講演 日本語訳                  20回日蘭イ対話の会 201799日 於:Bussum 

「出自、アイデンティティー、和解」

レギ・バーイ

私は自分の出自について長い間殆ど何も知らずにいました。母方の祖父母には会ったことも無く、父方の祖母については何も知りませんでした。生前の父から一度だけ私の祖母である彼の母親が1900年頃生まれのジャワ人女性であったということを聞いたことがあるだけです。それ以外は父は口を噤み私は何も知らずのままでした。

1998年に父が亡くなったとき、遺品の中に自分にとって大きな意味をもつことになった一つの文書を見つけました。その文書の一部を下に引用します。

   本日1926年10月23日、私ことエミール・クライン、スラーゲン市役所戸籍係臨時文官のもとにスラカルタ居住の文官ルイ・ヘンリー・アドリアーン・バーイが出頭し、1919年9月11日午前5時半に男児が出生したこと( )、および当男児を自分の子として認知することを宣言した。

ならびに、ソロ・ジェンキルング居住、無職、年齢25歳前後と思われる現地女性ムイ

ナが 民法284条に基づいて当認知に同意する旨を宣言した( )

これは認知証書の一部で、この類の証書はオランダ領東インド(現在のインドネシア)で多数作成されていました。証書を申請した父親が私の祖父で、当男児が私の父、当ジャワ女性が彼の母親つまり私の知らない祖母なのです。

   この認知証書が祖母の存在を証明する唯一の文書です。この女性は父の出生後間もなく彼女の里に返されたと私は後になって知りました。彼女は自分の子-すなわち私の父-を祖父の下に置いて去ったのです。父は自分の母親を全く知らず、母親については一言も聞かされずに育ちました。

   この文書の発見で私は初めて未知の祖母の名を知り、それからいろいろな疑問が湧いてきました。母親がどうして子を残して家を出されたのか、祖父はその女性と結婚していなかったのか、彼女はどんな女性だったのか、彼女のその後の人生はどうなったのか、自分は彼女の何かを受け継いでいるのだろうか、私は彼女に似ているところがあるのだろうか。

   後になって分かったことですが、このようなことは決して例外的なことではなかったのです。それはオランダ領東インドでは一般的な慣習となっていました。植民地にやってきたヨーロッパ人男性はアジア人女性と結婚することなく同棲し、そしてその関係から子供が生まれました。オランダ系インドネシア人の家系は殆ど例外なく、ヨーロッパ人男性とニャイと呼ばれた現地女性との同棲関係から発しています。

      しかしこういう同棲関係は忌むべきこととされていたのであり、オランダ系インドネシア人の家族の中では長い間そういう出身は恥辱感と結びついていました。今日ではもうそれは関係のないことになりましたけれども植民地社会の状況を思えばそれは容易に察することができるでしょう。

   私は後になっていろいろ調べていくうちに、オランダ領東インドで異人種男女の未婚同棲関係が如何に広範囲に及んでいたかを知るに至りました。

ヨーロッパ人男性とアジア人女性との同棲関係

オランダの東インド会社VOCの商人たちが17世紀初頭にインドネシア諸島に乗り出したその時から地位の上下を問わずオランダ人のVOC社員がアジア女性「ニャイ(家政婦、側女)」と同棲することは多々ありました。短期であれ長期であれ植民地にやってきたヨーロッパ人の若者は現地でヨーロッパ人女性に会うことがなかったことを考えればそれは当然のことだったでしょう。VOCに雇われていた船員、倉庫係の人員、兵士、商売人達は現地のアジア女性と関係を持つことに憩いを求めました。

   その男女関係の中にバラ色のロマンスや出会いを想い起すなどは現実にほど遠い話で、愛などは稀のこと、実際は殆どが強制的な関係だったのです。1600年頃からインドネシア諸島にやってきたVOCのヨーロッパ人男性たちは、召使として仕えるだけでなく夜は寝床を共にするアジア人の女奴隷と暮らすのを当たり前のこととしていました。奴隷?と首を傾げられるかもしれませんが、確かに彼女たちは奴隷だったのです。これはインドネシアに纏わるオランダ史の中でもあまり知られていない一面です。

   VOCがインドネシアに進出したその時から植民地建設のために男女奴隷が種々の労働に駆り出されました。家事労働には女性の奴隷が使われました。奴隷はVOCがアジアの奴隷市場で買入れたか、或いはどこかの戦争で戦利品として捕らえてきた人達です。言うまでもなく奴隷たちは不平等な社会でヨーロッパ人所有者たちの絶対的支配のもとに置かれ、アジア人の女性奴隷は言いつけられた仕事をするだけでなく、多かれ少なかれヨーロッパ人男性と性的関係をもつことを強いられました。

   ヨーロッパ人男性とアジア人女性奴隷との同棲の慣行はインドネシアでVOCが事業を営んでいた時代を通して絶えることなく全般に渡ってみられました。ということは1600年初頭からVOC閉鎖の1795年までの間に何千人にも及ぶヨーロッパ人男性がアジア人女性と同棲したということになります。

   オランダ国が東インド会社VOCから植民地行政を引き継いだ後1800年にオランダ領東インドで奴隷制が廃止されましたが、それでヨーロッパ人男性とアジア人女性との同棲の慣習が廃れてなくなったわけではありません。19世紀後半にはますます多くのヨーロッパの若者たちが一獲千金を夢見て植民地へ出向いたのであり、その時代になっても植民地には婚期のヨーロッパ女性は殆ど一人もいなかったのですから。

   同棲を強制できる女性奴隷を使うことができなくなった「不便」は、家事のために女性使用人を雇うことによって補われました。それ等の女性はバブーと呼ばれ、家事労働の他に主人の寝床での夜のお勤めも求められたのです。

   オランダ領東インドの社会では一般市民も植民地軍隊も農園でもどこでも地位の上下を問わず、支配階級上層に至るまでヨーロッパ人男性はアジア人女性と一緒に住むようになりました。それは決して稀有な事象ではなく19世紀終り頃にはヨーロッパ人男性の過半数がアジア人女性と同棲していました。

   ヨーロッパ人男性と一緒に住むアジア女性-ニャイ-には何の権利もありませんでした。女性は何等主張することもできず、男性と何年一緒に住んだか、二人の間に子供がいるかいないかに拘わらず、いつ追い出されるか分からない身分だったのです。ニャイが送り返されるときは持ち物や金銭を持ち出すことはおろか、自分の生んだ子さえ連れて行くことを許されないことも屡々でした。このような不平等な男女の力関係のもとにニャイはヨーロッパ人男性に虐待を受けることも稀ではありませんでした。

