テーマ: 和解って一体どういうこと?
2019年7月6日土曜日 ハーグ市 Christus Triumfator church
このカンファレンスはthe National Comittee 4 and 5 Mayの寄付により実施することができました。
プログラム:
- 開会 - ヤネケ・ロース
- 開会のあいさつ - タンゲナ鈴木由香里
- 我々をひとたび引き離したものが我々を繋げてくれるなんてことがあるだろうか? - フィリップ・デ・ヘール
- 日本人に生まれた私と『慰安婦』被害者との出会い、そして『和解』 - 池田恵理子
- 講演者への質問 (1) - ヤネケ・ロース
- 和解の考察 - 浅野豊美
- 共有する事と思いやる事 - マールテン・ヒズケス
- 講演者への質問 - ヤネケ・ロース
- 美術作品「ダ―ラングとは誰?」の説明 - アルレッタ・カーペル
- 小グループに分かれての対話
- 小グループのフィードバック
- 閉会のあいさつ - 村岡崇光
1. はじめに ⎮ ヤネケ・ロース
歓迎の言葉
2. 開会のあいさつ⎮タンゲナ鈴木由香里
皆様 おはようございます。タンゲナ鈴木由香里です。日蘭イ対話の会の役員と共に、今日、ここで皆様にお会いできますことをとても嬉しく思っています。
戦争というものはそれが終わった後でも人々を分断してしまいます。
日本人とオランダ人、オランダ人とインドネシア人、インドネシア人と日本人、さらに私たちはオランダの中でも、第二次大戦もそうですが、インドネシア独立戦争の戦後処理について、色々な意見が分かれ人々が分断されているのを見ています。
こんな状況の中で、「和解って一体何?」 という今回のテーマは、色々な示唆を与えてくれると信じます。
私たち、NPO法人日蘭イ対話の会は、2000年よりこの和解と言う事をテーマに毎年カンファレンスを開催してきました。敢えて、国の政策からは一歩離れて、市民の和解を追及してきました。ところが世界を見回すと、過去の戦争の歴史から何も学んでいないような好戦的な政治家があちこちに現れているのは、残念ながら、私たちの現実です。それはつまり、過去の歴史をしっかり学んでいない有権者がそれだけその国に多いと言う事ではないでしょうか? 私たちは本当に気をつけなければなりません。
では、戦争の歴史はどのように学ぶべきでしょうか?私は、一人一人が平和を維持する責任があることを知るために学ぶべきだと思っています。ともすると、戦争は自分たちの加害より被害を中心に教えられます。それをコロンビア大学のキャロル・グラック教授は、各国の歴史教科書は「集合的な記憶」にすぎないと言ってはばかりがありません。つまり、はっきりとそれは歴史ではなく記憶なんだと、区別しています。実際、日本では、歴史の教科書に加害の言及が減って、歴史修正主義者が大手を振っている状況すら見受けられます。オランダでは、2021年までにインドネシアとの戦争に関する研究が特別にされていますが、これももう70年以上たってようやくです。つまり、どこの国も自分たちの加害の歴史にはふたをしたいというのが自然の成り行きと受け止められています。しかし実際は、その開けたくないふたを開けて加害の歴史をしっかり学ぶことこそ、私は平和構築の一員となるのに必要ではないかと考えています。
それは、私たちは相手の痛みを感じとる経験がとても重要だと思うからです。そのことに敏感になることはとても大切です。そこからすべてが始まるのではないでしょうか?被害者というアイデンティティだけでは、とても相手の痛みなど感じることはできないに違いありません。
先日、この近くのソフィアホフでインディ―ミュージーアムがオープンして、王様がオープンされました。メディアではそのこと自体よりそこでバックペイに不満を持つ十数人のデモの人たちと王様が話をされたことが大きな写真で紹介されました。王様がその方たちと直接お言葉を交わされたことは素晴らしいことで、まさにそのソフィアホフで展示されていた内容とも、私には重なるように思えました。なぜなら、「自由のための戦い」というテーマの展示ですが、その展示の一番最初の言葉に、”自由のための戦い:侵略、レジスタンス、自由という言葉はそれぞれの人にとって別の意味がある。ある人の自由はその人の状況と理想によって違ってくる、それを行動に移すことは、その人の個人的なものである。そして、誰もが、意識してレジスタンスを選ぶのでもない。時にその時の状況がそうさせるのである。”という言葉でしたが、この言葉は、深く考える価値がある言葉ではないでしょうか?
ここで少し対話の会の活動についてお話させていただきたいとおもいます。2015年に長崎香焼町に長崎市民たちによって建てられた福岡捕虜収容所No.2の祈念碑のためにここで募金を集めたのを覚えていらっしゃる方もあると思います。(ヘンク・クレインさんは、その収容所から生還されたお一人です。)その祈念碑から、実は、ここに三冊の歴史副教材が先月完成いたしました。三冊と言っても、内容は全て同じものです。オランダ語そして英語と日本語版があります。これは私たちのNGOの顧問のアンドレ・スクラムさんが福岡第2収容所に入れられていた自分のお父様を主人公に第二次大戦とその前後も含めて書いた教材です。その中には、その収容所の外の日本の人々の生活がいかに大変で辛いものだったかもも書かれています。その内容は、祈念碑のたっている香焼中学の生徒たちが自分たちの周りにいるお年寄りにインタビューしたものです。
スクラムさんは、戦争の痛みの大きさに思いを寄せつつ、相手の痛みも伝えるいい教材ができたと思います。しかも、本当に嬉しいことに、この教材がオランダと日本の中学校で使われると言う事です。ご存知のようにこういうことはとても微妙な問題が含まれています。もし一方があなた達は正しくなかったというメッセージしか発することができなかったら、そこには共有できる教材はあり得ません。しかしそこに寄せ合う心が存在するのであれば、ポジディヴなものが生まれるのです。彼が、お父様の無念さと怒りに縛られていたものが、その収容所に入っていた人々すべてのために建てられた祈念碑に刻まれた悔恨と謝罪の言葉に癒されたと言います。そしてそのことを子供たちに伝えたいというのがこのプロジェクトの始まりでした。
でもこの本はまだ完成していません。私は、この本にさらにインドネシアの視点が入って初めてこのプロジェクトの完成となると思ってます。インドネシアとオランダの学校で使える教材も、決して不可能ではないと信じています。そして、この教材を通して、またほかのどんな方法を使ってでも、相手の痛みを感じることができる次世代を作ることこそ、今の私たちにできる大切な仕事だと思います。
皆様は本当にクールな方たちだとお見受けしますが、どうぞ今日は暖かい人として、周りの方とお交わりください。
3. 我々をひとたび引き離したものが我々を繋げてくれるなんてことがあるだろうか? ⎮フィリップ・デ・ヘール
フィリップ・デ・ヘール
「今夜集まって語り合おう、
戦争がどうやって去っていったのかを。
百回でも繰り返して語ってほしい。
聞く度にわたしは涙を流すだろう。」
これは「平和」と題するレオ・フローマンの詩の結びの4行である。彼はこの詩を1954年に書いた。彼の詩を全部通して読む人は、これが単に詩的な感傷だけではないことに気付くだろう。彼の歩んだ厳しい人生の現実を垣間見る者は、彼が1940年5月 にスヘーべニンゲンからロンドンに逃がれ、さらに逃亡を続けた先のインドでも戦争に追われることになったことを知るだろう。幾つもの強制収容所に収容された挙句、彼は日本へ移送され終戦まで日本で過ごすことになった。
この詩人と同じようにあの時代を個人的に体験した人の数は当然のことながら少なくなってきている。あの戦争と人間の苦しみの時代の終わりをインドネシア独立戦争終結まで延ばして考えてみても、それは全て私の生まれる前のことであるから、今日私が話すのは他の人達が話してくれたことの語り継ぎなのである。私自身は苦しまなかったし不当な扱いも受けていないのだから私の言う「和解」という言葉は別の意味合いをもつ。
我々の祖父母や親たち、そしてここにおられる皆様の中の何人もの方々は、我々の行先を決して再びさえぎることのないよう願うばかりの過酷な時代を通り抜けてこられた。どのような個人的辛酸の体験も「どの時代にも苦しいことはある」、「赦して忘れる」、「自分個人の苦痛は広い歴史的関連の中に位置付けるべき」というような理屈で畳み込んでしまうには余りにも重い心の枷だったに違いない。大変な苦しみを体験してきた人たちが自分の傷ついた人生を生き続けるために、歴史を振り返ってその中に和解を見出してきたとすればそれはまさに銘記すべきことではないだろうか。そのために数多くの犠牲者たちが生涯を通して殊更以上の努力をしなければならなかったということもよく知られている。「加害国」となった国の国民もやはり多大な苦渋を味わったのであり、敢えてその人達とも対話を始める、そしてその中に「被害者」の自分の心の和解を求めるという勇気ある試みは、誉れ高きものと言わねばならない。
今は過去を別の次元で見ることのできる世代が育っている。彼らは個人的な苦しみや直の感情のしがらみも無く、過去の事実を個人的人生体験とは距離を置いて、より広い脈絡の中で見ることができるようになってきている。そうしてこそ前世代の経験を歴史の中に残し留めることができる。私は「歴史は将来に教訓を与えてくれる」という説を信ずる者である。しかしそのためには過去のあらゆる側面や事象を真摯に見極める多大な努力が必要となる。意図して固定観念から自分を解き放つ心構えも必要である。これはトラウマを受けていない今の世代の人達の方がより平静に取り組むことのできる課題であろう。我々は前世代の人達が「何故自分たちがこんな犠牲に?」という苦悶を乗り越えて歴史を受容すること、或いは少なくともよりよく諒解するプロセスを助けることができるかもしれない。危機の兆候が見えればそれを警告として敏感に感じ取り、再び過去のような惨事が引き起こされるのを未然に防ぐことができるかもしれない。
私は、1942年から1949年の間、日本・オランダ・インドネシア三国の間の武力対決が「何故」「どの様に」展開したのかという問いかけに、何等かの示唆を与えてくれるような家族の歴史を負っているということで、今日この講演を依頼された。和解は相手の行動の動機をよりよく理解することから始まる。誤解の無いように言っておくが、これは慰安婦のこととか日本軍降伏直後の蘭イ混血人や中国系インドネシア人の大虐殺とか1945年以後のオランダ軍攻略で10万人もの死者を出したことを仕方なかったと言って弁明することでは決してない。
