彼女はそのことを何一つ話したことがありませんでした。

私が子供のころ、日本人について知っていたのは、彼らが魚くさいということだけでした。多分、そのおかげで、肝油を呑まないで済みましたが、その当時、1960年代のオランダでは、かなり例外的なことでした。

私が初めて母の戦争トラウマに気づいたのは、彼女と電話で話してる最中に起こりました。母は、パートナーとアパートの二階に住んでおり、窓を背にして、長いすに座って私と電話で話していました。

電話の向こうで、私はカチンという音を聞きました。そして、再び、カチン、カチンと。すると母は、急に黙り込んだと思うと、突然、泣き出してしまいました。

私は一体何が起こったのか、聞きだそうとしましたが、彼女にはその声が届きませんでした。実際は、パートナーが鍵をなくしてしまって、小石を窓に当てて、彼女に合図を送っていたのでした。

しかし、この他愛のない音が、実は、母を、暴力的な処罰を目撃して恐怖に震えている子供時代に寸時に戻してしまったのでした。

何年かあと、友人が彼女に戦争賠償を受けるよう説得しました。彼女は、戦争体験についてのインタビューを丸二日間受けた後、民間戦争犠牲者に公的戦争賠償を出す機関(WUBO)から、却下されてしまいました。彼らは、彼女の話に疑問の余地があり、なぜそう判断したかを無遠慮に手紙で知らせてきました。

-あなたの父親が極端な暴力によって連れ去られた証拠がない。

-あなたに暴行が振るわれたことを確認することのできる証人がいない。

-あなたが話した出来事の証拠を何も見つけることができない。

実は、この手紙が私にこの短編映画を作らせる誘発剤になりました。母のもっている深い過去の痛みを知らせるために。

この映画を作るにあたっては、助成金や基金を何も受けず、自分で作ろうと決心しました。母や彼女と同時代を生きた人々がまだここにいる間に、急いで、これを作らなければならないという緊急さを覚えました。

私は、この映画を通して、「愛」こそ心の痛みを和らげるのだということを伝えたかったのです。自分の痛みをほかの人達と分かち合いたいと促すものも「愛」です。そしてあなたを開放し、その痛みを包み込む何かを与え、もしかするとその痛みを与えた全てを許す機会さえ与えてくれるかもしれないのです。

(翻訳:タンゲナ鈴木由香里)

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皆さん、おはようございます!

今日は、この日本、オランダ、インドネシアの対話の会にようこそいらしてくださいました。この会の世話人の代表をさせていただいておりますタンゲナ鈴木由香里です。皆様お一人お一人を心から歓迎いたします。何時間もかけてVoorburgまでいらした方もあるかと思います。こんなにたくさんの皆様がここまで足を運んでくださりとても嬉しく思ってます。

この会が、16回目を迎えるとは、西暦2000年に講演をさせて頂いたときには考えてもみなかったことでした。この間に、多くの世話人の方たちを天に送らなければなりませんでした。私たちは、彼らの仕事とまた平和への熱望を世話人の仲間とこのような形で、継承できますことを大変嬉しく、また誇りに思います。

今日、ここにこうして皆様お一人お一人をお迎えしますと、心の中にふつふつと沸きあがってくる喜びがございます。なぜなら、この対話の会は、とりもなおさず和解の会と呼ばれているからです。今日ここにいらっしゃる皆様は、様々な体験を持ちながら、この会にいらしてくださいました。色々な思いを胸に持ってここにいらしたことでしょう。そして、この会に参加しようと思ったその心の中に、すでに和解の思いが与えられたているその事実が、私を喜びで満たします。
さて、今回の対話の会は、今までの15回の会と少々趣が違っております。と申しますのは、時軸を少し現在に向けてみたからです。オランダ、日本、インドネシアの戦後、また現在のトピックを選んでみました。第二、第三世代と呼ばれている方たちもどんどん増えており、その方たちの中にもご自分のアイデンティティや心の平安を求めている方がたがいらっしゃいます。セントルム45という戦争の問題を心に抱えている方たちをサポートする施設には、第一世代よりこのような若い方たちのほうが多いのをご存知でしょうか?このことを知ったとき、たとえどんなに小さな貢献しかできなくてもこの対話の会を続けなければならないと感じました。第二第三世代と呼ばれる人達の中にも、過去に無意識に受けた多くの傷跡を癒されたいという強い願望を見出します。また彼らが自分たちのユニークなアイデンティティを確認したいと願っていることを感じます。
私たちは、これから戦後というより現在に近い話を聞くわけですが、現在は過去なしでは存在できないものです。私たちの今回のテーマは、「過去に向き合い、それから伝えよう」となってますが、今日、私たち自身がまさに過去と未来の間にある橋なんだということを覚えたいと願ってます。

昨年、サンドラ ベーレンズさんは、「ありがとう」という短編映画を製作されました。この映画が、つい最近作られたということはとても重要なことです。なぜなら、多くの人はインディッシュ(旧蘭領東インドからオランダに引揚げてきた人たち)の過去が消えてなくなると思っているからです。しかし、先ほども申しましたように、次の世代の人たちは今でも相当な影響を受けていますし、両親や祖父母の生涯に興味を示しているのです。本日、この「ありがとう」の映画の主演者ムッフ エリアス さんもお招きできたことをとても嬉しく思って降ります。ムッフさんは、戦争中の日本軍抑留所でお生まれになりました。

その後、三人の方々がサンドラのインタビューを受けます。この三人の方たちは、戦時中日本軍の抑留所に囚われて子供時代をすごしました。日本の外務省の平和交流事業を通して、日本にもいったことがある方たちです。このインタビューは何のシナリオもありませんから、まさに”サンドラとのライブ”です。とてもどきどきしますが、主催者としては、ちょっと心配のどきどきでもあります。

サンダー サリムさんは昨年までインドネシアに住んでおりました。インドネシアは、彼が生まれ育ちそして、そこから逃げてきた国です。1965年にインドネシアでは共産主義者に対しての大虐殺が行われました。このことについては、丁度数日前から、”アクトオブキリング”という映画になって、上映されています。このことがサンダーさんの人生にどんな影響を与え、またその人生を変えたのでしょう?

