太平洋戦争をめぐって
2000年12月2日 メンノローデ
プログラム
- 開会の辞 | 村岡崇光
- 林えいだい著「インドネシアの記憶」とE.W. リンダイヤ著「ネルと子供たちにキスを」の読後感1
- 林えいだい著「インドネシアの記憶」とE.W. リンダイヤ著「ネルと子供たちにキスを」の読後感2
- インドネシアの日本人についてのさまざまな記憶-口承史研究資料に照らして(講演要約)
- 犠牲になるのは決まって子供 | アドリ・リンダイヤ – ヴァン・デル・バーン
- 日本を訪れて
- 閉会の辞
1、 開会の辞 | 村岡崇光
(オランダ日本語キリスト教会会員)
過去の戦争をめぐる二度目 の日蘭の会合の開会の辞を述べさせていただくことは私にとっては大きな栄誉でありかつまた喜びであります。7月29日にナイケルクにおいて開催されました 最初の会合では、両国民が、非常に痛々しい過去の歴史を背負いながらもなんとかして互いに歩み寄りたいとする気持ちがよく表われていました。出席者のなか のある方々がどういう体験をなさったか、その過去の重荷をどのようにして乗り越えようとされたか、それは果たしてうまくいったのかどうか、また過去の克服 というこの目的を達成するに当たってはどのような可能性が、また課題があるのか、など一同熱心に耳を傾けました。出席者のなかには、このような辛い目に あってそれを生き延びた方、その家族や友人などがおられました。他方、日本人の出席者は、幸いにして、いずれも40年代には軍役に服するにはまだ若かった か、あるいは戦後生まれの方々でした。私の知る限り、その家族のなかにオランダ人に危害を加えた兵隊をもっておられるかたはなかった、と思います。かれら は再び、あるいははじめて、自国の歴史の汚れたページに向き合うことになりました。多くの人があるいは公に、あるいは静かに悔いと悲しみのこころもちを表 現しました。そして、歴史を学ぶこと、単に客観的史実を学ぶだけでなく、現在と将来に対する視点からこれを学ぶことの重要性を認識させられました。
最初の会合のきっかけとなったのは林えいだい著「インドネシアの記憶:オランダ人強制収用所」(東京:燦葉出版)とE.W. リンダイヤ著「ネルと子供たちにキスを:日本の捕虜収用所から」(東京:みすず書房)が相次いで日本で出版されたことでした。前著には今日ここに出席して おられるアニ・ハウツヴァルトさんとフルネヴェルト姉妹の体験が、後者は郷里の家族への手紙の形をとった日記で、著者の御長男とそのお母さんもここに出席 しておられます。あまり採算がとれるとも思えないこのようなものを出版することによって、わたくしたちは日本の一般読者、ことに戦後生まれの世代に過去の 歴史に思いをいたし、それが現在と未来にどういう意味をもっているかを考えて貰いたいのです。きょう、この二著がどういう影響を生んだかを聞かせていただ きます。また、日本人だけでなく、オランダ人も自国の歴史、他民族との交渉の歴史からなにか新しいことを学ぶ事が出来るはずではないか、という印象を私共 はこれまでに何度かもちました。この点をも考慮して今日の会合のプログラムはつくられました。
この場をお借りして、二つの会合のあいだにあったいくつかの出来事についてみなさんにお話し申し上げたいと存じます。
最初の会合の直後、まさしくこの会場において恒例の日本語によるキリスト者の会合があり、主としてヨーロッパ各地から276人もの方が参加されました。 「和解の福音を生きる」という主題で、これもここにおいでの石井先生の指導の下にオランダの日本人教会がお膳立てしたものでした。講師のなかにはアニ・ハ ウツヴァルトさんもおられ、そのお話しには参会者一同非常な感銘を受けました。ヨーロッパの日本人キリスト者のなかで指導的な役割を果たしておられる方 が、翌日お話しをされましたが、前もって用意してもって来られた説教を、前日アニさんから聞かれたことに照らして大幅に書き直されたらしいことが、聞くも のには感じ取られました。
8月始め、リンダイヤさん母子が出席しておられる教会での礼拝で、牧師が祈祷のなかで広島、長崎の原爆犠牲者のことにふれられたそうです。
10月29日のオランダ日本語キリスト教会の合同集会に当地の罪償と和解財団の会員15名ほどが出席され、1638年に彼らの先祖によって日本でなされた 行為に対する罪の告白をされ、日本人に許しを乞われました。それをうけて日本語キリスト教会は、書面をもって許しを確認すると同時に、兵隊のみではない自 分たち自身の先祖によってオランダ人に対してなされた行為の許しを求めました。
さらに、前述両書の書評も日本の全国紙、地方紙にでましたが、これが売り上げにどの程度影響したかはわかりません。
最後に、この第二回会合がみなさんにとって有益な、快い会合となりますよう希望して、私の挨拶を終わらせていただきます。
2、 林えいだい著「インドネシアの記憶」とE.W. リンダイヤ著「ネルと子供たちにキスを」の読後感1 | タンゲナ – 鈴木由香里
(オランダ日本語キリスト教会会員)
私は、戦後生まれではありますが、両親や祖父母から空襲のときの様子とか、疎開の話し、戦後の財産没収の話などを聞かされて育ちました。今から思うと、彼等にとってはきっとまだま だ生々しい記憶として焼き付いていた事柄だったに違いありません。聞いた私は、戦争の悲惨さ、しかも負けた戦争で受けた傷が大きかったであろう事を、当時 (1960年頃)まだ東京の町の繁華街で物乞いをしていた手や足を失ったり失明した傷痍軍人と呼ばれていた人々に重ねて、妙にはっきり覚えているのです。 しかし、私にとっての戦争の悲惨さは、あくまでもアメリカのB29が落とした焼夷弾の火の海の中を逃げ惑ったとか、原爆のいかにむごかったかなど、敵に痛 い目に遭ったと言う、言ってみれば自分の側が被害を受けたという悲惨さのみでした。
