本エッセイは、早稲田大学「和解学の創成~正義ある和解を求めて~」サイトに掲載されたものを転載したものです。

 

タンゲナ鈴木由香里(日蘭イ対話の会代表)

学術的な話はできないが、四十年ほど前からオランダに在住しており、この間に私が見聞きし、経験してきたことを以下に記す。これは2018年12月8日に早稲田大学に於いて和解学のメディア版の研究会で話させていただいたことをまとめたものである。

自己紹介

1968年の高校3年生の時に交換留学でアメリカに一年間滞在した。その一年は貴重な体験を色々することができたが、その中でもいまだに忘れられないことがある。同じプログラムでアメリカに来ていた韓国人の留学生に、’僕は、日本語がはなせるよ、チョーセンジンノバカヤロー!“と話しかけられたことだった。それまでの私にとって、戦争というのは母から聞いた焼夷弾の恐ろしさや原爆のむごく悲しい話であり、教室で習った朝鮮や台湾を植民地としていた事や、アジアへの侵略は机の上のお話でしかなかった。当時はヴェトナム戦争がまだ長引いていた時で、アメリカの普通の高校生も戦争や平和についてよく議論していたころだった。そして私の周りには戦争反対の友達が多くいたので、そうしたことに正義感を感じていた私には、目の前に自分の国の過ちを突きつけられた気がした。その経験から大学では国際関係に興味を持ち国際社会学を鶴見和子先生から、そして文化接触学を平野健一郎先生の授業とゼミで学んだ。

卒業後、小さな商社の駐在員としてオランダや英国で働き、その後オランダ人と結婚してオランダに住み始めたころ、またもやショックな出来事に出逢った。ある日、上品な見知らぬご婦人から、突然スーパーで、あなたは日本人?と声を掛けられた。外国の常で、東洋人は大体シネーゼ(中国人)と言われるので、にっこり笑って、そうです!と答えた。するとそのご婦人は、彼女が太平洋戦争中、強制的に日本軍の抑留所に入れられていたこと、そこでいかにひどい目にあったかをとうとうと話し始められた。

1980年前後にそんな経験を二度ほどした。当時、オランダ人の中に住んでいた日本人は、たいていこのような経験をしていたのを後になって知った。オランダが現在のインドネシア、当時のオランダ領東インドを植民地としていて、第二次大戦太平洋戦争中に日本軍と戦ったと言う事は知っていたものの、民間のオランダ女性や子供たちまでが劣悪な環境の中で、強制抑留され、過酷な扱いを受けていたことは全く知らなかった。涙を浮かべながら、そんな話をされるご婦人から逃れるように家に帰ったのを、今でも克明に思い出す。その時になぜそれほどショックを受けたかという理由が二つある。戦争中とはいえ、その方が話すような蛮行を日本軍が婦女子にまでした事実と、自分がそういう事実をまったく知らなかった事を深く恥じたからであった。その後、次第にオランダ語も覚え、新聞やテレビも分かるようになると、この国ではドイツと日本については、まるで悪の象徴のように言ってもOKなんだ、と言う事に気づいた。これほど反日の国だとはつゆ知らず、とんでもない所に住むことになってしまったと思い悩んだ。チューリップと風車の美しい夢の国は、一転してぎすぎすした反日感情のあふれる暗い国に見えた。

日蘭戦争

では一体戦争中どんなことがあったのか。

写真提供NIOD

戦時中約6万5千-7万人のオランダ人婦女子が抑留所に隔離されていた。戦争終盤になると抑留者が増え、竹で作られた台の上に母子4人で大体畳2畳ほどの場所しか与えられなかった。

写真提供NIOD

抑留所の一日は、点呼で始まり、昭和天皇のご真影の前で最敬礼を義務付けられていた。日本の警備兵たちはおおむね残酷で些細なことで、殴る蹴る、南国の炎天下にバケツの水を両手に持って立たせるなど、暴力が日常的だった。参照:「母への賛歌」(いのちのことば社)

