第18回「太平洋戦争が次世代に与えた影響」
2015年9月5日
De gevolgen van twee oorlogen in voormalig Nederlands Indië zijn nog voelbaar.
Eerst was er een oorlog met Japan gevolgd door de oorlog voor de Indonesische Onafhankelijkheid. Ondanks dat velen van ons zijn geraakt door het verleden willen we werken aan een toekomst van vrede op basis van begrip en verzoening. Daarom organiseren wij deze Dialoog Conferenties voor Nederlanders, Japanners en Indonesiërs. Voor jong en oud die verder willen dan verwerken en herdenken. Het is werken aan vrede door eigen verhalen en ontmoetingen.
プログラム
- 開会の言葉
- “Een Japans gezicht binnen een Indische familie; Verzoening en expressie”
- 大戦後の光と影
- “Op zoek naar mijn grootvaders roots in Nederlands Indië”:
- 日本からのメッセージとご報告
- 閉会の言葉
1. 開会の言葉 | トン・ステファン
講演者紹介
Mevr. Jill Stolk In mijn eerste boek ‘Scherven van smaragd’ vertel ik over mijn vader die als krijgsgevangene aan de Birma-Siam spoorweg te werk was gesteld en zijn confrontatie, na de oorlog, met mij, zijn dochter met de Japanse gelaatstrekken. Hoe gaat een Indische familie met dit gegeven om? Wie ben ik?
Mevr. Chieko van Santen is in 1944 te Onomichi-stad in Hiroshima geboren. Na het afronden van haar studie Engelse literatuur aan de Universiteit van Shimane werkte ze voor een Nederlandse handelsmaatschappij in Osaka. Daar ontmoette zij dhr. van Santen en in 1970 trouwde ze met hem. Tijdens de Japanse bezetting heeft dhr. van Santen in een interneringskamp gezeten in Nederlands Indië. Mevr. van Santen woont sinds 1984 in Nederland.
Mevr. Tineke Bennema is een historica en journalist die onderzoek deed over haar grootvader, die politie inspecteur was op Sumatra en Java van 1920 – 1942. Haar vader werd op Java geboren waar hij was geïnterneerd in het kamp Ambarawa.
2. “Een Japans gezicht binnen een Indischefamilie; Verzoening en expressie” | Jill Stolk
Een gedicht i.v.m.
“Een Japans gezicht binnen een Indischefamilie; Verzoening en expressie”
ずば抜けて頭がいいんだけどちょっと変な私の父親違いの姉、
大海の向こうに住んでいる。
有難いことに、彼女が
黄泉の国にメッセンジャーのベティを送る。
なぜ?
そう、一体なぜなの…
丸天井を偵察するために?
自分の場所を予約するために?
ベティはそのあたりの霧の中で
誰が来るかを見張ってる。
車椅子の優しい顔の婦人が
ベティのとこに車を回してやってくる:
「あら、グウェニィ、優しい子、
生まれて十日でお父さんをなくしたんだった。
五歳の時、可哀想なお母さんと一緒に
オランダの私たちのうちに来て一緒に暮らしたわね。
あなたのことをいつも愛してたわ。
ずっと遊びに来てくれなかったでしょ。
ひどく寂しかったわ。
でも気にしないで、ほんとに。
自由でいなさい、幸せでね、
私と同じように。
「あぁ、フランシーン」と姉が言う。
「つまり彼女は亡くなったのね…そうじゃないかと思ってたの。」
ベティのとこに男の人が向かってきた。
背が高くて細身で、海老のような顔をしている
(つまり、姉の好みじゃないタイプ)
「あ、僕の優秀な学生じゃないか、一番よくできた学生だった、
君!
素晴らしい知識、素晴らしい技術
素晴らしい洞察力、
素晴らしいユーモア、
すばらしく悪い性格
誰とも比べものにならない。
連絡が途絶えてすごく残念だった。
また会えるのを楽しみにしてるよ!
「あ、教授!」と姉が言う。
「彼の指導で博士号をとったのよ」
空の中から腕が一本伸びてくる
男の姿
スーツにチョッキ
同時に色が目の前にあらわれる
ベージュ、茶色、オレンジ色が少し入ったネクタイ…
お父さん、あぁ、ビルマ帰りの男
血のように美しく
血と爪
血煙を吹く活火山
私は嬉々として彼を叩いた。
何年も何年も叩かれた後に。
彼の声:
「僕は君に優しくなかった
僕の人生の中で、悲しくて難しい時期だったんだよ。
君は怖がってたね。
人生を楽しくしてあげられなかった。
君にも家族にも
どうか、僕の罪を許しておくれ」
(「この人はとっても薄っぺたで
ひどく、ひどく悲しそうで
話すのを怖がってた」とベティが言った)
「その人はストルクパパだったのかしら」と姉が訊く