私の曽祖父は植民地行政の官吏として主に西スマトラとボルネオに駐在し、休暇でシンガポールに滞在していた時に遭った日本女性と結婚した。退職した後彼は妻の里であった長崎に居を構えた。5人の子どもができ私の祖父がその長男であった。
祖父の最も古い記憶の中にあったのは1905―1907年の日露戦争当時戦争捕虜として長崎に収容されていたロシア人捕虜のことだった。ロシア人捕虜はまともな処遇を受け、収容中に没した捕虜達は昔は出島住人のためにあったというオランダ墓地に恭しく葬られたという。その待遇ぶりはその10年前の日清戦争の時の日本人の中国人に対する態度とは極端な対照であった。無防備の中国市民に対して日本兵の残虐きわまる横行があったことが、1895年に西欧勢力が日本に南満州の占領を断念することを迫るきっかけとなった。日本政府はその後の国際紛争では外国の期待に沿うように規律を徹底させたことで1907年には旅順港を褒美としてもらったのである。
しかしその30年後事態は変わった。1937年に日本の外交官たちが、「日本は人道的戦争行為に関するジュネーブ条約を未だ批准はしていないものの署名国であるのだから文字通りでなくとも少なくともその精神を尊重する義務があると思うが、日本軍の行動はその精神に悖るものである」と南京から外務省に通報している。しかしこの警告は南京を手中に収めた日本軍に全く無視された。当時の東郷外務大臣は東京裁判でその代償を払わされたのである。当時の常識から言っても彼は自分たちの警告が無視された時に即時辞職すべきであった。
日露戦争の結果浮上してきたもう一つの現象は毒気付いた国粋主義の台頭である。私の祖父も通っていたインタナショナル・スクール(今も存在する海星学園)では日本語以外の言語で授業することが禁じられることとなった。曽祖父がインドネシアに戻ることを決意したのもそれが一つの理由であった。自分を他者と区別することによって自分を他者から隔てるなどと言う事は決してあるべきことではない。このことが外国人に対する優越感や嫌悪感を持つに至る一歩だからである。
時を少し先へ進めて1942年春。ヨーロッパの戦争は本格的になり、東南アジアではまさに戦争が始まろうとしていた。デ・ヘール家も戦中の悲惨から免れなかった。
- 長男(私の父)はデルフトで学んでいたが召集されイーペンフルグ空港の近くに駐屯していた。イーペンブルグは戦争初期の激戦地であった。バタヴィアの彼の両親は彼がどうしているか何も知らなかった。
‐ 真珠湾爆撃の後インドネシアが日本の攻撃の的となるのは時間の問題であった。日本のインドネシア進撃が事実となったとき、私の日本人の曾祖母(旧姓山口)は深い恥の念に駆られて摂食を拒否し数日後に亡くなった。
‐ 私の祖父―通訳であり軍諜報部の暗号解読員でもあった―と徴兵されていた一番下の息子は捕えられ戦争捕虜となった。日本占領軍は私の祖父を通訳として使うことの利に気づき、オランダ軍司令官の了解のもとに収容所から出所させた。オランダ軍も自国の人間を通訳として使ってもらう方が誤解も少なくなって尋問も有利になると考えたのだろう。祖父が配属となったのは悪名高き憲兵隊であった。
‐ 日本側は祖父の息子も日本軍のもとで何か仕事をするという前提のもとに収容所を出させることを提案した。そうでなければ彼は祖父の忠誠の担保として日本へ送られることになると言渡たされた。祖父はその提案を断るしかなかった。叔父は収容所から出ることを正当化できるような技能を持ち合わせていなかったから出所することはオランダ軍からの脱走、或いは反逆と見做されかねない。クーン叔父は結局日本へ移送され、長崎近辺の炭鉱で働かされることになった。
祖父は何を見聞きし何を経験したのかについて決して語らなかった。祖父とは頻繁な接触があったけれども私も敢えて彼から聞き出すことはしなかった。彼は私の大学時代に選考科目であった日本語のコーチをしてくれたのだから、この問題について話を聞くきっかけはあった筈なのだが。ただ一つだけ話してくれたことがあった。日本軍の新入兵が先輩や将校達から信じ難いほど残忍な扱いを受けていたということ。入隊初年は一年中先輩兵と擦れ違う度に顔に平手打ちを食わされていた。彼等は顔が青く腫れあがっただけでなく、敗けて捕らえられた白人に同情の念をもつような優しさなど微塵もない残忍な気性を育んでいった。「人は他人には狼」と言うが、人間は自ずから他人に対して狼であるのではない。けれども人は簡単に凶暴な犬に仕込まれてしまうものなのだ。
祖父は収容所に閉じ込められていたわけではないので、インドネシアの国が新しく生まれる状況を観察することができた。アジア人を解放すると言って乗り込んできた同胞のアジア人は征服した国々を直ぐに現地の人達に引き渡す意図などありもしないことを現地人は素早く見抜いていたに違いない。悪政(とくに食糧供給において)と暴力の蔓延の結果新しい支配者も現地人の蜂起反乱に直面することとなった。祖父が急性赤痢を患って西ジャワ地方のイスラム抵抗武団との和平工作に通訳として参加することができなかったことがあるが、それは九死に一生の幸運となった。工作に出かけて行った派遣部隊員は一人として帰って来なかったのである。
我々は戦争が如何にして終わったのかを知っている。第一の原子爆弾は日本の軍需産業の中心地であり1894年から日本帝国主義の出撃基地となった広島に計画通り投下された。第二原子爆弾は福岡が標的であったが、悪天候により第二の候補地であった長崎に変更となった。軍事目標の三菱造船所は地理的条件に救われて重大な破壊を免れた。出島も祖父の生家も含めて古い木造建築の外国人居住地区も爆撃の破損を蒙らなかったが、多くの市民が犠牲者となった。原子爆弾を陸上に爆発させるという史上初の実験地となったその場で、アメリカの兵士たちは防護具としてただサングラスをあてがわれただけ、弱りきっていた捕虜達(その中には叔父もいた)を爆撃後2週間たってやっと放射線で汚染された長崎港から移送した、などという事実は原子爆弾がもたらす全ての効果に前もって何も備えていなかったことの証だろう。しかし戦争はそれで終わった。
私の祖父はボルネオ島ポンティアナックの戦争裁判に通訳として雇われたが、それについても祖父は殆ど何も語らなかった。私の情報の多くは私が住んでいたオランダ大使官邸の図書室に保管されている裁判記録コピーから得たものである。ただ一つ、祖父がふと漏らしたのは、日本の軍人は起訴事実について決して責任逃れをしなかった、「自分は知らなかった」などという口実は使わなかったことが印象に残った、ということである。
このような地方の戦争裁判の記録が残っていたことで慰安婦の制度が如何に広範囲に実施されていたのかが明るみに出た。特にオランダの主張によりこの残虐な行為が東京裁判で戦争犯罪の一つとして認められることとなった。
オランダ領東インドで行われた裁判では白人の被った苦難に焦点が当てられたが、その反面、占領軍の現地人に対する仕打ちについてはそれほどの注意が払われなかった。多くのインドネシア人労務者が強いられた状況については十分に知られている。実際には「任意の応募」という建前で使われていた彼等強制労働者達は収容所に入れられていた白人たちよりももっと酷い扱いを受けていた。
日本軍は中国系インドネシア人をアジア系外国人と見做し、中国は蒋介石のもとに英米側について戦ったから親連合軍の心情があるだろうと疑っていたのは確かである。インドネシア人の中に昔からある反中国人感情は日本軍によって牽制されることなく黙認された。
オランダでの戦後特別裁判とアジアにおける戦争裁判を較べると、オランダ国内では親ナチ党最上層部と収容所捕虜虐待者たち数名が死刑宣告を受けたのみであったが、オランダ領植民地での戦争裁判では220名が死刑を宣告されたことが分かる。70年経た今これは復讐行為の臭いがする。アジア人がヨーロッパ人に負わせた屈辱を審判するのに司法の女神の目隠し布は少し緩んでいたのではないかと思わせる。
日本降伏のあとの空白状態の中で、現地人の間に潜む暴力の蠢きや反西欧・反中国感情を背景として国の将来についての緊張感が殺戮ムードとなって激しく表面に噴き出たのも不思議ではない。その矛先は先ず収容所を出たヨーロッパ人に向けられ、独立宣言をしたインドネシア共和国に対する忠誠心を疑われた混血のオランダ系インドネシア人達、そして昔からのスケープゴートである中国人に対して攻撃がかけられた。
このベルシアップ時期の一連の暴挙はどうしてそんな勢いを得たのか。オランダ人支配が復活するかもしれないことに脅威を感じたからなのか?それとも4世紀に渡る占領、抑圧、搾取の国民的記憶がこの血と暴力の乱痴気騒ぎを引き起こすことになったのか?オランダがベルシアップ暴動鎮静を口実に大規模な武力行使も厭わず植民地支配を復活させようとしたことは正当化できることではない。政治的な激動期に青年団を組織して武装・動員したことは結果として当時のみならず前世紀60年代および90年代にも中国系インドネシア人の大虐殺を招くこととなった。インドネシアの我々の同志がこの悲劇から学ぶべき教訓は、このような用心棒集団が羽振りを効かせることになれば少数民族や少数派の思想の持主が必ずや犠牲になるということだろう。
私の祖父母はポンティアナックの任務の後すぐにオランダに戻った。インドネシアの愛国主義サークルに共鳴する人達と交友のあった多くの日本人に刑を宣告することに協力していたのであるから、インドネシアに居残ることはできないことだった。脱隊した息子と共にオランダに帰って、祖父はアムステルダムの海軍諜報局に勤めることになり、クーン叔父はライデンでインドネシア語の勉強を始めた。
私の祖父母やクーン叔父は、自分たちの生活の路を脱線させた日本人やインドネシア人について話す時も、決して怒ったり見下したりする態度はとらなかった。私の両親は戦争で二人の子どもを亡くしたが、自分たちの悲しみを個々のドイツ人に投影して恨むなどということもしなかった。ドイツ人、日本人を「モッフェン」、「ヤッペン」と卑下して呼ぶ言葉も家では決して使われなかった。私の曾祖母は100%日本人だったし、私の妹たちはドイツ人男性と結婚しているのだから、そんなことはあり得なかったのである。