戦争が終わりに近づくにつれ、食料は一日おかゆ一杯あればいい方で、医薬品もなく、栄養失調や、病気が蔓延し、多くの犠牲者が出た。

オランダは、今のインドネシアを300年以上、植民地として統治しており、インドネシアと言ってもその頃はまだインドネシアという国があったわけではなく、当時は部族により分割された広大な島々からなる土地で、太平洋戦争後、初めて国として成立した。現在のオランダの富裕な財産の基礎の多くは、この植民地から得た利潤だと言われている。

この300年以上の統治の中で、当然、現地人との間に子供も生まれたが、植民地政策では現地人との結婚は許されていなかった。しかも、人種差別をはっきり打ち出した、あくまでも白人を頂点としたピラミッド型の社会で、このピラミッドの上ちかくにいた人たちが、主に日本軍の収容所、抑留所に入れられたのだった。南アフリカの人種差別の事をアパルトヘイトというが、この言葉はオランダ語で、そういった人種によって階級を定めた植民地統治がここでも行われていた。それ故、抑留者たちにとって白人種でない日本人に頭を下げなければならないことは、ことさら強い屈辱だった。この収容所に入れられた人々の数は、捕虜、婦女子すべて合わせるとおよそ9万人と言われている。つまり、父親は、捕虜として、母親と子供たちは民間抑留所に入れられていたと言う事になる。また、男の子は、11歳になると母親から引き離され、少年抑留所に移され、そこで様々な苦役が課せられた。こういった収容所に入れられなかったオランダ系の人たちはラッキーだったかと言うと、決してそうではなく、収穫したほとんどすべての食糧を日本軍が取り上げてしまうので、食料が極度に乏しく、しかも、独立運動が始まっていた地にあって、現地の人たちとの間で生活するのは容易はなかった。

写真提供NIOD

この写真は多分日本人は、ナチスドイツの収容所の写真と考えるだろうが、オランダを含めた連合国の捕虜たちは、劣悪な環境の中、捕虜収容所で強制労働につかされていた。

写真提供NIOD

タイとビルマ(現在のミャンマー)にまたがる泰緬鉄道の強制労働収容所は、映画などでも有名だが、ここでは、捕虜の何と38パーセントが死亡している。そして、その鉄道が完成した後、彼らは、さらに日本などに移送され、国内の炭鉱や鉱山、造船所など、当時130以上あった日本国内の捕虜収容所で、またもや過酷な労働を強いられた。

写真提供NIOD

ここでさらに忘れてならないのは、インドネシアをはじめ「ロームシャ」と呼ばれたアジアの国々からかり出された人々で、彼らは、連合国の捕虜たちよりもさらに過酷な扱いを受けた。しかし連合軍の捕虜たちに関してはかなり正確な名簿があり、数字が出ているがが、ロームシャの数は、20万人以上と推測されているのみで、自分の家に戻れた者は約20パーセントほどだっただろうと言われている。

日蘭イ対話の会

オランダは、日本が鎖国をしている間も、出島に商館を持ち続け、日本との独占貿易をしていた。また戦後も、両国は大変友好的な関係を築いていた。ところが、日本とオランダは、表面上では大変友好的な関係の国だとみなされていたにもかかわらず、オランダ国内は実に反日的な国だと言う事は日本ではあまり知られていなかった。例えば、それよりさかのぼって、1971年には昭和天皇がオランダを公式訪問された際、トマトや卵が投げられたり、植樹された苗が引き抜かれたりした。また、1986年にオランダのベアトリクス女王が日本を訪問されるという予定が発表された時、国中で大反対の嵐が起こり、とうとう取りやめられてしまった。さらに、1991年には、海部首相が、蘭領東印度の戦争犠牲者の記念碑に捧げた花輪が、数時間後に近くの池に投げ捨てられていた。ところがこういったことはあまり日本のメディアは大きく取り上げず、このような状況にもかかわらず、両国の眼は経済関係にばかり向いていた。そんな両国は2000年を通商四百年の祝賀の年として、華々しく祝っていた。しかしその裏に隠された現実をしっかり見据えて、オランダの日本人クリスチャンとオランダ人クリスチャンたちによって、小さな出版記念会(*)が催された。オランダに住んでいる日本人と、日本軍によって肉体や精神に大きな傷を負ったオランダの人々が、戦後初めて公けに出会う機会が設けられた。最初はその会は一回限りで企画されたのだったが、参加者からもっとこういう機会を作ってほしいと言う要望があり、以来、毎年開催され、現在までに20回もの対話の会が開催された。
*「インドネシアの記憶:強制抑留所」林えいだい著 「ネルと子供たちへキスを」 Wim Lindeijer(ヴィム リンダイヤー)著