彼女にとって義理のお父さんをみとめることほど
重苦しいことはないのだった。
Jill Stolk 01/03- 24/05/2015
訳:タンゲナ鈴木由香里
3. 大戦後の光と影 | ファン・サンテン千枝子
まず初めに、講演を依頼された折には、私の人生経験の中でどの部分が皆様にお伝えする意味があるのかも定かでなく、躊躇もありました。一番の理由が、蘭領東インド(現在のインドネシア)での抑留所にいたオランダ人との結婚という点が浮かびましたが、これを機会に私自身の過去を振り返る良い機会とも思い、お引き受けした次第です。
自己紹介をしながら、話を進めたいと思います。終戦の一年前、1944年に広島県で生まれました。生地は広島市から約100キロ程離れた尾道市ですので、私は原爆の被爆者ではありません。しかしながら原爆の悲惨さは、幼い頃から度々同じ県内の学校で被災地の様子を映写機で見てきました。そして広島市へ送る為、たくさんの折鶴を折った思い出もあります。ただ、爆撃にもあってない田舎町での生活からは、広島の悲惨さはまるで遠い世界の出来事のようでもありました。
一つ忘れられない記憶があります。広島市に住む親戚を訪ねたのは多分4.5歳の頃と思いますが、遠縁の小母の皮膚の下から、原爆後数年経った後にも拘らず、ガラスの破片が出てくるのを目にした記憶は何時までも焼き付いています。また私の周りには被爆者としての原爆手帳を持ち、原子力への強い反対を世界に訴える為、国連へ向かった学生時代の先輩も居ます。原爆投下後広島には100年は草木が育たないだろうといわれていましたが、70年後の現在の広島が緑溢れる美しい町並みになっている事は嬉しい限りです。記念碑として残されているドームだけが、当時の悲惨さを何時までも伝えてくれる事でしょう。
この第二次世界大戦は私の人生にも影響を与えています。祖父母の立て続けての死亡後この時代大きな商家だった家を背負い、慕う人を諦めて周りから勧められた好きでもない父と結婚した母は、戦場から負傷して帰国した父とは直ぐに別れ、引き取った私にかなり長い間父は亡くなったと伝えていました。好きでもない人との結婚を強いられた母も不幸だったといえますが、その娘である私にとって、父のネガティブな面のみを聞かされるのもつらく、結果として父への関心が薄れてしまった気もします。名前も写真も一切知らせず、しかし経済力のあった母からは好きな事は全て叶えてもらえました。お陰で生け花、お茶、ピアノ、ダンス、絵画、お習字など一通りの稽古ごとは経験しましたが、秀でたものとして身につかなかったのは残念です。しかしこうした知識を持つ事が出来た事は無駄ではなく、母に感謝もしています。
父の事を聞くと機嫌の悪くなる母でしたし、更にその時代は戦争で父親を亡くした友達も少なくなく、父親をそれ程恋しいとも思わなかったようです。結局私が40歳に近い頃、父の遠縁から連絡を受け、初めて父を訪ねた折には意識不明で、その後の葬式に参列して直ぐに私は日本を離れてしまいました。もっと早くにコンタクトを取らなかった事を、今かなり後悔もしています。そして、母には父と私の縁を切る資格は無かったといえます。
その時代の女性としては、高等教育である師範を卒業した母の私への学業での期待は大きく、国立大学の英文科を何とか卒業したのも母に押されてという感じも否めません。その母からの自立という意味から、国際結婚に踏み切ったのかもしれません。
大学卒業後、オランダの会社の大阪支店に就職し、数年後東京本社の社長としてシンガポールから転勤してきたオランダ人と結婚する事になりました。日本を離れた事の無い私にとって、やはり国際結婚はかなり大きな決断でした。加えて私より10歳年上の彼がインドネシアで、10歳までは母親と姉と一緒にアンバラワで、後、男子のみの抑留所経験者というのが何を示すのか、婚約後彼と同じ年の叔父から少し聞かされましたが、あまりそのときには深刻に考えなかったのも事実です。
私を選んだのは日本女性という事ではなく、一人の女性としてという彼の言葉を単純に信じて、抑留所事情などは全く無知の状況でした。彼自身も結婚後もその話をする事はずっと好まなかったようです。
彼が日本への転勤を決心するのに会社側も一年の考慮期間を与えていたとか、15年の東京での結婚生活の中でも、彼が日本の芸術、文化、言語にほとんど関心を示さなかった事も、後に理解できました。加えてホリデーに他のアジアの国々には行きましたが、インドネシアには一度も足を向けていません。
私が初めてオランダを訪ねた時、義母と義姉の温かい歓迎振りには、今でも心から感謝と敬意を払っています。義母は人づてに彼女の夫を解放後の1945年8月24日、ジャワ島のセマランの病院で亡くした事をしらされ、二人の子供とオランダヘ引き揚げてきました。抑留所で離れ離れになっていた息子への義母の愛着は生きていてくれただけでありがたいと、無条件に可愛がっていたそうです。更には“一家にはドイツと日本人の血は入れない”と家族に豪語していた事も、夫の従姉達から聞かされました。にも拘らず、義母の私への思いやりは深く、義姉と共に一度も嫌な思いや経験も無く過ごせたのは、ひとえに彼女達の出来た人間性だと、心からありがたく感じています。
ただ、夫の叔父の一人は、日本軍の下、アジアでの強制労働の経験から、日本人である私に会う事を拒んでいました。義母は弟の心の狭さを嘆き、夫は私と一緒でないと会わないと主張して、結局最後までこの叔父とは会わないままでした。私への思いやりに感謝はしても、やはりその悲嘆を思うに心が痛みます。戦争の責任は国家であり、個人ではないとはいえ、この叔父が経験した過酷さを思えば、可愛がった甥である夫に会えない以上に、最後まで日本人に向かえなかった気持ちも分かるような気がします。
もう一つ、ワセナーに住む私のブリッジクラブでの経験をお伝えします。日本婦人と組んで、競技の前に日本語で世間話をした折、側のオランダ婦人から日本語の会話を止めて欲しいと言われました。私のパートナーは、競技の前にどうして自由な会話をしてはいけないの、と真っ向から苦情を訴えましたが、私には、日本語を聞くと頭痛がするというそのオランダ女性がインドネシアからの引揚者と直ぐに分かりました。ハーグ近辺にはインドネシアからの引揚者が多く住んでいます。このとき、日本から派遣されて来る人たちは、家族も含めて赴く国の歴史や事情を少し勉強してくるべきではないかと、同国人として強く感じた次第です。
義母が亡くなった後ですが、私の長男がドイツ女性を伴侶に選んだのを、義母はどんな思いで天から見ているのかと、ふとおもいました。きっと苦笑いをしながら、“日本人とドイツ人の血は我が家に入れない”との公言を撤回して、魅力ある嫁達の家族参入を喜んでいるのではないでしょうか!