その私に別の側の悲惨さ を自覚させてくれたのは、一人の韓国人の友人でした。私は17才のとき、アメリカの高校に交換留学生として迎えられ、同じ交換留学プログラムで他の国から その州に来ていた多くの高校生に出会いました。その中の一人であった彼は、私と暫く四方山話をしている最中に、彼のお父さんから習ったという日本語を笑い ながら私に披露してくれたのでした。「チョウセンジンノバカヤロウー」 その一瞬、私の心臓が、体が、脳が、完全に凍り付いてしまったような感覚を今でも はっきり覚えております。ヴェトナム戦争の最中にあったアメリカ反戦運動の話が普通の高校生の日常の話題に上がっていた頃の事でした。私は、その凍結から 溶けると同時に泣き出して、「御免なさい、御免なさい」と彼に謝っていたのでした。その彼のほうも、私の思わぬ反応に、そんな積もりはなかったと謝るので した。私の中に知識として日本人が戦争中に色々な酷いことをしたと言う事があったはずなのに、その時に至って初めてそれがどういうことだったのかが少し理 解できたのだと思います。
この本を読みなが ら、また読んだ後しきりにこの当時の事を思い出しました。その当時の私は、初めて海外に出たことによって、それまで感じることなしにきた日本人と言う強い アイデンティティを背負い込んでいました。それは日本人としての誇りであり、また外国人にも少しでも日本を素晴しい国と思ってほしいというものでした。そ して、私のそのときの御免なさいは、そのアイデンティティと正義感に駆られたもので、それ以上でもなければそれ以下でもなかったと思い返します。ただ、そ の正義感は、日本の国や社会、体制に対して、またそれを担っている大人に対して、批難し、責め、批判することに、より強く感じていたと思います。つまり自 分は善良だ、少なくともあの人達よりは善良だと感じていたのでした。そして他の人よりちょっと上にいるという喜びにかまけ、事物や人々を見下している自分 には気付いていませんでした。これこそ聖書の神様が教えてくださる罪、傲慢の罪そのものだったことは、後に知らされました。調牧師が林さんのインタヴュー に答えて、「私が捕虜に対して親切にしたのは、クリスチャンだったからと言われますが、そうではなく他の日本人が捕虜収容所の在り方に対して無理解で、捕 虜のおかれている立場を考えたことがなかったからだ」と答えておられます。まさに、キリストの十字架上での言葉を思い起こさせられます。第二次大戦で日本 人の同胞から辛い苦しい肉体的また精神的な多くの傷を負われたお一人おひとりに言葉で現わせないほどの深い同情を覚えます。しかし、私にほかの人々を批判 する資格などないことが今は良く分かっています。自分を注意深く吟味することは平和を求める私たちにとってとても重要なことだと思います。 今度のこの本 との出会いは、私に傲慢さこそ人々を分裂させるのだと言う事を強く思わせてくれました。
さて、この二冊の本 は、もう60年近くも前の歴史の大変暗い一ページを明らかにしております。しかも、戦争中という非常時とはいえ、そこには加害者と被害者が存在し、その悲 惨な状況は、読む者に戦慄を与えます。しかもその加害者は日本人というのです。この二冊の本をお読みになった方で、涙無くして読まれた方は、きっといらっ しゃらなかったと思います。なぜなら、この本の一字一字がその当時の人々の悲しみを私たちの中に呼び起こすからです。しかし、ここには、想像を絶するよう な現実に晒された被害者が加害者に対して憎悪を深め、うとむと言う普通の日本とオランダの関係式が中心のテーマとして出てきません。オランダに住んでいる 私は多少神経過敏になって、戦争で日本人から痛め付けられた方たちの話をいろいろなニュースを通して聞いたりしてきました。そして、それは、元被害者が元 加害者であった国家や国民を憎み恨んでいると言うステレオタイプの図式にのっとった物がほとんどでした。特にあるキャバレティアが亡くなるまでは、毎年大 晦日はつらいものがありました。オランダでは、日本人は悪く言われて当たり前、という風潮すらある気がしたほどです。また、私もここに住んで生きていくに はそれを当然のことと受け止めてきました。しかし、はっきり申しますが、不思議なことにいまだかって個人的に嫌な思いをしたことは一度もありませんでし た。私の回りには優しくていつも手助けをしてくれる方達ばかりでした。たった一度だけ私の友達のお母様が突然、彼女のインドネシアでの収容所体験を話し聞 かせてくださったことがありました。その方は、私個人をなじったりしたわけではありませんが、私には受け入れてもらっていないと言う意識が強く残りまし た。こう言った経験を繰り返しながら日蘭関係式は、私の中で固まっていきました。つまり、加害者であった故に今だに加害者と見るべき日本、そしてその国民 である私はオランダでは完全には受け入れられない。そしてこの関係式から導き出された最良の答は、「触らぬ神にたたりなし」ここは、静かにできるだけ目立 たないように小さくなっているのがいいということでした。
しかし、6年程前で しょうか難波先生がお訳しになったゲレインセさんの自伝に出会ったとき、何か心からほっとするものがあったのを今でも覚えております。ゲレインセさんはイ ンドネシアで収容所の体験をもたれ、戦後もずっと様々な試練にあう中でキリストに出会い、憎しみから解放された証しをその本の中で書かれています。それま での元捕虜の方達の話とは、まるっきり違う姿勢がみえたのです。
さて、リンダイヤ氏 は、戦争のその苦しみの真っただ中でこの記録を書かれたわけですが、そこには輝くような信仰に根差した驚くべき楽天を見るわけです。あのような厳しい状況 の中で、彼がどうして望みを捨てることなく、小さな楽しみすらみつけだし得たのでしょう。もしかしたら彼の書きたかったその全部が載ってないのかもしれま せんが、読めば読むほど彼の素晴しい人格と人間の尊厳美に驚異を覚えました。特に、長男のヴィムさんのお誕生日に書かれた箇所には彼の美しさのすべてが表 われているように思いました。
