テーマ:75年後の自由?!
2020年11月7日(土) ライブ配信
2020年11月8日(日) Zoomセッション
11月7日(土)プログラム
- 歓迎の辞 – ヤネケ・ロース
- 「平和は遠く離れたところのスローガンではない」 – タンゲナ鈴木由香里
- 「対話、話、言葉:同じ歴史を語っているのか?」 – フリドゥス・スタイレン
- 「道が分かれるときは、そのままに」 – オディ・ドウィカヨ & ロン・ハビブ
- 「過去の過ち、認めること、対話術」 – ニコル・イムラー
- ラウンドテーブル・ディスカッション (講演者、インドネシア等) – ウィム・マヌフトゥ
- まとめ – ウィム・マヌフトゥ
- 閉会の辞 – 村岡崇光
- Captives Hymne
- 第一日のおわりに – ヤネケ・ロース
1- 歓迎の辞 ⎮ヤネケ・ロース
(YouTube 00:00 – 10:44)
このような例外的な時代だからこそ、最大限の柔軟性と創造性が求められています。皆様ご存じのとおり状況は目まぐるしく変わり、参加者100人までは認められていたものがゼロになってしまい、ついにはCT教会に集まることすらできなくなってしまいました。
しかし、最新の技術と、対話セッションのリーダーや我々の顧問の貴重なサポートのおかげで、第22回対話会議を開催することができ、対話の会を代表して皆様をお迎えできること、大変嬉しく思います。また、この会議を開催することができたのも、オランダ健康・福祉・スポーツ省の多大な支援のおかげであると感謝しています。
また、日本の公共放送であるNHKには、一身上の都合で日本に滞在中のタンゲナ鈴木由香里代表のスピーチを撮影していただき、私たちのカンファレンスにも注目していただいたことに感謝しています。
午前と午後のプログラムという通常のカンファレンスの形式を踏襲するのは難しいと判断し、本日のプログラムは講演とラウンドテーブル・ディスカッションのみとさせていただきます。講演の合間には、短い休憩時間を設けていますので、パソコンから離れることも可能です。また、講演者への質問を投稿することもできます。皆様にお願いしたいのですが、質問は、チャットボックスを使用せずに、わたしたちが皆様にこのカンファレンスへのリンクをお送りしたときに使用したメールアドレス宛にメールで送っていただけますか? 休憩時間に流れる音楽は Malle Babbe のものです。おそらく皆様の多くがご存じの曲だと思います。
会議をオンラインで開催することは、国境を越えて、インドネシアと日本のパートナーに参加してもらうための素晴らしい機会となっています。これは、オーストラリアやアメリカ、ヨーロッパ諸国の友人にも当てはまります。
明日のプログラムは全てが対話セッションとなり、午後に行われます。登録された方には、ダイアログセッションへのアクセス方法についてのお知らせが届いているはずです。私たちの会議に馴染みのない方のために説明すると、対話セッションでは、少人数のグループで安全な環境の中で個人的な経験を共有する機会を提供しています。このセッションでは、政治的、社会的な議論をするのではなく、相手の話に耳を傾け、相手を理解しようとすることを目的としています。人々が自分の経験や感情をより深く理解することができるのは、このようなセッションの中なのです。経験豊富なセッションリーダーと少人数のグループに分かれて活動しているのは、人々が自分自身を表現できるような安全な環境を作る必要があるからです。また、これらのセッションがビデオに保存されておらず、ストリーミングされていないのもこのためです。
今年は私たちにとって非常に重要な年です。第二次世界大戦後75年の節目の年であるだけでなく、2000年から開催してきた対話の会カンファレンスの20周年の節目の年でもあるのです。20年前に、本日閉会の辞を述べていただく村岡崇光教授の発案により、オランダと日本からの、バックグラウンドも世代も全く異なる参加者が集う場となりました。参加者は皆、アジアにおける第二次世界大戦とその後の影響に何らかの形で関わっていました。オランダ、日本、インドネシアの人々の間で実りある有意義な対話を行うことが私たちの使命であることから、会の名前にインドネシアの「I」が付け加えられました。そして2015年には「日蘭イ対話の会財団」として登録されました。
2014年には、在日オランダ大使館の支援を受けて、日本への架け橋となること、そして和解に向けて毎年開催する対話の会インジャパンをスタートしました。次のセッションでは、タンゲナ鈴木由香里が私達の日本での経験や学んだことについて詳しくお話します。
このカンファレンスは、来年末にスラバヤで開かれるシンポジウムも含む3年間のプロジェクトの一環として、インドネシアでの架け橋づくりに向けた足がかりとなるものです。かつて私たちを隔てていたものが今では私たちをつなぐことができるのかどうか、今がそれを探求する時であるように思われます。この機会を利用し、研究が有意義な交流の出発点となるようにしたいと思います。
スラバヤのアイルランガ大学やオランダのARQ国立心的外傷センター、そしていわゆる「脱植民地化研究」に関わる研究者たちとのコラボレーションは、今までの方法と異なる形で歴史に声を与えるのユニークなきっかけを作ってくれました。対立的で善か悪か、という形ではなく、人々の人生が語られ、それを聞くことができる報告と対話という形で、そして最も重要なのは、これは何らかの形で第一世代の人々が関わっている、ということです。もう一つ極めて重要なのは、これが年配者と若者の世代間の相互作用であることです。対話は相互理解につながり、共通の歴史の空白のページを埋めるための有益な情報を提供してくれるかもしれません。その結果、オランダ、インドネシア、日本の教材を充実させることができるかもしれません。
しかし、どのようにして始めればよいのでしょうか。また、このように異なる背景や歴史を持つ人々、残虐行為を目撃した人々、二世や三世の人々、異なる国に住む人々、一方は植民地化した人々、他方は植民地化された人々の間の対話の複雑さに敬意を払うにはどうすればよいのでしょうか。どの言語を使えばいいのでしょうか。異なるレベル、異なる時代、異なる文化の中で、一つの共通言語を見つけ、二極化した論説の中を航海することは可能でしょうか。どのような言葉が適切なのでしょうか、革命、脱植民地化のような言葉、そしてどのような視点からでしょうか。インドネシアの視点、オランダの視点? インドネシアの全て、オランダの全てを代表する視点などというものが存在するのでしょうか? どのようにしてお互いの話を聞き始めればいいのでしょうか、どのようにすればお互いを本当に理解することができるでしょうか。
次の講演者であるフリドゥス・スタイレン教授に、これらの複雑な問題に光を当てていただけることを大変嬉しく思います。スタイレン教授はアムステルダム自由大学の社会科学部に所属しているだけでなく、ライデンの王立東南アジア・カリブ研究所の上級研究員でもあり、「インドネシアにおける脱植民地化、暴力、戦争、1945-1950年」の研究に携わっています。
スタイレン教授に続いて、インドネシア人でモルッカ出身の歴史家、オディ・ドウィカヨ氏とロン・ハビブ氏の共同プレゼンテーションが行われます。彼らの個人的な話は、私たちの共通の歴史の複雑さを説明してくれるでしょう。
そして最後に、ユトレヒト人文学大学のニコル・イムラー博士が、歴史的不正、認識、対話の芸術について講演されます。彼女は、共通の歴史としての植民地時代の過去を議論する際の言語の使用についてのフリドゥス・スタイレンの考察を詳しく説明し、対話の概念がこの点で何を提供してくれるのかを説明します。彼女は自身の研究プロジェクトを用いて、そのような共有言語を実現する方法を説明します。
全ての講演終了後、テーブルディスカッションに入る前に、皆様からの質問に対して簡単な説明をする機会を設けます。このセッションとディスカッションの司会進行は、歴史家・研究者・学芸員であり、司会者としての経験も豊富なウィム・マヌフツ氏が担当します。マヌフツ氏には明日の対話セッションの総括もしていただきます。
それでは、皆様が実りある一日を過ごされることを祈りつつ、日本からお話をしてくださるタンゲナ鈴木由香里さんをお迎えします。
2. 平和は遠く離れたところのスローガンではない – タンゲナ鈴木由香里
(YouTube 10:44 – 38:38)
このようにいまだに新コロナウィールスは私達の自由を束縛している中、今日、この第22回日本。オランダ、インドネシア対話の会にご参加くださいまして、どうもありがとうございます。
只今、ヤネケが紹介くださったように、日蘭イ対話の会代表のタンゲナ鈴木由香里です。もしかするとお分かりいただけるかもしれませんが、実は私は日本からの帰りのフライトがキャンセルになってしまい、現在まだ日本におります。ですから、今回の対話の会がこのようにオンラインで開催されるよう大変な努力をしてくれたのは、私の敬愛する同僚たち、ヤネケ・ロース、ロブ・シプケンス、トン・ファン・ゼーランドと次期役員となるインゲ・デュンペル達であります。
さて、今回の私たちの対話の会は、三回連続で一つのテーマを考える第一回目です。私たちにとって大きなチャレンジとなる次回の対話の会は、インドネシア、スラバヤで開催する予定です。私たちが直接インドネシアの市民の皆様と対話を試みようとする事は、私たちにとって未知の領域でもあります。ですから、今日私たちが私たち自身の足元をしっかり見つめ、インドネシアに出ていく明確な動機を確認し、どのような意識で出かけていくかを皆様とご一緒に確かめようとすることは不可欠であります。
今日のプログラムは「75年後の自由」、という公けのテーマに太字で疑問符を付けたものです。この太字の疑問符には二つの意味があると思います。一つは、75年前、オランダは本当に自由になったのか、という疑問と、私たちは戦後75年経った今、本当に自由だと感じているのか、という疑問です。そんなことを考えながら今日一日をぜひ有意義にお過ごしください。
また、健康福祉スポーツ省の助成金のおかげで一連の対話の会の開催が可能になりました。このことは私達のこれからの仕事の励みとなり、心から感謝致しております。私たちはたった5人の小さなNGOですが、常に活動の内容を深め視野を広げるためにほかの団体と協働したいと願っています。今回はARQ 国立トラウマセンターに協力をいただき心から感謝しております。
さて、本日私が皆様とお分かちさせていただくことは、対話の会が一体日本ではどのような活動をしてきたのか、またその中から、私たちがインドネシアに出ていくにあたり学べる点はあるのか、また何に注意しなければならないかをまとめてみました。