1980年代後半の頃、ワセナーに住むオランダ人ジャーナリストから、インドネシアでの日本兵とオランダ婦人との間に生まれた人たちのグループを紹介され、ハーグの日本婦人会を通してそのグループに日本文化を紹介しました。更に東京新聞社からの記者を招いて、父親探しを始めたのが、その後、インドネシアでのオランダ婦人と日本兵の間に生まれた子供達のグループである”人“と”桜“の活動の基盤となったのではと思います。私自身は残念ながら夫の介護とその後立ち上げた日蘭シルバーネットに追われ、その後は御手伝いも出来なくなっています。
日本から私達一家がオランダに引き上げた後10年ほどで夫は健康を損ないました。その頃私が立ち上げた日蘭シルバーネットに最初はかなり応援してくれていましたが、次第に体力が衰えて行く頃、忙しくなる私を恨めしそうにながめるようになり、13年以上の闘病生活の末、2007年に亡くなってしまいました。
2003年に立ち上げたこの日蘭シルバーネットの組織というのは、オランダに根を下ろしている日本人が、高齢になっても祖国の文化や言語に触れて、より豊かな生活が出来るようにとの互助団体です。自分の意思で外国住まいとなった日本人がそろそろ80代に向かう人達も現れ始め、丁度同じ頃ヨーロッパの各地で同様な組織が生まれてきていました。きっと時期的にもこうした目的を持った団体が必要とされていたようで、この日蘭シルバーネットは現在150人を超えるオランダでは一番大きな邦人団体となっています。この会を立ち上げ、12年この会の代表を努めてきましたが、まだまだたくさんの課題が残されています。
私達の年代は、物心ついた頃は何も無い戦後で、成長するに連れて豊かになる環境は、ある意味ではラッキーな世代ではないかと思えます。今若い人達が立ち向かっている未来への不安や困難を思うに、歴史の過ちを繰り返さない勇気と、国を超えた互いへの理解と思いやりを育んで欲しいと願わずには居れません。
戦争が引き起こした数々の不運はありましたが、国際結婚のお陰で日本とオランダという両国を初め、他の国々を垣間見る事も出来、家族思いの夫に守られた結婚生活を振り返れば、やはり幸せな人生だったと思います。今後をどのように向き合っていくか、健康と穏やかな心で満ちた晩年をすごしたいものです。
本日は皆様に私の過去にお付き合い頂き、心からお礼を申し上げます。
ご清聴を有難うございました。
和解は我々自身を被害者とのみ見做すことをやめたとき成立する
4. “Op zoek naar mijn grootvaders roots in Nederlands Indië” | ティネケ・ベネマ
歴史家ルー・デ・ヨング氏は「私たちは第二次世界大戦から教訓を学んだ。その教訓とは、基準を定める記憶である。」と語りました。しかしこの言葉は、蘭領東インドにおける過去については、当てはまりません。なぜなら、その記憶やトラウマは、元軍人、強制収容所で暮らした人たちやインドネシア独立戦争(Bersjap)を生き延びた人たちの靴箱に隠されているからです。しかし、その記憶と歴史に目を向けるよう促す、蘭領東インドのオランダ人三世たちの呼びかけは、学者、ジャーナリスト、弁護士たちに支持されて、日増しに声高になっています。そしてこの動きによって、和解に必要な、反省や自己批判などが生み出されてきました。
私の父は蘭領東インド(現在のインドネシア)で、日本軍の抑留所に囚われていた経験を持ち、祖父は、蘭領東インドの入植者でした。私の父は、抑留所時代とその直後のインドネシア独立戦争の争乱時代を生き残りましたが、蘭領東インド警察の監察官であった祖父はそうではありませんでした。私が尊敬するべき人物、それは、子供時代、日本占領軍によって抑留所に3年半も捕われていた父です。しかし、うまくいっていたオランダ植民地政策の歯車の歯として働いていた祖父に関してはどうでしょう。私は一体、どういうふうに彼を尊敬するべきなのでしょうか。祖父は、結果的には日本軍が占領しに来る以前、何世紀にもわたってその群島域を占領統治していた政権の一部でした。他民族を利用し、その土地を搾取した政権です。私が祖父を尊敬する理由は、植民地時代の歴史の授業からは見いだせません。第二次世界大戦の場合と違って、植民地支配については統一的な見解がないからです。また植民地時代の事についての知識や情報を受け取る機会は滅多にありません。(学校でも大学でも、そして社会的、政治的な議論においてもです。De Excessennotaはさまざまな事実を隠蔽する入れ物になってしまいました。)
ですから、私は自分で、蘭領東インドに住んいだ祖父の仕事、彼の考え、その家族について調べています。オランダがどのように自己の植民地の歴史を見ているか、私の家族の小さな歴史も役に立つでしょう。我が家の蘭領東インドの話は、いつも日本軍による東インド占領と独立戦争のドラマが主題であります。祖父の役割については亡くなった祖母は何も語りませんでした。またそれは家族で話すような話題ではありませんでした。しかし、三代目に当たる私にとっては、それを理解する事がどうしても必要なのです。
殆どのオランダ人は、かつて蘭領東インドにいた家族や友人、知り合いがいます。収容所の犠牲者であった者たちは、抑留、飢餓、日本人による強姦や殺害などの話をオランダに持ち帰りました。 またインドネシアの独立戦争を生き延びた者達は、インドネシア独立軍兵士たちが抑留所の弱い女性や子供を虐待したことを証言することによって、そのインドネシア人についての我々オランダ人の印象を決定づけました。そして、いわゆる「警察行動」をその当時遂行していたオランダ軍人は、戦争の痛みを背負って帰る一方、彼ら自身の戦争犯罪については断固として沈黙を守り続けてきました。そんな状況のまま蘭領東インドについて議論されたため、結果的に、国家の歴史についての論争のトーンを決めてきました。そして政府はこれを後押ししたのです。
背景