 

 

昨年(2017年)はその第20回目を記念して、対話の会の本が出版されたが、この会はあくまでも個人と個人との直接対話による市民レベルの和解をすすめている。また、日蘭両国が、その豊かな資源を搾取し、その権利を巡ってその地を戦場にしてしまったインドネシアも2012年に加わり、活動の幅がさらに広がっている。

 

 

四十年前と比べて突然日本人に話しかける人もいなくなり、東日本大震災の時は国中が日本のために祈り、寄付を集めてくれた。そして対話の会に集まる人々は、少しでも自分を憎しみから解放しようと参加するが、オランダの中では、現在も毎月第二火曜日に、ハーグにある日本大使館前で日本に賠償を要求するデモが繰り広げられている。

 

写真提供SJE*

写真提供SJE

*SJE(対日道義負債補償財団https://www.japanse-ereschulden.nl/english/

では、オランダの反日感情のこの根強さは、どうしてなのだろうか?

終戦を迎えて即座にインドネシアは独立宣言をしたが、オランダは、またその地を植民地として再び手中に収めようと試み、二度の軍隊派兵がなされた。しかしついに1959年、インドネシアは独立を勝ち取り、それによって、そこに住んでいたオランダ系の人達は自分の国と思っていた南国の楽園を追われ、オランダという寒い国に移住を余儀なくされた。しかもそこで待っていたのはドイツとの戦争で疲弊しきっていたオランダの冷たい対応だった。彼らは自分たちが築いた豊かな植民地の生活を追われ、全財産を失って、自分の国とされていた寒い北ヨーロッパの国に難民のように追いやられた。その無念さを抱え、日本人さえ攻めて来なかったらこんなことにはならなかったのに、という強い思いがいまだに消えないでいる。

また捕虜だった人々に関しては、他の連合国の捕虜たちと東インド軍の捕虜たちには大きな差があった。他の連合国の捕虜たちは家族を母国に残してきたが、オランダ人捕虜は自分が収容されていた間、夫人や子供達など、家族も抑留所に入れられていた。そして、連合国の捕虜たちは戦争が終わって母国の自分の家に帰れたが、彼らはさらに次の戦争に駆り出され、挙句の果てに国を追われてしまった。

実際、戦後七十余年とはいえ、現在でも、殆どの犠牲者たちは、原爆のおかげで自分たちは助かったと言ってはばかりがない。自分たちは何もしなかったのに犠牲になったと感じている人々も多くいる。大体のメディアも同調しており、面白いことに、原爆反対のスローガンとは、あたかも矛盾がないようにすり抜けている。日本の一般的な戦争認識とは、相当大きな隔たりがある。コロンビア大学のキャロル・グラック教授は各国の歴史教科書は「集合的な記憶」にすぎないと(*)言ってはばかりがないが、この隔たりを埋めるのは、並大抵ではない。しかし、先ずその隔たりの存在を理解しなければ、何も始まらない。その隔たりを個人としても認め合い、信頼関係が得られて初めて、和解が成り立つのではないだろうか。相手を理解し、認め合い、共に生きようとする意志と「寄せ合う心」が双方に必要で、そのような取り組みが、私たち、対話の会の存在意義となっている。

*「ニューズウィーク」コロンビア大学特別講義2018(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/post-9829.php?utm_source=newsletter&utm_medium=mailmagazine&utm_campaign=20180328