様々な人生

私は知らない祖母の生涯についての関心に誘われて同じような境遇にあった女性達のあり方にについてもっと知りたいと思うようになり調べてみるといろいろな人生の姿が見えてきました。それを「ニャイ、原母の肖像(De Njai en Portret van een oermoeder)」と題する本にまとめました。ここで二つの人生の例を紹介します。

スリー

彼女の名はスリー,中央ジャワのブローラ出身で1874年頃の出生と推定される。男性の名はアドリアーン、ゼーランド州アルネマウデン出身の青年で1868年出生。若年で植民地軍隊への入隊を志願してインドネシアへ向かい1890年に現地に到着した。

   数年後1895年にこのアルネマウデンの若者とスリーは彼の駐屯地アンバワラで出会う。彼は彼女に家事賄い婦になってくれるよう頼み、彼女はそれを承諾する。二人はタングシと呼ばれた兵舎の一角に一緒に住むことになり、1年後1896年6月にスリーは女児を出産。アドリアンはその児を認知したのでその子は彼の姓名とヨーロッパ人の地位を与えられた。

   数か月後1896年末に植民地軍隊での軍役が終了したので彼はオランダへ帰ることを決める。その前に彼の弟マタイスが植民地軍隊の兵士としてインドネシアに来ていた。アドリアンは帰国の前に弟にニャイと娘の面倒を引き受けてくれと頼む。マタイスはそれを承諾し、スリーを彼自身のニャイとし、兄の娘を養子として受け入れた。

   マタイスのニャイとしてスリーはさらに7人の子を儲ける。兵役終了後、マタイスは港湾都市スラバヤの市役所の職を得て二人は当地に居を構えることとなった。

  スリーに対してマタイスは親切で思いやりのある主人で、彼は兄の子である最年長の娘も含めて子供達の面倒も良くみた。マタイスはその後オランダに帰ることなく生涯をジャワ女性を内妻としてオランダ系インドネシア人の子供達のもとで過ごした。1919年に彼は49歳で死亡、スリーは1939年に65歳で亡くなった。彼女はスラバヤのケンバン・クーニング墓地に子供たちの父親と並んで埋葬された。

スリーの人生は現在の我々の眼からみると驚くべき話です。スリーは帰国する一人の兵士から新着の別の兵士に文字通り「引き渡された」のです。オランダ領東インドの「タングシ、兵舎」には奔放な兵士達が駐屯していたのでこのようなことは日常茶飯事のようにありました。ニャイも子も新着の兵士マタイスに何の蟠りも無く引き渡されました。後になってみればマタイスが親切で面倒見のよい誠実な人であったことはニャイにとって大きな僥倖だったといえるでしょう。それは滅多にあることではなかったのです。

もう一つ、ルービアムという女性の悲劇的な話があります。

ルービアム

彼女の名はルービイェムだが後にオランダ語化してルービアムとなる。何年に生まれたのかは明らかでないが1898年頃と推定される。ジャワのある小さな村の出身で、父親は貧しい零細農民であった。貧困に追われてルービアムは村を出、1915年にスマトラのデリーの農園に出稼ぎの契約苦力として働くことになる。そこで稼いだ賃金は両親に仕送りした。その時彼女は17歳位であっただろう。

   彼女はデリーにあったリンブーン・タバコ会社のタバコ農園で働いていたとき、同じ農園にオランダから来たばかりのハーレム出身の若者がアシスタントとして仕事をしいていた。彼は生活の連合いを求めて苦力として働いていたルービアムをニャイとする。当時はそれはいとも簡単なことだった。

   ルービアムは二人の女児、上の子は1916年、下の子は1919年に出産する。しかし彼女がこの二人のインドネシア系ヨーロッパ人の娘達の母親として役を果たせたのはわずか数年間のことであった。上の娘が5歳の時オランダ人の父親は娘(は)にオランダで教育と躾けを受けさせることを決め、娘は父親の姉である叔母の家族に当時の慣習に従い養育費を払って託される。

   ルービアムは娘に付き添ってオランダまで共に旅することを許された。着慣れない西欧の服を身に着け他人に仕えられる船客という身にそぐわぬ船旅であったが、このようなことは1921年の頃には例外的なことであった。

   スマトラに戻った彼女はまた同じ農園でオランダ人アシスタントとの同棲を続ける。何年か後に下の娘が5歳になるとその娘も教育と躾けのためにオランダへ送られることになる。再びルービアムは下の娘を送り出すのに一緒に旅をする。1925年に三人はオランダに上陸、ルービアムはそこで4年ぶりに上の娘に会うことになる。その時彼女が二人の娘にしたキッスは最後のものとなった。 

   二人の娘たちの父親であるオランダ人アシスタントは娘達と一緒にオランダに留まることを決め、オランダ人女性と結婚する。ルービアムはただ独りインドネシアに返される。「海のバブー」、往きは船客、返りはバブー、と娘の一人が後になって嘆いた。

   アシスタント氏はインドネシアの彼女が生活に困窮することのないように小さな木造の家を手配した。ルービアムがその先どうなったか、どのような生涯を終えたかについては誰も知らない。彼女の子供達でさえ、孫達、曾孫達も何も知らない。

ルービアムの生涯は悲しい話です。子供達から引き離され、冷淡に国に送り返され、その後子供達に会うこともできなかったのです。ルービアムの生涯の話は私の祖母の話と共通しているところがあります。私の祖母もヨーロッパ人の妻に地位を譲るため追い出されました。彼女もまた自分の子供(私の父)を手離さければならなかった、彼女もまた我が子に二度と会うことはなかったのです。

ニャイとその子達

ヨーロッパ人男性がオランダ領東インドで同棲したのはインドネシア人の女性ばかりだったのではなく、中国人の女性もいました。中国人のニャイは多くの場合、少なくとも一世代はインドネシアに居住していたペラナカン・チャイニーズと呼ばれる華僑の子女たちで、ヨーロッパ人と同棲していた女性の中には比較的多くの中国人女性がいました。中国人は多く通商に従事していたことと関係があるのでしょう。それでヨーロッパ人は頻繁に中国人と接する機会があり、その子女がニャイとなることが少なからずあったといえます。

   日本人ニャイは中国人と同じように小売業に従事していた日本人移住者の子女たちでした。やはり商業上の接触の中から中国人の場合と同じように日本女性もヨーロッパ人男性との関係をもつようになりました。その他、インドネシアで売春宿を経営していた日本人が日本からインドネシアに女性達を連れてきて、その女性たちが同棲者となったというケースもあります。インドネシア同好会の会議録から実際にそのような事実があったことや、コストが幾ら掛かったのかということを知ることができます。会議録の記述に「売春宿に送られるか、又はある期間貸出される日本女性が最近到着し、居住地に拘わらず年に200ギルダーで女性を借り入れることができる」とあります。