実は、大変残念なことに三人目の講演者である、リヒテルズ直子さんが、先週の土曜日に入院されました。日本の現在の問題について語ってくれるはずでしたが、本日は、その原稿を私が代読させていただきます。太平洋戦争の後、日本は、新しい「民主主義」の下で、大成功した国のいい例とされてきました。この今ホットなトピックは、過去のもつ意味に目を向けさせ、未来の架け橋である私たちに何を語ってくれるでしょう。彼女の一日も早い回復を祈りましょう。

この講演を通して、本日皆様が過去にまつわるご自分の人生を少し考えるときとなるに違いないと思っております。

前回、この会で東日本大震災について語ってくださった和田竹美さんからも、お手元のプリントにありますよう、その後の様子を知らせていただきました。昨年の11月に彼女にお会いしました。とてもお元気そうでしたが、あまりにも大きな喪失は、彼女の毎日の生活の中に当然ながら大変大きな跡を残しています。皆様に心からよろしくと承ってます。

日本といえば、皆さんにとても嬉しいニュースをお伝えします。実は、今年の11月にこの日蘭イ対話の会の主催で、東京のオランダ大使館で勉強会を開くことが決まりました。本日、皆様がご覧になる、短編映画「ありがとう」を日本の若者達に見てもらい、旧蘭領東インドで何があったのかを学んでもらいます。講師には、英国大使を務められた後、中央大学ロースクールで教鞭をとられた折田先生が引き受けてくださいました。先生は、外務省の平和交流事業で訪れるオランダ代表の皆さんを中央大学のキャンパスに受け入れてくださっていましたので、皆さんのうちにも先生にお会いになっていらっしゃる方もあるかと思います。

私たち日本人が学校で歴史を勉強するときに、私たちは、歴史を学ぶのですが、自分たちがその歴史から、一体何を学ぶのかと言う問いかけがされないことは、実に残念なことです。歴史の学習自体、その問いかけをするかしないかで、全然違うものになってきます。それがために歴史の授業で近代、現代の歴史がおろそかになっています。ですから、このように日本にいる日本の人たちと協力し合って、近代史、特に隠されている暗いページを知らせるということも、今後さらに重要な対話の会の務めだと認識しております。このような仕事を続けるためにサポートくださる方がございましたら、募金箱が用意してありますので、どうぞよろしくお願いいたします。

午後は、皆さんがお互いに話し合う時とさせていただきます。どうぞ対話を体験してみてください!対話は、会話とは少し違うのです。口と耳を開くよりも、心を開くことが重要です。語るたびにあなたの心が開かれていくことを経験するかもしれません。でも、もしかしたら、あなたは今日は聞くだけで、一日を終えるかもしれません。でもきっとあなた自身との対話を心の中で始まるに違いありません。

対話の会のスピリットは、日本軍の収容所で天に召されたネリー リンダイヤーさんが命を引き取る前にお子さん達に残された言葉から始まったと言っても過言ではないでしょう。「心に憎しみを抱いていては、人を愛することができないのよ。」私たちが今日集まったこの場所は、裁くことから生まれる憎しみの心と決別しようと決心し、愛することを思い出す場所です。愛することは、学び、知ろうとすることであり、許すことだと思います。私たちは、今日ここに愛が満ち溢れるよう祈りつつ、準備しました。私たちは、敵と和解するのではないのです。自分自身の人生と和解して行く必要があるのです。なぜなら、私たちの人生こそ素晴らしい価値のあるものなのです。その世界に一つしかないあなたの私のユニークな価値ある人生と新しい出会いができる時となりますよう、心から願っております。

どうぞ、心が躍るときをお楽しみください!

ご清聴ありがとうございました。

それでは、最初の講演者をご紹介します。

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サンダー・サリム

私の履歴を手短に

私は1966年2月にインドネシアのジャワ島の西のバンドンで5人兄弟の長子として生まれました。父は、軍人でしたが、繰り上げ退職しました。母は仕立業を営み、かなりの業績を上げていました。

1985年の11月中旬に、デルフトで建築学を学ぶために私は留学生としてオランダに到着しました。卒業後、フリーランスの建築家として働きましたが、オランダでもオートメ化、ディジタル化が進み始めた頃は情報産業分野で職を見つけるほうが易しく、そのほうが安定した収入を確保することが出来ました。私は直ちに建築士のペンをマウスに取り替え、2007年までITの専門家として働きました。その後、現在の伴侶を連れて、オランダ在住の外国人と共同事業を始めるために国外に移ることに意を決しました。私たちはインドネシアのジャカルタを含めて色々な国に昨年3月まで住みました。現在はアムステルダムで画廊の経営、並びに写真家として働いています。

本題 インドネシアに対する信頼の回復

祖国を後にした頃と比べてインドネシアに対する私の気持ちは今どのように変わったか?

祖国を後にした時、私は二度とインドネシアに戻らないつもりでした。当時の空気には人を押しつぶすようなものがありました。自分の生い立ちと皮膚の色が主な理由ですが、自分は差別されている、と感じました。もうひとつの理由として、家族の宗教観との溝も多少影響していました。

一番最近の(2011年)国勢調査によれば、インドネシアの17,508の島に2億3千7百万人が住んでいるとのことです。もっとも、無人の島もあり、ジャワ島だけでも1億7百万人の人口を抱えています。この膨大な人口の中で、2000年の国勢調査によれば、中国系はわずかの1%だったそうですが、実数は3ないしは4%、否5%に達したかもしれません。過去において他民族との結婚は少なくありませんでしたし、国勢調査が行われたとき、いろいろな理由から中国系として登録することを好まなかった人も少なくなかったからです。中国はもうとっくの昔に無くなった多くの王国時代からインドネシアと通商関係がありました。中国人は、当初は、商売人として、或は労働者、船乗り、兵隊などとしてインドネシアに来ました。その後、女性、若夫婦、時には家族ぐるみでこの広い国へやって来ました。彼らの大半は貧しい人たちでしたが、新天地でよりよい未来を築く決意でやって来ましたし、その中にはその志を果たした人たちも少なくありません。