オランダ人はエメラルド群島(注:インドネシアのこと)にやって来るのは早すぎて、出ていくのは遅すぎた。日本の介入は短期間だったが熾烈で暴力的であった。インドネシア群島に居ついたインドネシア人は昔からずっとそこに住み、これからも永く住み続けるであろうことは昔も今も変わらない。オランダと日本の対立は5年にも満たなかった。二つの国の“外国人”による支配の時代を自ら体験した者は他界し、対決の記憶も彼らがもたらした苦痛の痛みも薄らいでいるだろう。今残るのは悲劇の中から生まれた今日のインドネシアの歴史である。インドネシアにとってそれは決してすんなりと受け入れられる遺産ではない。遺産相続とはそういうものなのだが、欲しいものも欲しくないものも全て受け入れなければならない。この群島国の歴史に登場し退場して行った者たちと一緒に遺産の清算をしなければならないのだ。それが和解の歩むべき道なのである。短期間とはいえ交わって共有した不幸な歴史はオランダ、日本の今の世代にとっては「自分たちが関わったことではない、もう終わったこと」という思いがあり、多かれ少なかれ心の整理がついているだろう。歴史の中で受け継いだ遺産を直に負う者がその遺産を相応しく、正しく、将来の教訓となるような形で受け留めていくのを我々はこれからも支えていこう。
4. 日本人に生まれた私と『慰安婦』被害者との出会い、そして『和解』
⎮池田恵理子
アクティブ・ミュージーアム「女たちの
戦争と平和資料館 」(wam)
名誉館長 池田恵理子
1. はじめに
日本が中国侵略からアジア太平洋戦争で敗戦となるまでの15年以上もの間、日本軍はアジアの占領地・植民地の全域に慰安所を設置し、膨大な数の女性たちを性奴隷にした。慰安所の実態は、日本の敗戦から半世紀近く経った1990年代にようやく被害者の告発で暴かれるようになり、今ではその全貌がほぼ明らかにされている。
ところが、あの戦争を「アジア解放の聖戦」だったとする安倍首相率いる日本政府は、「慰安婦」制度における国家の責任を認めないばかりか、「慰安婦」被害そのものを隠蔽し、なかったことにしようとしてきた。政府は「大日本帝国」時代と同様に教育と報道に介入し、「慰安婦」に関する世論や史実の管理・統制を目論んでいる。これは各国の被害者から強く批判されて「慰安婦」問題はこじれ続け、戦後70年以上が経っても「和解」には程遠い状況だ。
「慰安婦」問題の解決には、被害国・加害国の市民の歴史認識の共有と対話が不可欠であり、日本政府が法的責任を認めて被害者に心からの謝罪と賠償を行い、その事実を記憶と記録に留める努力が求められている。しかし「慰安婦」問題を否定する政府の元に暮らす市民は、自国の戦争犯罪に対して戦争責任と戦後責任をどう果たすのか、問題解決と「和解」のために何ができるのか…という困難な模索をしなければならない。
私は2010年に定年退職するまでの37年間、NHKディレクターとして番組制作に携わってきたが、「慰安婦」番組を作る中で「慰安婦」支援の市民運動に関わるようになった。20年ほど前から市民活動として「慰安婦」の映像記録を撮り、「慰安婦」裁判支援、や2000年の「女性国際戦犯法廷」の実現に努力した。2005年には「女性法廷」の精神を引き継いだ「慰安婦」資料館・wamを創設し、今でもその運営を行っている。
私は東京大空襲を生き延びた母と中国に出征した元兵士の父の間に生まれ、親たち世代の戦争体験を身近に聞いて育った世代である。中学時代には『アンネの日記』に、高校時代からはベトナム戦争報道に触発されてファシズムと戦争を考えるようになった。やがて日本のマスメディアを内側から変革していこうと決意しNHKに就職。女性、人権、教育、差別などの社会問題を取材する傍ら、東京大空襲、原爆、学童疎開、中国残留孤児、満蒙開拓…といった戦争関連の番組を作った。当初は日本人の戦争被害が中心テーマだったが、1980年代後半、視聴者から「なぜアジアの戦争被害者の体験を聞かないのか」と問われたのを機にスタッフと議論を重ね、NHK上層部の意向と圧力に抗いながら、日本軍の戦争犯罪問題に取り組むようになった。
1990年代以降はNHKの戦争特集でも日本軍の戦争加害を本格的に取り上げるようになり、力作も放送されている。しかし同じ日本軍による戦争加害でも、「慰安婦」問題は未だにタブー視され、報道が抑えられている。これは何故なのか。そこで、この問題が私のライフワークになってきた経緯と日本における「慰安婦」問題の歴史を振り返り、日本とアジア諸国との「和解」と、私にとっての「和解」について考えてみたい。
2. 隠蔽されてきた「慰安婦」問題と 被害女性の名乗り出
日本軍はアジア太平洋戦時中、日本兵の強かん防止と性病予防のために慰安所をアジア全域に設置したが、厳しい検閲でその報道を禁じ、「慰安婦」を“戦場の売春婦”として扱った。遊郭で働いていたり貧困ゆえに人身売買された多くの日本人女性も、国内外の慰安所に送られ「慰安婦」にされた。しかしこうした事実は伏せられただけでなく、敗戦間際には、戦犯裁判で裁かれるのを怖れた日本軍上層部の命令で慰安所関連文書は焼却され、大量の証拠資料は闇に葬られた。
また敗戦直後には政府は各県に通牒を出し、進駐軍兵士用の慰安所=特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)を国内の基地周辺に設置した。「新女性求む」の募集広告で動員された女性たちは7万人近くにのぼったというが、これも秘密裏に行われた。「慰安婦」は兵士にとっては“必需品”だが、政府が慰安所を設置・運営したことは隠し通す…という姿勢は、戦中も戦後も一貫して貫かれていたのである。
戦後の日本で、日本兵が自らの戦争犯罪に向き合い始めたのは、ベトナム戦争で米兵の強かんや残虐行為が報じられ、世界に反戦運動が広がった1970年代からだった。日本人元「慰安婦」の自伝やノンフィクションも出版され、沖縄に残留した韓国人元「慰安婦」が知られるようになり、ウーマンリブ運動の中でも「慰安婦」問題が提起された。
しかし、「慰安婦」問題が女性への人権侵害で重大な戦争犯罪として浮上してきたのは、韓国の金学順(キム・ハクスン)さんが「慰安婦」被害を名乗り出た1991年からである。これを機にアジア各国の被害者が次々と立ち上がり、日本政府に謝罪と賠償を求めて裁判を起こした。この10件の民事訴訟は最高裁で原告の請求は全て棄却されたが、審理の過程で証言の聞き取りや軍の関与を示す公文書の発掘が進み、「慰安婦」制度の実態が明らかになった。
日本政府は2回の「慰安婦」調査を行い、1993年には河野官房長官が「慰安婦」の強制を認めてお詫びと反省の談話(「河野談話」)を発表した。1993年の国連の世界人権会議や1995年の北京の世界女性会議でも「慰安婦」問題は焦点となり、国連人権委員会は日本政府に勧告を出した。こうした動きの背景にはアジアの民主化と女性運動の盛り上がりがあった。
対応を迫られた日本政府は、サンフランシスコ講和条約とニ国間条約で賠償問題は解決済みで「法的責任はない」という立場をとりつつ、1995年に「女性のためのアジア平和国民基金」(「国民基金」)を設立し、国民からの募金で被害者に「償い金」を支払う事業を始めた。ところが多くの被害者は日本政府からの正式の賠償を求めていたため、「償い金」の受け取りを拒否した。韓国政府や台湾政府は、「国民基金」に対抗する施策をとった。
オランダ政府は1993年に「慰安婦」調査を行い、日本政府と同じく賠償問題は解決済みとしてきたが、「国民基金」は民間のPICN(オランダ事業実施委員会)が日本政府と協議し、医療福祉事業として被害者に約300万円が支給された。
インドネシアでは法律扶助協会や兵補協会など民間団体の呼びかけで「慰安婦」の被害者調査や登録が行われたが、インドネシア政府は調査や支援を行っていない。日本との賠償問題は解決済みなので「個人補償は必要なし」として被害女性たちの訴えを聞くことはなく、「国民基金」は高齢者の社会福祉施設の建設資金に使われるに留まった。
こうして各国の「慰安婦」被害者が求めた真の解決には程遠いものになった「国民基金」は、2007年に事業を終了。結局、問題解決にも「和解」にも至らなかった。
3. 日本国内でのバックラッシュと2000年「女性国際戦犯法廷」
1990年代初頭から「慰安婦」問題が浮上し、国際社会での関心が高まると、日本国内では90年代後半からバックラッシュが猛威を奮うようになった。1997年度版の中学歴史教科書の全てに「慰安婦」が記述されるようになったため、これに危機感を募らせた「慰安婦」否定派の政治家や文化人、右翼団体などが、教科書会社への猛攻撃を始めた。その結果、2012年版の教科書からは「慰安婦」の記述は消えてしまった。
それに歩調を合わせるように、1997年以降は「慰安婦」報道も次第に抑えられていった。NHKでは1997年以降、「慰安婦」問題は日々のニュースでは報道されたが、ドキュメンタリー番組や調査報道がなくなった。「慰安婦」報道の空白の15年間が始まった。また、公立の平和資料館・博物館では「慰安婦」関連の展示が右派から「自虐」とされて攻撃を受け、撤去・後退が相次いだ。公的施設では「慰安婦」をテーマにした集会や展示ができなくなった。日本社会の様々な現場で、「慰安婦」問題がタブーにされるようになったのだ。
こうした中、各国の被害者が日本政府を訴えた「慰安婦」裁判では敗訴が続き、悲嘆にくれる原告たちを前に、加害国・日本の女たちに何ができるか…の試行錯誤が始まった。1998年、元朝日新聞記者で女性活動家の松井やよりさんが、日本軍性奴隷制を裁く民衆法廷「女性国際戦犯法廷」(以下「女性法廷」)を東京で開催しようと提案した。これは日本の女たちも、各国の被害女性や支援者たちも熱烈に支持した。すぐに判事団の選出や「法廷憲章」の起草が行われ、各国では起訴状の作成を始めた。2000年12月の「女性法廷」の開廷には8ヵ国の被害女性64人をはじめ、世界30カ国から連日1300人の傍聴者が詰めかけた。被害女性たちは証言台で凄惨な体験を語り、自らの戦場強かんと慰安所体験を証言した元日本兵には感動の拍手が湧いた。各国検事団の膨大な文書証拠、専門家証人の天皇や日本政府の責任論など、審理は厳正で緊張に満ちていた。12月12日、昭和天皇に「有罪」、日本政府には国家責任ありとする「判決」が下された時、被害女性たちは「正義は私たちを見捨てなかった」と歓喜した。