1800年頃、オランダは、蘭領東インドの所有権を経営の失敗と汚職で倒産したオランダ東インド会社から引き継ぎました。陸海軍まで備え商業活動を展開したオランダ東インド会社は、2世紀もの間、母国政府から絶大な支持を受けていた会社でした。このことは私達の国の経済的施政を混乱に招き、それがもたらした政治的な問題を、私たちは最終的には受け入れることをしませんでした。植民地支配は、最終的に、その国の民族自決権とは共生できませんでした。
祖父のような入植者は、政府の設定した枠組みの中で働いていました。彼は6千万人が居住する多島国の秩序を守る千五百人の監察官の一人として働きました。この白人のピラミッドは3万5千人の現地の警官隊を土台としていました。とりわけ、1927年に勃発したオランダの占領に反対する共産主義者及びイスラム教徒の暴動鎮圧の際、この組織が動員されました。しかしそれはほとんど不可能な作業でした。それは、1915年からの、インドネシア警察の再編成という野心的な計画でした。結局この組織は1942年に完全な崩壊に至りました。
さらに、宗教の息がかかった白人至上主義の既定概念もありました。無知で幼稚で愚かな民族を、唯一の正しい道、キリスト教によって導く、と言うのが、私の祖父が描いた自分たちの仕事の意味でした。
1850年頃、蘭領東インド総裁であったヤン・ヤーコプ・ロヒュッセンは「白色人種の道徳的、知的優位性は茶色の人種に勝り、我々の東インド支配はそれに基づく。」というスピーチをしたことがありました。私たちだけが「高貴な肌」を持つと。その一世紀後、オランダ人の考えは全く変わっていませんでした。直接の表現を避けて命名されたいわゆる「警察行動」が行われた期間も、インドネシアが独立するなど早すぎると言う通念でした。
そして私の祖父もまた、その政治的、法的枠組みの中で行動していました。蘭領東インドはオランダの領地に他ならない、たとえオランダの法律が適用されないとしても、少なくとも列島は完全にオランダ的原則に従って統治されるべきだと考えられていました。要するに、蘭領東インドは植民地にほかなりませんでした。従ってそこには、オランダ人の血を分け持った「幸運なマイノリティ」の助けを借りて、オランダ人を特権階級と認める法則が生きていたのです。
しかし、350年の植民地支配後の不幸な「警察活動」の後、非植民地化が決定してすぐに、政府は、かつての植民地とそこに雇われていた人達に対する法的、政治的、人道的責任を放棄しました。一瞬のうちに、東インドは、KNIL(王立オランダ東インド軍)が自慢げに呼んだような「オランダの誇らしい13番目の州」ではなくなりました。東インドはオランダのシステムから抹消されただけでなく、記憶からも削除されてしまいました。
このオランダ政府は、新興インドネシアの民族主義的反乱を鎮めるために、権威的、階層的、もっと言えば殆ど軍国主義的に組織づくられていました。どのような会合も集会も、そしてスポーツのイベントさえ、警察の許可申請が必要になりました。またハッタやスカルノなどの知識人は逮捕され、追放されました。30年代から40年代の蘭領東インドは、意見の自由が認められない警察国家へと発展していきました。
警察の監察官である祖父は、独立運動のための暴動を起こしたジャワ人らを迎え撃ちました。また正当な民族自決運動をいち早く見つけだし、その妨害をするために特別にできた移動警察組織、つまり現地警察官の一員として働きました。必要なときは逮捕者を殴りました。30年代半ば、祖父は短い期間でしたが、NSB(オランダ国家社会主義運動・ナチスと連動)に共鳴していました。そして、貧しいバラックに家族で住んでいたインドネシア人の警官を経済的に利用し(祖父もそのごく付近に豪邸を持っていました)彼に、自分の仲間達の暴動を抑え込ませたりしました。
しかし祖父の身辺について色々な事を調査するにつれ、私の中には、矛盾しているが、祖父を尊敬する気持ちもわいてきました。彼はまじめで正直であり、自分の職務を誠実・忠実に執行しました。祖母も、公平で、使用人を心から信用し彼らに対して心を開いていました。祖父も祖母も、個人の地位を濫用することはしませんでした。私は植民地支配には嫌悪感を持っていますが、祖父母については尊敬することができます。そして、植民地主義と戦後の植民地における暴力についての私自身の知識や観点は、祖父の生き方とは全く矛盾している事を認識し始めました。彼自身は、完全にその政治的環境の中で職務を果たしたに過ぎなかったのです。
知識、ジャーナリズム、裁判
祖父母は、これまでオランダでは話題にのぼることの殆どなかった人達の立場を代表しています。私たち自身の苦しみや要求ではなく、インドネシア人の要望に反した多くの方策を創り出した私たちの責任こそが、まず歴史の説明の初めに問われなければなりません。このインドネシアという島国は第二次世界大戦の5年の間に、所有者が4回も変わりました。まず長期間にわたったオランダの統治、それが日本に取って代わり、イギリスとオランダの共同統治に変わり、そして最後にインドネシアの手に戻りました。これらは大きな枠組みにおいて理解しなければなりません。例えば、インドネシア独立戦争を350年のオランダ支配から切り離して考える事は、きちんとした医療検査をしないで病気だと指摘して診断を下すようなものと言えるでしょう。
オランダ政府は植民地支配全般についていまだにその罪を認める事を避け続けていますが、入植者三世の間では、インドネシアの歴史における私たちの役割について反省する事の必要性を求める声が高まっています。この新しい世代の一部は、(ソーシャル)メディアで活発に動き始めており、総合的なオランダの歴史の真実を知りたがっています。警察行動時の戦争犯罪の罪悪感に悩まされて、罪の告白をした退役軍人を見つけ出したさまざまなジャーナリスト達から彼らの活動は、最初に支援を得ました。