私もこのような少数民族としての中国系インドネシア人という背景をもっているわけです。過去4、5代にさかのぼる私の先祖はジャワの原住民たちと交じり合い、インドネシアに帰化したわけですけど、17歳以上だと誰でもが携帯しなければならない証明書に出身地と皮膚の色が記録されることになっていますから、それが私たちの運命を決する眼に見えない烙印となりました。私たちの行動を制限しようとするのは国の正式の政策ではなく、実際生活においてもそういう制限はありませんでした。人種と宗教によって人を区別するというのはオランダの植民地統治の遺産です。

たいていの人がそうでしたが、私たちも政治とはできるだけかかわらないようにしました。スハルト政権、その政権と軍との密接なつながりに対する何とはなしの恐怖心がありました。もちろん、自分の身内を除けば、他人をそうやたらと信頼することはできませんでした。スハルトやその政権について批判的なことを口にする時は声をひそめてやっていたことを今でも覚えています。

1965年末の暴動で多数の者が殺害されたのは共産党による軍に対するクーデーターの結果であった、ということを一般市民は知らぬふりをしている方が安全だったのです。学校では、共産主義者は血も涙もない、人間の数に入らない連中で、宗教を禁止するに違いない、と教えられました。だから、この敵をインドネシアは完全に払拭しなければならない、というのでした。長年、共産主義者と無神論者は同一視されました。共産主義に対する恐怖心から、私たちは5つの公認宗教の中からひとつを選ばされました。

スハルトの前任者のスカルノも主張したインドネシアの共産党と中国との密接な関係故に、中国と中国系であるということはどちらも同様に冷たい眼で見られることになりました。先祖崇拝を勧める儒教、中国人の宗教は一神教を主体とするインドネシアの思想体系に合致しませんでした。無神論に近いように言われて、禁止されました。その結果、イスラム、カトリック、プロテスタントの他に、何百万という神様を拝むヒンズー教、神の概念を特に重視しない仏教がまともな宗教として公認されました。私の家族と子どもたちは、本気でそう信じていた面もあるでしょうが、同時にそう信じているように装っておいた方が将来の出世を助ける、ということもあってカトリック或はプロテスタントに改宗し、一部の叔父や叔母はこれからは仏教ということで通用することになった古くからの中国系の宗教を固守しました。

1966年、私の誕生のちょっとあとに、父はインドネシア系の名前のような響きのするものに私の名前を改めました。上官に言われたからだったのか、私の将来の身の安全を思ってだったのかは知りません。その後、私たちがまだ小さい子供の頃、またもや今度はSBKRIなる証書をもってインドネシア国籍を確認しなければなりませんでした。この書類がないと、何かとややこしくなり、不可能とまでは行かなくとも、国立大学への入学は至難で、身分証明書や旅券の取得もままならず、公務員に採ってもらうことも不可能でした。

この書類を入手するのに父がどれだけの時間と金をかけたのか知る由もありませんが、やたら時間がかかったことは今でもはっきり覚えています。喉から手が出るほどに欲しかったこの緑色の書類が1982年にもらえた時の両親のほっとした様は想像を絶します。私たち5人の子供はみんな、とある事務所に出頭してその証書を受け取らなければなりませんでした。私たちの旅券の、公式の印鑑を押してある緑色のページに子供ながらにも署名をさせられました。一番下の、当時8歳の弟は親指の肉印を代わりに使うことを拒否し、兄、姉と同じように署名するのだ、と頑張りました。正真正銘のインドネシア国籍の証拠が欲しかったのです。16になっていた私には、このやりとりにはあきらめの気持ちもありましたが、自分がこういう風に扱われるのに立腹もしました。母は100%インドネシア人だし、インドネシア軍にいる父だって実質的にインドネシア人なのに今更、という気持ちでした。おじいさんだっておばあさんだってインドネシア生まれ、ずっとインドネシアに住まい、墓だってここにある!

私たちは、インドネシアでは安全でないような、歓迎されていないような気がしました。自分の名前を半強制的に変えさせられ、先祖の言語を嫌らしいものと思わされ、別な宗教に改宗させられ、インドネシアに対する愛国心をまたもや証明させられるとなっては、私たちの心情も無理からぬものがありました。私の家族の中にも、中学校の学友の中にも、いつかはインドネシアを出ることを夢見ている者が多くいました。

インドネシアの中国人は、騒動が起きたようなとき、政府も、軍も、また警察も十分な保護をしてくれることができない、またしてくれるつもりもないことを知っていました。そういう事態になると、中国人はしばしば犠牲者になりました。幸いにも、私たちの家族はいろいろな恐ろしいめに遭わずにすみましたが、私が子供の頃、両親が非常に不安な時期を通って来たことを記憶しています。父が軍隊にいた、ということが私たちは助かるかもしれない、という唯一のかすかな望みの綱でした。

インドネシアに対する私の信頼感—不信感と言った方が良いかもしれません—が最低に落ち込んだのは申すまでもなく、1998年初頭の暴動でした。国内経済の混乱と財界の乱脈ぶりが発端でしたが、結果として恐ろしい残虐行為が行われ、多数の中国人が命を落としました。この膨大な数の犠牲者と、変革を求めた人たちの闘争が最後には1998年5月のスハルト政権の没落と現在の自由を生み出しました。

2000年には、元大統領アブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥルの名でも知られる)はインドネシア再建にあたっての中国人の貢献を認め、同時に中国暦の正月、宗教としての儒教をも新たに導入しました。彼は、祖母の一人は中国系であったことも告白しました。それ以来、中国系であるということはインドネシア古来の部族の一員であるということと同じ重みを持つようになりました。現行の身分証明書は2004年以後、人種を記載しないことになっています。宗教も記載しないように、という声も聞かれます。政府がそこまで踏み込むかどうかは今のところ未知数です。