   日本女性のニャイはとてもおとなしく良く仕えるのでヨーロッパ男性に人気がありました。インドネシア女性も中国人女性も同じような気質を多く備えていましたけれどもヨーロッパ人男性の眼から見ると芸者の国から来た日本女性が最も高く評価されていたようです。

ニャイがインドネシア人、中国人、或いは日本人であろうと、ニャイとヨーロッパ人男性との同棲関係の中から生まれたヨーロッパ系インドネシア人は略称で「インド―」と呼ばれる混血の子供達です。オランダの植民地社会ではヨーロッパ人男性とアジア人ニャイの関係は正式に認められる関係ではなかったという単純な理由でこれ等の子たちは生まれるべきではなかった、ただ単に黙認されるに過ぎなかった存在でした。

   ヨーロッパ人男性と同棲アジア人女性の間に子が生まれればその子たちは法的には「現地人」とされました。出産の後ニャイが主人によって家から出されるときは―実際にはそういうケースは多々あったのです―生まれた子供も多くの場合母親と一緒に出されました。母子はそうして現地社会の中に消えていきました。現在もインドネシアには何代か前にヨーロッパ人と同棲した女性の子孫達がそれを知らないまま多数存在しています。

   子を産んだ後もニャイも子も家から出されることなく、ヨーロッパ人の父親が子を自分の子として認知する(多くの場合出生後何年も経ってから)というケースもありました。その場合はインドネシア系ヨーロッパ人の子供は父親の姓を名乗り法的にヨーロッパ人の地位を得ることになりました。正式に姓と地位を得た子は、後になって母親であるニャイが家から出されることになっても、父親のもとに残らなければならずアジア人の母親とは完全に離別することになったのです。

   第三の可能性としては、ヨーロッパ人男性がニャイと結婚すること。その結果生まれた子供は自動的に父親の姓を名乗りヨーロッパ人の地位を与えられました。しかしこの第三の道は当時においては最も少ないケースであったといえます。

   いずれにせよ異人種の同棲関係から生まれた何万人ものヨーロッパ系インドネシア人の子達はその出身故に誰しもその陰を負って育ちました。史実の記録、ましてや歴史教科書には何の記述もなかったにせよ、オランダ領東インドの社会は人種と肌の色に基づく差別が罷り通る差別社会でした。

   オランダ領のインドネシアは上に立つ者と下に置かれる者がある世界だったのであり、白人のヨーロッパ人と褐色のアジア人の間にははっきりとした境界線が引かれていました。インドネシア系ヨーロッパ人はたとえオランダの姓とヨーロッパ人としての法的な地位を与えられていたとしても褐色の肌とアジアの血故に植民地の世界では社交的接触の場のみならず殊に実社会への参加の面で差別されていました。彼らはアジアの血が入っているということで上層のサークルからは締め出され、良い学校やより良い職場への門は閉ざされていました。現地人、中国人、日本人だったら、アジアの血が混ざっている「インド―」達と同じく、一段格の低い劣等な存在だったのです。

   オランダ系インドネシア人の家族が肌に感じる負い目で、私が英語で「colonial burden」と呼んだものはここに由来するものです。植民地時代の過去から引きずられる負担、アジア人の血を引いていることの否定、ニャイと呼ばれたアジア女性の否定に纏わる負い目はどのオランダ系インドネシア人の家族も抱えています。

   ニャイの子たちは何とかしてオランダ植民地の宗主社会に受け入れてもらいたい、差別の枷から逃れたいという願望からできる限りヨーロッパ的になろう、アジアの血はできる限り否定して忘れようと努めました。アジアの血は劣等なものと考えられていたのですから。ヨーロッパ人男性とアジア人のニャイの同棲関係から生まれたインドネシア系ヨーロッパ人の子たちは二重の恥を負っていたといえるのではないでしょうか。アジア系母親の劣等な地位からくる恥と、インド―は未婚の男女の間に生まれた私生児であるという恥です。

   この恥辱感故にニャイ達は長いこと口を噤んできました。インドネシア系の子孫たちは自分のアジアの先祖のことを殆ど何も知らぬままでしたし、家系に混じるアジアの血のことは忘却の彼方に押しやられたことも少なくありませんでした。

出自、アイデンティティー、和解

インドネシア系オランダ人が自分のインドネシア、中国或いは日本の出身について長年に渡って恥じてきた、自分の家族にアジア人ニャイの祖先があることを疎ましく思っていたというのは実に悲しいことです。今になってもインドネシア系オランダ人の中には自分に「現地人」の血が入っていることを素直に受け入れられない人たちがいます。

   それは私にとって理解に苦しむことです。人間は自分の出身についてある程度は隠せるかもしれませんが、決してそれを変えることはできません。自分の出身というものは自分そのものに結びついており、現在の自分を造り出したものであり、自分のアイデンティティーと切っても切り離されない一部となっている筈です。それを否定することはできない。否定するならそれは自分自身を否定することになるのではないでしょうか?決して自分の出身を捨てることはできないし捨ててはならないのです。

   自分の出身如何はアイデンティティーに関わることなのですから、出身についてできる限り多くのことを知らなければならないだけでなく、自分の出身と和解して受け入れることが重要なのです。過去に繋がる恥の念は拭い去り、自分が何者であるか、どこから出てきたのかを真摯に見つめる正直な姿勢に置き換えるのです。恥の念が深ければ深いだけにそれは難しいことと言われる方もあるでしょう。自分の出身に纏わる恥、それは一生の間自分の足を引っ張って吸い込もうとする人生の落とし穴なのです。

   ここで具体例を基にお話しましょう。私はご覧のようにインド―です。その出身に拠ってヨーロッパとアジアの二つの世界を抱える人間です。2008年にニャイについて本を書いた時、自分がアジア人の祖母をもつことについて詳しく書き連ねました。その後インタビューを受けたとき「見知らぬアジア人の祖母のこと、祖父と結婚していなかったのでその関係から生まれた私の父は私生児であったこと」を書くのは難しくなかったかと、何度も訊かれました。確かに私は私生児の子です。「そのことを恥かしいと思ったことはなかったのか」の問に対して私が言えたこと、そして今も言えることは、恥の念とはこのような場合に全く場違いの感情であるということです。自分の出身についてなぜ恥じなければならないのか。今ある自分は家族の歴史の中の一員であり、ヨーロッパ人男性と見知らぬジャワ人の女性の孫に他ならない。異人種男女の関係から法の認めぬ子供が生まれるというのはその当時の状況ではごく当たり前のことだった。どうしてそれを恥と思わなければならないのでしょうか。