日本でも対話の会が活動をしていることをご存じの皆様もあると思いますが、この活動は2013年に始まりました。村岡教授夫妻が対話の会を引退された後、色々困難な問題があったもののこの会を継続している中で、この会を続けていくためにどうしてもしなければならないことに突き当たっていました。それは、私の個人的な体験からくる強い思いでもありました。私はオランダ人と結婚しこの国に住み始めたわけですが、四十年前のオランダは反日の空気が満ちた日本人には決して住みやすい国ではありませんでした。様々な悲しい経験をしながら、私は少しずつ自分が知らなかった自分の国の歴史を知るようになりました。そして、そのことを自分が知らなかったことに非常にショックを受け恥ずかしく思いました。その経験から、この日本では殆ど知られていない戦争の歴史を同胞たちに知ってもらいたいと強く思うようになっていました。また同時に、日本で戦後の和解活動をしている人たちとつながり、その働きをぜひオランダにも紹介したいという思いが生まれてきたのでした。なぜなら、戦争という同じ歴史を共有する両国が自分たちの見方だけに固執していたのでは、対話が成立しないからです。そしてもっと重要なことは、オランダの戦争犠牲者たちが自分たちの苦しみを日本人に認識してもらえないことでさらにその傷を深くしてほしくなかったからです。
さて、それでは、日本でどのような活動がされてきたか簡単に振り返ってみようと思いますが、その前にまず皆さんに日本の国の現状をお話ししなければなりません。戦後、日本は平和憲法と呼ばれる戦争を放棄すると宣言した憲法を発布しました。ここにはこの国は軍隊を持たず、海外に出兵などしないと書かれています。1995年8月15日に戦後五十年に際し村山首相は談話を発表し、その中で、彼はこう明言しました。
「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」
オランダでは、とかく日本は戦争に関して、一度も謝罪をしてないといわれてますが、それは事実ではありません。しかし、最近辞任した安部氏は2012年から7年半の首相在任中、必死に平和憲法の改定を推し進めようとしました。しかしそれがかなわず、自衛隊をさらに軍隊の組織に近づけ、海外にも派遣できるよう新しい法案を通して米国に言われるままに動いてきました。また教育に関しても教科書の検閲が厳しくなり、特に歴史の教科書の戦争に関する記述は私達が50年前に使っていたものよりさらにあいまいになり、自国の被害に終始して加害を過少または殆ど述べなくなってきました。ですから、私が日本で展開しようとしたプロジェクトは大変難しい状況で始まり、ある人には自虐史観を広めるな、などといわれることもありました。
私達の活動は主に二つの地域で行われています。一つは東京とその近辺で、もう一つは長崎市です。まず東京での活動について考察します。
日本での右傾化が進む中、それでもというよりそれだからこそ私はこのプロジェクトの実現に奔走しました。幸い、当時のオランダ大使がとても協力的で、孤立無援の状況から脱することができました。対話の会インジャパンは全て対話の会が企画運営し大使館が場所とランチを提供してくれます。それは、日本の外務省の平和交流プログラムで来日するオランダの戦争被害者たちが大使館を訪れる日に合わせて開かれ、午前中に四十名ほどの主に日本の学生たちに日本の歴史の授業では決して聞くことのない、また歴史の教科書では無視されているオランダ側の旧東インドの戦争の歴史を大学の先生に話してもらい、私がオランダの状況を話させてもらいます。そうすることによって、出席者はなぜオランダの方々が日本に招待されているのかを、またその背景を学ぶことができます。そして、午後の時間は小さなグループに分かれて彼らと直接対話をするのです。2014年以来毎年、続けられています。
この会で重要な点がいくつかあります。
それはこの集まりがとても小さな会だということと、場所がオランダ大使館だということです。オランダからの皆さんにとって一週間ずっと日本人の間で公式な旅を続けてこられるのは緊張の連続です。ところがここでオランダ語で自由に会話ができ、デン・ハーグで既に知り合っている私の顔を見ることで、自分たちのテリトリーにあることを認識して少なからず安堵を覚えます。しかも大々的な会ではなく非常にこじんまりしたくつろげる雰囲気で、自分たちの感情や心の内をさらけ出しやすくなるからです。それは彼ら自身にはもしかしたらわかっていないかもしれませんが、真の対話ができるのに重要なことと思います。もっと多くの人たちにこの歴史をお知らせするにはもっと大きな会になることも必要ですが、対話を重視する会としては現状が精一杯です。
また、この会に出席してくれる募ることです。この会はたいていウィークデイに開かれるので、学生は授業があったり仕事をしている人は来ることができません。幸い大学の先生が自分のクラスの学生を連れてきてくださったりすると少し楽ですが、ほとんどの人が知らないことなので、興味を持ってくれる方々がいらっしゃらない現状です。また、大使館という場所は、日本人にとってはちょっと敷居が高い場所ということもあります。
この対話の会インジャパン以外にも東京近辺の大学や高校に私と一緒にオランダから呼んだ講師が東インドの戦争で何があったかを話す機会を作ってもらうよう頼んで回ります。これは日本人の学生がファーストハンドでオランダ人からオランダ側の歴史をきちんと聞くことができる貴重な機会を提供しています。しかし、それだけではなく、話しをするオランダ人講師にとっても、自分の話を真剣に聞いてくれる学生たちに、また講演後の交流も含めて癒しの時でもあります。
また、日本で協働するPOW の研究を通して閉鎖維持活動をしている方々をオランダに紹介することも同時に進めてまいりました。第一回のシンポジウムにはPOW 研究会の皆様をお招きしました。また第二回目のシンポジウムには日本の中で慰安婦問題に取り組んでいる活動家と大学で和解学を創設した教授をお招きし講演をしていただきました。
さて、私達のもう一つの活動拠点は、長崎市です。ここでの活動は、戦争中長崎市の香焼に捕虜として収容され労働を強いられていたすべての犠牲者のために、長崎市民が五年前に建ててくれた祈念碑から始まりました。この収容所には、私たちの対話の会の創始者のひとりであった故アニー・ハウツワルドさんのお父様も収容されていたので、以前から関係のあった収容所でした。対話の会がその為の募金運動を始めたのがきっかけでした。この収容所にお父様が収容されていた当時の理事役員、アンドレ・スクラムさんを中心に、その祈念碑の除幕式にはその収容所の生存者やそのご家族が出席することができました。また私たちは彼らができるだけ有意義にその祈念碑とそこでの生活を理解できるようプログラムを組みオプショナルツアーを設けました。この祈念碑を建てるために力を尽くしてくれた井原東洋一氏は残念ながら昨年亡くなりましたが、被爆地長崎で被害を受けた被爆者の一人として、自分たちは被害ばかりでなく加害の歴史も同時に語っていかなければならないということを最期まで語り続けていました。そして、私たちがこういった長崎の市民運動の善意をオランダに伝えることによって、多くの犠牲者とそのご家族に和解の手が届いたことは大変うれしいことでした。また、これを機会にアンドレは彼のお父さんを題材に子供たちに歴史教材を作りました。そして、その教材を日本語でも作るために香焼の中学生たちは自分の周りにいるお年寄りたちにインタビューし、その教材には原爆だけではなく収容所の外で生活していた人々ついても書き加えられました。この教材は、現在、オランダと長崎の子供たちに使われているのですが、全く同じ内容の教材が、両国で使われるということは画期的で、まさに対話の会が目指す今後の指標となっています。
また、新コロナウィールスの感染がなければ、私たちはこの九月にオランダやオーストラリアの方たちと共に香焼の祈念碑の5周年と戦後75年を追悼するはずでした。残念ながら実現しませんでしたが、来年それが実現することを心から願ってます。
それでは、この東京と長崎の活動から学んだことを総括してみたいと思います。
先ず、現地の方々と共に活動することが重要です。とても幸せなことに長崎市民は色々な面で、日本のほかの地域と比べると平和に対する関心が強いという特徴があります。彼らにとっても私たちの存在は励みであります。しかしこのようにインターネットが発達していても外国にいる人たちと共に活動するというのはなかなか難しいものです。この活動を通して一番効果的だったのは、「一緒に自分でする」つまり何事も先ず自分でやっていくことが大切だと感じました。祈念碑は日本側の方たちがどんどん実行していってくださり、私たちはそれをもとに自分たちの計画を立てていきました。今回の教材に関しては、アンドレが積極的に取り組み最終的には両国で使えるものが出来上がりました。また、東京でも全て企画、運営をこちらでやり下地ができたわけですが、反省点としては、そろそろ現地の人たちが自主的にこういった活動を続けていけないものか、その為にはどうしていったらいいのかという視点に欠けていたと思います。
次に、ターゲットは常に次の世代であるということです。私たちの会は、戦争第一世代の方々との交流と和解を目指して始まりましたが、第一世代がほとんどいなくなってしまった現在、対話の会の使命は次世代にこのことを伝えていくという目的がさらに重要になってきています。
長崎には、各学校に必ず平和授業のカリキュラムが組まれています。そのため子供たちも自分たちで何ができるかということを考えているのが他県と違う点であります。そういう中に自国の加害の歴史をたとえ国の指針としては指導されてなくても、きちんと知らせようとする先生方がいらっしゃいます。そういう先生方を見つけ出していくことも重要な課題です。日本の場合、各学校に教育指導の自由が与えられていません。各市の中にある教育委員会が決定権を持っています。したがって、そういうところにネットワークがある方たちと連帯することがいかに重要か思い知らされました。残念ながら、そういったネットワークが東京近辺にはないため、主に大学での講演会という形になっています。サポートくださっていた教授が定年になられるとまたゼロから探し始めなければなりませんので、この点もこれからの課題といえるでしょう。一方オランダ国内においては、出前授業というシステムがすでにあるため、学校外の講師が生徒たちに教えるということはあまり難しくなく、この教材を通して子供たちが歴史をさらに深く学べるようになってほしいと願ってます。
さて、それでは、何を次の世代に伝えていくのが課題でしょうか?歴史教育とりわけ戦争の歴史はどこの国でも非常に微妙な問題があります。先ほどもお話ししたように、日本には明らかな歴史修正主義が台頭している感じがしますし、国が歴史をコントロールするようなことが行われる可能性があります。そういう中で活動することはたやすくありません。しかしそこでとどまっていることはできません。私たちは時に反対を唱え、今ある限界を打ち破っていかなければなりません。現在オランダにもインドネシア独立戦争について、様々な意見や思惑があり、オランダ国内ですら対話の必要な状況であります。しかし、私たちは常に正しさを固定化する姿勢を改めなければ前に進めないことを理解しなければなりません。いい悪いを判断せずに相手の言うことをしっかり聞くことの重要性も、若い方たちに伝えなければならないでしょう。そして、戦争は複数の国で共有される歴史であり、相手側の視点も知らなければよき対話ができないことをはっきり知らせるべきだと思います。