2018

 

そのような隔たりを少しでも埋めようと、六年前から日本でも「対話の会インジャパン」を、オランダ大使館の協力のもとに開催している。また、あちこちの大学や高校でも機会があるごとに話しをさせてもらっている。双方の国の持つこの戦争の記憶のギャップを少しでも埋めたいと、大海の一滴ではあるが、毎年日本に足を運び続けている。

 

 

対話の会の活動は、2012年よりカンファレンスの開催にとどまらず多岐にわたっている。その一つに長崎の捕虜収容所跡地に、長崎市民が記念碑を建てる活動があるのを知り、積極的に参加した。そして、長崎市民が捕虜抑留所福岡第二分所で労働を強いられたすべての犠牲者の事を覚え、2015年に立派な記念碑を建ててくれたことをオランダに紹介するため、ヴィデオや本の出版をした。除幕式にはその収容所の生存者やその家族を招き和解の実現を経験できた。この碑には、対話の会の創始者の一人、村岡崇光名誉教授(ライデン大学)の勧めで、「私たちの過ちを反省し」という一節が碑文に入れられた。https://www.dialoognji.org/ja/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88/

 

一昨年(2016年)6月には、日本にあった捕虜収容所と捕虜の研究をしている日本のPOW研究会メンバーの研究者たちを招いて、NIOD(アムステルダムにある国立戦争資料館www.niod.nl)で、シンポジウムを開催し、日本で現在でもこういう研究が地道に続けられていることをオランダに印象付けることができた。

https://www.dialoognji.org/ja/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AEpow%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80/

Ernst de Groot(photo)

 

8月15日は日本では終戦記念日だが、オランダ各地では、解放記念式典が執り行われる。その中で日本人が一番多く住むアムステルダム郊外のアムステルフェーン市で一昨年(2016年)オランダ史上初めて、日本人として、解放記念碑の前で献花を許された。一緒に立ち会ってくれたのは、戦争中、日本軍政下のインドネシアで日本軍人を父として生まれた対話の会の書記で、彼はいまだに父親を捜している。オランダにはこのような日系オランダ人が二百人ほどいると言われている。この日系オランダ人に関してはNHKが2017年に素晴らしいドキュメンタリー番組「父を探して~日系オランダ人・終わらない戦争」を作りベストドキュメンタリー番組の賞を得た。

https://www.dailymotion.com/video/x63rp2m

https://www.dailymotion.com/video/x63rp5g

戦争が終わって、70年以上も経っているのに、いまだにその悪夢にうなされている人々がオランダにいると言うことを一体どれほどの日本人が知っているだろうか? 和解は、決して無知からは生まれない。私たち日本人が、そんなことは知らなかったと言う事で、さらにその傷を深くしている人々がいることをまず知っていただきたいと言うのが、私の日本での活動の目標である。

 

 

その活動の延長で、中高生用に歴史の副読本を作った。長崎市香焼町の捕虜抑留所福岡第二分所を舞台として一人のオランダ人捕虜を軸に歴史を学ぶ。この本には、収容所の外にいた香焼の人々の当時の生活も聞き取り調査して書かれており、現在、全く同じ内容の日本語版を作っている。収容所跡に建てられた中学校初め、長崎の学校に配布する予定であるが、これもかなりユニークな活動だと自負している。このプロジェクトの聞き取り調査には、この香焼中学の生徒たちも参加し、協力してくれた。

オランダとインドネシア

戦争中の日蘭関係を語る時にインドネシアの人々の声をしっかり聴く必要がある。前述しているが、2012年に、日蘭対話の会は名前を、日本ーオランダーインドネシア対話の会と変更した。それは、2011年の対話の会で、インドネシアの出席者から指摘されたからだった。戦前の植民地統治と戦後のインドネシア独立戦争におけるオランダとインドネシアの関係にも、和解と対話が必要だという事実もあるからだった。