   インタビューで良く訊かれたもう一つの質問は「貴方は祖父を憎まないのか、彼がジャワ人の祖母にそんな酷い扱いをしたことを恥ずかしいと思わないのか」ということです。この質問にも私は「ノー」と答えたし、(挿入)今もやはり「ノー」と答えます。私は歴史の研究家として言うのですが、歴史的な事象はその当時の事情と状況によって観なければならないものであり、現代21世紀の視点、道徳、知識で判断するのは簡単かもしれないがそれは現実に即したものではないでしょう。今の世代が先祖の行動に責任があることは決してないし又責任などあり得ないのですから、祖父の行動を恥と思うのも間違っているし現実的ではありません。もし私自身が祖父の時代に生きて同じような状況に置かれたとしたら植民地時代の当時の道徳を当然のものとして受け入れたであろうし、祖父と同じような行動はとらなかったであろうとは今になって決して断じることはできません。言い換えれば、歴史的な過去の事柄について価値判断をすることほど難しいことはないのです。

   我々が今しなければならないことは過去の理解に努め、過去から学び、痛みを伴う過去であるならば和解の道を探る、そして過去-自分の過去-を受けとめ心に迎え入れることなのです。そうすることで我々は本当の自分になれるのです。自分の出身を受け入れないままでいれば、それは自分をも受け入れないことになります。自分を受け入れずにしてどうやって他の人を受け入れることができるでしょうか。

                             関野美智子訳

「日本の占領軍に対するインドネシアの婦人たちによる反対運動(1942)」

シスカパッティロヒ

      みなさん 個人的な体験を交えながら、インドネシアの婦人たちの戦いの歴史を描いてみたく思います。

インドネシアの婦人運動はどこで起こったのでしょうか? その始まりは、当時の女性の生き方を規定した伝統的な規範に反対の声を上げたカルティニに遡ります。 この規範は当時の男女の間の根本的な相違に基づいており、植民地支配下の社会とそれ以前に遡る原住民社会のあり方における男女の役割を規定していました。

      ラーデン•アジェン•カルティニの一生は1879−1904年にわたりますが、力強い、成功した女性が育つための基礎として結婚における夫婦の同権を要求しました。とくに、19世紀末に、彼女が女性も同様に教育を受けられる権利を目指して戦ったことは全国的な自由運動の勃興と女性運動の出発に相当な影響を及ぼしました。1964年に彼女がインドネシアの英雄と称えられたのは故なしとしませんし、彼女は私にとって大きな励ましとなった英雄でした。

      インドネシアの歴史には、賢夫人として令名を轟かせた女性が多く、長期にわたって自分の王国を支配した強力な女王もいました。19世紀にも、クット•ニヤク•ディーン、マルタ•ティヤハフなどのように、反植民主義運動に積極的に参加した女性もいました。オランダ植民地支配下におけるインドネシア女性たちの闘争は女性の教育の機会を獲得することに焦点が当てられていましたが、それは民族解放に必須のものと考えられたのです。当時の女性たちが共有した他の関心事として、一夫多妻制に対する反対、家庭外の社会での女性の活動の制限に対する反対があります。女性の地位の改善のために活動する女性たちの数がかなり増えた時点で、彼女らの活動は、1912年に、最初の女性団体としてポエトリ•マルディカの設立によって公式な動きとなりました。この団体は、インドネシア独立を訴えた最初の男性の団体であるボエディ•オエトモの支援を得ました。

      私は、女性教育のための最初のカルティニ学校が設立されて20年後の1926年の生まれです。父は封建的社会で事業家として成功した少数のインドネシア人の一人で、子供にオランダ式教育と、できるだけ多くヨーロッパ的教育を受けさせる事ができた人です。しかし、時として問題が現れました。

      ある日曜日、私たちが住んでいたボゴル(バウテンゾルグ)のヨーロッパ系の白人の友達二人(私たちは当時、十歳、十一歳)と水泳に行った時、私は自分がこの友達とは「違っている」ことに気づきました。 私たち三人の中の最年長者が入場切符を買い、三人でプールへ行くと、門番が切符に挾みを入れました。中へ入ろうした時、門番が私を止め、「お前は入れない」と言いました。私の二人の友達は呆れて彼を睨みつけ、「私たちは級友なのに、どうしてなの?」と抗議しました。しかし、門番は頑として譲りません。最年長者が、切符を門番の手からひったくり、「じゃ、私たちも入らない」と叫びました。

      それから2年後、私は教会立の中等学校に入りました(が、)。十四歳、十五歳の時でした。しかし、私はいつも最優秀生の一人で、通知簿にもオランダ語では8か9を貰えたのに、肌の色が相当に黒かった私はその仲間に入れてもらえませんでした。学校には男子生徒より女子生徒の方がうんと少なかったのに、クラスのヨーロッパ系の女生徒とは違って、男子生徒たちは私には全然関心を示さないのが私にははっきりと感じられました。

      そして、1942年の三月に、世界も私たちの生活もすっかり変わりました。或る日突然、オランダ語の使用は禁止され、インドネシア語と日本語に取って代わられました。中学校、高校が、それから大学も建ち、そこでは教室ではインドネシア語が使われました。歴史、地理はもう教えられませんでした。80年戦争とかライン川、マアス川、ワール川、ワッデン海などについて教わることもなくなりました。

      インドネシア語で8や9は貰えなかったけど、生れて初めて他の級友たちと同等に認められているように思えました。この中等学校でも私たちインドネシア人は少数派だったけれど、一段と高いところに座らされました。やっと私は自分の場所を得て、自分がインドネシア人である事を意識し、白人に対して劣等感を覚えることはなくなりました。

      3年半にわたる身の毛もよだつような日本軍政、厳しい食糧不足、強制労働、拷問、強制軍事教練、特に強圧的な軍政にもかかわらず、特にインドネシアの若年層の間には種族の壁を超えた同志意識が強いでした。 私たちはインドネシアの独立のために戦う覚悟ができていました。 植民地はもうまっぴらでした。