さらに、この夏の日 本語教会の修養会で伺ったハウツヴァールトさんのお話しで、私達を憎しみの対象にしないだけではなく、その手を差し伸べて下さろうとしている方々がいるこ とを知り、どんなに嬉しかったか知れません。人間が神に似せて創造されたとき、主が、単に良い、と思われただけでなく、とても良いと満足なさった部分を見 る思いがいたしました。そして、私の培ってきた関係式は粉砕され、公式になどならないことを悟りました。そして、オランダ人が私たちに憎しみや恨みを持つ ことを当たり前と受け止めることは、すなわちその憎んだり恨んだりしている人達を積極的ではないにしても、その憎悪の泥沼にはめ続けることになることに気 付きました。もう沈黙するのも小さな殻に閉じ籠るのも諦めなければならないときがきました。私は、あたかも何も見えずまた何も聞こえないふりをしてこれら の人々を無視してきたことを告白し許しを請い願います。地獄の苦痛を与えた日本人が存在したことは、事実です。人間と言う生き物は、ある状況にあると、こ れ程残酷なことをすることができるのです。皆さまの中でこの恐ろしいキャンプで大切なお父様やお母様、お子様、またご兄弟を亡くされた方々に、心からお許 しをお願いします。そして、その筆舌に絶する経験を背負いながら毎日毎日生きていかなければならない皆様に、是非とも許していただきたいのです。なぜな ら、誤解を恐れずに言わせていtだければ、憎しみや恨みからは、真の平和や自由が決して生まれてこないからです。和解のないところには、何のよいものも 育って行かないからです。
先月、私たちの日本語 教会の礼拝に「罪償と和解財団」のオランダ人メンバーの方々が十数人ご同席くださいました。その中で、その方達は、オランダ人による1638年のキリシタ ン迫害の事実を認め、許しを請われました。同じ神の国の住民同志、大変美しいひとときを経験させていただいたわけですが、率直にいってそこで、「はい、あ なたたちをお許しします」という言葉が私には、出てきませんでした。その事についてオランダ人を非難し憎んでいるというからではなく、単に私に被害者とい う意識が浸透してこなかったからです。この時、これは、もしかして文化や価値観の違いがあるだろうか、と考えてもみました。しかし、もし私がオランダ人強 制収容所を知らないオランダ人に第二次大戦のときは日本人がひどいことをしました、許してください、というなら、そのオランダ人は、はい、お許しします、 と答えてくれるものなのでしょうか。個人がしてしまったことを後悔してその本人に許しを請うことと、自分に直接には関係がない問題でも自分に引き付けて許 しを願う事には、この点においてどうしても違いがでてくるように思うのです。でも、この合同礼拝で経験したように、共に神様のみ前で罪を告白するとき、私 たちは神様の深い愛を感じ聖霊の豊かな注ぎをいただくことができたわけです。罪を許すことができるのは、神様のみです。そして、私たちは、その神様の愛に よってその人を愛することこそ求められているのではないでしょうか。私たちは、相手のやったことを嫌悪しつつその人を愛することなどできないと感じます が、C.S.ルイスは、我々は実際は常に自分に対してそうしている、と言います。自己愛が私をいい人間と思わせるのであって、自分をいい人間だと思うこと が自己愛を生み出すのではないというのです。心の目が澄んでいるときは、普通人間は自分の行った幾つかのことを嫌悪感をもって眺める事ができる筈ですが、 それでも自分のことを愛せるというのです。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」この事を淡々と自分自身に語り、また子供達に語り続けたアニーさん のご両親、そしてリンダイヤさん、ネルさん、アドリさん、さらに調牧師、また私たちの知らない多くの方たちがいらしたことでしょう。あの恐ろしい戦争の中 で、この小さな真珠の粒のような方たちこそ神様が全存在を賭けて悪魔の試みに対抗なさってくださった証しだと思います。私たちは、こんなひどい残酷なこと が起こる世の中に神など存在しないとよく耳にします。しかし、もし神様がいらっしゃらなかったらその状況は、完全なる暗黒以外の何物でもなかったでしょ う。しかしどんなに悲惨な状況でもそこに神様が共にいらしてくださった事を信じます。この小さな真珠の光りが暗黒の中に輝いていたからです。
肉体や精神に与えら れた過去の暴力に目を閉じたり耳を塞ぐことは許されません。それは、現在の盲目に繋がるからです。直接の加害者ではない私にもフォン・ヴァイツゼッカー元 ドイツ大統領がいうところの「容易ならざる遺産」が与えられています。罪の有無、老幼いずれを問わず私たち全員が過去に対する責任を負わされているので す。しかし、歴史の中でいかに神が働きたもうたかを忘れてしまう事も許されません。だからこそ、この二冊の本は、実に意味のある重要な本だといえるのだと 思います。
真の自由、平和、正 義を求めつつ、現在の地球上にはいまだに、いえさらに多くの悲しみを見る毎日です。私は何と多くの譲歩を日々続けていることでしょう。今、地球上で起こっ ていることに関して、私はその時そこにいませんでした、と主に申し開きすることはできません。「アダムよ、あなたは一体どこにいるのか」 今日のこの話を お引き受けした時、またこの話をまとめているとき、そして今こうして語っている私の耳に聞こえ続けているのは主のこの問いかけの声です。
3、 林えいだい著「インドネシアの記憶」とE.W. リンダイヤ著「ネルと子供たちにキスを」の読後感2 | 石黒宏
ちょうど去年の今ごろ、1999年11月のことでした。当時デルフトに住んでいた倉本さんのお宅で「オランダ領東インド(現在のインドネシア)での日本軍 捕虜収容所経験のある、リンダイヤさん親子をお招きして、そのお話を聞かせていただきましょう」という趣旨の会合が開かれ、そこに参加したことから始まりました。