第二次大戦終戦後、インドネシアは独立宣言はしたものの、政権の真空状態が起こり、多くの民衆が暴徒化して旧宗主国のオランダ系の人々を虐殺しようとした。その暴徒から収容所の人々を守るよう指示されたのは旧日本軍で、そこで命を落とした日本兵も多くあった。その事は、今でも語り草になっているが、この時期をベルシアップと呼んでいる。日本兵の中にはインドネシア独立のため日本に帰らずオランダ軍と戦った兵士も多くいた。

その後、オランダが宗主国として再び政権を取り戻そうと、本国から、二度の派兵をした。そのことをつい最近まで、オランダでは、「警察行動」と呼んでいた。つまり、自国の政情安定を図るためのものという見方だった。また、国際的には、インドネシアの独立記念日は独立宣言の会った1945年8月17日とみられているが、オランダが独立を認めたのが1949年だったので、いまだに学校では独立は1949年と教えている。しかし、2005年8月15日の日蘭戦争の犠牲者を悼む記念式で、時の外相、ボット氏がもうインドネシアの独立を1945年と認めようではないか、と言うスピーチをし、その足でインドネシアの独立記念式典に出席した。ただ、これはいまだに公式の見解とはなっておらず、時代の流れと共に今現在、どうしたらいいものかという問題が政府に突き付けられている。

さらに、インドネシア独立戦争中に夫たちを虐殺されたインドネシアの未亡人たちが、オランダ国を相手取って、オランダの裁判所で戦争犯罪の訴訟を起こし、2012年にそれが認められ、オランダ政府はその村に謝罪をし、賠償金が支払われた。今まで無傷でいたオランダで、軍隊の戦争犯罪が暴かれてきたのだった。その時点で、政府は実際何があったかを調査するよう、専門組織に依頼したが、インドネシア側が合同調査をしないだろうと言う外務大臣の観点から流れてしまった。しかし、それに続くように、2015年にOostindi(オーストインディ)教授がライデン大学主導のKITLV(Konikrijk Instituut van Taal-Landen en Volkenkundeオランダ王国民俗学研究所・東南アジアおよびカリビアン学)から、また2016年にNIMH(National Institute of Mental Health国立精神衛生研究所)の歴史学者、Limpach (リンパッフ)氏が、それぞれ蘭イ戦争の中でオランダ軍が何をしたかと言う事に言及する論文を発表し、それが本として出版された。これは多くのメディアで取り上げられセンセーションを起こした。これに呼応するように、政府は、2016年12月に”Dekolonizatie, Geweld en Ooorlog in Indonesia 45-50”(1945~50年の間にインドネシアで起こった非植民地化、暴力と戦争 www.ind45-50.org)という学術プロジェクトを立ち上げた。ジョクジャカルタのガジャ・マーダ大学と共同で、実際に何があったかの検証をNIOD(Nederlands Instituut Oorlogs Documentatie(オランダ戦争資料館・戦争における民族浄化および大量虐殺研究所)、KITLV、 NIMHに依頼し、2021年9月にその研究がまとめられる予定である。また2019年にはNIAS(Netherlands Institute for Advanced Study in the Humanities and Social Sciences)により、国際カンファレンスが開かれる予定である。これは、他国の非植民地化戦争の比較と検証がテーマとなっているが、帝国主義時代の植民地支配の流れに乗った日本の韓国や台湾、中国の植民地化とその後の関係をグローバルな目で検証する時が待たれる。

このほか、インドネシア系オランダ人の第二・第三世代が自分たちの両親や祖父母に対する政府の不当な待遇を不服として、バックペイという行動を起こしている。それは、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となった東印度軍兵士や東印度の役人たちに支払われなかった給料の請求を軸としている。結局、2017年の時点で生存していた人たちには支払われたが、その遺族には支払われず、いまだにこの問題はくすぶっている。

そう言った意味では、この数年間、オランダ国内では、過去の奴隷制の問題や人種差別の問題など、自国の暗い歴史を直視しようとする流れがさらに激しくなってきている。これには、当然、元植民地から本国に『帰国』した人々の第二・第三世代が深くかかわっている。つまり、マーブルのように色彩豊かになったオランダの国民が自分たちのアイデンティティをオランダの歴史に明記するよう求めていると言えるだろう。そしてそれを支えようとする若いオランダ人の存在も大きな力になっている。