      しかし、私がオランダ式教育を受けたことにも有利な点がありました。1947年5月、父は私をライデンに留学させ、インドネシア法をやらせました。そこにいる時、植民地主義、民族差別、民族主義がインドネシアと、インドネシア人たる私に何を意味するかについての理解が深まりました。その頃、いわゆる「警備行動」の真っ最中でした。 ライデンにはすでに相当数のインドネシア人留学生が来ていて、インドネシア人学生連合ルーピでの活動を通じて白人の優越感に対する私の劣等感は完全に払拭されました。 教室では白人も白人でない学生も席を並べていました。

      私たちの学生団体は、オランダ人の学生団体からしばしば声をかけられ、「インド」と私たちの独立について語ってくれと頼まれました。 そういう時、私たちの民謡や、軍歌に少なからぬ興味が示されました。1949年12月の二度目の軍事行動をもって良くなりかけていたオランダとの関係がダメになりました。私も含めて十七人の留学生がオランダでの留学に終止符を打ちました。 こうして、私はオランダによってやっと独立を認められた祖国に戻り正義に基づいた、全ての国民のために繁栄する国家の建設に参加することになりました。スカルノの指導するインドネシアで、私はインドネシア女性の解放と女性運動の発展に積極的に参与しました。

      オランダ留学時に、私は文学で理論的に扱われるのみならず、実際の歴史の中にも生きており、第二次世界大戦後に力を増した闘争として婦人解放についてさらに理解を深めました。また、私たちの最初の「フェミニスト」であるカルティニの書簡とも出会い、夙に1928年に、インドネシア婦人運動の最初の大会が開催されていたことを知りました。

      封建主義と植民地主義に対するカルティニの戦いはインドネシア女性を苦痛から解放する希望の源泉でしたが、これに刺激されて、宗教別、部族別、あるいは地域別の婦人団体が続々と誕生しました。 1928年12月、20の婦人団体が連合して最初の全国女性会議が成立しました。  その会議にはインドネシア各地から来た31の女性団体が参加しました。そこで採択された決議は、女性のための教育の機会を拡大することを目指していました。また、離婚の際の女性の権利についても十分な情報を流す必要が求められました。「良い配偶者かつ母」という女性像が当時のインドネシア社会には深く根をおろしており、「女性」すなわち「配偶者」という発想でした。これは1929年に女性連合体が、公然と民族主義を支持する「インドネシア配偶者連合」、PPII、に名称が変更されたことにも表れています。

      1941年の全国女性会議はインドネシア人による政治的発言の場を広げるための国会の成立を要求するインドネシアの政治団体の要求を支持しました。さらに、植民地支配からの解放のためには女性も重要な役割を果たしうるのだから、男女両方に教育の機会を供する必要が訴えられました。教育の機会に恵まれた女性は自由を求める戦いを当然のこととして支持するであろう、というのでした。当時、女性解放と民族解放は深いところで繋がっていました。こういった女性団体が植民地政府の賛同を得ることが滅多になかったことも異とするに当たりません。

      この状況は、私自身も個人的に体験しましたが、1942−45年の日本占領時代に変わりました。日本によるインドネシア占領はインドネシアの女性運動に三つの明白な影響を与えました。

      第一に、日本軍政によって婦人会が女性団体として立ち上げられたことからわかりますように、インドネシアの女性団体が支配者側の支援を得られたのはこれが初めてでした。

      第二に、この時代に、女性たちは日本の志願兵として新しい技術を身につけることができました。1945年にインドネシアによって一方的になされた独立宣言後、多くの婦人たちが、1949年まで続いた植民地主義からの解放運動に非正規兵として参加しました。

      第三に、日本軍が現地の女性たちを慰安婦として虐待したこと、また労務者として女性も強制労働を課せられたことは彼女たちとその家族に甚大な被害をもたらしました。彼女たちは我が身を恥じ、体験したことを家族や地域社会に明かそうとはしませんでした。

      1945年の日本の敗戦後、日本軍政によって公認されていた唯一の女性団代である婦人会は直ちにペルワリ、インドネシア婦人連合体によって取って代わられましたが、その最初の会合においてインドネシア解放軍の戦いを直接、間接に支援することを決議しました。1946年、ペルワリという名称はインドネシア婦人団体連合体を意味するコワニに変更になりました。1949年に主権が移譲されると、女性団体の目標は経済的、社会的、政治的分野における女性の権利獲得に向けられることになりました。全国的な組織体であるコワニは参加している女性団体の活動を調整しました。

      私は祖国の建設に尽力すべく帰国しました。全盛期の50年代には楽観的な空気が漲っていました。三世紀半に及ぶ植民地支配のもとで教育や経済面において遅れをとった祖国が自立できるようにするという課題に直面しました。

      やっと植民地支配を脱したアジア、アフリカの諸国と歩調を合わせてインドネシアはスカルノ大統領の指導のもとに進みましたが、この連帯感はアジア、アフリカから29の国が参加した1955年のバンドン会議に見ることができます。私は通訳、翻訳者としてインドネシア語を英語あるいはフランス語に訳すためにインドネシアの代表たちと数々の会合に出席しました。

      植民地支配を脱したアジア、アフリカ諸国の間に第三世界としての連帯感が生まれ、素晴らしい時代が現出しました。 アジア、アフリカの報道関係者による会合が開かれ、そこで誕生した団体が当時はジャカルタに本部があって、私は翻訳者として勤めました。爾来、わたしはAAA(三番目のAは南アメリカを指します)の会合にしばしば関係しました。

      また、1964年に立ち上げられたConference of the New Emerging Forcesやインドネシアで開催されたThe Games of the New Emerging Forcesの大会でも通訳、翻訳者を務めました。また、インドネシア人、中国人、日本人の新聞記者がアフリカ諸国を訪問した時も通訳として同行しました。

      私が関係していた婦人団体が参加したいろいろな会合にも私は通訳として同行しました。 1955年にはいろいろな婦人団体が政党と関係を結びましたが、これは彼女らが発する声が重要だったからです。この時期の主たる婦人団体の一つはゲルウィスという、目覚めたインドネシア女性たちの動きでした。ゲルウィスは婚姻法改正要求を支持し、1954年にゲルワニ(インドネシア女性運動)に名称を変更しました。この団体は相当に左寄りの運動として知られ、共産党(PKI)の強力な賛同者でした。1955年の総選挙でゲルワニは四つの議席を獲得しました。この団体は、女性問題について全国的な規模で精力的に活動しました。また、労働組合の女性問題部門を介して女性の労働者の権利、労働法の確実な実施、性的いじめや虐待に対する保護を要求しました。 また、女性に読み書きを教えること、売春や、若年者の結婚、女性の人身売買に関しても行動を起こしました。