私は1971年に横浜で生まれました。母は1935年生まれで広島近郊へ疎開して戦時中をしのいだ経験があり、また父は1920年の大連生まれで戦時中は 召集されて日本兵としてソビエト国境での戦線にいたと聞いています。父は私が13歳の時に亡くなりましたので、残念ながら私が直接聞いた覚えのある戦争の話は幾ばくかしかありません。それでも私自身、遅い子供でしたので同世代の友人よりも、戦争については多少触れる機会が多かったほうなのではないかと思っ ています。
しかしながら、インドネシアにおける民間のオランダ人と日本軍の暗い過去については、まったくといっていいほど知識がありませんでした。リンダイヤさんに お会いしてお話を伺うまでは、私にとっての「第二次世界大戦」とは完全に終わったものという認識でした。少なくともオランダに住む日本人としてこれに起因 する現代が抱える大きな問題を知る機会を得ることが出来てよかったと思っています。
現在の歴史の教科書には、短いながらもこの史実はきちんと載っているそうですが、恥ずかしながら私が学校で学んだころに載っていたかどうかは記憶にありま せん。そんな状態でその会合に参加することになったものですから、少しは予備知識を付けて行こうと、慌てて文献を検索して関連情報を集めたりして参加した のでした。
ヴィムさんからは、ヴィムさんが当時抑留されていたインドネシアで起こったことの概要、そして実のお母さんは抑留所で栄養失調で亡くなってしまったこと を聞きました。結果的に肉親を失うまでに至ったヴィムさんの日本に対する思いというものは説明するまでもなく、戦後オランダに引き上げてからも、当然なが らヴィムさんは日本・日本人を憎くんでいて、考えることをも避けるように暮らしてきたとのことでした。そして、日本兵岩下さんとの交流をも綴ってあったお 父さんの日記を読むことが、日本を避けていたヴィムさんの心境に変化をもたらす第一歩になったそうです。時は進み、ヴィムさんは 1995年から始まった、日本政府による平和友好交流計画で福岡県水巻町へ招待されます。ここで招待された抑留経験者であるオランダ人と日本人が合同で慰霊の式典 を行いました。ヴィムさんにとって、この合同の慰霊祭は非常に印象的だったそうです。これを機会に「オランダ人と日本人が一緒になって慰霊ができる時が来 ているのだ。もう憎しむのはやめよう。相手が誤るのを待って、相手を許すという姿勢では、いつまで経っても憎しみはなくならない。」 と、考えを変えてくださったそうです。
ヴィムさんのお父さんの日記は、炭鉱収容所での辛い日々・先の見えない暗雲立ちこむ日々の不安の中に家族との平和な暮らしに思いをはせる愛情が書き記して あり、非常に共感を覚えるものでした。幸いなことに私の日本にいる友人達の多くもこの本を読んで感想を伝えてくれたのですが、僕と同じ感想が多かったよう に思います。ヴィムさんのお父さんが恨みがましい言葉を書いていないのが非常に印象的でした。相当検閲を意識されていたのかも知れません。
リンダイヤさんの慰霊祭での心情の変化をヒントに、何か僕らにできることがあるのではないかと考えるとするならば、「オランダで、日本人とオランダ人が合 同で慰霊祭を行うことはできないだろうか。」と思いヴィムさんにそのことを尋ねてみると、「可能だと思う」という返事がもらえました。こうして、何か被害 者と日本人の交流のきっかけとなるようなものを模索することを考えていこう、という前向きな結論で会合を終えることができました。
抑留経験者のオランダ人には未だ日本人を恨み嫌って避けている人も多く、補償派という形で個人補償を求めて在蘭日本大使館前で月一度のデモを行い、日本で 訴訟を起こしているという事実は衝撃でした。そこで、この時、ヴィムさんにデモに連れて行ってもらうことをお願いしました。
会合の後、いろいろな本を読み第二次世界大戦の史実を学び返してみました。やはり歴史観が当時の敵国と日本で違うのは当然のことかも知れません。しかしそ れより今に至っても、同じ国のひと同士ですら戦争について語るのが難しいのは、やはり個人的な経験や状況が違うが故に戦争に対する思いが変わってくること にあると思います。私が史実を勉強しなおすことで得られた結論は、個々の史観すべてを受け入れることによってはじめて歴史の正しい認識が得られる、という ことでした。
現在の状況を理解するのに史実をできるだけ正確に把握することは非常に重要です。しかしながら個人の史観というものは上述のように個々の状況や思いが違う ため、例え同じ日本人同士でもこれを話し合うことの難しさがあります。しかしながら、この個々の異なった知識と考え方を元にしてオランダ人と日本人でこれ からの良好な関係を築いていくことを議論していくのは、決して難しいことではないと思います。
恐らくオランダも同じだったのではないかと思うのですが、日本では戦後の復興で一日も早く安泰した生活に戻るために、一般市民の間ではなるべく戦争に触れ ないように、また触れる時間もなく、半世紀あまりが経ったのではないかと思います。しかし、このことが逆に戦時中の事実関係の詳細を見返すことを難しくし てしまったかも知れません。時が経った今、このような形でのオランダの方の日記や事実関係に基づく回想記の日本語版が出版されるということは、当時の個々 の事実を学び、今日の問題解決と平和を考えていくにあたって非常に価値のあることだと思います。
非常に寒い雨の日でした。今年(2000年)2月、ヴィム・リンダイヤさんにお願いして、倉本さんご夫妻と共に、デンハーグにある日本大使館前で行われて いる、補償派と呼ばれるSJE(Stichting Japanse Ereschulden: 対日道義的債務基金)の人達のデモへ連れて行っていただきました。僕らが到着したのは12時頃、既に十人余りの人が日本大使館前に集まっており、雨模様の なか立ち話をしていました。日本大使館の向かいの塀に、日本大使館から見えるように掲げてある絵と文字が描かれたデモ用のたれ幕の中味が、近づくにつれて はっきりと見えました。