これを海外メディア95社200人の記者がトップニュースで報じたが、日本のメディアでの扱いは極めて小さかった。そればかりか、「女性法廷」を長期取材していたNHKは、支離滅裂の異様な番組を放送したため、この番組をめぐって「女性法廷」の主催団体がNHKを提訴するに至った。2005年には番組を担当したNHK職員が、番組の放送直前に安倍晋三官房副長官(当時)らの政治介入を内部告発した。裁判は7年に及び、東京高裁では原告が勝訴したが、最高裁では敗訴となり、NHKは政治介入の事実を否定している。しかし、番組への政治介入と、それに屈したメディアの実態がここまで暴露されることは珍しく、戦後の放送史に残る大事件となった。
2006年から首相となった安倍晋三議員は、1997年から中学の教科書会社を攻撃し続けた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長でもあった。安倍首相は「『慰安婦』の強制の証拠はない」と主張して米国や欧州の議会から批判の決議をあげられたが、2012年からの第2次安倍内閣以降も同じ発言を繰り返し、NHKへの人事介入も始めた。そしてNHKだけでなく、日本の大手メディアは「慰安婦」問題では政府に同調し、報道の自主規制や自粛・忖度が著しくなった。2015年末、日韓両政府は「慰安婦」問題解決のための日韓「合意」を発表した。日本政府もメディアもこれで「一件落着」としたが、韓国の被害女性や世論は「当事者を無視した政治決着は解決ではない」と猛反発。これに対する日韓の世論は真逆であり、日韓の「和解」など到底考えられない状況になっている。
4. 日本国内に広がる「慰安婦」支援活動~加害国・日本の女に何ができるか
1991年に金学順さんが名乗り出て、「慰安婦」裁判が始まったことから、日本各地で市民による裁判支援が動き出した。私は父の戦場が中国(杭州)だったので「山西省・明らかにする会」の仲間たちと原告の裁判支援をするようになったが、1991年か92年、東京の集会で韓国の被害女性の証言を初めて聞いた時の衝撃を忘れられない。あまりに凄惨で残酷な被害状況だった。会場は満席で立ち見もいっぱいでロビーにまで人が溢れ、嗚咽やすすり泣きが漏れていた。「こんな辛い体験を、よくぞ語ってくれた」という思いと共に、このように残虐な日本軍の戦争犯罪を今まで知らずにいたことへの衝撃と恥ずかしさ、被害女性への申し訳なさでいっぱいになった。日本人として何をすべきか…を真剣に考え始めた。私は、すぐに「慰安婦」番組が作れなくても(当時は薬害エイズの取材に集中していた)、必ず「慰安婦」問題を調査・取材・記録して、この事実を多くの日本人に伝えていこうと心に誓った。結局、1996年末までの間に「慰安婦」の番組をETV特集などで8本作ることができた。
ところが右派が「慰安婦」を記述した中学の歴史教科書へ攻撃を開始した1997年以降は、何度企画を出しても番組が作れなくなった。これは、“「慰安婦」報道・空白の15年”に当てはまる。「このままでは女性たちが高齢となり寿命も尽きて、被害証言を記録できなくなる」と焦った私は、NHKの仕事の傍ら、「ビデオ塾」という自主ビデオ制作集団を立上げて映像記録を撮り始めた。2000年の「女性法廷」では実行委員となり、審理過程を世界中にインターネット中継した。NHKが政治家の介入を受けた番組を放送した後は、急遽、「女性法廷」の記録『沈黙の歴史をやぶって』を制作し、NHKを提訴した原告団に加わった。
「女性法廷」の提案とその実現のために奔走した松井やよりさんが2002年に早逝した後、私たちはその遺志を引き継いで、日本で唯一の「慰安婦」資料館・アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)を2005年8月に開館した。同時に、裁判支援を行ってきた中国・山西省には1年に2回以上は現地に通って被害女性の医療支援を行いながら、聞き取り調査や資料集めを続けた。被害者が全員亡くなった後も、その子ども世代との交流を続けている。wamで中国のパネル展を開催した後には制作したパネルを中国語に翻訳し、2009年から中国各地の博物館や大学での巡回展示を始めた。武郷の八路軍紀念館や北京の抗日戦争紀念館など、これまでに6カ所でのパネル展が実現し、山西省・太原では10年間の常設展示も始まっている。
このように20年余り、中国の被害女性を支援し交流する中で、私は彼女たちとの「和解」は成立したのではないかと思っている。中国の人々は当初、日本の支援者は役所や企業から派遣された者たちと思っていたらしいが、やがて市民の自発的なボランティア活動であることが理解され、私たちは互いにかけがえのない、国境を越えた友人同士の親密で温かな関係になった。山西省の原告のリーダーだった万愛花(ワン・アイファ・83歳)さんを2013年9月に病院に見舞った時、彼女は私たちに「日本政府に圧力をかけて解決を強く要求しなければなりません」「必ず日本政府を変えよう」「皆さん、がんばって放棄しないでください。放棄すると軽く見られますよ」と励ました。最期が近いと知らされていた私たちは半泣きしながら万さんの手を握り、「私たちはいつも万さんと一緒です」「勝つまでがんばるから、見ていてね」と言った。万愛花さんが亡くなったのはその9日後のことだった。
5. 終わりに~私にとっての「和解」とは
戦争犯罪の被害国・加害国の国民同士でも、問題解決のために共通の目標を持ち、よく語り合い、共に行動する中で、「和解」は成り立つのではなかろうか。幸せなことに、私は「女性法廷」やwamの活動を通して、中国だけでなく様々な国の被害女性と交流し、心を許しあう関係を築いてきた。しかしこれは、あくまでも「私たち」と「彼女たち」との間の「和解」であり、日本政府が「慰安婦」問題に拒否的な立場を取り続ける以上、被害女性が求める国家レベルでの「和解」は実現していない。日本に生まれた私たちには、このような日本政府を変革していくことが求められている。
2015年5月、日本の「慰安婦」支援団体は、アジア8ヵ国の市民団体と共にユネスコの世界記憶遺産に『日本軍「慰安婦」の声』を共同で登録申請したが、日本政府はこれを登録させまいと陰に陽に妨害活動を行ってきた。そのため登録は未だ保留となっている。また日本国内の右派メディアはwamへの誹謗中傷と攻撃を強め、右翼はwamへ爆破予告の脅迫状を2度にわたって送りつけてきた。私たちはこのような暴力に抗して、決して「記憶の暗殺者」たちに怯むことなく、次世代に「慰安婦」の記憶と記録を語り継ぎ、歴史に残す努力をしていこうとしている。
2000年の「女性法廷」が到達した地点を忘れずに日本の戦争責任・戦後責任を果たすべく、日本が戦争への道を歩むことを阻止すること…これが現代の日本に生きる私たちの責務であり、「和解」への道ではないかと思う
ご清聴ありがとうございました。
6. 和解の考察 ⎮浅野豊美
私と戦争、そして和解 – 浅野豊美(早稲田大学教授)
国民意識は東アジアにおいて、戦争や植民地支配の記憶とともに急速に作られ、政治体制に今も組み込まれ続けている。ヨーロッパにおけるドイツ国民がナチスによる一党独裁を許してしまったという点で、民主主義という価値を中心に第二次大戦を振り返るのに対して、東アジアにおける日本国民は、空襲や原爆という体験をイメージしながら、平和という価値を中心に第二次大戦は回顧され、教訓として刻まれる。しかし、なぜにして戦争が発生してしまったのか、なぜにしてその発生を抑止できなかったのかについての見解は、十分に統一されているとは言えない。
戦後70年に際して、安倍内閣が発した談話は、その戦争原因としての「国策の誤り」を2点に絞り込んだ。ひとつは、民族自決主義という世界的な潮流に反してしまったこと、第二は国際紛争の武力に頼らない、平和的解決原則に反してしまったことである。しかし、民族自決原則が1919年のベルサイユ講和会議以後に原則となって以後、すでに併合されていた韓国問題にいかに対処すべきであったのかについては触れられず、また、日露戦争によって経営権を得ていた南満洲鉄道の経営権問題にも、具体的な言及はなされていない。二つの原則に反し「世界の大勢を見失った」ことが反省点として述べられてはいるが、その反省は韓国や中国に向けられたものにはなってはいない。
自国民が体験した戦争を、特に、その被害者としての側面から想像することは、比較的容易である。また、平和という価値と結びつけて戦争を語ることが、日本人一般の思考様式となりながらも、具体的な他国民との和解にはつながらない。和解学が他国民との和解を想像し得る社会的条件を探求せんとするのは、こうした状況に対する一つの挑戦でもある。
しかし、この文章においては、そうしたことを前提に置きながら、私自身の体験を一つの例として、こうした戦争の記憶をめぐる状況を論じてみたい。私自身の戦争をめぐる記憶の核となっているのは、これから取り上げる祖父母にとっての戦争である。
祖父から聞いた日露戦争の記憶
近代日本は、二〇世紀において日露戦争と第二次大戦を二つの頂点とする戦争を遂行した。この二つの戦争と私の家族は関わっている。
私の祖父は、一八九七年一月生まれで、日露戦争が正式な講和条約によって終結した一九〇五年九月には、尋常小学校三年生の夏休み明けを迎えていた。日露戦争の終末期、日本は講和を予定して、樺太の領有を既成事実化して講和条約の俎上に載せた。樺太占領作戦は、五月から展開され、講和後には南半分の領有が承認された。その後、多くの兵士が樺太から北海道を経由して東北本線を使って青森から関東へと引き揚げる際、祖父は、その兵士を鉄道沿線に出迎えに行ったという。
この話を聞いたのは、私の大学院生時代であった。私は国際関係論専攻でありながら、日本の近代がいかに植民地帝国への道と重なったのかと代を総体としてどのように理解できるのかという問題意識をいだき始めた頃であった。
祖父の話によれば、兵隊さんは、単線であった東北本線を、蒸気機関車に乗って、嬉しそうに故郷へ帰っていったという。また、学校の先生に連れられた多くの子供達が、沿線で出迎え、日の丸の小旗を打ち振ると、樺太から撤収してくる兵士達は、紅白のモチをまいてくれたという。二〇三高地で乃木大将がどのような作戦を展開したのか、爆破坑を掘った話しは、子供時代に祖父からよく聞かされた。恐らく、それは、祖父が子供時代にその小学校の先生から教えられたものであったのだろう。