      1965年のクーデーターにより、スハルト将軍の率いる軍が権力を掌握しました。これに続いて大多数の人が逮捕され、何万人もの無実のインドネシア市民が殺害されました。300万人の会員を持つ進歩的なゲルワニは解散を余儀なくされ、会員の多くが逮捕、殺害されました。この、いわゆる「新体制」は1998年までスハルト将軍のもとに独裁的支配権を振るいました。軍はあからさまな暴力に訴えて、一般民衆を動員しようとする団体の試みをいち早く摘み取ろうとしましたが、そういった団体の中に婦人運動も入っていました。

    主人が左翼的新聞ハリアンラクジャットの記者だったこともあって私の家族も被害に遭いました。彼は軍に引っ張られ、以後消息を絶ちました。父の財政的な支援のおかげで、私は、まだ年端もいかない四人の子供を引き連れてオランダへ逃れることができました。

    オランダでは、インドネシアで起こった大規模な虐殺や婦人たちをも巻き込んだ迫害についてはこれといった関心も同情も示されませんでした。勉強や研究によってインドネシアの状況によく通じていて、全国的なインドネシア委員会に関係していた批判的な学生たちだけからは私も、また私と同じような運命に遭った同胞たちは何らかの理解を得ることができました。

      その間、スハルト軍事政権は「安定と秩序」を力で維持し、また経済発展を目指して前進しましたが、植民地主義的な略奪が今やインドネシアのエリートによって受け継がれ、彼らは西欧諸国、なかでも米合衆国の支援を享受していました。冷戦時代には、ドミノ理論がはばを利かせ、インドネシアが共産化しようものなら、他のアジアの国もすべからくその波に飲み込まれるであろう、と論じられました。ベトナム戦争は1975年に終わりましたが、これが共産主義の危険に対する警鐘として利用されました。

      現時点においては、ジョコウィドド大統領の支援を得て、インドネシアの婦人運動は男女平等、あらゆる分野における正義のための戦いを活発に行うことができるようになっています。大統領は内閣に八人の女性を加えています。インドネシアの人口の半分以上が女性であるにもかかわらず、高等教育、政治的決定機構、法曹界、上級官僚の中では彼女らの参加率はまだまだです。女性運動は自らの権利のために今なお戦い続けていますが、保守的なイスラム勢力がそれを阻止しようとする動きがすでに見えています。

      スハルト政権とそれに続く政府はインドネシアの石油や原始林などの自然資源を西欧諸国、殊に日本企業の参与を得て大々的に開発しようという政策を取ってきました。今や、需要供給が経済的発展を目指す資本主義的世界経済の基本的方向を規定しています。

      今日に至るも、オランダ、日本、インドネシアの大多数の人たちは、今もって第三世界に対してなされている不正行為についてはほとんど無知です。自然資源を絶えず乱用、開発することによって私たちの世界の未来が致命的な危機に曝されているのです。この対話グループを通じて、平和な、人道的な世界を目指して私たちが力を合わせられたら良いのにと望んでやみません。

村岡崇光訳

「インドネシア女性解放運動における『婦人会』の影響力」

 ファリダ イシャヤ

    私は、ファリダ イシャヤと申します。73年前に、旧蘭印の北スマトラ、キサランの蘭系ゴム農園で生まれました。父はそこで事務員として働いていました。

今日は、第20回日蘭イ対話の会の演者としてご招待いただきまして、とても光栄に思います。というのも、私も、「共生と理解と和解に根ざした平和の未来のために働きたい」というこの会の目標を強く支持しているからです。

    この目的を達成するには、皆がお互いに会って話さなければなりません、そしてお互いを心から理解するためには個人的な物語を話さなくてはなりません。つまり、当時の出来事を記念することのみに限定するべきではありません。

    今回のテーマは、「インドネシアの視点から見た女性の物語」です。わたくしは、女性問題、女性解放、女性の権利付与に関して、多大な関心がありますので、この話題についても必要な経験を積んできました。

例えば、若いころに、自分の詩や物語を女性雑誌ApiKartiniに投稿しまし。とはいっても内容は女性のことばかりではありませんでした。またオランダへ留学もしました。2013年にオランダでインドネシア人女性の会が組織された折、私はその活動に参加し会員になりました。(この会は、フランシスカ ファンギディと今日の演者であるフランシスカパティピロイ達が作りました)26年後に、この女性組織は財団となり、現在私が代表をつとめております。この組織は「ディアン」と呼ばれ、インドネシア語で「ランプ」という意味です。そして、このランプは女性の生命に光を当てるという意味合いがあります。つまり、この会の目的にも謳われていますが、この会は、インドネシアの女性の地位に関する女性研究の推進、友情と解放の援助、さらに私たちのオランダ社会における積極的な参画と地位の向上を目指しています。

    私は、アムステルダム大学で卒業論文を書くにあたり、「日本占領時のインドネシア女性の組織 1942-1945」というテーマを選びました。その理由は、日本軍俘虜収容所に抑留されたオランダ人女性と子供達に関する物語を沢山読んだり聞いたりしたためです。私はまだほんの幼い子供でしたから、日本軍の占領期とそれに続く再植民地化の戦争時代については、残念ながら個人的な体験を話すことはできません。

    しかしながら、インタビュー調査からこの時代を掘り下げ、そこから多くの発見がありました。

例えば、シカンディン隊の旧隊員であるSamiarti夫人は、軍の自衛、銃の分解や消火訓練について彼女の経験を話してくれました。また、女性が徴収人として職務につき、日本軍のためにインドネシア人から貴金属やお金を集める仕事をしました。

    夫の母は「隣組で活動しました。これは隣人同士の強力な相互援助を促すための隣人の組織です。彼女は日本兵のために、民間人から食料を集めさせられ、インドネシア人の強制労働者である「労務者」を助けかつ管理しなければなりませんでした。女性たちは、こういった仕事を戦後、つまり独立のための闘争の時期にも続けていたのです。

    武力による戦闘に積極的に参加した3人のインドネシア人女性とも話しました。彼女たちの仕事は赤十字の活動で、厨房での仕事や書類や武器の密輸など運び屋の仕事でした。

    私は、また、古い資料の調査もしました。そして、日本占領時代の書類、新聞、本、伝記、日記、写真、覚え書きにあった多くの物語を読みました。NIOD、KIT、KILTVにて調査した折、蘭印軍情報局(NEFIS)があっさりと個人情報を日本政府に渡していたことには、とてもショックを受けました。これにより、日本軍はそれらの人たちを簡単に捕えることができました。