いくつものたれ幕が掲げてありました。そのうちのひとつはひざまずいた状態の3人の男が、腹を切り裂かれて殺され、有刺鉄線で後ろ手を縛り上げられている 絵でした。ヴィムさんにボウマンさん会長を含めて数人の方を紹介していただき、挨拶をしました。聞くところによれば、僕らがそのデモへ見学に行くまでは、 報道人を除けば一般の日本人が来るのは初めてだったということで、この日、お互いに緊張しながら話をしたことを覚えています。
はじめ遠巻きに僕らのことを見ていた人達も次第に近づいてきて、「何か質問はありますか?」と聞かれて答えられなかったり、「私達は一般の日本人に対して 抗議しているわけじ?いんですよ。」と言ってくれた人も居るのを覚えていますが、皆さんこちらの返答の言葉に非常に敏感になっているのが感じ取れてあまり 答えらしい答えを言えた覚えがありません。へたに誤解を招く表現をしたくなかったのと、この時この問題やデモの詳しい背景などをきちんと調べてなかったこ ともありました。
ある人は、日本語で「こんにちは」と挨拶してくれました。なんと言って答えていいのか判りませんでした。ここで耳にする日本語は、単に外国人相手に相手国 の言葉で挨拶するというものではなく、彼らの経験を物語る為に使われている日本語なので、素直に反応することができませんでした…。もちろん、もしかした らただ単に日本語で挨拶してくれただけだったのかも知れませんが、そう受け止める余裕などありませんでした。
そして彼は僕らにこの横断幕の絵(3人が見せしめに殺されている絵)の内容を説明してくれました。このとき彼が目に涙を溜めながら説明してくれた光景は今でも忘れることができません。
デモに居合わせた僕らの周りの雰囲気をどのように形容すればいいのか判りませんが、とにかく緊張しましたし、衝撃的でした。そんな中で何人かの方は「良く来てくれたね。私は日本の若い人がこうしてきてくれて、本当に嬉しい。」とおっしゃって下さいました。
また、今も良くして頂いているファン・ダー・ザイル (van der Zijl)さんは、「来てくれてありがとう。オランダ人の若い人達だって興味を持っていないんだよ。我々がここにこうして来ているのは補償を求めているこ ともあるけれど、それ以上に二度と同じ過ちを繰り返さないように訴えたい気持ちもあるんだ。」と、周りの雰囲気に萎縮している僕らに言って下さいました。 彼が何度も「若い人には罪はないんだから。」と自分に言い聞かせるように言っていたのが非常に印象的でした。何度かデモに足を運んだ今、多くの人達の僕ら に対する反応は好意的なものに変わってくれたと感じています。
正直申しまして、現在東京で裁判が行われている道義的責任における債務の支払いについては、私は個人的に判断できるほど十分な知識を持っていません。仮に 日本政府から債務が支払われることになったとしても、それはそれでいいと思っています。しかし、私がデモを何度か訪問して感じたことは、多くのメンバーに とっては、決してお金で解決される問題ではない、ということです。彼らは日本人に彼らの恐らく取り除くことができない心の痛みを判って欲しいのであり、ま たそれを和らげる方法を模索しているのだと思います。
この痛みを取り除くためにはどうしたらよいのか、というのは非常に難しいですが重要な問題です。まずは歴史の大枠をきちんと踏まえてから、相手の個人的な 歴史を知ることが必須で、それによって初めてお互いの理解が成り立ちます。自分も含めてですが、この点において日本の若者も、オランダの若者も、決定的に この歴史の認識があまいといわざるを得ないかも知れません。そこで、日記の出版の件も含めてインターネット上にウェブサイトを作成しました。
本の出版という視点で考えると、これら戦時中の日記などは専門家にとっては非常に貴重な資料となるものの、一般に至っては関心の低いためあまりビジネスに なりにくいものだということを聞きました。幸いにも日記のケースに関しては村岡先生のお力添えで出版にいたることができましたが、上記のような理由のため に、日本の出版社はこの分野の出版にはあまり力を入れることができない背景があるそうです。この理由としては、日本ではほとんどの人が戦争は過去に終結し たものだ、と認識していることにあると思います。もちろん戦争自体は忘れられるものであるはずはありませんが。
オランダと日本で両国で、どのようにすればこの認識を改めることができるのか、というのは私にとって未だに大きな問題です。 しかし、少なくともオランダ人被抑留者の心の痛みは日本人との交流がきっかけで和らいでくれることが多いのではないかと考えますので、今後ともできるだけ オランダ人被抑留者の方とお会いできればと思っています。コミュニケーションの第二歩目として今日の会合を可能にしてくださった村岡先生に感謝いたしまし て、私のスピーチを終えたいと思います。ありがとうございました。
謝辞
スピーチの内容を検討するとともに、私の英語を読みやすい形に、そして誤解が起きないように細心の注意を払いながら校正を手伝ってくれた友人の Koen Gordijn 君に感謝いたします。
4、 インドネシアの日本人についてのさまざまな記憶-口承史研究資料に照らして(講演要約) | フリードス・スタイレン博士
(ライデン大学付属王立言語・地誌学・民俗学研究所、口承史研究財団主任研究員)
まず、私が関係しています財団のインドネシアを中心とした口承史研究プロジェクトの背景を紹介したいと思います。この研究の目指すところはインドネシアにおけるオランダ植民地の終 焉を目撃した700人以上の人々の生活記録を収集するにあります。その際もっとも重要な時期として日本軍による占領と日本軍の降伏に続くベルシアップ(イ ンドネシア独立闘争)の時期があげられます。