この動きと同時に、大規模な国家的歴史調査の必要性は、NIOD(国立戦争文献研究所)などによっても訴えられていますが、残念ながら政府からほとんど一笑に付され認められていません。この事は、いずれ私たちの歴史の教科書にも、より正しい記述が行われる結果にたどり着かなければなりません。現在の教科書には、350年の植民地支配と警察行動についての記述はほんのわずかです。生徒達は今でも、1945年のインドネシア独立宣言について、「日本軍と手を組んだハッタとスカルノによって公布された」という記述のある教科書を使っているのです。私の調査によれば、蘭領東インドの警察自体、政府の命令下、数ヶ月間も日本の政体に頼って機能していたのです。ですからインドネシア人の反逆という主張は正しくありません。インドネシアの協力を得た、更なるジャーナリズムと学術的調査が重要です。先頃アムステルダム大学で植民地の歴史専門家が特別に教授に任命されたことは、その重要性を示しています。
また法的にも、戦争犯罪の隠蔽を暴く活動が始まりました。オランダ債務委員会は短期間に、オランダ政府に対する三つの訴訟に勝利し、オランダ兵士によって処刑された者の遺族に対する速やかな保障の約束を取り付けました。弁護士のリスベス・ゼグフェルト氏の協力を得てこの委員会は、 80年代に政府が恥ずべき言い訳をしたExcessennotaに記述されている全ての犯罪について調査を行いました。今後次々と、オランダが行使した殺害、破壊、拷問や強姦が裁判で明るみに出てくる事でしょう。それは、オランダが全ての遺族に対して寛大な措置を取るまで続けられます。
これらのグループは全て、オランダ政府がその責任をとるまで、蘭領東インドは癒えない傷口だと叫び続けるでしょう。私の祖父と同じように自分たちの義務を果たしただけの当時の旧軍人の立場に寄り添った一方的な見方を、政府が続けて行く事はできません。植民地支配者としてのオランダの罪悪を、政府が率直に認識する事が、まず初めのステップにならなければなりません。
さらに、8月17日のインドネシアの独立記念日の法的な認識も含まれます。オランダ大使がオランダの悪行の犠牲者となった未亡人達に行なった、誠実さの欠けた謝罪も十分でなければ、「私たちは、歴史の誤った側に立っている」と言った、元外務大臣ボット氏のベールに包まれたような発言も十分ではありません。莫大な補償請求などに躊躇している場合ではありません。私たちの国は、私たちが原因で始まったインドネシア独立戦争の後、その損害賠償としてインドネシアに60億ドルも支払わせたのですから。
なぜ、政府は、これまでこれらのことをしなかったのでしょうか。それはちょうどインドネシアと日本の関係と同様に、我々が、加害者であり、また被害者であるという複雑に交錯する立場であったからだと考えます。三者は全て、他者に苦しみをもたらし、同時に不幸な歴史の被害者となったのです。日本軍強制収容所、慰安婦、原爆、民族運動的暴動、あるいは警察行動にまで至った350年にわたる植民地支配など、この三者が被害者としての立場のみから振舞い、その責任をとろうとしない限り、和解に至る道は開けません。
どんなに痛みを伴おうと、インドネシアの悲劇についての慎重で総合的な対処は政府レベルで必要です。それは日本、インドネシア、オランダ、そして原爆を落として膨大な数の民間被害者を生み出したアメリカについても言えます。私たちにとって必要なのは、蘭領東インドを再びしっかりと認識することです。それが欠落すれば、私たちは政治的に知ったかぶりをした、高慢な態度でもって、意見を異にする人たちや、他国に接することになるからです。なぜなら自分自身の過ちをきちんと認識しないかぎり、他国に物申せるわけもないからです。
かつて、ジャカルタの祖父の墓のあるメンテンプーロー戦没者墓地を父とたずね、緻密に左右対称に整列している木製の十字架を見たとき、私は突然、周りの誰もに穏やかな人柄と映っていたここに眠る祖父と、彼が占領統治に加担したことの間には、全く矛盾が無い事を理解しました。それまで私の中では、その二つはどうしても相容れないものだったのです。そのとき私は、祖父の仕事は、他の誰にとってもそうであったように、政府によって決定されていた職務を単に実直に遂行したものだったと理解したのです。責任はまずオランダ国家にあります。だから、遺族や退役軍人にとって、首相と、そして国王が、インドネシアで、私たちの蘭領東インド植民地の大事業は間違いであり、何十万もの入植者は単に国家政策に忠実に従ったまでなのだと、説明する事が大切なのです。このように考えれば、私は祖父に対して尊敬の念を持つ事ができるのです。
植民地支配者の孫世代であり、両親や祖父母よりも距離をおいて過去を振り返る事のできる人たちには、大きな課題があると思います。その記憶をはっきりと持ち続ける事です。これまで長い間、オランダはダブルスタンダードを利用してきました。私たちは自分たちを被害者とのみ見做して加害者としてみることを長いことしてきませんでした。私たちの国はこれまでいつも、人権侵害の批判に関しては、世界の指導的な立場に立ってきました。一方多くのオランダ人はムスリム、有色人種、外国人を劣等視し、彼らに対して、優越感を感じています。その一つの理由として、私たちには絶対に誤りがないという手前勝手な妄想があるのではないでしょうか?インドネシア独立から70年、私たちにとって、蘭領東インドの教訓と、和解とはひたすら謙虚な態度によってのみ可能だということを学ぶ時が来たのです。
訳:小渕麻菜/タンゲナ鈴木由香里
5. 日本からのメッセージとご報告 | タンゲナ鈴木由香里
今年もこうして対話の会が開けましたことを本当に嬉しく思います。
どの国にも、暗い過去があります。イエスが「義人はいない、一人としていない」とおっしゃったように、義の国はこの地球上には存在しないのです。ただ、その事実を私たちは、個人として、どのように受け止め、どうやって乗り越えようとするのか、そのことが重要だと思います。対話の会は、私たちが自分自身を変えようとする、私たちにチャレンジを与えてくれる場であり続けたいと思います。何故なら私たちは夢を持ち続けるからです。和解といっても、それは通過点ではありません。和解した時点で多くの責任を負います。その和解を持続させる必要があるからです。そのために私は、あなたはどう変わりたいのでしょう?何をどのように変えたいのでしょう?