そういった意味では私たちの対話の会は、オランダにもっともっと日本やインドネシアの声を届ける使命もあると思います。それは次の世代が常に戦後に生きるために重要だからです。
そして何よりも戦争によって引き起こされた第一世代の方々の恐怖や怒りを語るときに、なぜそのことを相手に伝えたいのかをしっかり自覚する必要があります。 相手にただ指を突き付けるのではなく、歴史を学ぶことは再び同じ間違いを繰り返さず、将来の平和のためだということをしっかり理解しあうことが重要です。そこで敵対するのではなくお互いに相手の立場を思いやる心が芽生えるからです。真の対話はここから始まると信じます。分断より連帯を、この希望をインドネシアの次の世代にも伝えていけたらと強く願ってます。平和は彼方の標語ではなく、人に寄り添う心に芽生え育つものと信じるからです。
3. 対話、話、言葉:同じ歴史を語っているのか? – フリドゥス・スタイレン
(YouTube 38:39 – 58:43)
歴史的な体験はごく少数の観点からのみ捉えることができるとしばしば考えられてきました。1945年から1949年まで、あるいは1962年までの期間のオランダとインドネシアの軋轢については、大事なことはこの歴史を「両方の」観点から描くことである、と言われます。その場合、オランダ側の一つの視点とインドネシア側の一つの視点から出発するわけです。こういう発想は、それぞれの民族の視点が優先し、最も妥当なものであるという前提に立っています。しかし、問題はさほどに簡単ではありません。実際の体験者、目撃者は歴史をいろいろな、違った仕方で、いろいろ違ったことに焦点を合わせて眺め、何が大事なのかについても意見を異にします。
この具体的な好例は1994年に放映された「パルティザン」という三部からなるテレビ番組です。その中で、レポーターのテウ・ブールマンスが第二次大戦の最後の年に、リンブルグのオランダの反ナチグループが実行しようとした作戦を再構成しようとします。複数の証言者に話を聞いたのですが、誰もが少しずつ違った話をするんです。自分で目撃したこと、記憶していることが違い、また自分がやったことと同僚がやったことを、こうあって欲しかったという観点から見てしまうのです。彼が同定した視点は一つや二つどころかもっと多くありました。「1945−49年のインドネシアにおける民族独立、脱植民地、戦争と暴力」という大掛かりな研究プロジェクトの一部をなす「証言者と同時代人」というプロジェクトに携わっていて、私たちがしばしば体験するのは当時の歴史を完全に書こうと思ったら、インドネシア側の視点とオランダ側の視点とを統合しなければならない、という意見が出されるということです。先ほど「パルティザン」という番組の中で誰もが独自の視点、出発点にこだわるように、45−49年の時期の証言者の出発点も相互に相容れないという興味深い事実が出てきます。誰もが当時の紛争をそれぞれに違った仕方で体験し始めたのです。
パック・エディ・Kさんはジャワ島のソロの近くの村の出身です。彼にしてみれば、オランダ人は1942年に日本人によって負かされたのです。日本が負けた時、インドネシアは自由となり、インドネシア人は自分たちの社会を支配できるようになったのです。程なくして、イギリス人と同じくオランダ人も戻って来て、いまだにアンバラワの抑留所に残っていた者たちを武装しようとしている、という情報が流れました。しかし、これは実現に至らず、パック・エディはオランダ人に対する独立運動に身を投じることにしました。
アベ・Pおじさんは、その頃、インドネシア東部のモルッカに住んでいました。日本の降参ののち、オランダ人たちが戻って来てオランダ王国東インド軍(KNIL)へ入隊する者を募り始めました。アベおじさんは日本軍のために嫌というほど強制労働をさせられた経験があるので、庭で働く気にはなれず、何か面白いことはないか、と考え始めました。友人たちと一緒にKNILに応募しました。この選択はオランダに対する忠義とかインドネシアの独立賛否といった問題とは一切関係なくなされました。
オランダ人のアブ・Jはドイツ軍による占領期にオランダ南部で惨めさと厳しい軍事作戦を体験したので、蘭領インド解放のために一肌脱ぐことにしました。そこで、日本軍相手の戦闘に参加するものと予想して、ボランティアとして応募しました。蘭印のことはあまり知りませんでした。
別なオランダ人のヤン・Kは、家庭が共産主義を奉じていて、インドネシアの独立闘争のことがしょっちゅう話題になったので、状況は違いました。インドネシアへ派遣されたいとは思わず、蘭印への出兵の当日は出頭を拒否し、雲隠れしました。そのためにヤン・Kは刑務所入りする羽目になりました。
ドルフ・Mおじさんは、日本による占領時代、母と兄とセマランの近くに残っていました。モルッカKNILの軍人であった父は日本軍の捕虜になり、殺害されたことが後日判明しました。日本軍が降参した時、彼と兄は共和国を目指す青年たちと戦わせられ、モルッカKNIL兵達がセマランを奪回した時、二人はKNILに入隊しました。
コル・Lおじさんも共和国を目指す青年たちと戦いましたが、理由は別でした。彼はスラバヤに住んでいて、共和国を目指すモルッカの義勇軍に入るように父親から勧められていました。1945年に英軍がスラバヤを占領しようとした時、彼は共和国側の者達と一緒になってモルッカの義勇軍と戦いました。彼のグループが退却しなければならなくなった時、彼はオランダ軍によって逮捕されました。
イブ・ジュワリアおばさんも戦っている若者達の側につくことにしました。1948年にオランダ軍がジョクジャカルタを攻撃し、インドネシア共和国の指導者達を逮捕すると、難民の波が出現しました。友人達と一緒にその難民達をなんとか援助しようとしました。両親は、とんでもない被害を被るかもという心配から初めは反対でしたが、のちには親子は合意に達しました。しばらく後には、イブ・Dさんはゲリラに加わり、手紙の配達をしましたが、その時彼女は15歳でした。
同じ頃にバウキエ・R夫人は看護婦としてオランダから派遣されました。イブさんよりは少し年がいっていて22歳でした。彼女は、当時のユリアナ王女が話をした時、インドネシアでは看護婦にとても不足しているから、誰か志願する人はないか、と尋ねたのに応じたのでした。
バベルの塔での言語の混乱
この目撃者達はそれぞれに違ったことを体験し、あの時起こったことについては一人一人見方が違うことは容易に理解できます。集団としてあるいは国としての立場からすれば共通点も出てくるのかもしれませんが、歴史を自分自身の体験としてみようとすると、個人個人の間の違いは大事な役割を果たすことになります。バベルの塔の話しにあるような状況が現出したみたいで、他人が何を言っているのかがてんで分からず、もはや共通の言語を話していないわけです。
互いに同一の言葉を話すことができるでしょうか?関係者全員が、同じ出来事については同じ表現を使うことが可能でしょうか?あるいは同じ出来事でもその受け止め方が違っていても同じ表現を使って語り合うことが可能でしょうか?
そうしなければならないものか、あるいはそういうことがどだい可能なのかが問われなければなりません。歴史や体験について語る時の言葉は「翻訳」可能な単語以上のものです。
いくつかの例によって説明させて下さい。
まず初めに、私たちが話す言葉の背後には、私たちの視点が関わり、私たちが言っていることに意味を与えるところの会話が潜んでいることを私たちは念頭におく必要があります。こういう会話のことを知っている人には私の言わんとしていることはお分かりでしょうが、そうでないと少しむづかしいかもしれません。会話はいろいろな次元に関わって来ます。民族、集団、家族の次元で、これは時とともに変わっていくこともあります。何年か前に、モルッカのアンボンのパッティムラ大学でオランダにある植民地消滅後の記念碑について講演をしたことがあります。オランダにある蘭領インドに関わる記念碑のことです。こういった記念碑の多くは日本による占領時代、ならびにそれに続く1945−49年時代の被害者に関わるものです。こういった記念碑が何を意味するかを明らかにするには、1945−49年期に関するオランダ国家としての会話とはなんであるかを示す必要を感じました。軍人として送り出されたオランダ人の青年達のことを記念する碑に書いてある「秩序と安定のために」という文句をどういうふうに論じたらいいんでしょうか?オランダ人の聴衆はそういうことは論じることができる、それがオランダ人としての会話ではないか、と思うでしょう。しかし、モルッカの聴衆にとってはこれはとても奇妙な会話であり、こういうことを論じることの意義を説明する必要があります。今世紀になってから建立されたこういった記念碑のいくつかについては、一般市民の犠牲者だけに関わるのか?出征兵士にも関わるのか?モルッカ人やインドネシア系オランダ人のことも明言されるのか、というようなことが論じられました。私が講演を頼まれたときの要望は、インドネシアの聴衆にオランダ人の会話にまつわる複雑な感情を念頭に置いて話してもらいたい、ということでした。
二番目の例は、言葉がどういう意味を持ち、どれだけの広がりを持っているか、ということに関係します。単語の持つ感情の温度について語ったら面白いかもしれません。ある単語が誰かの口から出たら、聞く人は身の毛がよだつか、それとも快いかです。
その良い例は「独立、脱植民地、1945−49年期のインドネシアにおける暴力と戦争」という現在のプロジェクトです。このプロジェクトが始まったときには、その題に「独立」という単語は入っていませんでした。インドネシア人の同僚達との話し合いを経て、インドネシアは宣言した独立を守ろうとしていたのだ、というインドネシア側の視点をなんとか表現したい、ということでこの単語が付け加えられることになったのでした。インドネシアの同僚達の多数は、インドネシアではあの時代のことを「革命」として語ることがしばしばあるけれども、実際にはあれは革命ではなかった、と発言しました。彼らによれば、革命とは現存の体制に対する抵抗であるけど、そのときにはオランダはインドネシアに対しては最早なんらの権威をも持っていなかった、というのです。
しかし、オランダの視点からこれをなんと呼ぶべきなのでしょうか?蘭印紛争のはじめの頃には、オランダはあきらかに植民地体制を奪回しよう、と欲していました。再植民地化戦争と言ってもいいかもしれません。しかし、すでに1947年から、オランダが主導する脱植民地の動きとなりました。そのとき初めて脱植民地戦争が始まったのです。植民地反対、賛成どちらでもなく、オランダの視点からする脱植民地化の動きを進める、というのでした。何が実際に起こったかを示すのに概念を用いるのは結構ですが、感情的なしこりが残ることも事実です。どの単語を選んだかによってその人が歴史をどのように見ているかが読み取れることがしばしばあります。