    ほかにもインドネシアやオランダ、さらにほかの国々の比較的新しい書類、本、覚え書き、映画、ビデオ、写真、論文、雑誌から、戦後またはより最近の情報を調査しました。

    私自身は覚えてなくても、私の家族もまた旧蘭印で強烈な戦争体験をしました。私の父は、日本軍に対抗する地下組織運動で、積極的に活動しました。周知のとおり、戦争は広島と長崎へのひどい原子爆弾によって終わりました。父は戦後、仕事のため、日本に何度か行きましたが、そのたびに広島と長崎を訪ね、戦争の恐ろしさを心に刻みました。父は私に平和の美しさと貴重さを話し、常に平和のために働かなくてはならないと話しました。しかし1960年代に、私はベトナムにいたため戦争に巻き込まれてしまいました。残念ながら父に自分の経験を何も話せませんでした、父は私が故郷に帰る前に亡くなったのです。

    子どもの頃やベトナムでの戦争体験を通して、私は、人類は将来にわたり、全力で戦争を防ぐべきであると気づきました。もし国家間や民族間に対立する利害関係がある場合、両者の状況を改善するための政策をたてるべきであり、互いを差別するべきではありません。それに関して、我々は過去から学ぶことができます。このようなわけで、わたしは「婦人会」と日本占領時代のインドネシアにおける女性運動についてお話ししたいのです。

インドネシアの歴史において、日本占領時代は重要な時期とされています。多くの国民にとって、それは幻と希望に満ちた欲求不満の渦巻く時代であったと同時に、苦痛と悲惨に打ちのめされた時代でした。しかしそれは、何世紀にもわたる圧迫に対する闘争という国民意識を確実に増大した時期でもありました。またこの時期が、インドネシアにとってさらに非常に重要な時期であった理由は、過去の植民地時代から現在の独立時代への架け橋の時期だったからです。    

    その中で、「婦人会」の存在は重要で、日本占領時期のインドネシアにおいて公認かつ唯一合法の女性の組織でした。少人数で弱小な不法グループも地下組織の一部としてありましたが、それについては今日は触れません。植民地時代に禁じられていた組織で働いていた多くの女性活動家も「婦人会」のメンバーでした。「婦人会」の基本的な役割は、戦争を支えるために女性の力を動員するというものでした。

この会のゴールは、大東亜戦争に日本が勝利し、スカルノとハッタによるインドネシアの独立を勝ち取ろ、さらには「婦人会」を解散し、新しいインドネシア独自の女性組織を作ることでありました、そして、そのために一般の女性たちの力を結集することでした。

    さらに、日本軍政下になってから「婦人会」がいかにインドネシアの女性運動に影響を与えたかについてお話しさせてください。主な焦点は二つあり、一つは第二次大戦の連合国の武力に対する初期の戦闘ともう一つは植民地支配者だったオランダ軍の再侵略との戦闘でした。

「婦人会」とは?

婦人会とは「女性の組織」の意味です。婦人会は、日本軍政権によって組織された女性の組織で1943年11月3日にジャカルタで創立されました。最初の代表は、E.A.Abdulrachman夫人でした。ジャワ、スマトラ、カリマンタン、スラウェシと、「婦人会」は大きな島々に短期間のうちに普及しました。「婦人会」は独立した組織ではなく、完全に日本軍の管理下にありました。会員になるのは自発的ではなく強制でした。女性の公務員のほか、州、地域、村での公務員の妻はこの組織への参加を義務付けられました。組織の構造は、軍政府と一致したもので、つまり、知事や市長の妻は、自動的に地域や街レベルでの代表となりました。のちのスハルト体制(1966-1998)は、この構造を完全に取り込み、独自の女性組織Dharma Wanitaに適応させました。

「婦人会」の目的は、大東亜戦争において日本軍の勝利を支援するためにインドネシアの女性達を動員することでした。

この目的のため、「婦人会」には以下の役割が与えられていました。

  • 人々の住環境の改善
  • 戦費を貯め、集めることの奨励。婦人会にはお金と貴金属を集める役割があった。
  • 戦闘がその地域で起こった場合に、前線に立つための人材組織。この役割を務めたのは、Barisan Srikandiという、自衛、射撃、消火、登山、銃の清掃、ライフルの組み立てなどの軍事訓練を受けた女性隊。
  • 日本兵や軍のための仕事、例えば、靴下を編む、糸をつむぐ、トウゴマの植え付け、種の採取など。
  • 幼稚園から大学までの全教育機関の推進を援助、社会福祉と公衆衛生の向上、健康管理、栄養、衛生、応急手当の情報提供と教育実施。
  • 「隣組」の手伝い;日本軍政権下では「隣組」は、政治、社会活動、防犯と経済活動において市民を厳重に管理するために利用された。
  • 食品生産を増やすための手伝い。日本軍占領時には、各地で飢饉がはびこった。「婦人会」は、栄養価のある作物の種まきや魚の養殖のために女性を動員した。

    日本軍の敗北による大東亜戦争の終焉に伴い、インドネシアの女性運動は新たな段階に入りました。 1945年8月、「婦人会」が廃止され、1945年8月17日のインドネシア独立宣言のあと、WaniやPerwaniなどの独立した女性組織が合併し一つの大きな女性の組織、Perwariとなりました。

インドネシアの各地で、同じ目的、つまりインドネシアの独立擁護を支える様々な女性のグループや組織ができました。日本軍降服後、英軍と蘭軍がインドネシアに侵攻し日本軍の武装解除をした時期に、女性の軍事技能が役に立ちました。

    ここからは日本軍撤退後の、インドネシア女性運動における「婦人会」の影響力につてお話します。「婦人会」は、意識的にしろ、無意識にしろ、インドネシアの一般女性を訓練しました。このことは、インドネシアが次の時代に向かうためにとても役立ちました。女性たちが重要な様々な技能を学んでいたからです。

日本占領時代、すべての人は女性も含めて、また階層にかかわらず強制動員されました。よって社会的地位、民族、人生観に関係なく、あらゆる階層の女性が「婦人会」に参加させられました。このことによって、インドネシアの独立を護るために総力を動員することが非常に簡単にできたのです。戦争は、インドネシアの人々に、組織的に誰もが必死に働き、また統率のとり方やまとまりをもつことを教えました。「婦人会」の解散後も、その3年半の経験があったため、インドネシアの女性達は簡単にまとまることができました、それは次の時代を担うために必要なことでした。

    終わりに、お伝えしたいことがあります。私は、ちょうどベトナムに留学している最中にベトナム戦争が勃発したので、そこで戦争を経験しました。化学兵器の使用による多くの爆撃を伴う激しい戦いに、両陣営に無数の犠牲者を出す戦争でした。

    私がベトナムに到着して一年も経たないうちにトンキン湾事件が勃発し戦争が始まってしまったので、私は終戦までそこに慰留させられました。一度戦争を体験すれば、いかに平和が美しいかがわかります。そしていかに命が大切かも感じます。戦後、ベトナムとアメリカの間で迅速な和平交渉が行われました。両国の政府、組織、国民は、関係正常化のために多大な努力をしました。そして和解に成功しました!