更に祖父の話は続いた。その東北本線が、一九世紀の末期に敷設された際には、祖父にとっての祖父、わたしからみれば高祖父が接収の世話役をしたということであった。高祖父は最初の妻を雷でなくしたために、後妻の「ゆう」をめとった。ゆうは、維新の際の会津戦争に敗北し士族から平民となった今田家の出身であった。士族の娘さんだけあって、立ち振る舞いはきちんとしたものであったという。その連れ子はどこそこに住んでいること、そして、「ゆう」ばあさんが会津へ帰郷すると、唐人タコをおみやげにもらい、それが隣の本家の蔵に入っていること、そして、ゆうばあさんは、祖父が徴兵され仙台の第二師団第二九連隊に招集された時、停車場まで送ってくれたことを聞いた。
そうした生き生きとした語りを通じて、私が生まれ育った空間は、にわかに、日本近代史の延長線上に見違えるようになって立ち現れてきたことを、もはや二十年近く前のことでありながら、ついこの前のように思い出す。その東北本線は、私が子供の頃は既に電化と複線化が終わり、東京まで父が出稼ぎで九時間かかった時代は過去のものとなっていた。しかし、私にとって、沿線の砂利道は、祖母に連れられてよくあるき、草餅の材料となる野草を摘んだりした懐かしい場所であった。また、私が出た小学校の校舎も、かつての尋常小学校と同じ場所にあった。私が子供の頃は、隣の小学校の鉄筋校舎がうらやましく、自分の学校なのに、いやでたまらなかった木造の校舎も、にわかに貴重なものに見えてきた。
調べてみると、私の小学校の木造校舎は一九四〇年の紀元二六〇〇年記念式典の際に、旧村有林から切り出された原木で建てられたものだった。また、その旧村有林が植林されたのは、明治維新前に米沢藩御領地が国有化されたのちに、村民が入会地として使用するべく村人が村の中で寄付を募って政府から払い下げられた時であった。私が小学生の頃、小学校の正門前にあった、漢字だらけの得体の知れない記念碑は、その起源二六〇〇年記念に校舎を新築した際に、当時からさかのぼって、六〇年ほど前の村有林払い下げに活躍した村の有志を顕彰したものであった。維新の激動を生きた人々を、昭和十五年に顕彰した碑であった。
オーラル・ヒストリーの手法を通じた戦争の記憶は、今盛んに研究されつつあるが、高度成長から取り残された農村に生まれた私は、歴史的な記憶に接する環境に子供時代からいたという点で、ある種、恵まれていたのかも知れない。語りを通じて、身近な記憶に接することで、ヒトは変わり得る。そうした記憶が、今、早稲田大学において担当している日本政治史への関心を喚起してくれている。
祖母から聞いた第二次大戦の記憶
次に私の祖母を紹介したい。祖母は、一九〇五年生まれで、農村の女子で文字が読めるようになった最初の世代であった。私が小学生の頃、汽車で連れられて福島市に買い物に行くと、祖母は駅の改札の上部に掲げてある到着出発の時間表をしげしげと下から眺めながら、文字が読めるということは本当にありがたいことだとよく口ずさんでいた。幼稚園に入る前の私は、祖母から囲炉裏を囲みながら、周りの敷き詰められた灰の上に火箸(ひばし)で、五十音をかいてもらい文字を覚えた。
祖母が、時に涙ぐみながら語ってくれたことは、「ゆきおあんちゃん」の話であった。私の伯父・幸男(ゆきお)は、一九二二年生まれで、一九四三年に徴兵され、フィリピン等のレイテ決戦に動員された。しかし、フィリピンに到着する途上の一九四四年八月半ば、台湾とフィリピンの間のバシー海峡で、アメリカの潜水艦に乗船していた輸送船帝亜丸が撃沈されて海の屍と消えた。いよいよ、南方への船が出るという時、その直前に、幸男は帰郷を許され、午前三時ぐらいに歩いて家に帰ってきた。そして、爪と髪の毛を置いて、その日の朝早くには千葉の戦車師団の原隊に帰っていったという。戦争が終わって、近所の若者が次々に帰ってくるというのに、幸男は帰らないままで、どうしたものかと、近所の同じ境遇にあった別の母親とよく話したという。
祖父と祖母は、1946年ぐらいから福島県の援護課に相談に行ったが、戦死の正式な通知があったのは、戦争が終わった翌年の夏ごろであったという。聞かされた話では、帝亜丸撃沈の際は、最初の魚雷を受けても何とかそれをしのいで航行していたものが、二発目三発目を受けて撃沈したという。近くの船に救助された方が恐らくかたって下さったのであろう。
それにしても、深夜に帰ってきた時は、そこでゲートルを脱いだと言われた場所は、私がよく遊んでいた土間の玄関の一角で、たきぎを置いてあった場所であった。また、その爪と遺髪が埋められた場所は、私の幼少の際の記憶にかすかに残る移転前の村の共同墓地であった。私が小学校三年生の頃の1972年前後、列島改造論にのって東北縦貫自動車道路の用地買収が進み、共同墓地は掘り返され、裏手の伊達家の城跡にあたる高台に、墓地は移された。子供ながらに、花を持って苦労して坂道を登った記憶が蘇った。線香のけむるあの場所に、埋葬された爪と遺髪は、どのようになってしまったのか、否が応でも想像力をかきたてられる記憶となって、祖母の話は私の心に焼きついた。
被害の記憶と感情、そして和解の芽
こうした話は、大学院生の頃に文書化したために、今でもそれは私の記憶としてここに発表することもできる。しかし、改めてオランダ行きの話をいただくまで、こうした話は私の意識からは、ほぼ消えていた。改めて振り返ると、自己を対象化することができない子供時代に、祖母の語りがどのように私自身に内面化されていったのかを考えるために、貴重な記録となっている。祖母にとっての戦争は、一番の心の痛み、長男を失ったことが全ての中心となっている。人間が心のバランスを維持しながら、その後の人生を生きていくために、記憶は再形成されるということができるであろう。その反面、祖父から聞いた日露戦争の話は、祖父にとって、そしておそらく近世以来の日本の農村の子供達にとって初めての、鉄道という近代的文明装置の導入と結びついているようにも感じられる。祖父にとっての祖父が、鉄道用地の買収を行なった話も、合わせて聞かされたからである。また、祖父はいつも鉄道のそばにある畑を大事にしていたことや、その鉄道に沿って歩くこともしばしばあったが、それは祖父にとっての祖父の思い出とも重なっていたのかもしれない。近代という時代が、常に過去の記憶を意識しつつ、その意味を考え主体としての意思を育む個人によって作られることを改めて考えさせられる。
こうした体験の延長に、私も研究者となってからは、各国民に刻まれた国民的記憶と、国民相互の和解可能性を考えるようになった。大学に入った私が直面したのは、植民地時代の記憶を祖父母や両親から聞かされて育った留学生たちであった。台湾と韓国の留学生との個人的な出会いを通じて、その植民地時代の記憶が好対照をなしていることが深く心に刻まれた。韓国の留学生一般にとって、植民地時代の記憶は、本来であれば、「存在してはならなかった時代」の記憶である。それに対して、台湾の留学生にとってのそれは、「まさにそれゆえに台湾人が生まれてきた時代」の記憶である。その二つの軸の間に、近代化のライバル、あるいは「勝者」として日本をみなす中国人留学生の記憶があるということができるかもしれない。いずれにせよ日本周辺の国民の感情は、日本という存在を抜きには語れない。それは「西欧」「列強」を抜きに、それをモデルとしてきた日本の国民感情が語れないのと同様であろう。第二次大戦中のオランダ民間人への残虐行為は、まさにその裏返しということができるであろう。
おそらく、それぞれの国民との間で、具体的な和解の仕方は異なるものとなることであろう。しかし、あえて一般化すれば、国民的な感情相互の和解にあたっても、(1)自分自身の感情が想起されるところの記憶をより客観的な歴史と結びつけて冷静に他者に語り得るようになること、(2)人間の他者への感情には、共感(sympathy)、哀れみ・同情(compassion)、そして友愛(仏: fraternité、英: fraternity)が入り混じっている(Ute Freverr, Emotions in History: Lost and Found)ことを自覚化すること、この二つが最低限必要であるように感じられる。「共感」は対等な関係での感情であるのに対して、「哀れみ・同情」は文明的・文化的な上下関係の中での感情、そして「友愛」は同じ国民・民族に向けられた感情である。
和解の困難さは、こうした感情が一人の人間に向けられるよりは、国民という集団に対して向けられてしまう傾向から、人間が自由になれないことにある。
国民としての感情が想像されたものであることは、アンダーソン『想像の共同体』に詳しく説明されている。そうした同じ国民としての感情を支えているのが友愛であり、それは同じ言語を話し、同じ習慣をもち、何らかの形で容易にコミュニケーションが取れる存在であることが、少なくとも20世紀の第二次大戦の頃までは一般的であった。戦争は、何よりも、そうした友愛の感情を国内で高めることを絶対化し、それ以外の感情を統制することから起こったということができるであろう。ユダヤ人や外国の国民に対する時、人間一般に対して感じる共感のみならず、哀れみ・同情さえも政治が統制することによって、さまざまな行為は生み出されたのである。ユダヤ人の虐殺や、民間人の収容はその典型的な例であろう。
経済力のみならず、生産活動を支える人間の心理やそれをささえる思想までも戦争へと動員するところの総力戦という戦争においては、さらに人間の感情も戦争に動員される。国民としての友愛の感情は、多国民への差別・侮蔑を含んだ優越感に高められ、多国民への共感も哀れみさえも差別的な構造の中に組み込まれるといえよう。
戦争の時代を体験していない世代に、いかに戦争を伝えていったらいいのか。感情という存在を、論理的、冷静に、研究の対象としていくこと、そして歴史の記憶によっていかに国民的感情が生み出され操作され、時には体制を正統化する装置とされていくのか、さらに民主化運動そのものがいかに新しい記憶を掘り起こし、そうした感情的記憶を推進力として展開されてきたのか、特に東アジアを焦点に、国民統合のダイナミズム・力学を具体的に解明することが必要となろう。
個人的には、国際協力によって展開される新しい次元の歴史学を通じて、自分のうちにある国民感情を、他国民へ向けられる感情と組み合わせて、冷静にみつめることができる若者が増えて欲しいと願う。私の祖母のその息子(私の伯父)に向けられた感情、それを生きた記憶として私に与えてくれた、今はなき祖母を思い出しつつ、それを単なる個人的なものにとどまらせることなく、感情を研究していくための、ありがたいプレゼントとして噛み締めている。
7. 共有する事と思いやる事⎮マールテン・ヒズケス
ご来場の皆様、