ここから、私の頭を混乱せる次のような問題に移ります。つまり、歴史が時間とともに政府や歴史学者によって書き換えられる、という問題です。こういったことが起こる一つの原因は、私たちには歴史を時代を追って考えようとする傾向があり、慣れ親しんだ時代区分をするわけです。1997年から2001年にかけて、私たちのインドネシアの口承歴史財団は724人の人にインドネシアあるいは蘭領インドで彼らが過ごした時期について、特に、インドネシアにオランダがもはや存在しなくなった時期をどういうふうに体験したかを尋ねました。このインタビューによって、私たち自身が持っていた時代区分、時代感覚はインタビューされた側のものと合致しないことがはっきりしました。言い換えれば、当事者自身の体験は時代区分とは関係ないのに、私たちが歴史上の出来事をその枠に嵌め込もうとするのです。その最善の例は、あるインタビューの時に使われた「ベルシアップ」という単語です。オランダでは、この概念は蘭印紛争の最初の数ヶ月を指して特別な意味をもって使われます。インドネシア在オランダ人とオランダに対して友好的な現地人集団を標的にした攻撃を指して使われます。しかし、インドネシアではこの時期に関するものとしてはこの概念はなんらの意味をなさず、彼らは「メルデカ」(自由)あるいは革命という表現を使いたがります。まだインドネシアに住んでいるオランダ人とのインタビューの時、その目撃者は、1945年4月にベルシアップの被害を受けた、と語りました。インタビューした方は、ベルシアップは1945年8月17日のインドネシア独立宣言の後に始まったのだから、そういうことは有り得ない、と応じました。歴史学者のきちんとした時代区分と身をもって体験した目撃者の時間感覚のズレがここにあらわになりました。目撃者にとっては、ベルシアップは、自分が45年の4月に体験した、インドネシア人の若者達による暴力行為のことでした。インタービューした人は、自分の時代区分に縛られて、相手が言っていることがピンと来なかったわけです。
言語の混乱の最後の例は、体験も記憶も自分の好きな歌や話のように、記憶の箱に詰められて長期にわたって残っていく、ということです。記憶も時とともに変わっていきますから、同じことについて話しているはずなのに、何か別のことみたいに感じられ、別な意味が加えられているみたいに思われるのです。私たちの行ったあるインタビューの時に歌われた日本の歌を例にとってこのことを話してみます。2001年に、私は日本で私たちの財団について十回講演をしました。日本人の聴衆に何か聞いてもらいたいと思ってその歌の一部を聞いてもらうことにしました。インタヴューされた女性は、日本人はその歌で海と自然の美しさのことを歌うので、その歌はとっても素晴らしいと思う、というのでした。ラジオで聞き、学校でも習った「海行かば」でした。私が日本の聴衆を前にしてこの曲を流してもらった最初の時は、満洲での細菌戦についての研究をしていた人達に話した時でした。この歌はあの戦争の賛歌として大きなショックを与えました。その後の講演では毎回、この歌が聴衆にどういう感情を引き起こすかを論じました。反響はショックのこともあり、今なお自衛隊で歌われているので、聴衆はその歌が何かに気づく、という場合もありました。私の最後の講演の一つではインドネシアに従軍していた元日本兵たちが聴衆でした。彼らにとってはこの歌にはそれぞれの想い出がありました。またもや沈められた味方の軍艦についてのラジオの報道の出だしに流された歌であったり、自分の隊長の愛唱歌であった、という具合でした。インタビューされた女性の歌い方が戦争中の歌い方そっくりであった、というこの退役軍人たちの発言は私には特に注目に値するものと思えました。その後の歌い方は響きが違った、というのです。この種の記憶、歌の詰まったコンテイナーも変化していき、人と場所によって違った反響を呼び覚ます可能性がある、ということがここからわかります。
途中停車
とすると、お互いが理解し合えるようになるためには、共通の言語を話しているだけではダメだ、ということになります。行間を読む必要がある、ということです。そうした時に初めて、私たちは変化し、互いに異なった視点という障壁を乗り越えることができます。それによって初めて、政府や、歴史学者や、記念会などが生み出すところの膨大な歴史のデータの根底にあるところの視点の差異が見えてくるようになります。いろんな人の体験と記憶の間の相違だけでなく、類似性にも気づくようにならなければなりません。戦争中はお互いに殺し合いをしていた退役軍人達が後日、敬意をもって互いに接し合うことができるように、相違を乗り越え、たとえ相手の見方が自分のものとは違っても、お互いの話を受け入れることができるようになるのです。
相互関係の複雑さ
もう一つの側面に触れたいと思います。それは、記憶は真空状態の中で語られるものではなく、歴史もそういう形で描写されるのではない、ということです。記憶を探り、歴史を書き記すということは、実際にはインタービューと同じで、相互関係から生まれるのです。そう言いますと、それは分かり切っている、と思われるかもしれません。しかし、もうかなり以前から歴史は中立の立場から、いろいろな、異なった体験も平衡を保たせながら描ける、と考える歴史家がたくさんいました。今もいるかもしれません。しかし、そういった歴史学者は彼ら自身が社会における、あるいは学会における討論の一部を構成していることを免れられないのです。その討論は、問題の歴史を自ら体験した人たちを含めてであろうと、あるいは除いてのものであろうと同じです。私はここでもっぱら現代史を問題にしています。このような意見の交流は、話が完全に両者のやりとりによって出来上がっていくインタビューとは違って、その強度が違ってきます。
ですから、他人の話を聴くときは、いろいろな視点があるのだということをはっきり認めることが重要であるのみか、誰について、何故、いつ誰かが第三者について話すのだろうか、ということに思いを致すことも同様に重要です。外の世界ではどういうことが起こりつつあるのか、何がニュースになっているのか、ということです。それ次第で、どこに焦点が置かれるかが変わってきます。2000年5月3日、世紀替りを念頭に置きつつ私たちの財団のためのインタビューを行ったとき、エーンスヘーデで花火の大事故が起きました。テレビの画面に映し出される写真を見ながら、インタビューされた人たちの心には戦争中の爆撃と燃え盛る家屋の記憶が生々しく蘇りました。
二番目の例は、モルッカKNIL退役軍人達との、もっと最近オランダで行われたインタビューの時の体験です。私は、2016年に、まだ生存しておられる相当数のモルッカKNIL退役軍人達のインタビューをオランダで始めました。以前は、第二次世界大戦以前に召集された「古い兵隊(soldadu tua)」と戦後に召集された「新しい兵隊(soldadu muda)」とは別扱いでした。ところが、もう一つ新しいグループが加わり、三つのグループの間になされる比較はこれまでより複雑になってきた、という二つのことに私は気づきました。第三の新しいグループは義勇兵となった男性達でした。彼らは、日本の侵入直前に、アンボンを防御するために召集されたモルッカの青年達でした。日本軍は彼らを捕虜としては扱わず、自宅へ戻らせました。彼らの中には、日本の降伏後、KNILに応募した者が少なくありませんでした。さらにまた、日本による占領期にローム者としてモルッカの青年達がさせられた強制労働と捕虜がさせられた強制労働との間のいろいろな比較が彼らの話の中に出てきました。彼らの話の中に出てきたこの二つの「新しい」要素は、オランダ政府が2015年に、道義的理由から日本軍の侵入時に蘭印で兵役に服していた者達に対しては、未払いになっていた賃金を全額支払うことを決議したことがその背後にあります。義勇軍の兵士達は、戦争前にKNILの兵隊としての訓練を受けたのではなかったにもかかわらず、この恩典に浴することになりました。ローム者と捕虜とを同列に置いたのは、政府の採用した支払い基準を第一世代のモルッカ人全員にも適用させようとするモルッカ人の団体からの圧力に関係していました。私がインタビューした男性達の家族の中には、私がやろうとしていることは前述の払い戻しと関係がるのではないか、と思っている向きがあることにも私は気づきました。彼らがどういうところに焦点を合わせながら話をしたか、ということとこのことは関係があったことは確かです。これはまた、私がここで取り上げている、相互の交流の複雑さをはっきりと例証しています。
現時点につながるものとして、オランダ軍の暴力に関する広範囲に及ぶ研究プロジェクトを最後の例としてあげることにします。この研究プロジェクト自体がいろいろな反響を呼び起こし、このプロジェクトをどう見るか次第で、語られる話から浮かび上がる強調点もずれてきます。ある人たちは、自分がベルシアップをどういうふうに体験したかを喜んで話してあげよう、と言います。それは、学者達はこの歴史を充分に理解していないと彼らが憂慮しているからでもありますし、また、彼らはベルシアップを盾にとってオランダ軍による暴力を説明、正当化しようとするからでもあります。別な人たちは、長い植民地の歴史は語られた方が、彼らによればインドネシア人の姿勢の説明がつく、とも主張します。私たちの「証言者と同時代人」研究プロジェクトを進めている時、なぜ自分が戦犯であると思っているかを語りたい、というオランダ人の退役軍人がありました。彼は志願兵として蘭領インドへ行ったのですが、彼が戦争犯罪とみなす出来事に間接的に巻き込まれることになりました。上官から受けた指令通りに行動したのに、なぜ自分のことを戦犯と考えるのか、という私の質問に対して、自分は志願兵として行ったのであるから、自分は一個人として責任がある、と答えました。この退役軍人は、自分の行動は世間の人は知るべきであるから、告白するために来た、というのでした。彼はそれ以前にはこの過去のことについて口にしたことはなかったけれども、この研究プロジェクトが進行している今、外部に曝け出すべきだ、というのです。私たちに来た手紙にこうありました:「現在ではこの話は重要ではないのかもしれないけど、これを公の場で洗いざらい吐き出せたことで自分はほっとしている」。いろいろな側面を持つ彼の話は、この複雑な責任問題の中で自分をどのように位置付けるか、そこに個人としての側面と、国家としてのそれがともに潜んでいることをここに垣間見ることができます。
この志願兵は私たちの研究プロジェクトを介して自分の過去を外部世界に語りました。個人による話だけでなく、歴史を扱う本もすんべてある特定のグループに向けられており、ある特定の目的をもって語られ、書かれるのであることを知ることは大事です。私たちの財団では、私たちからインタビューされた人たちは、私たちを経由して孫達に語り、先に言及しました記念碑を両親達のために建立したのであることを私たちは理解しました。直接には目に見えない聴衆が、何を語るべきか、どういう視点を選ぶべきかを指し示してくれるのです。犠牲者としての視点なのか、自分で選択のできる人の視点なのか、です。
共通の言語でないとすると、では何がそこにあるんでしょうか?