こんなことを考えながら、昨年の対話の会以来の様々な活動を振り返って見ますと、あまりにも色々なことが起こり、何をどうやって話していいのか戸惑うほどです。
第17回対話の会を終えて、すぐ、日本での活動が始まりました。同じ時期にアレクサンダー国王とマキシマ女王が国賓として来日されて、大使館でのレセプションとクンダース外務大臣との昼食をはさんだ会議に招待されていました。
私の話をする前にまず、オランダからわざわざ東京に招待されてらしたキティ・ムルダーさんにそのお話をしていただきます。
どうぞ、暖かい拍手で彼女をお迎えください。
キティ・ムルダー:
私の名前はキティ・ムルダーです。1942年の4月の初めに旧蘭領東インドのジャワ島にあるセマランという所で生まれました。それは、1942年3月9日にオランダ王立インド軍が降伏した1ヵ月後のことでした。私の父は、ほとんどそのすぐ後に軍人として捕らえられ、ほかの捕虜たちと捕虜収容所に連行されました。私はまだ最初の誕生日も迎えていませんでした。
タンゲナさんに協力して、私は日本の外務省が経済的に、また内容的に全ての面で運営している平和交流プログラムについて是非皆様にお話したく、ここに立ちました。この平和交流プログラムは今年十周年を迎え、それを記念して7月14日にハーグの日本大使公邸でこの十年間にこのプログラムに参加した190名もの人達が招かれて盛大に祝われました。
私は二年半前にこのプログラムに参加したのですが、その旅は私にとって今までにない経験をした旅行で、まさに癒しの旅でありました。私たちのグループは全部で14人でしたが、出発前に自分たちのリーダーを一人決めました。日本では、たとえば、水巻の小学校を訪ねて日本の子供たちと親しく接することができました。その後、1942年から1945年の戦時中に日本で捕虜として亡くなったオランダ人の方たちを追悼するため、同じ水巻町にある十字架の記念碑を訪れました。追悼祈念式の最中に、大きな鶴が私たちの上を二羽飛んで行きました。また、旅行の終わり頃、東京の大学を訪ねたときは、法科の学生たちが部屋いっぱいに待っていて歓迎してくれました。そこでは彼らと私たちのグループの人達が色々なことを話し合いました。最後にオランダ大使館に伺い、ラディンク・ファン・フォレンホーヴェン大使に歓待されました。
実は、この大使が昨年の10月のウィレム-アレクサンダー国王とマキシマ女王の日本への公式訪問に随行してみないかと、私にあれから二年後に電話をしてきた方でした。
ハーグのノールドエインデ城で行われた国王の侍従長と儀典長とのミーティングでは、天皇陛下と皇后陛下にお会いして平和交流プログラムがいかに癒しの体験であったかを証言し、またこのプログラムがこれからもずっと続くように、丁寧にお願いしてくれないかと頼まれました。
国王と女王様の送別のコンサートが開かれた後、クンダース大臣とカンプ大臣に陛下の前に連れて行かれると、陛下は私の手をとられ、私の家族のこと、蘭領東インドの収容所のこと、そして、素晴らしい平和交流プログラムのことを興味を持って聞いてくださいました。陛下が、私の手をとられている間、彼から同情のお気持ちと温かさが私の心の中に注がれている気がしました。その後、ウィレム・アレクサンダー王は、わたしが陛下と話しているのをご覧になって、感情の高まりを空気の中に感じられたとおっしゃってくださいました。
訳:タンゲナ鈴木由香里
タンゲナ:
ありがとうキティ。キティの話からまた少し戻ります。
私は、日本に着いてすぐに、大使館に対話の会インジャパンの打ち合わせに行くと、最終日の国王主催のコンサートとレセプションにも出席して欲しいと言われました。実際自分がどうして招かれるのかよくわかりませんでした。どうしてなのでしょう?大使館のレセプションでは公式な写真を撮っていただき、翌日の外務大臣との昼食会は、クンダース氏がディスカッションリーダーのようになり、主に戦後の日本とオランダのことが話されました。私の立場はその中で複雑で不思議なものでした。何故なら、私は日本人でありながら、インディッシュの方たちの声も伝えなければ、と自分の中に強く示されたからです。そこで、現在の日本政府が憲法をないがしろにして合衆国の戦争の片棒を担ごうとする姿勢をかなり批判した意見を申し上げました。そこにご出席されていた、池田元オランダ大使から反対意見が出されましたが、日本がきちんと大戦の歴史と向き合い、犠牲者にきちんと謝罪し、国民に正しい歴史教育をする必要があることを中心にお話しました。また、国民の草の根の形で、村岡教授やリンダイヤー母子などの先達の始められた対話の会が15年間続いていること、さらに、この問題は決して日本の問題だけではなく、オランダの政府も早急に解決策を示さないとならない問題であることも指摘させていただきました。
最終日の国王主催のコンサート後の様子はキティが既に話してくれましたが、外務大臣に先ず皇后陛下のところに連れて行かれました。皇后様には、以前私が訳したHenriette van Raalte の本を寄贈させていただいてましたのでそのことから、少し対話の会のことを話させていただきました。皇后様は私の手を取って、どうぞオランダの方たちにいつまでも寄り添ってあげてくださいとおっしゃってくださいました。その後、天皇陛下のところに連れて行かれました。ちょうどキティが天皇陛下に手を取られてお話した後だったので、私は考えもなく、天皇陛下と握手をしてしまいました。勿論それは日本ではありえないことで、私たちは普通最敬礼といって、陛下には深くお辞儀をしなければならなかったのでした!陛下に対話の会のことを少しご説明申し上げましたところ、陛下は、次のようなことをよどみなく心をこめてお話くださいました。1986年にベアトリクス女王が日本にお見えになることになっていましたが、残念ながら実現しませんでした。そのとき、女王様が私どもにとても残念で申し訳ないという個人的な手紙を書いてこられました。これ以来、日本の皇室とオランダの王室は特別な親しい関係を築いてきました。多くの困難が過去にあっても、そのことを超えたときには、それ以前よりさらによい関係が生まれるものです。どうぞ頑張ってください、そしてオランダの方たちによりよき未来のために、どうぞよろしくお伝えください。」というものでした。今日、このお言葉をやっと皆様にお伝えでき、ほっとしました。そして平和主義者と定評のある大変尊敬している天皇皇后両陛下とこのようにお話しできたことを大変光栄に思っております。