本日こうして、日蘭イ対話の会の要請により皆様の前で私の著書並びにインドネシアにおけるプロジェクトについて話をさせていただけることを、非常に光栄に思います。本日の重要なテーマにこのような形で貢献できる機会を与えていただき、対話の会の皆様には感謝いたします。
私の話は「私達」と「あの人達」の間の隔たりが最大限に広がってしまった戦争についてです。このような両極に分かれる考えは何世代にもわたって植民地社会の中に根付き、結果的に5年に及ぶ多くの残虐行為となり、そしてその後何十年にも渡る沈黙へと続きました。その後90年代に入り、オランダでは異なる考えの人達が一緒に話し合うのではなく、お互いに意見を対立させる、という状況になって行きました。戦争犯罪とは何か、という定義についての意見が一致せず、また相手の立場に立って自分の姿を見ることができなかったことから、議論はうまく行きませんでした。インドネシア人が当時の戦争についてどう考えているかはわかっている、という主張もされました。いくつかの本格的なオーラルヒストリーのプロジェクトは、研究機関の机上に留まっていました。
しかし、植民地支配という過去の出来事は、今の世界において、未来に有益な示唆を与えることができる教訓が隠れているのです。現在の専門知識を駆使すれば、私達自身の過去をより深く見つめることも可能なはずです。
私がインドネシアで経験したことを、皆様と共有したいと思います。2018年9月、私はインドネシアでおよそ1万キロの距離を旅し、歴史を学ぶ学生およそ1200人、植民地時代の暴力による被害者の遺族や暴力の目撃者、多くの教師といくつかの歴史委員会と話をしました。この旅は和解プロジェクトとして企画されたものではなかったのですが、この出会いにから和解が生まれました。和解がそれとはっきりわかるように発言されたわけではありませんが、私には、他の形で和解を感じることができたのです。それは受け入れてもらえたこと、興味を持ってもらえたこと、インドネシア側のオープンさやリラックスした態度などでした。
私の著書、「家では誰も僕を信じない(原題:Thuis gelooft niemand mij)」は私の父の人生の中で痛みが疼いている部分に私が敢えて立ち向かったものです。この本は、1946年に植民地エリート部隊がインドネシアのスラウェシ島で行なった残虐軍事行動に父が自主的に参加したことについて調べ、それをまとめたものです。このスラウェシにおける、のちに南セレベス事件と呼ばれるようになった軍の残虐行為は、植民地支配の歴史の中でも非常にデリケートな問題です。正義のためにスラウェシに向かった父と彼の小さな部隊が、なぜ到着して数日もしないうちにあらゆる法の枠組みから外れて人々を処刑し始めたのか。
父は既に亡くなっていますので、この疑問への答えを探すには当時を知る人に聞くしか方法がありませんでした。この本は、一人の兵士がなぜ残虐行為に参加し、何を感じたのか、の答えを探す私の旅の道程を書いたものです。この旅では善悪の審判を下したり誰かを擁護したりせず、私自身の気持ちに従いながら進みました。
南セレベス事件というのは、オランダとその旧植民地の間で繰り広げられた5年におよぶ熾烈な戦闘の比較的初期の段階で起きた出来事です。1946年12月から12週間に渡り、セレベスでは軍事行動がとられました。この行動は、罪が十分確定していない人々がいかなる法的枠組みや保障も与えられず、公正な処罰を確定されないまま即座に処刑されたことでした。父が所属していた小規模なエリート部隊が、おそらく600人程の人々を処刑しました。それだけではなく、軍隊や警察による副次的な暴力により、その何倍もの人が殺害され、その数は3000から5000人程と言われています。
インドネシアが1950年に独立してから20年の間、オランダではこの件についての社会的論争が起きることはありませんでした。そしてそれ以降も論争があったとは言えません。事実は全て判明しているにもかかわらず、論争に至らなかったのです。文学教授のポール・バイル(Paul Bijl)氏は植民地支配の歴史への対応について、自身を医者に見立て、討論や発言の欠如を神経の機能不全による国の失語症、と表現しました。皆何が起きたかを知っているのに、その概念や映像を適切な言語中枢に送ることはできなかった。(i)
この南セレベス事件の中で、一人一人に一体何が起こったのかを知る人は誰もいませんでした。元部隊員たちを見つけることはほぼ不可能で、運よく見つけることができても、彼らがその胸の内を晒すことはほとんどありませんでした。一般的な兵士以上に、彼らは自分達で決めたエリート・コードに縛られていました。部外者が彼らに質問するのは選択肢から答えを選ぶような質問ばかりで、しかもはなからすべてを想定しており、ほとんどが罪や処罰という話になるのでした。
つまり、この行動に参加した者たちや目撃者自身がインタビューされたことはありませんでした。彼らは、帰還後、国民の半分からは英雄扱いされ、残りの半分からは戦争犯罪人扱いされました。元隊員のほとんどはインドネシアでの軍務の後、人生のその部分に鍵をかけて閉じ込めることに努め、家庭を持ち、新たな人生を築くことに専念しました。議論は歪められ、一方的で、彼らはうんざりしてしまい、どんな討論にも自分の意見を述べようとはしなくなってしまいました。
私の父はこの123人の隊員の一人でした。父が1992年に亡くなった後、私は父がこの期間に行ったこととその動機についての調査を始めました。
父の胸の内だけではなく、父のような人間を生み出した社会、父が所属していた部隊の暴力的環境も合わせて調査しました。私はこの中に自己圧迫、集団圧迫、外部からの奨励、無制限に暴力の行使権を与えられた隔絶されたグループのエネルギーなどの要素による影響があったことを見出しました。この本は多くの情報源を元に書かれています。その情報源は例えば元部隊員との話、父の手紙、目撃者へのインタビュー、諜報の報告書、そして公式記録、個人的な記録などです。
このノンフィクションの本は、私が自ら選びとった、父と息子の ― 親密な― 対立を書いたものです。私は調査をしながら真実と愛情の間でもがく息子として描かれてます。最終的に私は、大変苦しい多分読者にも感じることのできる辛い葛藤の末、その真実と愛情の両方を選びました。そして、本の中に私が最終的に受け取りたくなかったものを受容したことを記しました。父は私にとっては大切な人であり、しかし同時に、私が生まれる20年前に想像しがたい世界を歩き、そこで信じられないことを行った人物でもあったのです。
(i) ポール・バイル:「植民地の記憶とオランダ・インドネシアでの忘却(Colonial memory and forgetting in the Netherlands and Indonesia)」収録書籍:Luttikhuis, Bart (編集): Colonial Counterinsurgency and mass violence, p.261 -281ラウトレッジ社、2014年
オランダにおける反応
このような私的な本を書くと、その内容は出版されるまではまだ自分の近くに留まっています。しかし、いったん私の手元を離れたら、ありとあらゆる人がその内容を批判してくるかもしれないので、それを公開することは非常に怖ろしいことでした。ですから、私は非常に緊張していました。しかし、幸いこの本は好評を得ることができ、またあちこちで取り上げてもいただきました。中立的な議論が一つあったほかは書評は肯定的であり、しかもラジオ番組での多くのライブインタビューの際や、読者の方からいただく感想などでも、理解しやすい内容だという評価をいただきました。父と息子、という視点は、読者にとっても取り掛かり易い話しで、また話のタネにも適していたようです。
インドネシアにおける反応
2018年の夏に、インドネシア語版が出版されました。インドネシア語に翻訳するのは当然の流れでした。スラウェシにおける残虐行為、そしてその指揮官であったライモント・ウェステルリング(Raymond Westerling)大尉は、インドネシアの国家成立の過程において非常に重要なそして慎重に扱うべき題材です。したがって、この本をただインドネシアの書店に並べるだけで済むはずがないのは明らかでした。ですから、その出版に合わせて、インドネシアの出版社と私はスラウェシ、ジャワ、カリマンタンの大学において14のディスカッションを行うプロジェクトをスタートさせました。出発点となるのはシェアリング・ヒストリー、つまり歴史についての異なる視点を共有し、それにより歴史についてより深い認識を得ることです。
私の父が軍人としてインドネシアの地に足を下ろしてから72年後、私はその同じ地に足を下ろしました。軍人手帳の代わりにブログとノートを持ち、銃弾の代わりに言葉とキーボード、カメラを持ちました。私の本が対話と交流を始めるきっかけになりました。
私の父はインドネシア人を射殺したのです。そのことについて、一体どうやって会話を始めればいいのでしょう? 私は、プレゼンテーションと対話について以下のように考えました:
- 核となるもの:受容、絆、共同、自由な発言、目に見える事
- 情報と解説は重要である。感情も同じくらい重要である。
- 共通の歴史は共有の物である。真実は一つではない、視点は数多くある。
- 私は私自身の発言をし、私の立場で発言する。他の誰かのために考えることも、誰かのために発言することも、誰のために結論を出すこともしない。私の視点は限られたものであり、他の視点も十分あり得る。
- 私は、中立的であるよう心掛けるが、おそらく真に中立的ではないであろうことを明言する。
- 自分は脆い人間であるという立場をとり、相手もそうすることを願う。
- 私が用いる言葉の影響を認識する。両極化、或いは政治問題化するような言葉は避ける。
- インドネシア人に対し、彼らの視点、認識や気持ちを述べるようそれとなく促す。
私は、予想される反応や感情がどんなものであるか、事前に想像してみました。しかし何が起きるか、まったく予想ができませんでした。前例になるものが何もないのです。この歴史は、現在のインドネシアではどのくらい認識されているのだろうか? どれほどの感情や痛みがあるのだろうか? 私が父の話をしに来ることを、人々は受け入れてくれるのだろうか?私は自分が偏った見方をしているであろうことを認識している、ということをどうやって伝えればいいだろう? 人々は私を責めるだろうか?