戦中戦後のオランダのメディア

ドイツに占領されたオランダは、ドイツのプロパガンダや反ユダヤ人といった内容の限定を受けていた。しかし地下で、反ナチスの粗末な新聞なども発行され、特にロンドンから反独のラジオ放送があった。もともと、ジャーナリズムと政治はある意味で主従関係にあり、政治家とジャーナリストは同類とみなされていた。

戦後はその反省から、為政者から独立した報道に移行し、戦時中は、違法だった報道機関が主流になった。より客観的に物事を伝え、政府への反対意見が増えていった。しかし、四十年ほど前のメディアは前述したようにドイツと日本に関しては何でもありで、ドイツ人をモッフ、日本人をヤップという蔑称を今だに目にすることがある。当時、東インド帰りの漫談のエンターテイナーが語る日本人を揶揄する話に腹を抱えて笑っているオランダ人を見るのは非常に辛かった。今でもヤップと聞くとドキッとする。

オランダにおける和解

それでは、一体オランダではこの和解という言葉は何を意味しているのだろうか? これは、一般の日本人にはあまり馴染みのない聖書を抜きには説明がつかない。キリスト教における神と人との関係がベースにあるからだ。キリスト教では、人間が己の日々の罪を自覚して神に許しを請い、神の子キリストの十字架の犠牲ゆえに赦されるという基本的パターンがあるからだ。「口で告白して義とされる」ことを繰り返し教え込まれてきているからだ。これは、有名なドイツのヴァイツゼッカー博士の演説の底流をなしている。

また、対話の会に参加するほとんどのオランダ人は、旧蘭印からの引揚者たちとその家族だが、彼らはオランダの中ではマイノリティに過ぎない。ゆえに、いまだにオランダの公式戦争解放記念日は、ドイツから解放された5月4日である。こういったことは、蘭印帰りの人々に苦い思いをさせている。彼らは、なぜ自分たちがこの国にいるのかをすべての国民に知ってもらいたいと願い、彼らと和解を望んでいる。たいていのオランダ人にとっての戦争はドイツとの戦いとその後に続く飢えであった。たった3日でドイツに併合されてしまった小さな国、オランダで、ナチスに雷同した人々も多くあった。またオランダからナチスの収容所に移送され、殺されたユダヤ人が一番多かったことや、アンネの日記でも有名になったがオランダ人の密告者も多くいた。たった今(2018年12月)、オランダの国鉄が第二次大戦中ユダヤ系住民を収容所に送る仕事から暴利をむさぼったと、謝罪をし、賠償金を払うと言うニュースが入ってきた。つまり、本家おおもとのオランダ人も自分たちのアイデンティティを探して決着をつけたがっているのだ。

しかし、遅いながらも自国の過去の膿を出さないと気が済まない国民性が現代のオランダ社会に出ていることは否めない。その根底に流れているのは、矢張り「口で告白して義とされる」であるに違いない。

移民にも、奴隷の末裔にも、白人にも黒人にもその中間のどの色の人種にも、彼らにとって共有できる『義』(正義)が存在しているように見える。そこに羨ましさすら感じる。このような『義』を見失った国にはどんな和解も成立しないことは確かである。

日蘭イ対話の会の話に戻るが、私たちは、和解というものが単に個人の一時的な経験に終わるものではなく継続されていくべきものであり、次世代に繋げていくべきものだと考える。そして、当事者が共に仕事をする大切さを強調し、一つのプロジェクトを共同で行ったり、小中学校の教育面でさらに寄与していきたいと願っている。戦争体験の継承は大切だが、何を継承するかがさらに重要だ。憎しみを増幅するようなことを排除しつつ、できるだけ相対的な視野を与え、戦争悪を訴え続けることこそが、平和の礎であると信じる「対話の会」の使命である。