ウィレム・アレクサンダー国王はとても気さくな方で、対話の会のご説明をした後、オランダのインディッシュの方々が晩餐会でのスピーチに深く感銘を受けたことをお伝えするととても喜ばれました。これからも対話の会のことをご報告しますと、お約束しましたので、今日の会もぜひご報告いたします。
全てが終わって、ハタと気がついたことがありました。この大戦中の日本とオランダの歴史のギャップを埋めようと私たちの企画運営する対話の会インジャパンは、オランダ大使館にとても高く評価されているということでした。そうでなければ、私のような者がこのような重要な会合に次々と招かれるはずもないということです。
昨年の対話の会インジャパンは、二回あり、一回目は、例年のごとく、日本の学生たちに太平洋戦争中蘭領東インドでどんなことがあったのかを内海教授に講義をしていただき、そのことで今でもつらい思いをしていらっしゃる方があることを、一昨年この会でも見ていただいた「ありがとう」と言う映画を通して、理解していただきました。その後、今日もいらしてくださっているチャコさんがリーダーを務めた外務省平和交流プログラムの方々と学生たちが大使公邸で直接に対話をする機会を設けました。多くは、犠牲者としての視点で第二次大戦を学ぶ日本の若い方たちにこのような講義は大変重要です。
第二回目のDialogue in Japanでは、日本人の父親を持つジンとサクラの会員をルポルタージュした「子供たちの涙」という、日蘭イ対話の会が数年にわたって製作協力したドキュメンタリー映画を、東京の大使館でプレミア上映をいたしました。この観客の中から、自主上映の企画をしてくださる方々が次々とあり、嬉しい事にこの砂田ゆき監督の映画はどんどん広まって、日系オランダ人の存在が日本に知られる素晴らしい機会を作ってます。対話の会に関係の深い釜石でも、震災後日本人の父親を持つエドワード・れーまんによって招かれ、対話の会でもスピーチをした平松伸一郎さんが日蘭関係のシンポジウムに合わせて先月、上映会をしてくださいました。
このように、日本で殆ど教えられることのない日本軍下のインドネシアの話しを知ってほしいという私たちの願いが、少しずつですが、かなっているのは、喜ばしいことです。
さて、昨年この会にいらした方はおぼえていらっしゃると思いますが、長崎市香焼町にあった捕虜収容所第二分所の前にたてられた記念碑の除幕式が来週の13日にあります。その記念碑は、そこで過酷な強制労働に就かれた捕虜の方々をおぼえ、そこで亡くなった方たちの名前を刻んだ平和を希求するものです。長崎市民によってつくられたもので、私たちも、昨年この会で募金をし、集まった金額と同額を対話の会が寄付して、十万円を寄付することができました。この収容所は、対話の会の創設者のお一人であった、アニー・ハウツワルドさんのお父様が入っておられた収容所でもあります。その彼女が、2004年に村岡先生と日本を訪れたときに日本のキリスト教会で集めた献金とキリストの平和教会からさらに25万円の募金をすることができました。この記念すべき出来事を是非フィルムと本で歴史の証として残し、少しでも多くの方たち、特にその福岡第二分所の生存者の家族に知らせたいと、プロジェクトチームができました。昨年スピーチされたその収容所の生存者の息子さんであるアンドレ スクラムさんを中心に、今日のディスカッションリーダーをされるBill Thomson さんの手助けで、ウェブサイトやフェースブック、また様々な雑誌などを通してその情報を流しています。対話の会では、このフィルムと本の発表を、来年5月28日の対話の会で是非発表したいと願っていますので、是非楽しみにしてらしてください。私たちは、この除幕式に、前回の対話の会にご出席されたこの収容所の生存者、クレインさんの家族を含め、総勢18人で出席します。
このようにたくさんの活動が、この対話の会のカンファレンスを中心に広がっています。そこで、この会によく出席される何人かの方々のお勧めで、このたび、この会をStichting(財団)として登録することに決まりました。今までのカンファレンス以外の全ての活動は、全て私たちのポケットマネーでまかなわれています。今日のこの会にも私たち世話人もヴォランティアの方々も全員、参加費を払って出席しています。しかし、このユニークな活動をさらに発展させていくためにも、公式な財団として助成金をもらえる資格を持ちたいと考えました。近々それが現実となりますが、もし皆様の中で、会員になってもいいと思われる方は是非、お名前をお知らせください。また、私たちの目的に沿ったプロジェクトがあれば、ぜひご相談ください。
最初に述べましたように、私たちは、未来に目を向け続けたいと思います。敵と和解するだけではなく私たちは自分自身と誠意をもって和解する必要があります。そして、そこに必ずある希望を持ち続けようではありませんか?今、地球上には出口の見えないトンネルの中にいるような閉塞感を感じることが多々あります。でもそんなときもここで築き上げてきた素晴らしい多くの出会いと対話から生まれた和解が現実にあったことを言葉で語り、それを行動に移し、さらに確実なものとして次の世代に伝えていこうではありませんか。
6. 閉会の言葉 | 村岡崇光教授
今年は、対話の会にとって、また私たち一人一人にとって特別な意義をもっています。70年と20日前の今日、日本がアジア太平洋地域で始めた戦争が、日本の無条件降伏をもって終結しました。日本によって植民地とされ、あるいは占領された国々の何億という人たちにとって苦痛と屈辱が終わりました。また、この無意味な、勝ち目の無い戦争に駆り出された何百万という日本人のみならず、外国へのこの侵略を押し進めた国民の中の指導層の愚かさと傲慢とに終止符が打たれました。