私共がもっている資料のなかに、日本軍による占領時代の蘭領インドにおけるオランダ人の経験に関する、すでによく知られたデータが含まれていることは、言 うまでもありません。しかし、同じ資料群のなかにインドネシアにおける日本人に関する他の、あまりよく知られていないデータも含まれています。戦争前に関 するデータのほかに、戦後日本人とのあいだにあった接触に関するものもあるだろうと予想されるのですが、事実は必ずしもそうではありません。すでに戦争中 に、私たちがいろいろな文書から学び知っている体験とは違った体験を人々はしているのです。
私共のもっている資料をめくりながら日本人との出会いに関する記録を探していきますと、そこに「一様でない、さまざまな」テーマが現われてきます。こういったテーマを実例をまじえながら紹介したいと思います。
最初に出てくるのは、日本人は一様ではなかった、ということです。戦前からインドネシアに居住していた日本人で、開戦と同時に軍人として戻ってきた人が相 当数あったことは、既知の事実です。その日本人のなかには戦争中に起こったことに納得できない人もあったようです。日本軍が設立した収用所の外に住んでい たオランダ人軍人や一般市民に援助の手を差し伸べた日本の軍人や一般市民についての証言があります。そのなかには、日本人が幼児に対してどういう態度を示 したか、というものもあります。ある具体的な例の場合、日本軍の将校に彼が本国に残してきた幼い娘のことを言ったおかげで、一時的にその将校の養子にして もらった、という婦人の証言があります。
もうひとつのテーマは1945年8月に始まったベルシアップにかかわるものです。かつての敵が一夜にして防御者に変わったのです。オランダ人の輸送車、病 院、住居区、キャンプを守るべくインドネシア人の青年たちと戦火を交えた日本兵についての証言も少なくありません。これは、戦争中を収容所内で過ごした人 々と、収容所の外に住んでいたが1945年8月以後インドネシア人青年たちの脅威にさらされた人達いずれにも共通した体験です。
もちろん、これには別な面もあります。オランダ人、オランダ・インドネシア混血者を防御した日本人とならんで、インドネシア民族主義者を助けた日本兵もありました。オランダ人、混血の青年たちと戦うインドネシア青年たち、ということになります。
1945年に英軍が進駐てきたあと、多数の日本人捕虜がいたことは申すまでもありません。そういった捕虜の多くはオランダ軍が戻ってきたときにもまだイン ドネシアに捕虜として残っていました。ですから、私たちはこういった捕虜に関する証言も多く収集しています。そのような証言から、彼らが港湾労働や市街地 の整理にに狩り出されたことを知ります。これは、日本軍降伏後の現状維持政策の一環で、イギリス軍、ないしはオランダ軍将校が空港の消防隊の指揮をとりました。
私の話しをまとめますと、1942年から1946年までの期間にインドネシアにいた日本人に関しては、世間一般に流布している像とは違った日本人もいたことがこれらの資料から浮かび上がってきます。この資料をめくりながら特に著しいと思われるのは、日本人は始めから現地の植民地社会の一部であった、という ことです。オランダ人と日本人が共有していたものは、普通一般に考えられているよりは多かった、ということです。蘭領東印度でオランダ人、オランダ人との混血の現地人と青年時代を共に過ごした日本人があったのです。
5、 犠牲になるのは決まって子供 | アドリ・リンダイヤ – ヴァン・デル・バーン
(出版された日記の著者の妻)
戦争が勃発したとき、私たち大人は、子供たちは、どんな犠牲を払ってでも、強い子供に育てなければならない、と思いました。その時から、彼らは危険、暴力、肉親との死別などに直面することになるだろう、と想像されたからです。そのときまでは、彼らはできるだけそういうものからは保護し、遠ざけておこうと 私たちは努めました。
その様な危険を乗り切ることの出来るように子供を育てることが出来ると考えるのがもともと間違っているのです。嵐の吹き荒れる中を苗を植えるようなもので、所詮ひ弱な樹にしか育たないのです。
でも、私は始めから子供たちの世話にかかりました。教師の資格をもっていましたので、以前のように教材はありませんでしたが、キャンプで教室を開きました。
若いお母さんたちのためになるようにと、子供教室を設け、短時間でも母親の荷を軽くしてやりました。妹と私は未婚でしたので、助手になり、台所仕事等のキャンプ内の他の義務からは免除されました。このようにして、ぎゅうぎゅう詰め込まれた建物のなかであえいでいる母親にとっては多少の息抜きが出来たと思 います。
その後あちこち移動させられて、11才から14才までの男児は母親とは引き離されて別のキャンプにいれられましたが、そこで私たちには新しい任務が待っていました。50人の男の子たちの保母の仕事でした。彼ら一人一人になにができたかって、家庭的な雰囲気をつくってやることでした。毎日、夕方には本を読んでやり、それからお休みのキスをしてふとんをかけてやったのです。
みんな青年のような真似はしましたが、しょせんは子供、泣いているうちにいつのまにか眠ってしまう子もたくさんいました。そのうち、ご多分に漏れず、本も禁じられ、最後には男の子たちは成年男子のキャンプへ移されました。
私たちも何度か移動させされ、おかげで私は病気になって、病院入りとなりましたが、これを生き延びた人にはただひたすらに終戦が待たれました。
食料事情が多少よくなって、私も健康を回復し、赤十字が何百人もの孤児、父親の行方のまだわからない半分孤児のために子供用の施設を作りました。妹と私は この仕事をあてがわれ、きつくはありましたが、大事な仕事と思ってやりました。でも、父親が三年後に帰ってみたら母親に死なれたわが子に対面するなどとい う胸の裂けるような場面に直面したこともときとしてありました。