これまで述べましたことは、きわめて個人的な私の体験ですが、美術品の売買に従事していて、ここ数年、色々な背景をもつ若いインドネシア人の芸術家達と接触するようになりました。わたしは昔からの欧米の蒐集家、年とともに増える中国人、そして裕福なインドネシア現地人達とも交渉があります。これは以前とあまり変わっていないのかもしれません。芸術の世界はいつも違っていましたから。自由な精神をもった芸術家ならば、キャンバスと絵の具の上にあるまがいもない色彩を観るのであって、肌の色には注目しません。変わったのは、中国人の中に、将来性のある芸術家のパトロンになり、ひろく公開された個人の画廊や美術館を通じて現地の芸術に対して関心を示すだけでなく、このような形の芸術に表現の場を提供していることです。建設的な雰囲気の中でお互いに尊敬し合い、刺激し合うことができるのです。今日のインドネシアの芸術家達には政治家に対して批判的な声を届けることのできる可能性が増えています。絵画、文学、映画、演劇などの芸術作品を通して何らの問題なく、日常的な犯罪や不正を俎上に載せることが出来ます。

たしかに自由は増しましたが、現在のインドネシアは今なお別な種類の厄介な問題を抱えています。腐敗政治は民主主義、経済の発展、国民全体の福祉の成長にとって最大の障害です。イスラムでない他宗教に対する非寛容(例えばアフマディア)とか、少数ながら勢力の強い狂信主義者達による言動は多くの人にとって頭痛の種です。この若い国家で権力を入手するめに外観だけの敬虔なイスラム教徒を装う人たちに一般市民が惑わされないように、というのが今なお私の切望するところです。

現大統領が最近はツイッターに登場して失策をも辞さないということは、わたしにとっては、新しくつちかわれた信頼の証拠以上のものです。インドネシアを訪問する度に、わたしはインドネシアの若い人たちの誇りを感じます。ええ、若い中国人の間でも同じです。新しい世代は、過去の痛みに縛られず、その名をインドネシアという新興国、約束の地を大きな希望を抱いて見つめています。

(翻訳:村岡崇光)

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リヒテルズ直子2011年の津波災害以後何が変わり何が変わらなかったか?

内容

1. はじめに

2. 福島第一原発事故後の両極分化した社会

3. 日本の学校教育と近代化

4. おわりに

はじめに

先月大阪市長で、「日本維新の党」の共同代表者でもある橋下徹が「慰安婦」について次のようなコメントをしました。「あれだけ銃弾が飛び交う中、精神的に高ぶっている猛者集団に休息を与えようとすると、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」。 このコメントは世界中に抗議の嵐と衝撃の波を引き起こしました。

日本の既存の政治家らが第2次世界大戦中における「慰安婦」制度への政府の公式関与を認めたがらないことは、今日までにすでによく知られています。

安倍現首相はこの橋下氏の非難轟々のコメントに対して距離を取りましたが、安倍首相自身、かつて、戦時中の政府による「慰安婦」制度の存在を否定したことがありました。また最近でも、安倍首相は、戦前の中国への日本の侵略は、侵略という語に値するかどうかは、専門の歴史家が決めることだと言ってはっきりと認めることを避けています。当然、中国からすぐに抗議を受けることとなりました。

2012年12月に自民党が政権に戻って以来、安倍首相は、反動的政治見解で知られるリーダーたちとともに「教育再生会議」を発足させ、すでにかなり国家主義的で中央集権的な性格を持つ学校制度をさらに一層その方向で強化しようとしています。安倍や会議のメンバーらは、全ての生徒に対する悉皆学力テストを施行し、テスト結果によって学校や地域をお互いに競わせる、教科書検定を拡大する、序列的秩序を基にした伝統的価値意識に基づいた道徳教育の強化する、教員の教室での教育実践に対する国の一層管理することなどを目指そうとしています。

私は、この10年近くオランダの教育と社会システムについて著作や論稿を発表してきました。私が目的としているのは、オランダの教育システムこそが日本に相応しいとか、ましてや、それを輸入すべきだといった考えを強化することではありません。そうではなく、私は、日本の人々が、異なる角度から自分たちのモノの見方・考え方を見直すための材料を提供したいということなのです。私は、日本の人たちが、これまで、当たり前だといつも考えてきたことについて、もっと批判的になってほしいと願っています。

先のような政府の教育「改革」議論を見てみると、それが、「教育の自由」という、学校や教師たちに、自らの教育理念に基づいて学校での実践を行うことを認めるオランダのシステムとは全く正反対のものであることがわかります。

おそらく今、皆さんは、次のようなことを思っておいでではないでしょうか。

· 日本はなぜ繰り返し繰り返し反動的な政治過程をたどっていくのか?

· そういう多くの論争を引き起こすような政治家がなぜ日本の政治リーダーになれるのか。

· こういう政治家は、本当に日本人の大多数の考えを反映しているのだろうか。

福島原発事故後の両極分化した社会

残念なことに、これも最近もう一つ醜いニュースが日本から伝えられました。このニュースは、政治家についてではなく、一般庶民についてです。

今年の4月21日、在日韓国(朝鮮)人住民の居住が多いことで知られる東京都内の一地域、新大久保で500人ほどの右翼デモが行われました。これらの居住者は、大半が、戦前から長く日本にいる韓国人(朝鮮人)たちで、ほとんどが日本で生まれ、大半は両親も日本生まれの人たちです。デモに参加した人たちは、これら在日外国人に対して「外国人を国外へ追い出せ」「日本から出ていけ」あるいは「外国人は死ね」とまで言う「ヘイトスピーチ」を行いました。デモに集まった右翼の人々は、集まる前に、インターネット上で、無記名でネットワークを作っていたとも言われています。

幸い、こういう右翼の動きに対して、反抗議を行う市民もかなりの数いました。進歩的な政治リーダーたちは、こういう現象に対してどう対処すべきかを議論する公開会議も開いています。また、多くのジャーナリストらは、こういうデモンストレーターたちの衝撃的な行動に対して憂いてもいます。一般的に、多くの人々が、韓国その他のアジア諸国からの居住者に対するこういう「右翼的な」公開示威行動が増えてきていることに不安を感じています。