一番最初のディスカッションが始まる前、私は、控えめに言って非常に緊張していました。しかしそれは、インドネシア側も同じだったでしょう。インドネシア人を銃撃した男の息子が、それがどのようにして起きたかを説明しにやってくる。ディスカッションの場で誰かが立ち上がり、あなたは父親の戦争犯罪を正当化するために彼のしたことに理解を求めるために来たのか、と言い出すリスクはそれなりにあるだろう、と考えていました。そしてそうなった時のためにどうすればいいか、も考えるようにしました。そんな発言があったらきっと不快に感じるに違いありません。そんなことは間違っている、と説明することもできるでしょう。また、私の善意を伝え、うまく私の意図を明確にできたかもしれません。ですが、これが適切な対応とは思えませんでした。私は、このようなリアクションがあった場合にはそれを尊重し、そしてそれをとても価値ある事だと考えるようにしました。発言者の立場になってその思いを考えたかったのです。
しかし、そのような場面には全く出くわしませんでした。交流の場において、自身を弁護しなければならなくなるような場面になることは一度もありませんでした。プロジェクトのタイトルは South Sulawesi Reconsidered (南スラウェシ再考)でした。 この「reconsidered」という言葉は慎重に選びました。インドネシアの学生、教員、遺族、目撃者、そしてメディアがどのように反応するか全く予想できませんでしたから、私はとにかく慎重でいたかったのです。そして、彼らにも自分の考えを述べて欲しかったのです。
ツアーの間中、そこにあったのは常に開かれた雰囲気でした。全ての大学において非常に多くの質問がされました。事実について。解釈について、分析について。そして感情について、痛みについて。オランダの行動に対するインドネシアの批判は敬意をもってオープンに行われ、私が責められている、と感じたことは一瞬たりともありませんでした。オランダで一般的に考えられている、インドネシアの一方的な物語というイメージに反し、インドネシアの人たちはこの出来事には多くの視点があるのだと何度も述べていました。父の行動についてはたくさんの質問が寄せられましたが、驚いたことに否定的な趣旨のものは全くなく、彼らの相手の立場を理解する能力の高さを見せつけられました。
インドネシアの様々な世代がそれぞれの形で独立戦争を経験し、独立戦争に関係しているのです。学生たち(17歳~22歳)は情報に飢えており、同時に感情面についての質問も多くありました。また彼らは、当時の戦いに重要な側面を加える話をしてくれました。例えばパンケプ地方出身のアルユング君は、彼の家族がどのように地下のほら穴に潜って父の部隊から隠れたか、という話をしてくれました。彼はおじいさんやおばあさんから聞いた恐怖や感情を、300人の学生の前で真似して見せてくれました。そして、この交流と戦争についての議論を高く評価してくれました。彼が私の本に貼っていたたくさんの黄色い付箋と多くの書き込みが、彼がいかに熱心に本を読んでくれたかを物語っていました。
また別の学生は以下のように述べました。「オープン・マインドな歴史の話をありがとうございました。私達にはこのように、事実を基に、異なる視点から歴史を見る事が必要です。良い歴史とは勝者や敗者について語るのではなく、人間が夢を実現するために何をするかを議論するのです!」そして一人の教員が補いました:“Your project is about sharing and caring.”あなたのプロジェクトはお互いの気持ちを共有し、思いやることについてである。会場は発言者たちに割れんばかりの拍手を送りました。
歴史・社会科学の学生や教員とのディスカッションだけではなく、目撃者、元軍人、現地の歴史委員会の人々とも、より深く踏み込んだ話をしました。その中でも印象に残ったものの一つが、遺族であるパク・アダム(Pak Adam)との話でした。1947年、アダムがカンポン・ガルンロンボクにいた時、彼は9歳でした。その朝、アダムの住むカンポン(集落)にいた115人の男性のうち、75人が射殺されました。一部は処刑という形で、一部は逃げる途中に。
アダムの両親は彼の目の前で射殺されたのです。その時アダムの叔母は、両手でアダムの目をふさぎました。その叔母と一緒にアダムは山に逃げましたが、軍は、全員カンポンに戻らなければならない、さもなければ軍は山に避難した者を見つけに行く、と通知しました。しかし、戻る場所などもうないのです。カンポンは軍により焼き討ちにされてしまったのですから。それでもアダムと叔母は戻り、親戚の元に身を寄せました。アダムは今でもしょっちゅうその時のことを考えます。アダムはエネルギッシュで明るい人物で、一人で暮らしており、子供はいません。インドネシア語は話さず、マンダル語を話します。私は彼に、オランダに何を期待するか、と聞きました。彼の答えはこうでした。オランダ、インドネシアの双方で歴史について知られるようになるのはいいことだ。お金や謝罪は期待していない。それよりも私の話を聞きに来てほしい。彼は私を自分の家に泊るよう招待してくれました。
インドネシアにおける反応は非常に胸を打つもので、非常にオープンでした。交流をしたいと思ってくれていることがはっきりと見え、感じられました。私が、インドネシアのことをもっと知りたい、自分は歴史の一部しか知らない、と述べることはとても気を楽にし、オープンな会話を可能にする土壌を作り出しました。ほとんどどこに行っても、インドネシアの人達は、特定の個人の小さな歴史を非常に肯定的に評価してくれました。彼らは、自分とは縁のない抽象的な英雄についての公的な歴史の記述より、この方法のほうが戦争についてより深く理解することができる、と述べました。こうして私はインドネシアの歴史をより深く理解することができ、さらに歴史を語る彼らから力を与えられました。
私自身は、このような形での歴史の記述を続けていこうと思ってます。次の本ではスラウェシにおけるゲリラのリーダーの息子と私の対談を企画し、更に政情不安定な地域の住民の話も加えようと考えています。また、インドネシアの学生達による現地調査も行う予定です。このゲリラのリーダーの息子、というのは、著名な歴史家であるアンハー・ゴンゴング(Anhar Gonggong)氏です。ゴンゴング氏はスラウェシ出身で、彼の人生は1946年から1947にスラウェシで起きた軍の残虐行為と非常に強く結びついています。ゴンゴング氏の歴史観は、シェアリング・ヒストリーの考えに通じるものがあります。彼は、西洋人やオランダ人に対してはもう怒りを感じていない、と述べました。戦争では敵・味方とも道徳の制限を超える、というのが彼の見解です。怒りや片寄った視点の物語は、過去についての深い理解を生み出すことを妨げます。
過去を未来の基盤に
インドネシアでの最後のディスカッションにおいて、学生たちから3つの質問がなされ、それについて1時間半のディスカッションが続きました。この質問は相互理解と和解への道程を具体化していると思います。
- なぜ歴史は理解できないほどに残酷で血なまぐさく、明らかに時代精神に反して進んだのか?
- 脱植民地後の歴史をどのように記述するか?
- 私達の感情にどう対処すればいいのか?
私は、この3つの質問に対する回答は、当時の紛争当事者たちが三つのレベルに分けて、共同で歴史の記述を行わなければならないと考えます。
- この質問は、襲撃と、当時の実際の状況の把握についてです。オランダ側に、正しいつもりの裏側にある闇の部分を自閉症的盲目で、見ようとしなかったことなどがあります。
- 2つ目の質問に対する回答は、歴史は私達の所有物ではなく、歴史には複数の視点、複数の真実があるのだということを受け入れなければならない、ということを明確にしてくれるでしょう。
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感情にどう対処すべきでしょう? それには、現実と感情のバランスを探すことが必要でしょう。怒りや事実性はオープンである必要があり、その洞察を広げるために役立てなければなりません。
私のプロジェクトは和解を目的としたものではありませんでしたが、私にとって、そして私とインドネシアの人々とのつながりにとって、ある種の和解的な効果がありました。安らぎが生まれ、共通のスペースができました。いくつもの暖かい手と握手をし、実のある会話をしました。そして、私は父の過去とのある種の和解も感じました。インドネシアの人達と私は共に事実を見、その解釈と、感情を共有しました。父を非難したり弁護したりする必要がなかったことは、私の中にインドネシア人と彼らの生まれつきの外交術、そして感受性に対する大きな尊敬の気持ちを生みだしました。
歴史の共有、それは言うなれば対話という形になるものです。簡単に言うならば、とやかく言わずに座って相手の話を聞くことです。自分のことは脇に置き、真実の、自分にとっては不都合な側面の話に耳を傾けようとすることです。耳を傾けることができることです。耳を傾ける勇気を持つことです。私達オランダ人はそういう姿勢を持つことができるはずです。
ご清聴ありがとうございました。
デン・ハーグ、2019年7月6日 © マールテン・ヒズケス、2019
9. 美術作品「ダ―ラングとは誰?」の説明⎮アルレッタ・カーペル
芸術は「許し」を与えること
ダーラングとは誰?
私の右側に「ダーラングとは誰?」という作品がかかっています。
ご覧のように二つの風景が水平線が重なるように配置されてます。この作品は私の人生に影響を与えた風景をあらわしてます。一つの物語に二つの世界。空気の流れがこの薄紙のような布と戯れると、想いとはかなさの隠喩のように見えます。
私はこの画像をお互いが重なるように直感的に並べました。そして心地よくはっきりした世界を焼き付けました。安定した世界:静寂と瞑想。
この作品をしばらく見ていると、この薄い風景の断片の映像は理想化されたイメージで、実際は私が最初に気づいたよりもっと対立していると言う事に気づかされました。明るさと落ち着いた静けさの下に悩ましい矛盾が隠れています。澄んだ風景が濁った影の世界を隠しています。そしてここに欠けているのは、そこに生息する生き物たちです。
私の人生に起こった悲劇と情景をご覧ください。
私は子どもの頃、悪夢に悩まされました。強烈な恐怖が私を脅かしていました。私はそれに慣れていました。また、母もそれに苦しんでいました。それは日常の出来事でした。
私の人生の初めの頃は、世界は完全で全ての人は同等でした。その定義が違っているのに最初に気が付いたのは幼稚園で最初の日にミルクのように白い髪の毛で薄ピンクの肌の男の子の隣に座らせられた時でした。その男の子が私を見る目つきで、私は突然自分自身を見つめなおしました。私には色がついていると言う事に気づかされました。そして、それは誰にでも明白でした!
その日から、私は他の人と違っているということが現実になりました。当たり前と言う事が影を潜めていきました。混乱が私の同行者となりました。
苦しい夢から目が覚めた時、母は蘭領東インドでの話をしながらいつもと同じように私が眠れるよう、撫でてくれていました。彼女の東インド。彼女がこの世界について話をする時は、彼女がここではなく、まだそこにいるようでした。そして、彼女はあいまいな所に私を連れ込みました。
そして、そここそが安心できる場所でした。そここそが豊かな所でした。そしてそこは時間がゆったりと流れていました。面白いいたずらもありました。私は母と想像を形にしながら、一緒にその情景の中を漂っていました。彼女の記憶は、私の経験になって行きました。
また、しょっちゅう開かれた家族の集まりの中でも、私は気づいていました。うちの小さな家で開かれていた賑やかなクンプラング(パーティ)では、みんないつも東インドの事や「あの時あそこに」住んでいた時の彼らの生活について話していたことに。
そこを離れることは、彼らにとって、動揺とか不安、コントロールできない動きの象徴なのでした。そこを離れることは「そこ以外の世界」との接触の中で受ける、彼らの行動をコントロールする厳格さ、皮肉や、不安な視線、困難と閉塞でありました。
誠実さが見えていました。彼らの話し方に、彼らの手の動きに彼らが作り出したものに。音楽を演奏するにも、料理をするにも、来し方と関係があることが私には分かりました。
彼らが蘭領東インドでの話をする時、私は肌に暖かさを感じ、私の上からシャワーのように流れる雨を感じ、様々な味を味わい、芳醇な匂いを嗅ぎ、木々や植物、果物の数えきれない形を目の前に見ました。両親や、祖父母、おじもおばも、私が一番大好きな活発で力強く穏やかな人たちに変身しました。
頻繁にあった家族の集まりで感じた事は、この世界のどこかに自由で安全で洗練された場所があると私に信じ込ませました。
しかし、そこにはもっと別の事もありました。時々彼らは突然お互いの会話を飲み込む時がありました。彼らの顔の表情の変化や視線を内側に向けるような表情はとても見るのをためらわせるものがありました。どうも口に出せない話もあるようでした。
私は外の世界からのすべての信号にアンテナを張り、隠されたままの物語から漏れてくるものに全身で反応していました。時に、私は痛みや恥ずかしさ、又怒りを感じていました。
例えば、母が権威あると言われているたちにどうやってお辞儀をするかを見ました。心からお辞儀をするのは、本来お互いに尊重し合う動作です。しかし、多くの場合、義務でやってるような感じでした。階級的で人を小さくする感じでした。そのような場面では、あたかも見えない天井があって、彼女が立ち上がれないかのように見えました。そんな瞬間、母はあたかも彼女の快活さを窒息しそうに従順な卑しさと取り換えたようでした。
それから父もそうでした。彼は家の外では、できる限り間違いがないよう全力を尽くしていました。今でも、それ自体、素晴らしいことだとあなたはおっしゃるでしょう。人と注意深く接することは、その人と接するのに尊敬の言葉や心を寄せる努力が必要です。その完璧であろうとする様子はまるで彼の構築した文章が、役者にセリフを教える人によって指示されたもののように見えました。
父は私にオランダ人より二倍一生懸命に働かなければならないと教えてくれました。そして、彼はそれをがよく分かったと私に伝えました。
だけど、、、、、私はオランダ人ではなかったの?