そこにいたとき、キャンプで亡くなった私たちの友人ネルさんの四人のお子さんの世話もすることになりました。この子たちはインドネシア独立軍過激派戦士の攻撃にさらされて、危険な状態にありました。父親は捕虜になって日本に連行され、そのときまだ軍務を解かれていませんでしたが、1946年一月にひそかに私たちを訪ね、私たちは結婚することになって、私が子供たちを連れてオランダへ帰国することになりました。
子供の施設での結婚式はこの混乱の最中にあって一抹の明りを灯しましたが、それも束の間、いつまでともしれぬ別離の日がすぐやって来ました。25人の子供と軍用船に乗り込みましたが、私たちの任務は親と別れ別れになったこの25人の子供たちをオランダの親戚の所に届けることでした。
祖国に辿り着いて両親が私たちと新しい四人の孫を暖かく歓迎してくれたときは、永い寒い夜を過ごした後に暖かい毛布を掛けて貰ったような心地がしました。
半年後には子供たちの父親、また私の夫も帰国し、互いに対するに基づいた新しい人生の建設が始まるわけですが、そこには過去の破片も散らばっていました。 戦後の何十年ものあいだ、私たちは外地で生き残ったことを本当に嬉しく思いました。そして、それが私たちの新しい人生の再建に当たっての土台石となりまし た。
子供には昔の辛かったときのことは忘れさせ、悪夢から守ってやらなければ、と私たちは考えました。でも、あのときは、しっかりしろよ、と言ったのではなかったでしょうか? あにはからんや、後遺症が始まったのです。またしても子供が犠牲者になりました。
私の場合は、日本に対する憎悪感は次第に消えていきました。デルフトの国際友好会のホステスであった関係で、デルフト工科大学に来られた日本人科学者の家族と知り合いになりました。彼らの立ち居振る舞い、すぐれた適応能力にたいして敬意を抱くようになりました。私が収用所時代に出会った日本人とはあまりに もかけはなれていました。それでも、長男が日本を訪ねるのに同行するときには相当の抵抗がありました。
あのとき子供であった人達に代わって私に何が語れるのでしょうか? 彼らは、あの苦難を乗り切って生き残るために、強くあれと自分に言い聞かせることはできませんでした。子供は刹那刹那で生きてゆきます。安心感、愛され、世話して貰うことが大事なのです。それがないと、いつになっても癒えない障害を受けま す。
最近、戦後の日本の若者の問題に解決を求めようとして日本の先生方がヨーロッパを訪ねて来られましたが、私の夫の日記をみて深い感銘を受けられたように思いました。あの方たちも、戦時中子供として苦労され、その時の後遺症がまだ癒えていないのでしょう。
犠牲になるのは、いつも子供です。
6、 日本を訪れて | E.W. リンダイヤ
(出版された日記の著者の長男で、日記の中にもたびたび登場する.)
戦後50年目の1995年 に日本をはじめて訪ねた私は、日本について、日本人について、日本文化について知りたいと思って出かけたのですが、同時に一抹の不安、怖れをも抱いていま した。それは、その時携行した父の日記に対して日本人がどう反応するかに不安を覚えていたのかもしれません。
その後、1996年、1997年、2000年と三度訪日しましたが、最初のときとはまったく違って、帰郷したような気分で、着想に富み、偏見に毒されな い、親切な友人たちと再会できる期待に胸を膨らませて出かけました。相手の文化をその素晴しい背景のなかで多少とも学びたいという願いをもって出かけた私 の内心には、このようにして数年間のあいだに著しい変化が起こっていたのです。その事を今日ここで皆さんに分かっていただきたいのです。最初の訪日が終わ りに近づいたとき、一つのことが極めてはっきりしてきました。恨みの代わりに相手に対する暖かい親しみの情が湧いてきたのです。日本人、日本文化につい て、いやそれだけではなく、私自身についてももっと知りたいという強い願望が生まれ、私の気持ちは同胞意識、尊敬へと成長していったのです。この強烈な感 情は私の内部に芽生えた安心だったのでしょうか? お互いに対する理解を深めるにはそれを共有するのが一番だ、となにかが私の胸中で囁いているように、思 いました。
新聞記者に水を向けられてそれに素直に乗っていったときは、我ながらびっくりしました。1995年の11月釜石を訪ねた家内と私の最後の夜でした。釜石郷 土史研究会主催の席上、私の父の日記に対して彼らが示した心からの関心、彼らの率直な態度、私たちがいずれもあの戦争を反省していることを思って私が彼ら に対してそれまで抱いていた恨みの思いから私が解き放たれたことを彼らに語ったのです。私のほうから、まず彼らに赦しを乞うたのです。これが私の新しい人 生の始まりでした。
翌日の夕方、水巻に戻ったとき、私たちの団体EKNJの引率者であったヘラルド・サレミンク神父から、市内の中学校でお別れの挨拶をしてくれるよう頼まれ ました。私は、第二次世界大戦を共に悔い、反省したいということ、和解と赦しに基づいた平和を築きたいという私の願いをもう一度表明することにしまし た。(これについては、部屋の後ろの机の上の展示を御覧ください。)
その後も、私の最初の訪日のときに私が経験したことは両民族、そして多分両国民の関係にとって根本的に重要な事だったのではないか、という思いがしきりに するのです。もちろん、ひとぞれぞれに結論は違うかもしれませんが、私自身は次のような結論に達したことを申し上げて、私の話しを終わらせていただきま す。
この部屋に集まっている人はだれしもあの戦争に対して罪悪感をもつ必要はない。
和解に赦しは絶対必要である。
自分自身の、また相互間の平和のために和解は絶対必要である。