このデモ行動が北朝鮮の軍事脅威に対する直接の帰結であったことは疑いもありませんし、あるいは、尖閣諸島をめぐる中国や台湾との政治論争の影響もあるのかもしれません。しかしながら、私は、個人的には、この衝撃的な行動は、この人たちが子どもの時、また、学校で、民主的な市民になるための適切な指導を受けたことがなかったことによる論理的な帰結であると思っています。学校や教師が教え方や使用する教科書について自ら決定をするための自由がほとんどなく、しかも、常に、地方や国の政府からの序列的な監督の下に置かれているという制度の中では、子どもたちは、独立の批判的な市民として行動するようには育てられていません。教師たちが民主的市民として待遇されないというのに、彼らにいったいどうやって子どもたちにデモクラシーを擁護するようにと教えられるでしょうか。

この議論をさらに続ける前に、ここで、私は、次のフィルムを皆さんに見ていただきたいと思います。この短いフィルムは、荒井潤さんが友人と創ったものです。荒井潤さんは私の友人であるとともに原発反対の運動家です。

FILM: FUKUSHIMA GENPATSU by Jun Arai https://youtu.be/akWyyHS5Y4k

皆さんもよくご存じの通り、2011年3月11日、日本の東北地方は巨大な地震と津波に見舞われました。16000人に及ぶ人命が失われ、6000人以上が傷害を受け、40万戸近くの家屋が破壊されました。今でも、30万人以上の人が家を失って避難民として暮らしています。

津波被害の規模だけでもすでに想像を絶するものでした。しかし、政府や日本中の人々に、それよりもはるかに深刻なインパクトを与えたのは福島の原発事故でした。地震は天災で、私たちは防止することができませんから、何らかの方法で、その被害と立ち向かう以外にはありませんが、原発事故は明らかに人災で、この事故は、今後ずっと犠牲者や心あるボランティアたちの非常に大きな不満と怒りを生み続けていくでしょう。

事故が起きた最初の日から、市民グループは自主的にインターネット上で生のレポートを放映し始めました。これまで、政府の原発拡大政策に対して批判的であるために旧来の放送局に招待されることがほとんどなかった原子力の専門家たちが、市民運動家に招かれて、一刻一刻変化する福島第一原発の事故の模様を説明していました。

実際、この事故は、突如として、全国規模での原発議論を開くこととなったのです。私も含め、大半の人々は、この時になって初めて、火山と地震でいっぱいの列島に54基もの原発があったことを知ったのです。

一般に、人々は、ただ不安でどうしてよいかわからないと感じることとなりました。なぜなら、日本の中では誰一人として、最早完全に安全であるとは言えなくなっていたからです。誰にとっても常にどこか近くに原発があるのです。それに、地面は時々揺れ、すぐにまた、日本国内かその近くで、また巨大な地震が起きるかもしれない、と思わされるのです。

これまでかつてなかったほどに多くの人々、特に若い人々が、進んで原発について、また、原発拡大の後ろにある政治過程についての信頼できる情報を求め始めました。人々は、テレビや新聞など、商業的な企業のスポンサー下にある従来のニュース源からの情報に対して批判的な見方をするようになりました。そして、抗議のための会合を開いたり、政治的手段について議論をしたりするようになりました。進歩的な著者や学者は、日本で初めてのグリーン党など、新しい政党の発足を指導しました。ジャーナリストたちの中には、商業目的のスポンサーシップや関与のない情報を提供するために、独立した新しい放送局をインターネット上で設置したりもしています。

けれども別の側面もありました。

今年の3月、私が企画したオランダの学校訪問をする学生グループに、孝子さん(仮名)と言う20歳になる福島の学生が参加していました。孝子さんは私に、原発の影響下にあったことで、今では、子どもを生むことに不安があると言いました。原発事故の翌月、彼女は、福島大学に入学しています。毎日、学生たちは、汚染された土壌が除去されている場所のそばを通って大学に通います。そこには、放射能レベルを示す電子ボードが置かれています。時々、そのレベルは不安になるほど高いのですが、その場所では、人々を守るために何らの手段も取られていませんし、学生たちは、いつものようにクラスに出席するよう期待されています。大学の授業をどこかほかのところでやろうという案もないと言います。孝子さんのある友人は、婚約者から婚約を破棄されたとも言います。その婚約者は別の地方の出身で、放射能の影響下にあった地方の人と結婚することで、将来健康や子供たちの影響というリスクを負いたくないという理由からだったそうです。

ソーシャルメディアの上に書かれたブログを読むと、こういう話がいくらでもあります。原発事故は、突如として、福島やその周辺の人々に、死や病気や障がいなどの不安と共に覆いかぶさってきたのです。さらにそのうえ、この被災者たちは、しばしばアウトサイダーから敵意に満ちた待遇さえ受けているのです。福島から避難してきた人たちの中には、避難の途中で、店やガソリンスタンドに入ることを拒否されたという人もいます。公共交通機関の中では、どこから来たのかを隠し、方言を使わないようにしなければ、他の人たちから差別の眼で見られることを怖れたと言います。福島の人たちは、放射能の犠牲者であるというだけではなく、放射能によって汚染された人として見られているのです。

もちろん、全国各地から市民が集まり沢山のボランティア活動によって、津波と原発事故の被災者に対する救援活動が行われてきました。しかし、この被災者たちに対して、多くの敵意に満ちた反応もあったのです。

この災害の後、日本社会は、完全に両極分化してしまったかに私には見えます。

社会の両極化は、災害の前にもありました。長く続く経済不況下で、貧富の格差は明らかになっていました。日本の人口は、持てる者と持たざる者とに分かれていました。それは、経済的な両極分化でした。しかし、被災後、この両極化の性格は少し変化し、政治的なものに変わってきています。一方では、人々は、しばしば高学歴の人たちですが、社会への関与に積極的となってきています。しかし他方では、非常に多くの数の人たちが、おそらく、現状下でどうしていいかわからないという不安の中にいるものと思われますが、自らの背を社会に向けてしまった人たちです。この状況は、人々を、何らかの政治リーダーの大衆的な表向きの言葉遣い、政治からの安っぽい人気に影響を受けやすいものにしてきています。

当時私に最も奇妙に思われたのは、ニュースが民主党政権に対する批判に一貫していたことでした。民主党は、災害からわずか1年半前、60年間に及ぶ自民党政権が作り、維持してきた社会制度の改革に対する有権者からの幅広い期待を受けて、政権についています。