私の講演では、同じことを体験したか、あるいは、いずれにしろその歴史の一部であったのに、その歴史を違った仕方で見る人たちの間の対話がいかに複雑であるかという問題を取り上げることを約束しました。そういう対話を実現させるための方向を示してみたい、と思います。
この問題がどんなに複雑であるかを語ったことははっきりお分かりいただけた、と思います。視点もいろいろと相違したものがあり、話や視点は大局から見た話や、仕組みや、あるいは利害関係によって影響されるのです。また、時の流れとともに変わっていくこともあります。問題をさらに複雑にするために、記憶を語るとき、あるいは歴史を書くときに相互関係がどう影響してくるかについても触れました。なかなかもって難しい問題に直面しているわけです。もし一つだけ明らかになったとすれば、それは、歴史や話の所有者はただ一人ではなく、複数の所有者が同時に存在し、彼らは誰しもが自分の固有の言語で語る、ということです。
この複雑さはなかなか厄介です。しかし、それが正しく対話に到達するための道なのです。出発点は、この複雑さ、多様性をはっきりと認めることです。ある話がなぜある特定の仕方で語られるのか、なぜ特定の言葉が選ばれるのか、なぜその単語が感情を刺激するのかを理解しようとすることです。対話とは、異なった色、異なった情緒、意味、感情、音声、話が個々人にとってどういう意味を持つかを共同で発見しようとすることです。その際、罪悪感や、不当に扱われているのではないかという憂慮が邪魔しないように心がける必要があります。対話は、相互に違った話に出来るだけ耳を傾け、またそれを伝達しようとするところから始まります。誰か他の人にまつわる話を語りたい、あるいは語らなければならなくなったら、自分自身の限界や先入観をしっかりと見据え、自分の視点を絶対視しないことが大事です。これは対話の相手の視点に心を開くために大事な一歩です。
4. 「道が分かれるときは、そのままに」 – オディ・ドウィカヨ & ロン・ハビブ
(オディ・ドウィカヨ氏:YouTube 58:44 – 1:11:04)
「オディは世間知らずの孫から世間知らずの歴史家になるための冒険の只中にいます」というのは、私が最近インターンとして参加した研究グループのセッションにおいて、出席者(ほとんどがオランダ人)を楽しませるために用いた言葉です。それは確かに言葉遊びであり、ジャワ人に典型的な、謙虚に自慢するジェスチャーにすぎませんでした。しかし、この言葉が私の口から発せられて以来、このことについて以前よりもよく考えるようになりました。
私は最近、インドネシアにおいては、自由戦士の孫であるということは、第三世代の間で共通の経験である、ということの理論化を試みました。それは実際のところ、確固たる理論というよりは小さな観察というべきものです。私の友人、共通の友人、私のいとこの友人、私の友人のいとこなど、私の周りにいる人々の多くは、自分たちの祖父母について同じような話をするでしょう。すなわち、彼らは独立に至る時代を生きてきたのです。自分たちの祖父母は独立のための活動に積極的に関わった、と信じている人もいれば、自分の祖父母は「フォローアップ」の侵略からインドネシアを守った、と信じている人もおり、そして第三世代の多くは祖父母が当時何をしていたのかについて全く知識がありません。しかし、この点については言わせていただきたいのですが、私は個人的には自由戦士(どんな戦闘であれ戦った民兵や正規の兵士)が独立したインドネシアの「所有者」であるとは思いません。(30年以上の軍事独裁を経た)国はそう思うかもしれませんが、理想主義者のように聞こえるとしても、私は、インドネシアは全ての人にとっての故郷であるべきだと信じています。
私の「理論」は、自己達成の思い込み、あるいは自己反省です。私の祖父は動員された高校生で構成された補助軍団「学生軍団」と一緒に戦っていました。ジョグジャカルタの中心部で行われた「Ikatan Pelajar Indonesia-Bagian Pertahanan(インドネシア学生協会防衛部)」の設立を熱烈に支持する学生たちの「Grote Vergadering(大集会)」と呼ばれるイベントに参加した時、祖父は15歳でした。彼は主にジョグジャカルタ北部のケドゥ、ソロ、境界のマディウン県で行われた戦闘に従事しました。彼は北からオランダの防衛線を引き裂いたジョグジャカルタの解放者の一人でした。ちなみに、私は祖父にとって一番若い孫息子であり、従って何度も繰り返されるこれらの物語の唯一の忠実な聞き手でもありました。
「なぜ戦争に行ったの?」私は一度祖父に尋ねました。彼はすぐに「ほかに選択肢がなかったからだよ。学校は閉鎖されていたし」と答えました。私はその答えをそのまま受け入れました。歴史学部に入学し、歴史を選択した後、私はその答えを疑い始めました。ジャワ人にとって、年長者を疑うのは無礼とされていて、だから私は彼の怒りを本当に恐れています。ここにいるのは、12年前に亡くなり、もう私を実家の周りで追いかけ回すこともできない祖父の発言に疑問を呈する、無礼な孫息子なのです。
オランダに来る前に、私は英語とインドネシア語でいくつかの論文を読みました。それは、列島のrampok、テロリストとして定義された者と戦争を起こす前のオランダ兵の心の状態について書かれたものです。その中には入隊を強制された徴用兵に関するものもあり、彼らはかつて笑顔、誠実さ、サービスのふるさとだと考えていた島々に配置されました。そして、彼らは何の質問も許されない軍の組織に組み込まれていきました。「口を緩めれば船が沈む」とはアメリカのプロパガンダポスターに書かれていたものです。戦争が彼らの青春を奪ってしまった、というのは、私が祖父から聞いた話とよく似ています。おそらく、これは共通点でしょう:私の祖父もオランダの兵士も、選択することはできなかったのです。
祖父の話とオランダ兵の話の間にあるこの一筋の光は、しばらくの間、私を満足させました。インドネシアの歴史書や記念碑、博物館などでオランダ人は悪者として描かれているかもしれませんが、彼らはそれを自ら選んだのではなく、ただ上官に指示されたことを実行するだけでした。しかしこの視点は、話が匿名でなくなったことで大きく変わりました。
晩年の祖父の書類の中に、祖父の同志の一人が匿名の取材者と行ったインタビューの書き起こしがありました。その書き起こしの最初のページには、ジョグジャカルタのスルタンの宮殿近くにある市場、パサール・ンガセム周辺で、彼の部隊とオランダ軍事警察のジープが短時間衝突した、という話が書かれていました。そこにははっきりと以下のように書かれていました:
“Heru Basuki(私の祖父)はジープに向かって発砲し、ジープを素早く方向転換させた。発砲とその急な動きはオランダ兵の一人に衝撃を与え、次の瞬間、オランダ兵の一人が財布を落としたことがわかった。財布を開けると、彼のIDカードが出てきた。ヘンドリック・スミス、オランダ憲兵隊の伍長だ。身分証の他に17ギルダー50セントがあった。後に我々はこの銃撃がスミスに致命的であったことを知った。他の2人の軍事警察官も殺された。” (引用終わり)
おじいさんの武勇伝はみな武醜伝のようになってしまいました。自ら選択したわけではなく、それでも物語の反対側に立っていたオランダ人は、もう無名の誰かではないのです。オランダに来た時、このことはずっと私につきまといました。ヘンドリック・スミスの家族が私の周りに住んでいるとしたら? あるいは私の知り合いの中に彼の親戚がいるかもしれない。考えすぎかもしれません。しかし、私が間違っていることを証明できる人もいませんでした。
そして私は想像力を駆使して冒険に出ました。祖父がオランダ兵と衝突した日を再現してみました。この衝突が銃撃戦ではなかったことは間違いありません。ジープが通りかかり、銃声がした。そしてスミスは財布と命を失った。祖父はなぜ発砲したのか? それは不規則な戦場だったからだろう。戦場、緩衝地帯、そして安全地帯は明確には定義されていなかった。そして私の中の振り子は反対側に振られます。おそらく、この時代の愛国的な物語は全てが誇張されたものではないだろう。彼は敵から祖国と祖国を守ったのだ。
しかし、敵とは一体誰のことでしょうか。私は祖父の持ち物が沢山置かれている食器棚に戻ってきました。認知症を患っている祖母は、その食器棚の前でウロウロしてはいけない、おじいさんが怒るから、と言い続けています。先ほども言いましたが、あの世から祖父が私に会いに来たら怖いのは言うまでもありません。食器棚の中から、彼の褒章が出てきました。その中で最も等級が高いものは「ゲリラの星」で、革命で戦った自由戦士にのみ国家が授与したものです。また「ゲリラの星」は祖父が外国との軍事作戦で受けた唯一の褒章でもあります。他の10個のメダルは国内の作戦によるもので、つまりスカルノの警告を文字通り表した形になります:「私の戦いは外国の敵に対してだったので簡単だった 君の戦いは難しくなるだろう 君は同胞と戦うことになるからだ」。
私がオランダ兵に対し共感を感じるのもまた、祖父の話から来ています。祖父の話の中で、彼はいつも私に「彼ら(オランダ人)は私と同じくらい若かった。怪我をした時や死にかけている時には母親の名前を叫んでいた」と言っていました。しかし、彼の国内の敵について、同じような話を聞いたことはありませんでした。自分と同じ文化的背景を持つ敵を表現するのは、「彼らは裏切った」という言葉だけでした。
「なぜ共感を示す必要があるのか?」という別の疑問が頭の中に浮かんできたので、私は自分をズームアウトしました。– 無知は至福である、と彼らは言いました。しかし私は、いやそれは違う、私は12年、あるいはそれより前に始まった冒険の中にいるのだ、と自分に言いました。旅は私の祖父を理解する、という任務から始まり、そして複雑な物語に引きずられ、私は他の似たような物語を観察しています。だから、これは孫と祖父の深い感情と絆から始まったのです。無知でいようと思えば、いつでも好きな時に旅を止めることができるのです。
でも、本当に止められるでしょうか? イスラム教以前のジャワの信仰は、私たちの先祖の霊は私たちの周りに滞在すると教えます。私自身のケースに当てはめれば、おそらく、祖父は常にこれらの質問で私を悩ませてきました。何も知らず彼に何度も同じ質問で攻撃した小さな私への「復習」でしょうか?
(ロン・ハビブ氏:YouTube 1:11:08 – 1:19:26)
1949年12月にオランダがインドネシアに主権を移譲した後、約3,500人のモルッカ人KNIL兵とその家族が一時的にオランダに移送され、モルッカに帰りKNIL兵として解除されるのを待っていました。その中には、兵士ではありませんが、冒険に憧れる高校生だった父もいました。しかし、私の家族には長くて広いKNILの伝統があるのです。
私の父の父はアンボネーゼのKNIL兵でした。モルッカ人は当時アンボネーゼと呼ばれていました。彼の父、私の曽祖父もまた、北スマトラのアチェでオランダの植民地支配のために戦った兵士でした。私の父は7人兄弟の末っ子で、第二次世界大戦中にジャワ島のバンドンで日本の占領に対抗するレジスタンスに参加した兄がいました。彼は日本の憲兵隊に逮捕され、尋問され、殴られました。私の父にはKNILに従軍した叔父や従兄弟も何人かいました。叔父の一人は、モルッカ・カイ諸島のトゥアルでオランダ植民地政府のために働いていた農業コンサルタントでした。彼は第二次世界大戦中に日本軍によって処刑されました。1945年に日本が降伏した直後、インドネシア独立戦争が勃発しました。すでに年金を受け取っていた祖父を除き、私の家族全員がオランダ人と共にインドネシア共和国と戦いました。
オランダに来た、いわゆる第一世代と呼ばれるモルッカ人のほぼ全員 - 現在では約45,000人のモルッカ人がいます - がオランダによる東インドの植民地支配を積極的に支持していました。数十年の間、オランダのモルッカ人コミュニティにおける考え方は、KNILの背景、キリスト教信仰、マレー語を話すこと、1950年に独立宣言された南モルッカ共和国、RMSの支持者であることに基づいていました。オランダで生まれ育ち、多くのKNILとのつながりを持つ家族のもとで生まれた私は、植民地時代のモルッカ人の視点を真の意味で表現していると思われるでしょう。しかし、私の家族はオランダのモルッカ人兵士の考え方に完全にあてはまるわけではありません。
10代の頃、なぜ私はオランダ語だけで育てられたのか不思議に思いました。マレー語の方言なども一切なく、一般的に使われているアンボン・マレー語やタンシ・マレー語も使われませんでした。最初、それは私がオランダのモルッカ人キャンプや地元のモルッカ人コミュニティではなく、大都会で育ったからだろうと思っていました。しかし、その後私は父はマレー語がほとんど話せないことに気づきました。祖父がバンドンの家で子供たちにマレー語を話すことを禁じていたのだそうです。オランダ語が義務でした。父がマレー語を話しているのが見つかったら、庭の木に縛り付けられ、長兄に木の棒で殴られたそうです。なぜ!?