私たちの対話は15年の歴史をもちます。第一回が2000年に開催されたときは一回限りのものとして企画されましたが、参加者の多数がその継続を希望し、こうして今日の第18回目を迎えたわけです。
第二次世界大戦ではオランダは二方面での戦いを強いられました。本国ではナチスドイツが敵であり、蘭領東インドでは日本軍が侵入、占領しました。近くの敵との関係はほぼ正常に戻ったと言えます。もっとも、数年前にドイツ大使がアムステルダムでの解放記念礼拝出席を断られたという事件から、まだ心にわだかまりをもっているオランダ人が少なくないことが伺われます。
それに比して、日本との関係においては進展らしいものは殆ど見られないようです。先月14日の談話において、安倍首相は「米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実」にご満悦のようです。しかし、そのような捕虜は一握りの例外であることは、私たちは誰しも良く知っています。数年前に、平成天皇が英国を公式訪問されたとき、少なからぬ、老齢のイギリス人男性がロンドンの目抜き通りを女王のとなりに座って馬車で動かれる陛下に対して背を向けて行列しているのがテレビに出て来たのは私たちの記憶に新しいところです。もしも、日蘭の関係が正常化しているならば、私は「折られた花: 日本軍による強制売春の犠牲者となった8人のオランダ人女性の証言」を和訳するのに何十時間も費やさなかったでしょう。オランダ人のM. ハーマーさんによるこの本は、オランダ語と和訳で、オランダと東京で2年前にほぼ同時に出版されました。そういう時間は、趣味のギリシャ語、ヘブライ語の研究に使うことができました。小遣い銭稼ぎでもありませんでした。こういう内容の本を訳して自分の資産がただの一セントでも増えるのには堪えられませんでしたから、印税は一銭も貰わないことにしました。どのみち日本でベストセラーになる可能性はありませんでしたけど。
ベネマさんの発表からも分かりました通り、蘭印の歴史、ことに45年8月17日のインドネシア共和国独立宣言以後の数年間を巡る歴史研究は根本的な見直しが必要である、という認識が最近数年間専門家の間で高まっています。オランダ・スイス混血の若い歴史研究者が書き上げた博士論文のことが先月いくつかのオランダの新聞で取り上げられ、少なからぬ反響を呼び起こしました。それによりますと、従来、オランダ軍による極めて稀な、例外的な軍事行動であるとして「行き過ぎ」として婉曲な表現で片付けられていたものが、実は氷山の一角に過ぎない、ということが分かって来たらしいのです。
自国の歴史の暗い部面を読むのは決して楽しくはありません。しかし、それは安全に棚上げ出来るものでは決してありません。そういう暗い歴史はいつかは表面に姿を見せ、私たちを追い回し、苦しめるにきまっています。直視し、正直に対応するのが賢明です。早いに越したことはありません。
その際、加害者のみならず、被害者も辛い過去から逃げてはなりません。歴史は記憶され、記録され、そこから永遠に学び続ける必要があります。和解が成立し、友情と相互に対する信頼関係が回復したあとでもです。
もう一度、安倍首相を引用しますと、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。これは狂気の沙汰、と言わざるを得ません。日本は既に謝罪した、ということが前提されています。日本国内、また国外には、この前提が全く根拠がないという人は無数にいます。昭和天皇は自国民に対しても、外国人に対しても謝ったことはありません。彼の後継者も今日までのところ謝罪はしておられません。日本は繰り返し謝った、と安倍首相は考えていますが、その謝罪は諸外国によって謝罪としては受け入れられていません。さらにまた、そのような、国としての謝罪は、国民の代表としての国会がすべきものですが、敗戦後70年それはなされていません。もし、戦争世代ですらきちんと謝罪していないとしたら、戦後世代はそのつらい過去を負い続けざるを得ません。
安倍首相はさらに言葉を続けます:「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」。首相が、本気でこう言っていると思われたいのであれば、日本人戦犯が合祀されている靖国に出かけたり、同僚の大臣達や自民党の議員達が靖国にお参りするのを黙許することを即刻止め、中高の歴史教科書には侵略戦争の歴史、それにまつわる無数の残虐行為、略奪、破壊行為を歪曲せずに、きちんと書くように文部文化省に指示すべきです。
将来に向けてのわれわれの対話の会が直面する一つの重要な課題は、この歴史に対する関心をどのようにして若い世代の間に長期的に涵養するかということです。私たちの会は単に歴史愛好家の集まりでもなければ、専門の歴史家の会でもありません。東南アジアで展開した太平洋戦争と過去何世紀にも及ぶ蘭印の関係は多くの難しい、辛い問題を私たちに投げかけていますし、それは私たちの未来がどのような形をとって行くかに深く関わってきます。また、わたしたちは、互いに交流しながら、関わりながら、未来を形造って行く上でそれぞれに果たすべき役割があるはずです。この共通の歴史を個人的に体験した戦争世代の人たちが次々と世を去って行かれる今日、これは緊急な課題です。
こう見てきますと、私たちの対話の会は、今しばらくは解散は出来ないようです。財団を設立することでこの活動にいまひとつ安定性と恒久的性格を賦与するというのは賢明なことではないでしょうか。
最後に、散文であれ、韻文であれ、今日の発表者の皆さん、小グループの司会者、疲れることを知らないタンゲナさんを議長とする準備委員会諸氏、そして参加者全員に心より感謝申し上げます。今日聞かれたことを反芻しながら、無事帰宅されますよう。