民主党は、経験が少ない、しかも、複数の党派グループから成る政党で、内部の組織を固めるためには時間が必要でした。外交及び国内問題についての重要な政治項目についてやっと取り組み始めたばかりでした。そして、改革の形がやっと端緒につき始めた時に、これらの災害が起きたのです。54基もの原発建設の責任が、主として、それまで、何期にも継続して政権を握ってきた自民党にあるにもかかわらず、野党のリーダーたちは、未曽有の災害の最中にある日本を救うために政権に協力するのではなく、民主党の閣僚を攻撃するという選択をしました。

災害以後日本の政治には、非常に多くのことが起きてきましたが、この講演の限られた時間で詳しく立ち入る余裕はありません。

2012年6月16日、民主党の野田首相は、大飯原発の再稼働を決定しました。原発事故後民主党政府が止めたすべての原発の中で、最初の再稼働でした。前述の橋下徹は、実際には、始めは、原発再稼働に反対で、そのために、多くの有権者の支持を得ていたのです。しかし後になって、彼は、態度を変えています。彼は、何か強いイデオロギー的原則を持っているというよりも、状況に応じて自分の政治的見解を安易に変えることで知られた人物です。実に効果的に、2012年12月に行われた、原発後初めての議会選挙で、彼(および元東京都知事の石原新太郎)が率いる新しい「日本維新の党」は、54議席を獲得しています。自由民主党はこの選挙で480議席中294議席を獲得して政権に復活、2009年の選挙からなんと175席の躍進でした。民主党は、劇的な敗退をし、308議席から57議席に減少しています。

明らかに日本には、今、ポピュリズムに支配された政治という問題が存在しています。ポピュリズムが広がる理由にはいくつかのことが指摘されると思います。私自身は、三つの要因が重要な役割を果たしていると考えています。1)候補者の大多数が、小選挙区で選ばれる現行の選挙制度、2)問題になっている政治課題に関し、科学的に信憑性が高く、政治的に偏向のない情報を提供することができない政府、そして、最後ですが、決して小さからぬ問題として挙げられるのが3)中央集権的な学校制度、です。

これらの三つの要因のすべては、日本がいかに閉じられた社会であるかを示すものです。

時間がありませんので、この後の話しは、最後の要因、すなわち、中央集権的な学校制度についてのみお話ししたいと思います。

日本の学校と近代化

ここで私が問題にしたいのは、日本の学校システムがいかに中央集権的に組織されているか、ということではなく、むしろ、日本の学校制度はなぜ中央集権的に組織されているのか、ということです。

この問いへの答えを見つけるためには、歴史を振り返ってみる必要があります。

日本における近代的な学校制度は、明治の初期、日本の政治リーダーたちが産業革命と帝国主義による植民地の拡大によって先進的であった西側諸国に追いつくことに躍起となっていた時に始まりました。最初の近代的な学校は、すべての子どもたちが同じ教育にアクセスする、つまり、どの子どもにも、より良い仕事に就くための階段を駆け上っていくための同じチャンスを与えるために、全国に作られました。政府は、一方では、ヨーロッパの教科書の中身をそのまま翻訳しましたが、他方では、道徳教育として、中国に始まり、後に、日本の解釈に適合された儒教的価値観を取り入れました。その結果として、学校は、西側諸国の教科書からは科学的知識を教えながらも、序列的な秩序を教えることによって、この同じ知識に対して、疑問を投げかけたり、批判的に考えたりすることはしないようにと教えたわけです。この道徳教育は、ご存じのように、戦時中に全体主義と軍国主義とを許可していくこととなります。

広島と長崎に二つの原爆が落とされた後、日本は、連合軍の占領下に入り、社会の民主化が、米国の監督下で始まりました。全体主義的な教育制度は放棄され、新しい、アメリカからの、競争主義的な学校制度が取り入れられました。

日本の多くの教育学者たちは、この新しい制度への変革は、日本の近代教育の歴史の中では、画期的な改革であったことに同意します。しかし、私は、その中で、一つのことが変化していなかったと考えています。それは、学校教育が、またもや、国が、最もできる子を選ぶためのものであり、一人ひとりの子どもが、全人格を持った一人の人間として完全に発達できるためのものではなかったということです。今度は、軍国主義支配下ではありませんでしたが、急速な経済発展という文脈の中で、それを支えるために行われることとなりました。

西洋諸国における近代教育は、大抵、フランス革命後、ナポレオン支配期に始まっています。それは、産業革命の影響のもとで行われ、学校教育の重要な目的は、子どもたちを産業発展の中で、良い働き手、良いリーダーとして育てることにありました。しかし、独立した市民、また、市民社会という政治的な文脈の中では、科学の枠組みに基づいて、好奇心や、独立で批判的かつ分析的な思考能力を発達させることも同じように重要なものでした。

でも、日本ではそうではなかったのです。私は、前に、日本の教育のモデルとして西洋の学校教育が用いられたと言いました。しかし、そこには、企てがありました。日本は、このモデルを知識とテクノロジーのためには取り上げましたが、その後ろにある哲学は取り上げなかったのです。思想の自由や良心の自由は、当時の政治リーダーたちによって、こっそりと、日本の伝統的な規範、すなわち、序列的秩序への同調主義に置き換えられたのです。そして、これは、戦後も、民主的なシチズンシップという考えによって置き換えることは決してありませんでした。不幸なことに、米国は、意図してか、あるいはそうせずしてか、第2次世界大戦後間もなく、冷戦が緊迫していく中で、日本社会をより民主的なものにしようとすることについての関心を失いました。

60年代および70年代における日本経済の急速な成長は、実際、子どもたちを勤勉と知識を暗記することで競わせることへと駆り立てていくまさにこのシステムに基づいて起こったとさえいえると思います。それは、批判的思考、創造性、協働、コミュニケーション、シチズンシップなどを促進するシステムではありませんでした。

おわりに

17年にわたってオランダに暮らし、また、深く考えさせられることの多い皆さんとの議論を経てきた作家として、私は、これまで、皆さんのストーリーを日本の人々に伝え、日本の民主制度を向上させるために働かなければならないという強い責務を感じてきました。