無意識のうちに私は両親の心の中にある衝突し合う二つの動きを引き継いでしまいました。一つは、立ち上がらせようとする力で、それに対して、それを捻じ曲げようとする力の二つを。それは、前方に押し出す動きに対して、バックステージに引き戻す動きでした。
家の中では、両親の行動は全く違っていました。保護された壁の中では欲求不満による怒りが抑制されずに表に現れました。自身を従属者又従順な者として型にはめることから生まれた欲求不満は、この世に生まれ落ちると同時に、世代から世代に引き継がれ、慣習化していきました。その受け継がれ内部化された自己抑圧は私の行動の中では自己嫌悪に近いものでした。
私の両親によれば、つまり多少私の意見でもありますが、ほとんどの人はあまり信頼できないし、「危険」ですらあるのです。
私は、自分が二つの価値観に引き裂かれていると感じる人々に囲まれて成長しました。「アイデンティティ」というテーマが、私の人生とアーティストとしての仕事の中で、共通のテーマだと言う事は自然の成り行きでもありました。
では、そのアイデンティティとはいったい何なのでしょう? アイデンティティとは物語です。物語は私たちに自分を支えるためにつかまるところを与えてくれます。私たちには、人生の不可解なものに自分自身を関連付けるために、その手助けが必要なのです。
私のヨーロッパ人の祖先が旧オランダ東インド諸島に向かって出港する船に乗り込もうという決断を下し、そこで子供を生んだと言う事が私の物語を決定的にしたのです。そして、そのことに気づくのに私の今までの人生が費やされました。実に魅惑的なプロセスではありましたが。
初めは、はっきりしない写真に写っている、小さな色の黒いひいおばあさんの隣に立ち、彼女と対照的にとても背が高く口髭を生やした白人の男の人、つまり「オランダ人」が悪人であり、抑圧者であり、敵であったのです。(したがって私のジャワ人のおばあさんは被害者でした)。
なんて、わかりやすい構図でしょう!でも、自己診断を何年もしてきた私はようやく自分の中にオランダ人の部分もあることに気づきました。つまり自分自身の中に、悪人、抑圧者、そして敵が潜んでいることを。
私たちが自分の物語をしっかり生き始める前に、その作品の構成やジャンル、ストーリー、脚本のテーマ、自分が受け持つ役などのポイントをきちんと知らされていたら、どれほど簡単だったでしょう。つまり、ワヤングの影絵劇のように、誰が共演者であり、いつどこで何が起こり、その物語がどのように始まり、どのように終わるのかを知らされていれば。そして、その物語の明確なビジョンと純粋な目的をもってその話を取り仕切る賢明な人、ダラングさえいたら。そうすれば、それによって役者たちが、自分たちに与えられた役を最高に表現するよう動くのです。完全な従順の下で。
重要なことは、アイデンティティを確立するためには、共同体的な歴史や文化的慣習の中で他の人の中に自分自身を認識することは不可能だと言う事です。オランダの植民地時代の過去に関する無知(まだ存在する)や、いまだその歴史に対する不完全な見解は、当事者が自身で操作でき、また立ち直ってこの世界でしっかり動き回れるようなまともな人格を形成する可能性を彼らから奪っています。
この時代のダラングは誰でしょう? 彼らはどんなビジョンと意図から大きな物語を形作って行くのでしょうか?
そして、、、私たちは未来に向けて変化する自分たちの物語に、一体どのように自分の中に内在するダラングに監督役を与えることができるのでしょうか。
私が子供時代に求めていた完全性と調和に対する欲求はいまだに私のうちにあります。私は、はまだその部分が私の中にある事を知っています。つまり、目の前で起こっている目に見えるものも目に見えないものも、どういうな意味があるのかを自問する余地も意欲もあると言う事です。
「ダーラングとは誰?」を作ることは、自分の考えの後ろにある意味を理解するのに役立ちました。
母は私に物事を心で見るように教えてくれ、父は物事を事実から見ることを教えてくれました。両方の見方のバランスをとることで、私は自分の人生に方向性を与えようとしているのです。
12. 閉会の挨拶 – 村岡崇光教授
色々と考えさせられる、刺激的なプログラムの詰まった本日の会合、顔を突き合わせての対話も終わり、最後に一言私の感じたことをみなさまにお分かちする機会を与えられたことを光栄に思います。難聴のため、小グループでの意見のやりとりにはうまくついていけませんでしたので、今朝の講演に焦点を合わせてお話しせざるを得ませんが、口頭での発表がどうやってわかったのか、という質問はご勘弁ください。
1938年生まれの私は今日の出席者の皆様の中の最年長者か、それに近いかもしれません。4人の講演者も日本の敗戦後あるいはそれに続いてオランダが以前の植民地から撤退した後に誕生されたことを匂わされました。デヘール博士が指摘されました通り、インドネシアでの太平洋戦争、日本の降伏後に彼(カ)の地で戦われた戦争を自ら体験した人々は日蘭印のいずれの国においてもどんどん世を去りつつあります。この消えゆく世代のなかには、不当に、故意に加えられた膨大な損失や痛みを受けた犠牲者のみならず、その加害者も含まれます。こういう状況に直面して、私どもの財団には難しい問題が突きつけられています:「和解の問題を今後も取り上げ続けることが可能なのだろうか、それにどういう意味があるのだろうか?」という問いです。
四人の講演者のいずれも戦争によって不当に受けた傷、今尚続く痛みを祖父母から聞いた、あるいは池田さんのように犠牲者に直接会った、あるいは保存してある関係資料を調べるといったようなことで知ったことを基にして話されました。デヘール博士の講演の題には「かつて我々を引き離したものが我々をもう一度繋ぐことができるだろうか?」とあります。私は、そうあってしかるべきだ、と思っています。私たちがどういう宗教を信じていようと、あるいは無神論者であろうと、人間はすべからく論理的存在です。ことの善悪に想いを寄せる者です。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが「荒野の40年間」という有名な演説で述べたことに私は全く同感です。ナチスドイツの敗北40周年記念日に当時の西ドイツ連邦共和国大統領としてドイツ国会で行った演説の中で彼は言いました:「今日のドイツ市民の大多数は1945年5月8日にはまだ生まれていなかったか、生まれていても嬰児か幼児だったかもしれません。そういった人たちに、ナチスドイツが犯した戦争犯罪の責任を負わせるのは正しくありません。しかしながら、老若、有罪無罪どちらにしても、この恥ずべきわがドイツ民族の歴史は彼らの歴史でもあり、それにどのように対応するか、そのような歴史を背景にどのような新しい歴史を生み出していくか、ということについては責任があります」。ここで、故フォン・ヴァイツゼッカーは加害者としての立場から語っています。しかし、そこに込められた重要な視点は被害者も注目するに値します。加害者、被害者いずれも自分たちの歴史から学び続ける必要があります。歴史を学ぶだけでなく、そこから教訓を汲み取るのです。
そのような学びは個人単位でもできますが、共同でも可能です。加害者と被害者が互いに向き合って学ぶのです。フェイスブックを介してではなく、face to faceで向き合うのです。過去の辛い歴史を無視したのでは、永続的で、本物の友情、調和の関係を再構築することは無理です。シナ海を渡って日本軍の慰安婦として散々に痛めつけられて今尚苦悶しておられる老齢の、人生の黄昏時を迎えられたご夫人に会いに出かけられた池田さん、歴史学者や学生たちにオランダ人として対話を求められたヒツケさんがなさったことがまさにそれではないでしょうか。
インドネシア政府はオランダの植民地時代、日本軍による占領期のことを教えたり、研究することをあまり奨励はしない、と言ってよいでしょうか? この点において、2011年9月、ハーグのオランダの裁判所が、1947年に、「警察行動」と婉曲的に呼ばれている軍事作戦の一環として、ジャカルタからあまり遠くないラワゲデ村でオランダ軍によって処刑された431の現地人のみ法人たちから賠償を求められたのに対して、オランダ政府にはこれを支払う責任あり、という判決を下したことによって大事な一歩を踏み出しました。インドネシア独立戦争の過程で自国の軍隊によって行われた「行き過ぎ」をインドネシア政府がどのように処理したかは私は知りません。
この点において、私の祖国、日本はあまりにも立ち遅れています。悪名高い泰緬鉄道について私が初めて知ったのは、1971年にマンチェスター大学の講師として英国に着任した時でした。1991年にライデン大学へヘブライ語教授としてオーストラリアから着任した時、オランダ人慰安婦については私は何一つ知りませんでした。2004年にインドネシアを5週間訪問した時、現地の先生から、お父さんは戦時中日本軍の兵補として、60000人を超える同胞とともに召集され、その時の給与の三分の一はいまだに未払いになっているということを初めて知りました。池田さんは2000年の暮れに東京で行われた慰安婦に焦点を絞った女性の国際法廷の開催に情熱を傾けられましたが、昭和天皇は有罪、との判決が下されました。それに対して平成天皇からあるいは宮内庁からなにがしかの反応があった、ということは私には未聞です。天皇が公式に、真摯に謝罪されるのが日本政府の姿勢、大多数の日本国民の姿勢を根本的に変革するためには、難題であることは重々承知の上で、最も効果的な道であろう、というのが私見です。
池田さんは、加害国の、戦後生まれの、しかも女性として「慰安婦」問題に対して何ができるのか、何をすべきなのかを厳しく自問され、その末に、今尚生きておられる犠牲者たちと出会い、この加害の歴史を、日本だけでなく、被害者をだした国々でも、きちんと保存時、今後の世代に継承していくべきだ、との結論に達せられました。浅野先生は和解が実現するための枠組みを理論的に、学問的に構築しようとしておられます。ご自分で仰いましたように、この問題に関心を抱くようになっただいじな契機は、学生時代に韓国人と台湾人の留学生と出会って過去のことを話し合うようになってからだ、というのです。お話を伺いながら、その時先生は、かつての植民地宗主国の後裔としてその留学生たちに向き合っておられたのかどうかがよく判断できませんでした。
私達の財団はまだ無用の長物にはなっていないのではないでしょうか。和解の問題は今尚ピンピンしています。そういう観点からしますと、デヘール博士の結論の中の一文がいまひとつ楽観的に過ぎないだろうか、と思えます:「私の世代は、オランダでも日本でも、わたしたちどちらにとっても本当は関係のなかったはずの国で起こったこの短い、辛い歴史とは多かれ少なかれもうけりがついています」。もし、本当にそうだったら、毎月第二火曜日、ハーグの日本大使館の前で、もう何十年とデモを続けている「日本の栄誉回復のための負債財団」にはこのデモは今後やらないように勧告すべきでしょうか。
ここにご臨席の皆様にも代わって四人の講演者、芸術家に対してその貴重なご貢献に対して厚く御礼申し上げます。また、精力的な議長のタンゲナさんのご指導のもとにこの第21回対話集会を企画してくださったことを感謝申し上げます。では、皆様、気をつけてご帰宅ください。トットジーンス、オルヴワール、アウフヴィーダーゼーン、セラマット ティンガル、またお会いする日まで。