赦しは個人的な問題であり、自分が内心の安心を得たい、内心の自由を獲得したいと思って求めるときにのみ意味をもつ。他方、赦される者は、それを相手からの純粋な好意によるものとして受け取ってしかるべきであり、それは愛の行為として受け止められるのである。
7、 閉会の辞 | ヘルマン・ハウツヴァールト
(アニー・ハウツヴァールトさんの夫)
今日は随分いろんなことを伺いました。二部に別れてバラエティに富むお話しを伺って、先入観が少なからず整理できたように思います。このような接触を通じて将来に対して深い意義をもつ新しい関係ができ上がるように、というのが私たちが願ってやまないところです。これまで私たちは橋を架けようとしてきました。クワイ川に架かる橋 ではありません。あれは破壊と虐待の橋でした。敵意の橋でした。かの有名な映画に出てくる橋のことでもありません。あれも第二次世界大戦に関係しています が、英軍のモントゴメリ将軍がアルンヘムに降下させた兵隊が英軍の主力より離れすぎたところに降下して失敗した話しです。少し先に行きすぎたためにうまく 連絡が出来ないことになったのです。私たちもまかり間違えば一歩先んじて勇み足の過ちを犯したかもしれないのです。そうすると、対岸と連絡が出来ず、間隙を埋めることも出来なくなるのです。でも、振り返ってみますと、慎重に歩み寄ったように思います。
これまでの会合では、お互いを同等の人間、隣人として見ようとしました。リンダイヤさんの父上の日記と、アニ・ハウツヴァルトの半生についての林さんの著書は、すでにウィンクラ さんやその他の方々が架けようとされた橋のように、先入観、偏見を取り除こうとする試みでした。
最近私たちが村岡夫人から頂戴した手紙のなかで、妻が日本の夫人たちからいただいた手紙を翻訳して下さることを通して日蘭の間に橋を架けるお手伝いが出来 たことを感謝している、と言われたことに私たちは心を打たれました。両国間の歴史のなかで辛い目にあったオランダ人たちに対する理解と愛とを彼女たちの心 に神が目覚めさせて下さったことに対する感謝の意を述べた手紙でした。
日蘭修好四百年を祝った紀元2000年も終わらんとしているこの時に当たって、村岡先生その他オランダ在住の日本の方々が相互理解の橋を維持しようとして精力を傾注されたことを思い返して見るべきではないか、と思います。私共夫婦は、皆さんに先んじてこの謝意を表明いたしたく思います。
戦争の傷跡、私たち二国民の歴史の傷跡は一朝一夕には消えないでしょう。傷跡は、ときとしてうずくこともあるでしょうが、その下からなにか新しい、なにかしらきれいなものが芽生えてくると信じたいのです。今年開かれた会合によって、その傷跡はすでにいくらか薄らいでいます。私共夫婦は、神はすべてのことを 善きに計らって下さったことを信じて疑いません。すでに実がみのっているのです。私たちは何人かの日本の方とお知り合いになり、その方々は私たちにとって 愛の模範であり、真の光となってくださいました。そのようにして、お互いを隣人として認め合うようになり、ややこしい意見の相違も雲散霧消します。勿論、 だからといって、私たちの現在の世界に溢れる問題に目をつぶっててよい、ということにはなりません。私たちは過去の歴史から教訓を学ぶことが出来ます。歴 史を忘れる者は同じ歴史を繰り返す、という古いユダヤの格言があります。ですから、第二次世界大戦のとき体験したよりもっと厳しい時代が訪れるかもしれな い、と思って覚悟しておく必要があるかもしれません。私たちの周囲をよく見回しますと、戦争の脅威、犯罪率の増加、不安の高まりを認めざるを得ません。世界の諸国の80%以上でキリスト教を伝道、あるいは告白することが許されていません。少なからぬ国において原理主義(ファンダメンタリズム)は由々しい脅威となっています。私のように中近東にしょっちゅう出かける者はあの地域の状況が如何に憂慮すべきものであるかをよく知っています。そして、第二次世界大 戦のときと同じように、私たちはマスコミの影響をあまりにも受けやすいのです。これは特にイスラエルに関する報道にあてはまります。私たちの祖国オランダ にあっても、精神的、倫理的問題になりますと、あっさりとプレッシャや、脅迫に屈してしうのです。悪魔的な勢力が末世の戦いを前にして牙を研いでいるよう な感があります。私たちの周囲には至る所に信仰からの離脱、バルカン半島やモルッカ諸島における大量殺戮、唖然とするような災害、権威の失墜、いよいよ狂暴性をあらわにするマフィア、世界的に気候を制御しようにも協調性の欠如、思想、信条を異にする者に対する非寛容、迫害が見られます。今の時代は前世紀の 30年、40年代を思わせます。一旦噴火しようものならあの頃よりひどい火山の上にのっかっているようなものです。問題は、私たちは過去から何を一緒に学び、体験し、感取したかにあります。作家の林えいだいさんが私たちにかつて書いてよこされたことは当たっています:「戦争とは単に武器や暴力に尽きるもの ではありません。戦争は人間性を破壊します」。ただ相手に対して礼儀正しく振る舞い、親切にするという以上のものでなければなりません。そこから希望が湧き出してこなければなりません。人は希望なしには生きられません。第二次世界大戦の教訓は子供たちに、孫たちに伝えていく必要があります。
精神的な抵抗力は、周辺世界にどっぷりつかってしまっているクリスチャンの間においてすら、多分に失われたかに見えますが、第二次世界大戦中、幸いにも多 くの人がしたように私たちも、わずかながらでも残った勇気、尊厳、正義を守り抜きたいものです。強制労働をさせられながらその短かった人生のいちばん辛いときにも同僚のことに思いをいたし、疲労困憊の極みにありながら、うずく脚を引きずって病の床に臥せる同僚を訪ねて回って励まし続けた私の愛する妻の父から学びたいものです。
そのときこそ、この醜悪な人間性のなかから一条の光が、クリスマスに現われたあのまことの光を反映して輝くのです。