私は、数冊のオランダの教育システムに関する本を、シチズンシップとデモクラシーの観点から書いてきました。私が初めての本を刊行して以来これまでの年月の間に、私は、日本をもっと良い、より民主的な社会にするために働いている、多くの意識の高い運動家、出版社、作家、学者、学生たちと知り合いになってきました。その数は、まだ小さいかもしれませんが、増え続けています。

先にご紹介した女子学生、孝子さんも、私の案内の元でオランダの学校を訪れてきた、少なくない数の学生たちの一人です。一般的に、彼らを案内しているとこんな経験をします。まず、日本の学生たちは、小学校で、4歳の子どもたちまでが一緒になって、サークルを作って、自分の教室や学校での問題を話し合っているのを見て、言葉を失います。彼らは、しばしば、オランダの学校の先生たちがどれほど多くの自由を持っているか、また、公的資金を使って現職教育を受ける機会がどれほどあるかに驚きます。学生たちは、親たちが子どもの権利を代弁することができ、実際、保護者が、先生たちと一緒にたくさんの学校の活動に参加しているという事実に印象付けられます。子どもたちと教員と保護者とから成る親しみのある関係によってつくられた、オランダではどこでも良く観られる<学校共同体>という概念は、多くの日本人にとっては全く新しい考え方です。

こういうことに触れた後、学生たちの目は輝き始めるのです。旅行日程をただこなしていくという受動的な態度から、学生たちは、いろいろな問いかけをせずにはおれなくなるのです。

時として、私は、私の世代も含み、古い世代から受けついてきた、ありとあらゆるたくさんの問題を抱えながらこんなにも両極分化してしまった日本を変えるのはもう遅すぎるのではないか、と思うことがあります。しかし、何もしないより遅い方がまだましでしょう。そこで、私がみなさんにお願いしたいのは、このことです。どうか、皆さんの経験や見解を私たちと共有し、ダイアローグを続けてください。

私たちは皆、ある意味では、私たちが、始めに、最終ゴールだと思い込んでいた産業発展というものが持つ同じ問題に直面しているのではないでしょうか。しかし、私たちのゴールは、単に物質的な豊かさにとどまらず、精神的な幸せであるはずです。私たちのうち、誰一人として、お互いに友好な関係を持ち、健全な自然に囲まれていることを望まないものはありません。今日、非常に大きな規模で、世界中の市民が、ますます、この同じ問題に取り組もうと参加し始めていることは、いかに印象深いことでしょう。残念ながら、卑劣な政治リーダーたちは、私が得るものはあなたは失う以外になく、あなたが得るものは私は得られないという、ゼロサム・ゲームを繰り返し唱え続けているようです。ダイアローグこそ重要で、デモクラシーもまたそうです。

デモクラシーを維持していくためには、人は、継続的なダイアローグを必要とします。真の民主的な社会の発展という観点からして、私たち日本人は、まだやっと学び始めたばかりの初心者なのだということを、私は認めざるを得ません。

私の話に耳を傾けてくださり、どうもありがとうございました。

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村岡崇光

閉会の辞

先月、私は家内と共に故アドリ・リンダイヤさんのお墓を義理のお嬢様のアダ・リンダイヤさんのご案内で訪ねました。皆さんの中の大抵の方がご承知のように、リンダイヤさんは対話の会が2000年に発足して以来、洞察力に富んだ、熱心な指導者でした。また、私達は昨年、これも既に鬼籍に入られたヘルマン/アニー・ハウツヴァールトさん御夫妻とミヒエルセンさんのお墓参りをしました。この御三人も対話の会の世話人会の活発なメンバーでした。墓碑の傍らで私は来し方に思いを致し、私達がともに語り合ったこと、交換した意見に想いを馳せました。私達の思いは一つの点で一致し、そこに焦点が当てられていた、と思います。それは、とりもなおさず、オランダと日本という二つの国が、そして現在はインドネシアも加わって三つの国が共有するところの歴史に正面から取り組もうという意志でした。本日ここに集まっている私達もこの三つの国のどれか一つに属するわけですが、私達は東南アジアで展開したところの太平洋戦争という歴史を共有しています。オランダ人とインドネシア人にとっては、申すまでもないことですが、共有された歴史は更に3世紀長いわけですが、この対話の会の焦点は初めから20世紀の歴史にありました。今日ここにいる私達のなかで、その歴史を個人的に生きた人はごく少数でしょう。そして、その数は年々減っていきます。初めにお名前を挙げた方々以外にも、私達はもう二人の方々と御別れせざるを得ませんでした。ご両人とも素晴らしい発表をもって私達の会合を飾って下さいましたが、ウィンクラーさんと難波先生です。

ベーレンズさんの素晴らしい映画で捉らえようとしておられる問題の一つは世代間の断絶ということか、と御見受けしました。大抵の人は自分の辛い過去、自分が不当に蒙むった苦しみや損失については語りたがらないものです。それがために、その子孫達は、知らぬが仏そのままに、先祖達の記憶の箱の奥にしまい込まれた彼等の辛い体験、歴史には無頓着に育ちます。日本の場合がそうですが、若い世代には修正した国史を教えるように政治家や指導者達が意図的に努め、そのための仕組みがきちんと出来ているような国もあることは、リヒテルズさんの話しからも分かりました。2001年開催の第三回対話集会はまさしくこの問題をテーマとし、リヒテルズさんは日蘭両国における歴史教育を比較され、私はドイツにおける歴史教育について発表しました。最近の集会の閉会の辞を述べられたオランダ人の方は、この国で学童達が蘭イの間の歴史について教わっていることにもまだなお改善の余地が多々ある、と発言されました。サリムさんの細やかな発表から、インドネシアの歴史についてどの程度のことが、どのように現地で教えられているのかは良く分かりませんでしたが、2004年に私が彼地を訪問した時には、日本占領時代、特にその余り芳しくない側面については多くを教えていない、ということでした。それは、日本人の癇に障るようなことを言って経済的な報復をされることを警戒していたのではないか、と思います。それはともかく、現地の中国系の人たちが現代インドネシアの歴史の中で果たした重要な役割は、サリムさんのお話からしても、余り好んで教えられるような事柄ではなかった、と推測してよいでしょう。