    日蘭イ対話の会の人々の平和と和解のための様々な試みも、きっと成功すると思います。それには、対話の会が活発でありつづけ、その楽観主義を維持し続けることが大切な条件でしょう。

「閉会の辞」

 村岡崇光

      私たちのグループが2000年に最初に会合を開いた時は一回限りの集まりのつもりで、それから20回も集まることになろうとは、私たちの誰一人夢想だにしませんでした。79歳の初老の私が少しセンチメンタルになるのをお許しいただきたいのですが、私の親しい先輩のオランダ人の知人たちの中には今日ここに臨席しておられない方もあります。アニー、ヘルマン•ハウツヴァールトさんご夫妻、エルス•ミヒエルセンさん、アドリ、ウィム・リンダイヤさん母子ですが、この方々は上から私どものほうに向かって微笑しておられるような気がします。私たちが共有したところの未来像と私たちを動かしていた動機は今なお変わっていないのですから、微笑んでおられてもおかしくありません。一緒に通ってきた歴史を学び、そこから平和と調和と正義の支配する未来を構築していくために教訓を学び、不正、侮蔑、抑圧、剥奪行為によって齎されたところの障壁を一緒に乗り越え、取り除いて和解に達しようと努めることは大事なことであり、やり甲斐のあることである、ということをあの方々と私は今なお確信して疑いません。私たちは、これを、偏見や先入観にとらわれず、開かれた心をもって、互いに対して謙遜を尽くし、他者の苦しみに対する温かい理解をもって行いたく思います。パッティロヒさんも、現代インドネシアの英雄と公認されているカルティニを範と仰いで生きてこられました。これまでもそうでしたが、できるだけ多くの人がこの営みに参画していただきたい、と願います。近年の会合では、インドネシア帰りの人ではなく、インドネシア系の人たちにももっと参加していただくために意識的に努力してきましたが、今日お話しくださった方々がお三人ともまさにインドネシアを背景に持つ方々であることは、私たちの財団の、日蘭印対話の会、という新しい呼称に似つかわしいのではないでしょうか。

      パッティロヒさんがいみじくも言われた通り、どの国でも人口の少なくとも半分は女性です。今回の会合の焦点が女性に当てられているのも故なしとしません。最初の講演者も、男性ではありますが、何世紀にもわたってインドネシア社会のある特定のグループの女性たちに関わる問題を取り上げられました。今日の講演者はみんな、単に抽象的、理論的な観点からではなく、ご自分の体験、背景をもとに話されましたが、これは大変貴重なことです。オランダのような先進国においてすら、女性の声は十分には反映されず、女性が持っている能力や経験が社会一般の利益のために十分に生かされていないことは私たち誰もが知るとおりです。それだけに、日本軍による占領中に典型的な日本社会の制度である婦人会組織がインドネシアに導入されて、現地の女性運動を裨益した、というのは極めて興味深いことです。日本軍は別に土地の婦人運動を推進ようと思ってやったのではない、としてもです。日本の降伏後も、彼女たちが日本兵たちから習得した能力は植民地からの独立を目指す軍事行動において有用性を発揮した、というのです。イシャヤさんが話しておられる時、現代版女奴隷、所謂「慰安婦」を集めるのに婦人会が協力を強いられるようなことがなかったことを祈り続けました。そういう例に彼女が触れられなくて、私は安堵の胸をなでおろしました。パッティロヒさんがおっしゃったように、相当数のインドネシア人がそのような犠牲にされたのは歴史の事実です。日本軍は別なルートでそういう女性を集めたのでしょう。パッティロヒさんは、インドネシア社会においては、女性解放の戦いは、伝統的な封建制度と、三世紀に及ぶオランダの支配であれ、短期間の日本軍政のそれであれ、植民地支配からの解放の戦いと互いに関わりながら進められたことを指摘されました。

      バーイさんは、十七世紀の初めにさかのぼって内縁の妻とその間に生まれた子供の問題を取り上げられましたが、人類の歴史の中では、この問題は古くからあり、当時アブラムと呼ばれていたアブラハムが妻の女中と褥を共にしました。もっとも、本妻のサライの同意があり、彼女に懇請されたのでしたけど。ハガルは女主人と信仰を共有し、肌の色も同じだったかもしれませんが、生まれてきた子供、アラブ人の先祖であるイシュマエルはサライから邪魔者扱いにされました。結局は、ハガルは子供ともども追い出されることになるのですが、追い出したのは父親のアブラムではなく、サライでした! 今日でも、インドネシアには自分の出生の秘密をひた隠しにし、自分が混血児であるというだけの理由で、いろいろな形で差別されている人が何千人といるだろ、というのは実に悲しいことです。でも、バーイさんが、ご自分の祖母がジャワ人であることを恥ずかしいとは全然思っておられない、というのは嬉しいことではないでしょうか。バーイさんが終わりの方で言われたことに疑問を呈したい、と思います。「過去に起こったことについて価値判断をすることほど厄介なことはない 。。二十一世紀の価値観を盾にとって遠い過去のことの善悪を判断することは間違っている」と仰いました。私たちの対話の会は、大東亜戦争中に日本軍はインドネシアで倫理的に受け入れがたいことをした、この歴史を正視し、記憶にとどめ、我々自身に出来る範囲で行動に立ち上がる必要がある、という共通の認識の上に立って始まりました。事柄によっては、時代や場所の範疇とは関係なくその善悪を判断しなければならないこともあります。たとえば、女性を、当人の意思を無視して、犯すというようなことが是認されるような社会、時代があったとは考えられないのではないでしょうか。そうでなかったら、私など、毎年最低5週間無報酬で講義をしにアジアへ出かける必要はなく、その5週間は私の一生の趣味である聖書語学の研究に費やすことができることでしょう。イシャヤさんの平和への強い希求は、お若い時にベトナム戦争の非人間性、残虐性をつぶさに目撃されたところからきている、と仰しゃったことにも私は深い感銘を受けました。私たちの財団に代わって、みなさんが今日の会合に出席してくださったことに謝意を表明させていただき、それぞれに今日の会合を通して貴重なことを学び、体験されたであろうことを望みます。無事に帰宅されますよう。