蘭印の植民地社会と法律は、2つの主要な住民グループを区別していました。ヨーロッパ人と、いわゆる内地人(原住民)です。「原住民」であるモルッカ人も「voor de wet aan Europeanen gelijkgestelden」、すなわち法律上はヨーロッパ人とみなされている原住民のサブグループに加わることができました。植民地軍の軍曹であり、下士官でもあった私の祖父も、法律上はヨーロッパ人とみなされていたモルッカ人の一人でした。これには支配者の恩恵も付随していました。例えば、より良い年金や、子供たちがオランダ語の学校に通うことも認められていました。これはより良い経済的見通し、そしてヨーロッパ人とインド・ヨーロッパ人による植民地エリート社会への社会的移住を意味していました。
祖父がインドネシアを離れることはなかったので、私は祖父に会ったことがありません。私が初めてインドネシアに行った時は、すでに彼が亡くなって数年がたっていました。私は私の祖父に対し伝統的な敬意を持って育ち、死ぬことを恐れていなかった「軍人種」seng takut mati に属する彼を誇りに思っていました。しかし、オランダ語の話を知った時、私は驚きました。オランダ人の血は全く流れておらず、オランダ人の婚姻関係もなく、オランダに行ったことすらない私の祖父が、自分自身をオランダ人として考えているように見えたのです。植民地法上、祖父はヨーロッパ人と同じように扱われていました。私の家族のほとんども祖父と同様でした。KNILにいた他のモルッカ人も、ほとんどが軍曹の階級ですが、祖父と同様でした。こうして、一般的な植民地時代のモルッカ人の視点には複数の層があることがわかりました。内陸人、原住民とされていたモルッカ人の視点と、ヨーロッパ人として扱われていたモルッカ人の視点です。
私の家族の何人かはオランダ志向が強かったのですが、インドネシアの共和主義者とも親しくなりました。インドネシア独立戦争の間、KNIL兵である父のいとこが誤っていわゆるバンドン境界線の反対側、敵地に行ってしまいまったことがありました。彼はインドネシアの兵士に捕まり、刑務所に入れられ、翌朝処刑されることになりました。その夜、彼には近くにいたインドネシア兵がモルッカの伝統的な歌を歌っているのが聞こえました。彼らはインドネシア側で戦っているモルッカ人のようでした。私の叔父は彼らを呼び、彼らと自分は同じ民族であると主張し、そして刑務所を出ることに成功しました。叔父とインドネシア側のモルッカ人の間には兄弟のような絆が生まれました。その後、オランダ側に戻る機会を得た叔父は、心に大きな痛みを抱えながら新しい友人たちと別れた、と数年前に亡くなる前に私に感情的に語ってくれました。
何年にも渡り、私は第二次世界大戦と脱植民地化の間における彼らの視点について、オランダ、ジャワ島、そしてモルッカ島に住む多くのモルッカ人にインタビューをしました。私はモルッカ人の視点にはより多くのものがあることを知りました。例えば日本軍の占領に対する考えについて、日本軍に協力した人、中立の人、占領に抵抗した人の視点。インドネシア独立に関しても、インドネシアの民兵や軍隊と戦ったモルッカ人の視点、インドネシア独立戦争を支持した人の視点、両者の間を行き来した人の視点など、いくつかの視点があります。
最後に、私の考えでは、オランダの視点は一つ、インドネシアの視点も一つ、と考えるのは正しくありません。オランダの視点には、モルッカの層が含まれており、さらにその視点にはより多くの層が含まれています。同じことがインドネシアの視点にも当てはまります。
私の祖父の話に戻ります。彼はオランダ語を話し、自分自身を植民地時代のエリートに属していると考えていました。彼は後にlondoh londoh ireng、黒いオランダ人と呼ばれたジャワ人の見本でした。私は東インドのモルッカ人がヨーロッパ人であるかのように振る舞うのは不格好だと思っていますが、祖父は自分の子供たちのために最高のものだけを望んでいたのだと確信しています。オランダ人に近いということは、モルッカ人からは離れていることを意味します。オランダ植民地軍の兵士としての彼の仕事については、私は特に意見はありません。彼はオランダの植民地の利益のために、インド諸島の他の先住民族と戦ったのです。
5. 過去の過ち、認めること、対話術 – ニコル・イムラー
(YouTube 1:19:28 – 1:40:39)
私の記事は今年3月にインドネシアを訪問したウィレム・アレクサンダー国王がインドネシア独立宣言後のオランダ軍の暴挙について謝罪をしたことに関連して書いたものです。謝罪は長年待ち望まれていたことであり今回の表明は画期的なことでした。謝罪の内容については、いささか限定的であった(謝罪は独立宣言後の極端な暴挙についてのみの言及に留まる)などいろいろ批判もあるでしょう。しかし私が提起したかったのは別の点なのです。私は謝罪そのものを云々するのではありません。私が議論したいのは、単なる善悪思考を越えて物事を考えるために、植民地時代を‘共有できる過去‘として論じるために、未だに跡を引きずる過去の余波を直視するために、我々は謝罪を必要とするという事自体についてなのです。語り合いを可能にするために我々は別の言語、「過ちを認めることを可能にする言語」が必要だというのが私の主張です。謝罪の後これまで見えなかったものも我々の目に見えてきました。謝罪は重要であるけれども同時にそれは社会を分断することにもなるということ、自分たちは見逃されていると感じる人々の存在があるということなどです。
では私の意図する共有言語なるものをどうやって見つけていくことができるか、その中で「対話」の概念を生かしていくことができるかどうか、という設問を私の講演の課題としたいと思います。当然の要求に応えることと補償問題に関する研究から得られたことを先ず皆様にご紹介し、そして私の新しい研究テーマの根底にある対話の概念についてその枠組をお話しします。
過去の過ち―認めること―アイデンティティー(政策)
歴史的な過去の過ちの経験は認識という観点からよく議論されています。政治的、公的な場の議論では謝罪や補償で一つ プロセスが終了したとみられると研究家たちは指摘していますが、実際に多くの場合においてはそれはより広範な社会的プロセスの始まりとなるのです。歴史家は、こういった行為は社会関係を構築するものだと言います。大抵の場合そこには当事者となる二者がいます。一般的にみて政府と交渉する立場の人達は「国家」の役割を中心に据えて考える傾向の強い少数派です。しかし過去の過ちを認めるという問題はもっと別の次元で、例えば家族の中で、或いは帰属感の有無に拘わらず自分の属する集団(共同体)の中でも重要な意味を持っているのです。
歴史を綴るなり或いは法を実施するなりに当たって全ての場合我々は民族国家や特定の集団アイデンティティーを基軸として考えます。認めるというときに問題となるのですが、結果としてそのような境界線を正当化することになってしまうのです。認めるという行為の中で、認めらる者と認められない者の間に上下関係ができてしまう、そしてそれを求める者はそれを与える(又は与えない)側の者に何等かの意味で依存することになる、そこが問題です。それがどういう意味合いを持つのかは、世界で既に長い間論じられてきたMemory politics (集団的記憶を操る政治)とかTransitional Jusitice‘(正義への移行)の概念によって明らかになってきました。双方の側の人達はともに過去の痛み・苦しみを認めたいと思っている、しかし過去の記憶は認識を促すだけでなく人を束縛することもある、過去のアイデンティティーから人を解放するのではなく却って人を締め付けることにもなりかねないのです。
植民地終焉後の戦後のオランダで幾つかの団体が集団アイデンティティーを顕わにし犠牲者の立場をライバル意識で争っていると非難され、それが社会レベルでの和解を妨げているのではないかという指摘があります。この現象を見るとき単にそれら団体の言動を見るだけではなく、そういう犠牲者団体間の競争を煽り立てるような政府の限定的政策にも目を向けなければなりません。高慢に「トラウマ志向」などと呼ばれた現象は1970年代の広範な「戦後処理福祉政策」と密接に関係があると言えます。ヨランデ・ウィットハウスが犠牲者意識を「嘆きの文化(2002)」と名打った程でした。認める過程の中で我々の責任において問うべき根本的な問いは「人は自分の声を聴いてもらった後で平等になれるのか、又は聴いてもらうためには先ず平等にならなければならないのか」ということです。
過ちを認める手続きや賠償金支払いがどのような効果をもたらすのかについては文献の中でも相当の議論があります。それは殊にアイデンティティー政策を押し進めることになるのか、それともある集団の市民的地位を向上させ不平等問題を解決するための良策となるのか、というような議論がなされています。
この論点について哲学者クワーメ・アントニー・アピアが最近再び取り上げています。その著書Rethinking Identity(アイデンティティーの再考察)で彼は過去の過ちの認識に関する論議においてはアイデンティティーのテーマが中心的な要因となっていると述べる傍ら、アイデンティティーに纏わる虚像が暴かれれば、そしてアイデンティティーは本質的なものではなく常に動いていくものと理解されるようになれば、認識の問題はもっと多角化しそれほど中心的なものではなくなると言っています。ですから当事者間の相互関係や議論の硬直化に抵抗するためにももっと複合的な話を組み立てていくことを彼は提唱しています。
認識問題を別の角度から論じるのに複合的な話に取組むことが第一歩となるのでしょうか。これが私の新しい研究―Dialogics of Justice(正義の対話の論理、2020-2025、NWO)で試みる課題なのです。ではどう風に取り組んでいくのでしょうか。
認識から対話へ
我々は謝罪と補償を単に認識のツールとしてだけではなく、対話のツールとして考えることはできないかを考えてみます。そうすれば補償問題における社会的側面の関連性をよりよく把握することができるようになる、というのが私の仮説です。誰が誰と何について対話するのか、過去を語るに現在と将来はどういう意味を持つのかを探求します。
私はこの新しいプロジェクトのためにチームを組んで「過去の過ち」の認識を求める多くの団体の人達と話をし、彼等が認識のなかに真に求めるものは何か、訴える当局に何を期待するのかを訊き出しています。過去に幾多もの交渉が繰り返されたにも拘わらず期待されたような成果が得られなかった理由を突き止める新しい手掛かりを探りたいと思っています。
研究の一環として我々は「過ちと認識」を語る言語についても考えています。このテーマについて話すとき我々が使う言語は問題を解決に導くよりもむしろ問題を再生するに過ぎないことが多いのではないか、我々は相手と話合い、互いに聞き合って一歩だけでも先へ進むことを可能にするような言語を求めるよりも、相手に烙印を押すことになるような狭義の言語を使っているのではないか、という自問自答があります。
これは具体的にどういうことかと言えば、単純な加害者・被害者アイデンティティーの枠を越えなければならないということです。哲学者アピアがアイデンィティーというのは時の経過によって移り変わるものであるから複雑であると言っていることを思い起こせば、では認識の手続きの中で単純に加害者・被害者の二極思考に嵌まり込んでアイデンティティーの複雑さ・複合性を切り捨ててしまったらどうなるかという設問に至ります。個人の立場の複合性―自己内部にある複数の声―を正しく聴き取ることができればそれは認識に繋がるのでしょうか。複数の声を聴き取っていくような話し合こそが私の言う対話の術なのです。しかしそのためには普通一般に通用しているのとは異なった対話の概念が必要になります。