映画「ありがとう」から浮かび上がるもう一つの重要なテーマが「過去を忘れることはできないが、過去を赦すことはできるだろうか?」というふうに表現されています。しかし、この問題をこのように表現しますと、もう一つ、重要で、しかしややこしい哲学的な問題にぶつかります。つまり、人格をもたない「物」を許すことが可能だろうか、という疑問です。暗くなってから通りを歩いていて歩道に転がっていた鉄の棒につまずいて、足の親指を傷つけたら、「この鉄の棒の馬鹿野郎め! 見てみろ、なんちゅうことをしよった!」と即座に呪いたくなるかもしれません。呪うということはいけないことでしょうか? 赦すべきなのでしょうか? でも、「はい、鉄の棒さんや。 赦してあげますよ」、と言ってみても、相手はニコッとしてくれるわけでなし、すり寄ってきて血の噴き出している親指をそっとくるんでくれるわけでもありますまい。 映画でも、「コー」という男の子がかつての恐ろしい日本占領軍を象徴することになっていた筈です。赦し、和解は人格をもった、あるいはそれに近い個人或いはそのような個人の集団同士の間ではじめて可能なものではないでしょうか。

本当の意味での赦しと和解は、たとえどんなに辛くとも、被害者と加害者とがその過去に正面から、真摯に、勇気をもって向き合う時にはじめて可能です。加害者は自分が犯した悪行を認め、被害者に赦しを乞い、然るべき弁償をしなければなりません。相手を赦すかどうか、弁償の要求はしないことにするかどうか、それは被害者の一存にかかっています。

私の祖国が所謂「慰安婦」問題にここ最近対処してきたその仕方は、自国の歴史の負の部分に対処するにあたって取ってはいけない態度の最善の例になっています。悪名高い大阪市長、橋下氏は、臆面もなく慰安婦制度の事実性に疑問を表明しました。彼の支援者の安倍首相は6年前に同じことをやって国際的に総スカンを喰らいました。日本側は、この問題はとっくに解決済みである、村山首相の時に謝罪している、と言い続けます。謝罪があったのは確かです。しかし、2010年の対話集会でブラッセルの横畑さんがこの問題について発表された直後に、私は、日本外務省の公式の、日英両語のサイトに、まさしくこの問題に関する以下のような文面があるのを偶然に発見しました。

『慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かった。その場合も戦争の拡大とともにその人員の確保の必要性がたかまり、そのような状況の下で、業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケースも数多く、更に、官憲等が直接これに加担する等のケースもみられた。』

これでは、戦時中の強制売春を正当化しようとしていることにならないでしょうか? 橋下は、従軍慰安婦は必要悪であった、と発言して世界中の顰蹙を買いました。日本外務省は、戦線の拡大とともにその必要は増大した、とずけずけ言い放つ神経をもっているわけです。その戦争はだれがおっぱじめたんだったでしょうか? まったく! いやはや!

上記のサイトの記入は1993(平成5)年8月になされています。そのまさしく同じ日に当時の内閣官房長官河野は戦時中、強制売春の事実があったこと、慰安婦の徴集、慰安所の設置、管理に日本軍が直接、間接に関与していたことを公に認め、謝罪したのです。2010年11月、更に翌年3月、私は日本の外務大臣宛にメールではなく、手紙を出し、日本政府によるこの二つの公式表明の間の矛盾に注意を喚起し、上記の文言の削除を考慮して頂きたいことを伝えましたが、今日にいたるも梨の礫で、問題の文書は今でも手つかずでそのまま残されています。

今日観せていただいた映画でもそうでしたし、テンブリンクさん、ヴァルクさん、ヴァンデボーデゴムさんの応答からも分かったのではないかと思いますが、過去を直視する必要があるのは加害者だけではありません。リヒテルズさんは「2011年の津波の災害以後何が変り、何が変っていないか?」という問いを投げかけられました。あの空前の大地震・津波より一週間後、オランダの有力紙NRC Handelsbladに「犠牲者の眼は私達に向けられている」という題の一ページ大の記事が出ました。これはフランスの「ルモンド」とノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の間の対談の全訳です。フランス語の記事の原題はNous sommes sous le regard des victimesでした。大江がここで語っている犠牲者とは2年前の災害の犠牲者のことではなく、廣島、長崎の被爆者、更に、1954年3月1日、太平洋ビキニ環礁で米軍が水爆実験をしていた海域を誤って航行して被爆した第五福竜丸の船員達のことを指しています。大江は、戦後代々の日本政府は、彼が「曖昧さ」と称するものによって特徴づけられてきた、ということを強調します。日本は基本的な、肝心の問題についてのきちんとした決定をすることを先送りにし続けてきました。憲法第9条、自衛隊、沖縄だけでなく日本全土に散らばる米軍基地、原子力発電問題等々です。2011年3月11日に、日本各地で50を超える原子力発電所が稼働していた、という事実は、私達日本人が、人類史における核エネルギの最初の犠牲者でありながら、自分たちの歴史から教訓を学んでいなかった、という証拠ではないでしょうか。現日本政府は、まだ2年そこそこ前の大災害からきちんと学ぶことを頑として拒み、出来るだけ早く、出来るだけ多くの原子力発電所を稼働させることに肚を決めています。国籍の如何を問わず、私達人間は多かれ少なかれ似たようなものです。歴史から学び、歴史を残していく必要があります。「前事不忘、後事之師」と中国の先哲は言いました。この私達の対話集会も、この精神に徹し、お互いに過去の歴史から学び合い、太平洋戦争と植民地支配の時代の辛い体験、その記憶、その歴史に対処し、三つの民族の間に和解と平和の橋を架ける途を模索したい、というのが私の切に希うところです。

最後に、今日の3人の発表者、3人の応答者、世代の隔てを感じさせない日本人音楽家の母子、準備委員の皆様方、この会場の職員の方々、そして出席者の皆様方に深甚よりの謝意を表します。道中気をつけてお帰りになり、今夜はひとつゆっくりお休みください。

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