対話と言えば普通互いに向き合う(一義的な)二者の間のことと思われていますが、私はここで別の概念、心理学者ヒューバート・ヘルマンスの概念を採り入れます。彼は、一人の個人の内部には複数の声がありそれが互いに対話したり矛盾したりしながら共存していると論じ、それを彼は複数の声で対話する自己、dialogical zelfという概念にまとめています。
過去を認めてもらいたいという願望は常に自分自身の経験、家族の過去の経験、さらには集団の経験などに根ざしています。自己対話する個人(自分自身の内部にある複数の声)、人間関係の中の自分(自分が帰属するグループの中にある)、集団の中の自分(市民の一員として参加する社会の中)というように識別して考えると自分の中にある多様な自己の姿が見えるようになります。複数の声を模索しながら話をすると、ただ多様であるだけでなく時には互いに矛盾するような考えも混在しているのが見えてきます。文化的、宗教的、民族的、歴史的アイデンティティーのみならず、自分が欲する、或いは目指しているアイデンティティーなどもあるし、それ等は常に流動的に動いて新しい環境に入って調整されたりします。
脱植民地化の研究でなされる議論(フリドュス・スタイレンも指摘しているように)でよく聞かれることですが、ただインドネシアとオランダの視点を相互に対比するだけでは足りないのです。もっと他の視点が必要です。でなければただ単に二国間の枠組み(及び多数派・少数派の立場の対比)が再生されるのみでしょう。そこには複数声志向が必要なのです。
対話術、複数の声
複数の声の概念をもう少しはっきりさせるために私の「ラワゲデの寡婦達」の研究の中から幾つかの例をとって説明します。
補償請求訴訟について報道するメディアの大見出しは「インドネシアの犠牲者対オランダ国」となっていました。訴訟の法廷においては単純化されたアイデンティティーが創り出されます。二元体制の法廷には複雑な志向の余地など殆どありません。しかし現地の生活レベルの彼女達のアイデンティティーはもっと複雑です。彼女達は夫がオランダ軍に処刑されて寡婦となった、そして他者に依存する弱い立場の犠牲者となったのは確かです。しかし反面彼女等の夫たちは義勇軍の勇士ではなかった者も農民として独立闘争に加わって名誉の死を遂げた英雄と見做されました。そして名誉墓地に葬られたのも事実です。「夫は庭に埋葬するよりも戦友と一緒の墓地に埋葬してあげたい。ここに一人ではなく同志と一緒に。夫は殉教死したのだから。」寡婦達にとってオランダの国から犠牲者に支給される補償金を受ける傍わらインドネシア政府に英雄年金を請求することに矛盾はないのです。寡婦達の視点からすると彼女たちは同時に両方の立場にあったのです。この立場の複合性を知って私は驚かされたのですが、それに驚くということ自体、認識や補償請求問題で我々が如何に黒白思考の枠組みに囚われているかを顕わしているのではないでしょうか。
別の例を挙げます。私はある日ジャワで一人の老女に「オランダ人に何を期待するんですか?」と訊きました。後で通訳から聞いて分かったことなのですが、通訳はその時私の質問をもっと具体的に言い直して「貴女は謝罪と補償が欲しいのですか?」と訊いてたそうです。通訳に言わせれば私の質問はあまり抽象的であるのでもっと具体的に法廷が示す選択肢を挙げて質問をし直したところ「はい、そうです」と肯定の答えが返ってきたんだそうです。法廷の枠組みの中では原告が一体何を求めているのかをオープンに訊き出すのは確かに難しいでしょう。周りのコンテクストで認識が何を意味するかが定義付けられてしまいます。
もう一つ例があります。自分が率いるオランダ道義債務補償財団の名のもとにオランダの国に対して寡婦たちの補償を求める訴訟を起こしたインドネシア系オランダ人の活動家の話です。彼との会話は殆どいつも同じ問いかけから始まります。「私の父は誰なのか」、「貴女は彼を誰なんだと思うのか」。その後はそれ以上深入りすることはなく、オランダ植民地の過去についての関心を喚起するという自分の政治的課題の話に入っていきます。植民地の過去がもたらした遺産は家族の中でさえも多々(忠誠心の)葛藤をもたらしたほど非常に複雑なものがあることを私は彼から学びました。彼の家族は母方はオランダ人であるが父方はインドネシア人であり、独立闘争の時親族は双方の側に分かれて戦ったのです。彼はオランダ人がインドネシア人に対して為したことを語るとき自分を意識的に「インドネシア人」と位置づけています。「私はオランダに来た当時、オランダ人はインドネシア側で戦った闘士たちのことをテロリスト、過激主義者、野蛮人だと呼んでいる事実に直面した。インドネシア人にそのような烙印を押すとは何と不当なことか。私の父はマナド人で母はオランダ人。母方のオランダ人たちにとってはオランダ第一でインドネシア人のことは決して良く思わない。けれど父方の親族は軍人でオランダを敵として戦った。だからオランダ人と話していると口論になったりして、興奮したくないと思っても話が高潮する。オランダ人は私を単に外人と見る、敵対者と見なす。オランダ人はオランダこそが最高と信じているが私には決してそう思えない。何故ならオランダ人はインドネシア人を‘人間’と見做さないのだから。」こういう緊張関係がある故に「私の父は誰?」という問いが決定的に重要な意味を持つのであり、それが彼の活動精神を理解する鍵となります。彼の模索、彼の疑い、彼の内に響く複数の声の底にこの問いかけがあることが覗えます。しかし活動するときには一つの声で語る必要がある、敵に向かった時は自分の立場をはっきりさせなければならない、その姿勢のことをスピヴァックは「戦略的本質主義」と呼んでいます。一方が植民地為政者であり他方が植民地犠牲者である法廷においても同じことが言えます。本質主義の建前は議論を切り出すという意味では有益かもしれないが、その反面複合的な声を等閑にすることになります。個人の中のある部分を封じ込めることになります。
フリドュスの挙げた例をもう一度考えてみましょう。昔は敵対して戦った旧兵達が後日再会し「戦場の友」として互いに敬意を表する、ということがあるのです。国という枠組みから離れて考えれば、我々が「インドネシア解放の士」と呼ぶ人達は誰もが雄大な戦いを目指したのではなく、念頭にあったのは敵が誰であろうとも自分が防衛しなければならないジャワのどこかの自分の小さな村だったのです。
オランダ軍旧兵の内にも複数の声がある、これを聞くことも重要と思います。オランダ旧兵の中にもラワゲデの大虐殺についてもっと考えるべきと思っている人たちがいます。同じことがボスニア戦争の旧兵士の中で加害者・被害者の二極思考への反省からスレブレニツァに戻っていった人達についても言えます。彼等もまた裏切られたと感じているのであり、肉体的にも心理的にも精神的にも痛みを抱えながらメディアが繰り出す単純化されたイメージに悶着している人が多数います。「和平交渉」と呼ばれる話合いにはより多くの集団の責任が関わっている筈です。二極体制の枠組では話し合いを解決にもっていくことはできません。
これまで私は公の機関のことには触れてきませんでした。懸案中の訴訟を妨害するような措置や行動を取ることを誰が決めるのでしょうか。その結果犠牲者たちは判決が下るまで10年も待たなければならないことになる、それは何故でしょうか。訴訟体制の中で何が受け入れられ何が受け入れられないのかは誰が決めるのでしょうか、何が許されて何が許されないのでしょうか。
幾つかの例を基に私が言いたかったのは次のようなことです。認識問題に関する議論においては複数の声という概念が、多様なグループや立場の存在に我々の注意を差し向けてくれるだけでなく、個人の内なる声、時には互いに矛盾するような声をもっと掘り下げて聴く、さらには公の機関に内在する様々な観点を見極めることをも援けてくれます。新しい形の話し合いの始めに先ず自分の内にある複数の声を聴いてみる、それが相手の複数の声に耳を傾ける橋渡しとなるだろうと私は考えます。複数の声があることを知り理解すれば過去の複雑な体験をより広範囲に共有することができるようになるのではないか。そうしてこそ初めて共有された過去の中に全ての者に通ずる部分がどこにあるかも見えてくることになるでしょう。
まとめに
では私達はどうしたら個人と社会レベルの多重な声を聴き取る能力を育てていくことができるのでしょうか。そういう能力が育ちさえすれば「共有言語」みたいなものが生まれてくるのでしょうか。これが私と研究チームがこれから5年間取り組んでいく「正義の対話」プロジェクトのテーマとなります。
この角度から見ると今年の奴隷廃止記念行事の言語に興味深い変化が見られました(KetiKoti 7月1日)。植民地での過去に根ざした新しい証言(narrative)を模索するという姿勢がはっきり見えたのです(NINSEE)。来年にはアムステルダム市長が謝罪を表明することが決った段階において、もはや遺憾とか和解ではなく、連帯が我々の使命となります。ティフォーンの表現を借りれば「さあ話しましょう」という心構えから希望が生まれるのです。
人と話す、人の声を聴く、歴史を別の形で書き直すために話し相手とともにデータを収集する、これこそが口伝えの歴史のプロジェクトが意図するところです。「複合的な物語り」(アピア)を語ることを目指すのです。我々が他者に好奇心を持つのはその他者が自分とは違っているからだけではなく両者に相通ずるものがあるから、互いに共通するものをもっているから、共有できる歴史を持っているからです。他者の弱みを知ろうとするだけでなく自身の弱みをも語ることを厭わない心構えをもつことなのです。互いの体験がどんなに掛け離れているように見えても、相手の中にある複数の声に耳を傾ければ必ずや相手にもっと近づいて対話が可能になる声の一つを聴きとることができるでしょう。対話は他者の言うことを聴くことから始まります。相手の話を聴いて、その話し合いの中でその人に係わっていくことです。それは自分自身の前提や観念や思考の範疇から自分を解き放ち、相手の中にある複数の声を聴き分けることです。その複合的な声の中に連帯感が潜んでいるのです。
ではどうやってこの複合的な声を聴き取ることができるのでしょうか。話す方も聴く方も世間一般の議論に通用する思考範疇に囚われています。その範疇の枠組みを先ずはっきり意識すること、その中で相手をしっかりと見つけることが対話の術となります。
この講演で強調したかったこと。普通対話といえば互いに向かい合う二者のやり取りと思われています。私の考える対話の概念では、人は他者との対話に先立って先ず自分の中で内心の対話をしておかなければならない(自身の複数声を聴いておく)のです。即ち他者との対話においては自己との対話が前置きとなります。これこそが歴史認識の問題にどう対処するかを決定するために最も重要なチャレンジとなるというのが私の論点です。これまでの政策では、実際には複合的な積み立ての産物であるアイデンティティーを単純に一義的なものとみなして進めてきた観があります。個人の複合的な立場―彼の中にある複数の声―がそれなりに正当に扱われることのできるような認識の仕方はあるのかと問われるなら、その答は対話の術にあると思います。対話術を以って話し合いの中で複合的な声を汲み取ることが可能になり、それは自分の存在を認められ声を聴いてもらえるという感触をも抱合するプロセスの発端となるのではないでしょうか。
国王のインドネシアに対する謝罪は単に「インドネシアに対して行使された暴力」の観点から捉えるだけではなく、国王も言ったように植民地の過去について「各々の世代が新たに」語り直すという意識に基づくものにならなければならないのです。過去は我々全人が継いだ遺産なのですから。この遺産によって我々は繋がっているのだという認識が複数の声を聴き合う場を、新しい形の対話を可能にする機運を造ってくれればと私は願っています。
6. ラウンドテーブル・ディスカッション – ウィム・マヌフトゥ
(YouTube 1:40:40 – 2:49:16)
7. まとめ – ウィム・マヌフトゥ
(YouTube 2:49:17 – 2:55:43)
8. 閉会の辞 – 村岡崇光教授
(YouTube 2:55:45 – 3:08:37)
今朝の最初の発表をなさった、いつものように精力的な私たちの財団の理事会の議長のタンゲナさんから日本における支部の活動についてご報告を伺いました。2014年以来、タンゲナさんは毎年日本に出向いて太平洋戦争を背景として日蘭が共有するところの歴史に関する講演会や会合を主宰してこられました。こういった活動は東京と長崎を拠点として行われている、ということです。彼女は、膝を突き合わせての対話がいかに重要かを強調されました。かてて加えて、私たちの活動のさらなる展開について刮目すべき情報を伝えられました。来年の会合はインドネシアで開催される、というのです。これもズームで行うことになるかどうかは、今のところは未知ですが、これが実現すれば、私たちの対話は実際に三者の、日蘭イの対話という目標に貴重な貢献をすることになります。
今朝の発表者の中のお二人は対話をめぐる重要な理論的問題をいくつか掘り下げられました。つまり、かつての蘭領東インドで、あるいは捕虜としてインドネシアから日本へ連行された人たちの場合のように、自ら直接体験されたことに基づいてではありませんでした。このお二人ともう一人のインドネシア人の発表者は戦時中の三者間の紛争・軋轢に加えて戦後の二者間の葛藤について研究を積まれ、その研究は今なお継続中である、と理解しました。このことは私たちにとっては極めて稀なる出来事でした。私の記憶に間違いがなければ、現役の歴史研究者からその研究成果を供していただいたのは初めてではないでしょうか。
私自身言語学を専攻する者として、スタイレン先生が聖書の中に出てくるバベルの塔のことに触れられたのを嬉しく思いました。そもそも対話は、その定義からして、口頭であれ、そうでなくとも、言葉を通して行われる活動ですから、対話に参加している人たちが用いる言葉の本質を考察する必要があります。詳細には立ち入りませんが、先生の発表は大変興味深く、効果的な、意味ある対話を行う上での重要な示唆を与えられました。
イムラーさんも言葉の問題を取り上げられ、「共通の言葉」について語られました。発表者が焦点を当てられた点の一つは過去に犯された不正を認める、認識するという問題でした。スタイレン先生と同様に、イムラーさんも複数の声という、困難で、込み入った問題を正面から取り上げることの重要さを強調されました。同じ言語、例えばオランダ語、日本語、インドネシア語を母国語としている人たちが話し合っている場合ですら、同じ過去の歴史的な出来事をテーマにしているはずなのに、その出来事についての捉え方が大幅に違う、ということがあります。そこから、対話術を学びとることの重要さを指摘されました。また、自分自身との対話、という独創的な、興味深い概念も導入されました。
チームを組んで話された二人のインドネシア人のドウィカヨさんとハビブさんは他のお二人の発表者とはアプローチが少し違いました。その極めて魅惑的なお話の中で、ドウィカヨさんの個人的な体験、並びにお祖父さまとの対話が目立っていました。意味ある、効果的な対話は単に理論的な、抽象的な次元だけでは不可能であることをここから学んだような気がします。対話を行っている人たちには他者の気持ちを汲み取る、相手に寄り添う姿勢、能力が不可欠です。「苦痛を分かち合えば、苦痛は半減し、喜びを分かち合えば、喜びは倍加する」という格言は金言なのではないでしょうか。
ドウィカヨさんの同僚のハビブさんも、基本的には、日本の無条件降伏後の一連の出来事、オランダ対インドネシアの軍事的衝突の問題を取り上げられました。人種的にはインドネシア原住民の発表者のご家族の前の世代の人々は実質的にはオランダ人でした。例えば、父上はKNILの兵士でした。発表者は出身地の観点からはモルッカ人で、現在オランダ在のモルッカ人や本国のモルッカ人との交流を通して、問題がオランダの植民地時代のことに関わってくると、見解が実にまちまちであることに気づかれた、ということです。
今朝の発表を通して、私たちはいろいろな刺激を受け、眼から鱗が落ちるようなことをたくさん学べたのではないでしょうか。対話を続けて参ろうではありませんか。戦争は確かに75年前に終わりました。今年の初めにグリセルダ・モーレマンス(Griselda Molemans)という方が書かれた「一生続いた戦争」(Levenslang oorlog)という題の本が出版されましたが、太平洋戦争中、旧蘭領東インドで日本軍の性奴隷として犠牲になったオランダ人女性たちのことを取り上げたものです。この暴虐を生き延びた人たちにとっては、75年前に武力抗争という意味での戦争は終わりましたが、内心の平和は取り戻せなかった、というのです。
本日の参加者全員に代わって、今回の会合をお膳立てしてくださった方々、またITの技術者に衷心からの「ありがとうございました」を叫びたいと思います。
2009年にフォールブルグで開催された第一三回対話の会は「音楽」をテーマに掲げましたが、発表者の一人のファン・ライケフォルセルさんは、「歌の力」(De kracht van een lied)と題する本の著者で今は亡きヘレン・コラインさんのお嬢様でした。ここにその英語版と日本語版を持って参りました。会合の最後に、私の提案で、戦争中ジャワ島のパレンバンの女性抑留所でしばしば歌われた「囚われ人の賛歌」(Captives’ hymn)を一同で歌いました。それ以来、対話の会ではこの歌を合唱して別れることになっています。この歌はイギリス人宣教師としてシンガポールで教壇に立っていたマーガレット・ドライバラがシンガポール陥落に伴って、他の英国人たちと一緒に日本軍によって蘭領東インドに移され、彼女は先ほど申しました抑留所にぶち込まれたのですが、運命を共にすることになったそこにいた女性たちの気持ちをなんとか盛り立てたいという衝動に駆られ、その解決策として合唱団を立ち上げ、「囚われ人の賛歌」もしばしば口ずさまれたそうです。ヘレン・コラインもその抑留所にいました。彼女の本のオランダ語の原著の題に「歌」という単語が単数形になっているのは、この歌のことを指しているのではないか、というのが私見です。
今朝歌う前に、短い話をさせてください。今年の9月、私の住むライデン郊外のOegstgeestに本拠地を置く小さな日本人教会が地元のオランダ人教会の一室で半年ぶりに礼拝をしました。コロナに関する政府の規約により、賛美歌は声高らかにではなく、ハミングするしかありませんでし。礼拝の後、出席者一同に日本軍によって抑留所に閉じ込められた女性たちが歌った「囚われ人の賛歌」のことを話しました。声の交響楽団と銘打って定期的に抑留所で演奏を行い、ベートーベン、モーツァルト、ドボルジャックなどの古典音楽を演奏しました。しかし、まともな楽器はありませんでしたから、ハミングで演奏しました。
この歌の歌詞の英語が少し古風ですので、日本人の参加者のために、老婆心ながら私の書いた字義訳が英語の歌詞と並んで画面に現れるのにお気づきになるでしょう。
ありがとうございました。
村岡崇光
9. 「囚われ人の賛歌」
(YouTube 3:08:44 – 3:13:18)
10. カンファレンス第一日目のおわりに
(YouTube 3:13:20 – 3:16:47)
11月8日(日)プログラム:
- 11月7日(土)のフィードバック – グループリーダー
- グループディスカッション: オランダ語グループ並びに英語グループ – グループリーダー
- グループディスカッションのフィードバック – グループリーダー & ウィム・マヌフトゥ
- 第22回カンファレンス2日目のまとめ – ウィム・マヌフトゥ
- 終わりに – ヤネケ・ロース
4. 第22回カンファレンス2日目のまとめ
(YouTube ウィム・マヌフトゥによるまとめ )
「対話」の本質
対話グループで議論されたテーマの一つは、真の「対話」の本質と特徴です。対話は、グループとして人と人の間でも行われますが、一人の個人の中でも行われます。対話に参加する人にはそれぞれの背景(文化的、社会的、その他の背景)があり、それによって異なる視点を持っています。また、同じ人であっても、対話に参加した時にその人が人生のどの位置にいるかによって、異なる考えになることもあります。つまり対話とは、一緒にグループとしても、そして個人的にも、常に進行中のプロセスであり、そこではいろいろな状況と視点が相互に作用します。
真の対話に不可欠な要素として、本物であることが強調されました。参加者が自分の本音を表現しても大丈夫だと感じれば、その空間は人と人との間の真の対話になります。そのような空間では、参加者は歴史の一部から派生した一般的な話をするのではなく、深いつながりを持ちながら、同じページにある対話のテーマに沿って存在することができます。
主催者が意図する対話の目的のためには、次世代へ引き継ぐという側面も同様に重要です。書かれたもの、話されたもの、その他の方法で伝えられる証言や一人一人の経験談に触れる機会を持つことは、異なる世代を繋ぐ素晴らしい方法です。このようにして、自分と違う世代の人々が歴史的な出来事において経験した、自分とは異なる感情や精神をよりよく理解することができます。
3年プロジェクトへのアプローチ
オランダ人、インドネシア人、日本人として、お互いの視点を尊重しながら協力して仕事をすることが最も重要である。特に、プロジェクトの次のステップである2021年のインドネシアでの会議に向けては、インドネシアの政治的・社会的な雰囲気を考慮しなければならない。問われるべき問題は、世代、性別、社会的背景の異なる人々をどのように巻き込んでいくか、また、特定の用語をどのように提示するか、おそらく一つだけを選ぶのではなく複数を並べるのだろう、など。
インドネシアの文脈で「対話」がどのように理解されているのか、また、人々が自分の物語や感情を共有しても大丈夫だと感じられるような、真の対話のための空間をどうすれば作ることができるか、なども考慮すべき優先事項の一つである。インドネシアの文脈における対話リーダーに必要な資質がはっきりしたら、インドネシアの対話リーダーを巻き込んでいくという次のステップにつながって行くだろう。
絶対条件として、このプロジェクトへのアプローチは、インドネシアの同僚やインドネシアの人々がカンファレンスの主導権を持っているという考えであるべき。オランダに拠点を置く主催者組織は、このプロセスにおいて彼らを支援し、同時に彼らから学ぶことになる。
主催者は、ソーシャルメディア、ポップカルチャー、学校環境以外でのコミュニケーションなど、若い世代に届くように、まったく新しいアプローチを取ることを検討してもよいのでは。若者たちに参加してもらうには、主催者組織でのインターンシップや、インドネシアでのカンファレンスや対話に必要な翻訳サービスなどのような形でも可能。そのようなことが問題意識を高めるきっかけとなり、若者同士のディスカッションのきっかけとなり得るのでは。
主催者は、若者や、カンファレンスのテーマや我々の目的にまだ個人的な関心を見いだせていない人々の間で議論をスタートする手段の一つとして、2日間の会議の成果を利用できるようにすることを検討してもいいのでは。このアプローチは、私達が社会のさまざまなところに手を差し伸べ、新たな扉を開くのに役立つかもしれない。